猫の日2025『黒猫の悪戯』
2025年の猫の日に書いたお話。ジャンヌとライルと少しだけマリアくんとルミちゃん。
某年2月22日。降雪量はそう多くないこの街には珍しく、積もる程度の雪が降っていた。規則的な石畳を薄く覆う白い絨毯。それにさくさくと穴を開けるライルの息も白い。
「寒いのはわかりますけど、そんなにくっつかないでください、歩きにくいです」
文句を言った相手から応答はない。半ば抱き込むようにしてライルにへばりついているジャンヌ。そのゆるく束ねた黒髪の頭のてっぺんには、三角形の耳が2つ、聳え立っていた。
*
時を遡ること約1時間。ライルは『今すぐ来て』というマリアからの簡潔すぎる一言で呼び出された。詳細を聞く前に乱暴に切られた電話。マリアのただならない様子に危機を察知したライルは慌てて家を飛び出した。ソレイユの庁舎になっている建物の職員と思しき女性に声をかけ、通されたのは本館のマリアの自室。軽く息を整えてから一応ノックを3回高速で済ませ、扉を開けた——開けて、部屋の中のただならない様子にフリーズした。
「急に呼び出してごめんねライルさん」
まさに満身創痍といった具合で項垂れるマリア。几帳面な彼の部屋とは思えない散らかった空間。何故かマリアの足元の床で丸くなっているあまりにもよく知りすぎた黒髪の吸血鬼。そして何より、2人の頭にふわふわと生えているのは、まごうことなきネコミミ。さらにこちらも忘れられては困ると言わんばかりにゆらゆらと主張し続ける長い尻尾。
——混沌、またの名をカオス。正にその言葉が相応しい惨状がそこにはあった。
ことの発端は昨日マリアとジャンヌが共同で行っていた監査業務であった。とある接待付きの飲食店で条例違反の疑いがあると通報が入り、2人はその店の現地調査を任されていた。結果は黒。店は直ちに営業停止。責任者である男には同行を命じたが、男はそれを拒否。錯乱した男は文字通り手当たり次第に工具やら書類の束やら調理器具やら用途不明の謎の物体やらを投げ始めた。そのうちの1つ、ガラスの瓶のようなものがマリアの不意をついて眼前に迫っていた。咄嗟にジャンヌが庇ったがガラス瓶は存外に脆く、受け止めると同時に割れ、2人は中の液体を浴びてしまった。
「うわ甘っ」
「飲んだの兄さん!? ぺっしなさい! 早く!」
「大丈夫、少し口に入っただけだ」
シンプルに不快。その後とっとと男を捕縛した2人は帰って報告を終え、そのまま休むことになったのだが——
「で、朝起きたらこれってわけ」
「出ましたよククルビティア名物怪しい薬!!」
ウガー! と頭を掻きむしるライル。青い顔でこめかみを押さえ取り乱した彼女だが、ふと、違和感に気がついた。得体の知れない薬で身体に変化が起こっていることは十分に異常事態だ。マリアの焦燥も頷ける。だが、それだけで、わざわざ自分が呼び出されるだろうか。それに『ネコミミが生えた』それだけでは、この部屋の惨状に説明がつかない。そしてジャンヌは何故、床で寝ているのか。
嫌な予感。その真偽を確かめようとライルは恐る恐るマリアに顔を向けた。
「うん、言いたいことは分かる。残念だけど多分正解だ。例の薬、使用すると数時間後に猫の身体的な特徴が現れるものだったんだけど、量によって作用の強度が変わる。少量であれば耳と尻尾が生える程度で済む」
異変が起きた直後、マリアは捕らえていた例の男を問い詰めたが、当の本人もネコミミ作用以外の情報を持ち合わせてはいなかった。やむなく某町医者に薬の解析を依頼し、只今絶賛結果待ちというところである。
「僕は兄さんが庇ってくれたおかげで少しで済んだけど、兄さんは結構な量を浴びちゃったんだよね……で、大量に使用した場合なんだけど」
一呼吸おいて壮絶に深いため息。
「中身も猫になる」
クイと親指で床に落ちている黒いネコミミ吸血鬼を指すマリア。つまるところ、この惨状は中身ごと猫化したジャンヌ(身長172cm成人男性)が猫の本能剥き出しに暴れ回った結果というわけであった。
*
ライルが言葉を失ってしばらく、どこからか靴音と何かを引きずるような音が猛スピードで迫ってきた。そして爆速のノックに間髪入れず勢いよく開かれた扉。ドアノブからしてはいけない音がした気がするがそれはひとまず横に置いておいていいだろう。
「うわああああ!!!! ほ、本当にお兄ちゃんにネコミミが生えてる!??!!?!?!!」
どことないデジャヴを漂わせながら飛び込んできたのはスーツケースと大量のショッピングバッグを携えた 10代後半くらいの姿の少女。明るい茶色の髪に薄い藤色の目の彼女はマリアの異母妹にあたる。
「おかえりルミ、お友達と旅行は楽しかった?」
「ただいまお兄ちゃん、それはもうすっごく! ってそれどころじゃないでしょ!? あ、ライルちゃん来てたんだ! 久しぶり! はいコレお土産のお菓子。ジャンヌさんと食べてね」
ルミは可愛らしい小さな竜のイラストが描かれた紙袋をライルに渡すと、兄の頭に鎮座している金色のネコミミをこねくり回し始めた。
「パパから聞いて急いで帰ってきたんだよ! バスなんか待っていられなくて走って来ちゃったよ! 足痛いよ! ねえ、どうしちゃったのこの可愛い耳! ふわふわ……えっ尻尾まであるの!? 可愛い……やだ……何でこんなに似合っちゃうの!? 可愛い、可愛いよ、お兄ちゃんすっごく可愛い〜〜!!」
目が、ハートだ。両の眼球が本当にピンク色のハート型に変形しているのではと錯覚するくらいにはハートだ。金色のふわふわを堪能しながら完全に自分の世界に入ってしまっている。置いてけぼりにされたライルは、一連の騒音で目を覚まし欠伸をしていたジャンヌの頭をそっと撫でてみた。ネコミミが生えた黒い髪は、普段と変わらずふわふわだった。
可愛い可愛い、といつの間にかネコミミだけでなく頭全体を撫でていたルミ。そのねずみのぬいぐるみはどこから出した。喉を鳴らして溶けかけてしまっていたマリアはギリギリの理性を叩き起こして赤い頬で咳払いをした。
「という訳なので」
どういう訳だ。
「悪いけど僕は僕とルミの面倒を見るので手一杯だから、そこに落ちてる兄さん、持って帰ってくれる?」
*
そして現在。普段の倍近い時間をかけてライルともはや抱きついてしまっている黒猫吸血鬼、もといジャンヌは帰宅した。幸い、目を覚ましたジャンヌは再び暴れ回るということはなく、ライルが「帰りますよ」というと大人しく手を引かれてくれた。
「これからどうしましょうか」
リビングにつくや否やソファに飛び込んだジャンヌに続いてライルも腰を下ろした。横になったままライルに手を伸ばすジャンヌに、クローゼットの奥から引っ張り出してきた猫じゃらしを振って見せてみる。ペットなど飼ったことはないのに、この家には何故か、何故か猫用のおもちゃが各種取り揃えられているのである。何故か。
猫じゃらしを気に入ったらしく、んにゃにゃ、と声を出しながら遊ぶ黒猫吸血鬼。元来、他の生き物の気持ちを読み取ることが苦手なライルにとって表情が人のままなのはありがたかった。
「最初はびっくりしましたけど、ええ、これはこれで可愛いですね、ジャンヌ」
話しかけてももちろん返事はない。動きの止まった猫じゃらしを仕留めたジャンヌは、次を催促するように小さく首を傾げるだけだった。その様子にライルはくすくすと笑った。いつも人を食ったような顔で笑っているか彼が、今はただただ無邪気な猫と化しているのが可笑しくて仕方ない。だんだん楽しくなってきたライルは他のおもちゃも取り出して遊び尽くしてみることにした。
*
どれほど遊んでいただろうか。大量にあったおもちゃはいつの間にか全て床に投げ捨てられ、2人は2人だけで戯れあっていた。ライルはふと時計に目を遣ると苦く笑った。
「もうこんな時間ですね、ふふ、楽しかった」
——食事はどうするのだろう。ライルは今朝から何も口にしていないことを思い出した。ネコミミと尻尾以外の身体の基本構造は吸血鬼のままだという話なのだから、いつも通りでいいのだろうか、それとも何か魚介類などを用意した方がいいのだろうか。いずれにせよ何か用意しなければと、ライルは一度ジャンヌの腕から抜け出そうとした。そして肩に鈍い衝撃が走った。
「ジャンヌ?」
ソファに倒れ込んだため痛みはない。ライルはジャンヌに正面から押し倒されていた。ライルが怪訝に顔を上げると、先ほどまでの愛らしい猫は既にそこにはいなかった。
僅かに歪んだ口元と細められた苺色の目。ジャンヌはライルが何か言葉を発する暇も与えず、彼女の細い首に舌を這わせて牙を突き立てた。
「ッあ」
突然の痛みにライルの口から思わず声が漏れた。傷口を吸われ、溢れた血液を舐め取られる。首を貪られながら、食事は私の血でいいか、とライルはぼんやりと考えていた。思考することで脳内では冷静を装ってみるが、触れられている部分が段々と熱を帯びる。吸血、この感覚はいつになっても慣れない。ジャンヌの牙の毒は健在のようで、やがて痛みは消え、触れる舌と唇の感触だけが残った。
いつもより長い時間血を吸われていたライルの指先は僅かに震えていた。酷い眩暈のせいか、満足そうに唇を舐めるジャンヌから目が離せなかった。彼の細身の後ろで黒い尻尾がゆらゆらと揺れている。ライルはようやく解放される、と安堵でため息を一つ吐いたが、全く甘かった。
ジャンヌはライルの両手を押さえ、血が残ったままの唇を、薄いが形の整ったライルの唇に重ねた。唇を軽く喰み、舌先で舐める。口を開けて欲しいという意が込められたジャンヌの愛撫にライルは抗うことが出来ない。熱く柔らかく絡まる舌の感触。頭に響く唾液の混ざる音。彼の舌が口の中を擦るたびに身体が跳ねる。猫の舌って聞いていたより痛くないですね、と無理矢理に頭を回し、ライルは手放しそうになる意識を必死で繋ぎ止めていた。
回数を数えるのが面倒になるくらい、口付けと吸血を繰り返した。血を吸われたライルの力が弱くなっているか、猫になったジャンヌが力の加減を見失っているのか、いつもよりも強く拘束されたライルの身体は一切自由が効かなかった。
「ジャンヌ」
返事はない。
「ジャンヌ」
やはり返事はなく、短く鳴いて首を傾げるだけだ。ふにふにと柔らかいキスを繰り返す目の前の彼。顔も、触れる感触も何も変わらないのに、どこにもいない気がしてならない。マリアから時間が経てば元に戻るはずだという話を聞いてはいるが、それはいつ?何時間後?何日後?もし、このままだったら。もう二度とジャンヌに会えなかったら。
身体の疲労が限界に達したせいか、ライルの中で考えないようにしていた不安が、堰を切ったように溢れ出した。
「ジャンヌ、もう、やだ。会いたい、帰ってきてください、返事をして……」
ぽろぽろと大粒の涙が苺色の目から溢れた。止まらない。どうしようもなかった。悲しみの発作が治らない。未だ身体の自由が効かないまま、嗚咽を堪えてライルは泣いた。
不意に、ライルの両手が軽くなった。涙に濡れた頬をよく知った感触の手が撫でた。
「ライル」
虚をつかれたライルは、半分口を開けたまま、呆けた顔で、目の前の、頬に触れる手の主の顔を見た。よく知った、悪戯っぽく、そして少しだけバツが悪そうな顔で笑うジャンヌ。
「不安にさせてしまったな。ああ、本当に悪いことをしたな。すまない、ライル」
言い終える前に、ジャンヌは未だ涙の止まらないライルを抱きしめた。さっきまでとは全く違う涙に胸がつかえて声が出ない。何も言えないまま、ライルは力の入らない腕で、それでも確かにジャンヌを抱きしめた。
*
それからしばらく、ジャンヌの腕の中でひたすら頭を撫でられていたライルはようやく起き上がれるくらいには回復し、彼の膝の中にすっぽり収まる形で座らされていた。
「落ち着いたみたいだな」
ライルがこくりと頷くと黒い三角形がぴこぴこと揺れた。ジャンヌのネコミミと尻尾は未だ残っており、毛量の多いふかふかの尻尾は現在ライルの手によって丁寧に丁寧にブラッシングされている。——本当に怖かった。危うく猫というものがトラウマになってしまうところだった。それを防ぐため、ライルはこうして黙々ともふもふに心を慣らしている。
「意識が戻った後、そのまま様子を見てたんだがな、まさか、泣かせてしまうとは思わなかったよ」
ライルはもふもふに精神を統一し……待ってください今なんて言いましたこの吸血鬼??
「も、戻ってたって、いつからですか!? なんで早く言ってくれなかったんですか!?」
「マリアの部屋でなんか大集合してたとき」
「最初っからじゃないですか!!」
ライルは手に持っていたブラシと尻尾をぶん投げた。
「ずっと猫のフリしてたってことですか!? いい歳してにゃんにゃん言ってて恥ずかしくなかったんですか!?」
「いや全然」
「血を吸ったり、その、き、キスしたりした、あの時も……」
「舌、当たってたけど痛くなかっただろ? あれも、」
「棘が当たらないように調節してたからだってんですかこのお馬鹿様!!」
猫パンチならぬ猫にパンチをお見舞いするが受け止められてしまう。そのままホールド。おいコラ離しやがりませ。
「猫と戯れるお前も可愛らしかったぞ待て痛い痛い足を踏むな分かった悪かったって」
ソファに倒れ込む姿勢にされ足が踏めなくなってしまったライルは腹いせにガブガブとジャンヌの首を甘噛みし始めた。
「……本当に、怖かったんですよ。もう元に戻らないんじゃないかって」
黒い髪を避け、露になった白い肌に牙を立てる。ちゅる、と小さく吸って、少しだけ血を飲んだ。彼の血が自分の中に入り込んでくる感覚にどうしようもなく安堵する。
「ジャンヌ、ああ、本当によかった、もう、いなくならないで」
再び濡れる長い睫毛。ジャンヌはその煌めきを拭い、額に唇をつけた。どうやら本当に怖い思いをさせてしまったようだと、柄にもない罪悪感に自嘲した。
「ああ。もう二度とこんな思いはさせない。絶対にお前を離さないよ」
——だから、大丈夫。瞳を逸らさずキスを交わす。こうして、ジャンヌとライルの間に、またひとつ、約束が増えたのであった。





