アップルグリーンと晴れるまで
ジャンヌとジゼルの昔話。
彼の第一印象を聞かれたら、まあ、覇気のない子、そのくらいのことしか浮かばなかった。
*
現在時刻は午後二時十五分、遅めの昼食を取る客やお茶を楽しむ客で賑わう喫茶店。その一角、二人用のテーブル席に青年が向かい合って座っていた。一人は茶色と黒と白が不規則に混ざった斑模様の髪に大きな三角形の耳がついた長身で、なだらかな目尻、明るい緑色の虹彩と涙黒子にどこか艶のある印象を受ける。彼の背もたれの横で、同じく斑模様の尻尾がゆらゆらと揺れていた。
もう一人は緩く癖のついた黒髪で、三毛猫の青年よりやや幼さが残る顔立ちをしていた。感情の読み取れない目は苺を煮詰めたような紅色をしている。彼が背を預ける椅子には、落葉樹が色をつけ始めたとはいえ未だ日の高い今日には少々気が早い、オーバーサイズの重たいコートがかけられていた。
一見奇怪な生き物同士の組み合わせに思えるが、二人に好奇の目を寄せる者はいない。というのも、彼等の左隣のテーブルでファッション誌を読む女性の額には白磁の角が美しい円錐の螺旋を描いているし、カウンター席では堆く珍妙な手の平サイズの毛玉の群れが数日前の不審火の記事を片手にもたつきながらコーヒーを啜っている。さらに店内を忙しなく跳び回るメイド服の女性店員の頭上では、何とも触り心地の良さそうな長い耳がウサッ! とその存在をアピールしていた。
人外魔境、魑魅魍魎が闊歩する愉快な光景こそ、この世界の常なのである。
紅茶の注がれたカップを置き、テーブルに数枚の書類を広げながら黒髪の青年が口を開いた。
「さっそくですが本題に入りましょう。大まかな話は取次から聞いていますが今一度お聞かせ願えますか。まずご相談の内容としては、店を開くための手伝いが欲しいと」
三毛猫の青年が頷く。
「ええ、話が早くて助かるわ。小さな食事処……カフェをやりたいのだけど如何せん開業の仕方どころかこの街については右も左も分からなくて……」
ああ、それと敬語やめてちょうだい、そう付け加えながら流暢な女性口調で話を続けた。
「それで途方に暮れていたときに、それならソレイユを頼るといいと人に言われて、アンタ達を訪ねたのよ」
ソレイユ、というのはこのククルビティアと呼ばれる街の実質的な運営を行なっている吸血鬼の一族の名だ。行政事務、治安維持活動から迷い猫探しに家具組み立てその他色々、バラエティに富んだ業務を引き受けている。彼らの邸宅はそれ自体が街の庁舎になっている。——簡単に言ってしまうと、何でも屋さんを兼任する区役所、それが彼らである。そして目の前の青年が、そのソレイユの吸血鬼一族の中から今回の三毛猫の依頼にあてがわれた担当者様というわけだ。
無駄に形の整った唇に人差し指を当て、傾聴に徹していた吸血鬼はふむ、と頷いた。
「大きな齟齬は無いな。……やることはかなりあるがそうだな。まず、実店舗のある店を開きたいと言うなら、その許可を得る必要がある」
言いながら吸血鬼は一枚の書類を三毛猫に見せた。
「"個人事業開廃業許可申請書"?」
三毛猫が首を傾げる。
「ああ。それを記入してソレイユ、まあ、俺に提出してくれればいい。中身を埋めさえすれば大抵の場合許可は降りるよ」
個人事業開廃業許可。この街で商売を生業とするために必要不可なもので、個人事業開廃業許可申請書はその許可を得るための申請書だ。受理されればその旨の許可証が交付され、晴れて店を持つ夢が叶うのである。
「営業所の所在地、名称、業種については今は無理だな。まず身分証明の欄を埋めてほしい」
渡された書類に、ネコ科特有の瞳孔を紡錘形に広げていた三毛猫が眉をひそめた。
「これ、空欄とか、推定での申告って、許されるかしら?」
「駄目だな。有事の際にはその個人情報が楔として機能することで追跡と捕縛が可能になるから正確に記入する必要があるし、あと悪いが名前以外について詐称は認められない」
そんなに難しい項目はないはずだが、と表情を崩さぬ吸血鬼。対してしかめっ面の三毛猫。なるほど有事の際、というのが穏やかではないが問題はそこではない。
「……生年月日、出身地、移転履歴、病歴、家族構成。これ、分からないわ」
*
——名前は知らないが、とても綺麗な花だった。後染めの一越ちりめんの膝の上で、自慢の毛皮を優しく撫でる真っ白な手に喉を鳴らしていた。それがこの三毛猫の一番古い記憶だ。
三毛猫にとって故郷と呼べる場所はとある花街だった。出自は全く不明で親の顔すら見たことがないが、「雄の三毛猫なんて珍しい」と彼をただの猫と勘違いした廓の遊女達から可愛がられ、不自由のない優雅な暮らしを甘受していた。その廓の中でもとりわけ寝床にしていた妓楼が破綻したことをきっかけに花街を離れ、世界をその鮮緑の目に映すための旅に出たという。その旅の終着点として、彼が選んだ街がこのククルビティアだった。
「なるほどな」
冷えたカップを傾けながら型通りの相槌を打つ吸血鬼に、ため息をつきそうな三毛猫の視線が刺さる。
「どうでも良さそうね」
「……ああ気を悪くしたなら謝る。それで分からないと言った部分についてだが、まあ調べるしかないな。それが可能な人間には心当たりがあるから、そいつを頼れば問題は無いと思う」
その返答に、しょんぼりと下がっていた尻尾を再び揺らし始めた三毛猫は視線を書面に戻した。書ける箇所は書いてしまおうとペンを取り出したが、氏名を記入しようとしたところではたと動きを止めた。
先程の彼の話では「名前以外については詐称は認められない」とのことだった。名前、というものは非常に大きな意味を持ち、それはときに恩恵を、ときに禍をもたらす。名を明かすことのできない者や名を持たざる者、転じた者、複数有する者に鑑みれば偽名を許すことは当然の措置なのである。故に対象がそれを自身の名前と認識し、かつ他者が対象を指す際に使用する名称であれば良いとされている。
「名前か……」
低い声でぽつりと呟く。一瞬、左隣の客が読んでいる雑誌に目を移した三毛猫は吸血鬼に向き直ると、ぱっと明媚な笑みを咲かせた。
「ねえ、お互いちゃんとした己紹介がまだだったと思うの。アタシの名前はジゼル、種族は見ての通り可愛い猫よ。趣味は観光と料理とお酒。アンタにはとことん付き合ってもらうから、そのつもりでいなさいな」
立ち上がり、右手を差し出した三毛猫に、吸血鬼はやはり感情の見えないままの目で応じた。
「俺はジャンヌ。知ってると思うが、ソレイユの吸血鬼の末席の一人だ」
にんまりと満足気な顔で手を握る三毛猫。脱線したわねと笑いながら、本題へと話題を戻すのであった。
*
吸血鬼に案内された建造物の入り口前、あからさまに眉をひそめていた。二人は三毛猫の出自を調べるため、吸血鬼の言う「心当たりの人物」の元を訪れていた。
暗い赤と紫が不規則に並んだ洋瓦の三角形の屋根、歪んだ窓が埋め込まれたクリーム色の漆喰壁には得体の知れぬ植物の蔓がうねうねと巻き付いている。それだけならば稀によく見るメルヘンチックな可愛らしい住宅で片が付くのだが、掲げられた看板の「clinic」という錆付いた文字のせいで何とも怪しい雰囲気を醸し出してしまっている。
「なに、ここ、病院?」
吸血鬼が黒い髪を静かに左右に揺らす。
「診療所だな。入院もできないことはないが……それだったら郊外にあるカルマンの医院に行った方が良い」
ここの所長に用があるんだ、言いながらこれまた錆の目立つドアノブに手を掛ける吸血鬼。その後に続き三毛猫も自慢の耳を外側にピンと伸ばした警戒態勢のまま、怪しげな建物の腹の中へと足を踏み入れていった。
内部はあのいかにも魔女の隠れ家と言った外観に反し、白を基調とした簡素な長椅子や机が規則的に並ぶ無機質な部屋だった。どういう理屈かは不明だが窓も完璧な長方形に見える。
受付と思しきカウンターの奥で薬品棚の整理をしていた男性がおや、と二人を振り返り気さくな笑みを浮かべた。
「やあようこそ。エルミニアは二階の実験室……じゃなかった、検査室にいるよ」
面識があるらしい吸血鬼は軽く挨拶を済ますと、勝手知ったるといった様子で階段を進んだ。エルミニアというのが目的の人物で、腕の立つヤブ医者だと言う。……正直言って不安しかない。
*
無機質な白いスライド式の扉を三回ノックする。が、返事はない。コンコンコンとさらに三回追加。しかし沈黙。コンコンコン、コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン。無表情でノックし続ける吸血鬼の姿はなかなかにシュールである。
「ああああああッ!!!!!! うるっっっさい、わッ!!!!!!!!!!」
怒号とともに勢い良くスライドして三回バウンドしたのち中途半端な位置で止まった扉。肩で息をしながら現れたのは白衣姿の女性だった。前を開いて袖を上げた状態の白衣に一体何の意味があるのか。
「コンコンコンコンコンコンコンコンコンなんなんだ一回ノックすれば分かる!! 用があるなら勝手に入れよコノヤロウ」
「それで前回蹴破ったら激怒して自分が開けるまで待てと言ったのはそっちだろうが」
鍵の上に結界まで張っているくせに何をほざく。至近距離で怒鳴られながら涼しい顔をしている吸血鬼の横、呆気にとられているのは三毛猫の方であった。
「おや見慣れない顔がいるじゃあないか誰かな君は?」
青筋を消した彼女はくるりと三毛猫の表面に回り、たじろぐ彼の顔を硫酸鉄色の瞳でまじまじと見つめた。彼女の方が頭一つ分ほど小さいために下から覗き込まれる形になるのだが、初対面の相手にこうも包み隠さぬ知的好奇心をぶつけられるというのは愛玩に慣れている三毛猫とはいえ居心地の良いものではない。プレパラート上の微生物はこんな気持ちなのだろうか、などと現実逃避をしてしまう。
「獣人族か、猫の。……猫ちゃんか」
んなこたあ一目で分かって欲しい。吸血鬼と三毛猫はそんな悪態を全力で嚙み殺しなんとか本題へと話を運んだ。今日ここに来たのは三毛猫の出自を調べるためである。約束事を疎む体質である彼女のために最低限にはなったが、事前に連絡はしてあった。それが功を奏したかは分からないが、先程の茶番の役者にしては極めて真面目かつ円滑に話が進みそうな様子に安堵のため息をついた。とりあえず座って話そう、と促されるまま、三毛猫と吸血鬼、それから白衣の女性の三人は白いスライド式扉の中に入っていった。
室内は様々な実験器具や試料らしき物体がそこかしこに散乱し、三角フラスコの中でどう見ても人体に悪影響しかなさそうな液体がぶくぶくと音を立てている——などということはなく、一階の受付と同様に無機質な白い空間であった。見慣れぬ機械や薬品と思しき瓶は所々に置いてあるものの、それも整理が行き届いた様子で不穏な気配は一切ない。ビーカーに注がれた謎のウェルカムドリンクでもてなされるということもなく、先程の男性が冷たい紅茶と一口大の焼き菓子を用意してくれた。
「さて改めまして初めましてこんにちはいやおはようか? まあいい、素敵な毛皮の三毛猫さん。あたしがエルミニア。魔女で研究者で医者でここの所長だ。で、そこの眼鏡がカスタニエ」
もそもそと焼き菓子を咀嚼しながら自己紹介をする。眼鏡と指をさされた眼鏡をかけた男性は眼鏡ですと言わんばかりに眼鏡をクイッと上げた。
「うん、僕はエルミニアの助手のウィリス・カスタニエ。気軽にウィリスと呼んでほしいな」
「ご挨拶どうもありがとう、エルミニアとカスタニエさん。よろしくね」
一瞬捨てられた子犬のような表情をした眼鏡の助手は見なかったことにして、三毛猫のことは吸血鬼から伝えてあるらしいため簡単に名前のみの挨拶をする。
出自を調べるというからには、探偵でも雇いながら推定生まれ故郷である花街にでも赴くことになるのだろうか、だとするなら物理的にも大変大掛かりな捜索になるのではないかと三毛猫は首を捻っていた。だが連れてこられた先は小さな診療所で、頼る相手は医者だと言う。ますます訳が分からず首の角度は深くなる。
「調べる方法についてだけど、うん、それは彼女から話してもらった方がいいかな」
三毛猫の疑問符に気付いたらしい助手が苦笑する。吸血鬼から何の説明もなかった理由もそれだろう。
「やることは検体検査だよ。血液と魔力から染み付いた記録や記憶なんかを読み取る。全身分抜く訳にはいかんから少量を採取して連鎖反応で増幅して解析するんだが有機的な検体は言うまでもなく魔力であっても経時的な摩耗や変化は避けられないし他人のものが混ざっている可能性は大いにあるからまず単純な増幅をかけた後定性し各保持時間ごとに可塑化させ矛盾性の生じたピークの排除を繰り返し重要かつ薄弱なものは並行して単純な格強化と他スペクトルからの証明補助を行いその間解析を続け時間的に逆方向の追跡をかけ対象の発生から現時点までの情報を映像化しデータとして出力する……『エルミニア式何でも分かっちゃう超すごい検査』でお前の一切合切を白日の下に晒してやろうという訳だ!」
ドヤァ!! と効果音がゴシック体で可視化されそうなほど鮮やかなドヤ顔をきめる医者。どうやら出自について調べる、というよりも、三毛猫の全個人情報を詳らかにした中から必要な解答を得ようというのが吸血鬼の魂胆だったらしい。怒涛の早口の2割も理解できずに目を回す三毛猫を横目に、始めから一切聞いていなかった吸血鬼は淡々と話を進めていった。一応、個人情報の取り扱いについて同意を求められたがこの際プライバシーも何もないだろう。三毛猫は二つ返事で了承した。
*
「じゃあ報酬の話をしようか」
検体の採取と入力さえ終えてしまえばプログラム化された検査は全自動で行われる。結果を待つ間、助手から渡された見積書に目を通した三毛猫は、少々高額ではあるが許容範囲内の数字に安堵した。
三毛猫はつい先日までいわゆる旅人のようなものであり、当然ながら開業に十分な資金の用意などあるはずはなかった。ソレイユから受けることができる融資について、これは吸血鬼から最初に説明を受けた件の一つである。本来であれば担当の課を通す必要があり、得られる金額もある程度縛りがあるのだという。ほぼ無一文同然で後見人もない三毛猫には少々厳しい条件であったが、二人はちょっとした裏技を使ったのだ。
ソレイユの一族を束ねる現当主——稀代の傑物であり問題児と名高い銀髪の吸血鬼。量的功利主義、かつ刹那的な快楽を好む彼は大抵のことは「面白い」の一言で承諾の判を押す。つまるところ彼に直接融資の話を持ち掛けることができればこちらの勝利である。そして先日から三毛猫と行動を共にしている黒髪の吸血鬼、彼の曾祖父にあたる人物こそが正にその現当主様であった。このことについては三毛猫はこれ以上ない当たりを引いたと言っていいだろう。
「おい待て吸血鬼。まさかお前は何も出さないつもりじゃないだろうな」
「え?」
一通り手続きを終えようとしていた三毛猫と吸血鬼は、唐突に口を挟んだ医者に揃って首を傾げた。
「お前の依頼主は彼であって、今回俺はまあ言うなれば仲介人のようなものだろう。報酬を要求される謂れはないと思うが」
「いいやあ? そもそも三毛猫はお前の顧客だ。つまりあたしらがこいつに手を貸したことは、回り回っていやそう遠くもなくお前の手柄に繋がる訳だろ? だったらお前も相応の対価を払って然るべきなんじゃあないかと思うんだがねえ」
なんだその理屈。それがまかり通るなら彼女は今までの患者の友人家族や職場関係者、その他諸人全員から金銭を巻き上げることが可能だろう。
「……いくら払えばいい」
「金は要らんさ。ご自慢の牙を一本と血液を500mlほど貰いたい」
「分かった」
断ったところで屁理屈が返ってくることは目に見えている。不毛な押し問答をするくらいならば要求を飲んでしまった方が早い。ふふん、と鼻を鳴らす医者から吸血鬼に渡されようとした追加の書類は、その寸前で、三角形の耳を反り返らせた三毛猫の手に奪われた。
「どうかしたか」
「どうかしてるのはアンタよおかしいでしょうが! まずそんな理屈で対価を要求することがおかしいわ、その内容もおかしい、体の一部を不当に要求されて黙って差し出す方も大分頭おかしいわ!」
ビシィッ!! と、医者と吸血鬼を交互に指さしながらしかりつけるように怒声を上げる三毛猫。
「? 牙のことならまた生えてくるし、血液だって回復す」
「黙らっしゃい今そういう話をしてるんじゃないわッ!」
あまりの剣幕に反射的に口を閉じる吸血鬼、その隣で医者はぷるぷると細かく震えながら笑いを堪えていた。そこへちょうど結果が出たと伝えに顔を出した助手は一瞬何事かと目を丸くしたが、すぐに事態を察して慣れた様子で三毛猫の鎮火作業に入った。第三者の差した水に思いがけず勢いをそがれてしまった三毛猫は、未だ溜飲は下がりきらぬものの、取り敢えずは助手の持ち掛けた話し合いに応じた。——結局、助手のもっともらしい弁明と反省シテイマスと顔に張り付けた医者の屁理屈に言いくるめられ、「吸血鬼からは報酬として血液200mlを提供」という妥協案で双方手を打つこととなった。
*
検査結果の用紙は分厚い冊子に纏められていた。膨大な情報量になることは容易に想像がついていたし、それなりに覚悟はしていた。が、やはり自らの半生を丸々綴った超大作である。いざ目の当たりにすればその迫力に気圧されてしまうのも無理はないだろう。
「猫型の獣人族で血統は複数混合、現体重六十一kgの身長百八十一cm、三月十三日カンザンで四兄弟の一番目に生まれて現在齢二十一、疫病の罹患歴はそれなりにあるが今は保菌者ではないな……おやCRPが高いねどこか怪我でも放置したかい?」
三毛猫の手元にある冊子と同じものをパラパラとめくりながら医者が依頼にあった項目を確認していく。ところどころで間違いはないかと聞かれたが、そも三毛猫自身何も分からないからここに来ているのであって答えようがない。信憑性を保証するものが何もないことに今更気が付いた三毛猫であったが、他の手立ても浮かばぬ以上この胡散臭い医者を全面的に信頼するしかないだろう。三毛猫の様子を察してか否か、隣で同じようにパラパラと紙を弄んでいた吸血鬼が口を挟んだ。
「エルミニア医師はこんな性格だが腕だけは確かだ。そこは俺も保証するから案じることはない。こんな性格だが」
左手の親指でさされた医者はそそくさとその射線から逃げながらも自慢げに頷く。日々彼女の無茶振りや尻拭いをこなしている助手もそこは認める点らしく、自慢の先生だと太鼓判を押していた。末席とはいえ街の実質的な運営の一人である吸血鬼と、ここまでのやり取りから医者と比較すれば十数倍は誠実な性格であることが判明した助手が言うのであれば問題はないのだろう。三毛猫は二人を信じることにした。
医者と助手はついでに買い出しに行くからと診療所を閉め、近くの街路まで二人を送りに来ていた。別れ際、医者はふと思い出したように白衣のポケットをガサゴソと漁り一枚の小さな紙を三毛猫に手渡した。いやだから白衣のまま外に出るのは如何なんだというのももはや詮の無い話である。
「お前の診察券。この街に住むんだろ? だったら、頼れるかかりつけ医が必要なんじゃあないか」
存外まともな贈り物に驚く三毛猫。広義的に疾病の治療によって利益を得る医者側からすれば、自分の患者を増やそうとする行為は至極当然ではあるのだが、今日にいたるまで確かに所在らしい所在を持たなかった三毛猫にとってはその歓迎の意が殊の外心地良く感じられた。分かり易くぴこぴこと動く猫耳に機嫌を良くした医者は、長い前髪を揺らした隙間からにっこりと笑った。
「体調不良から外傷の修復、肌のトラブルにちょっと人には言えないお薬まで、何でも受け付けてるぜ。代金はまあ、要相談だが」
診療所の名称、住所、連絡先、簡単な診療内容の書かれたシンプルなデザインの白いカードを眺める。裏面の患者情報に目を移した途端、上機嫌に揺れていた猫耳がピシリと固まった。診察番号の右側に記載される患者の名称の欄、そこには三毛猫が名乗った「ジゼル」という名前ではなく、「梅吉」という古風な二文字が堂々と鎮座していた。
——医者曰く、先程の『エルミニア式何でも分かっちゃう超すごい検査』によってはじき出された三毛猫の名前は複数あったらしい。縦に並んで表示された個体識別用の文字列、その先頭、つまりは三毛猫自身が名前として最も強く認識しているものを使用したということであった。嫌なら次に来た時にでも発行し直す、という医者の提案にいいえと返した自分の言葉を、三毛猫自身意外に感じながら聞いていた。どうやら知らず知らずのうちにこの名前への思い入れはそれほどまでに強くなっていたらしい。これまで考えもしなかった、それどころかうっすらと疎ましさすら感じていただけに苦い笑みがこぼれ落ちる。そんな感傷に浸りながら、三毛猫は吸血鬼と並んで橙色を反射する石畳の帰路を歩いていた。
「身分証明はクリアだな。次は……そうだな、店舗の場所探しだが目星はついているか」
夕風に分厚いコートを重たくなびかせながら問いかける吸血鬼。近頃は昼夜の寒暖差が大きく、暖かな太陽が眠りにつく頃には冷たく乾燥した空気が落葉を躍らせている。対して軽装の三毛猫はステップを踏みながら明るい声で胸を張った。
「それならもう決めているわ! ここよりも街の中心に近い通りに、噴水の広場があるでしょう? そこの一角空き地を狙っているの」
噴水の広場——というのは、街の中央部に位置する文字通りに巨大かつ瀟洒な噴水が目を引く円形の公園のような区画である。白と薄灰の美しい規則的な石畳に碧色の水が舞い上がる噴水と、それを囲う様に立ち並んだ多種多様な商店、行き交う人々の穏やかな笑い声がククルビティアの名所の一つとなっている。
それならば話は早いと頷いた吸血鬼はふと足を止め、三毛猫の顔を見上げた。
「……梅吉?」
「それはもう忘れて……」
*
「駄目だ」
——ククルビティア中央部、"碧石の噴水広場"執政会:碧水会事務所、応接室。
黒い革製のソファに並んで腰かける三毛猫と吸血鬼。その向かい側、厚いガラス板の二層構造のローテーブルの奥。噴水広場の執政会長である初老の男性は皺の寄った眉間を隠すことなく両腕を組んでいた。
「我々は碧水会は長年培ったこの地からの信頼故に管理を一任されている。余所者の、素性の知れない野良猫を招き入れる訳には行きません」
淡々と、冷徹な声で告げる執政会長。一応は客人への態度を保ってはいるものの、濃紺の瞳には明らかな侮蔑の色が浮かんでいる。身分を証明することならできる、という三毛猫の言葉をやはり冷たい声が遮る。
「それが、貴方が我々に取り入り、害をなそうとする悪人ではないことの証明にはなりません。貴方は名札をつけた者なら無条件に信頼するのですか? ……隣の彼が良い例だ。貴方が彼と行動を共にしているのも、彼個人ではなく、彼の家系のこの地における実績への信頼故、違いますか」
取り付く島もないとはこのことを言うのか。さらに後半の内容にかけては三毛猫と吸血鬼への侮辱も込められていた。三毛猫は言い返そうとして、否定の言葉が見つからないことに気が付き歯ぎしりをした。ピリピリと張りつめた空気が三色の毛を逆立てる。冷たい汗を浮かべながら何とか睨み付けつける三毛猫に退室を促そうと会長が腰を上げかけた時、沈黙を破ったのはやはり表情の変わらない吸血鬼だった。
「なら俺が申請しましょう」
それまで堅牢な仮面を崩すことの無かった執政会長が初めて動揺の色を見せた。吸血鬼の言葉に己の失言を悟った彼は内心で痛烈に舌打ちをした。
「彼に場所を貸せない理由は分かりました。余所者は信用できない。ですが、俺には——ソレイユの吸血鬼の肩書には、信頼に足る十分な価値がある。貴方が仰っ……むぐ!?」
いきなり背後から口を塞がれ言葉を切る吸血鬼。反射的に牙を立てそうになるのを抑えてむぐぐ、と反感と驚きを込めた目で、自身の呼吸器を塞いでいる犯人である三毛猫を振り返る。三毛猫は小さくもがく吸血鬼をパーフェクトスルーして更に握力を強めつつ、ぽかんと口を開ける執政会長に向き直った。
「あー……ごめんなさい!! 急用を思い出したわ! とりあえず今日話した内容については理解したから! 続きはまた後日! 日を改めて! あとこの馬鹿の言ったことは忘れてちょうだい!」
それじゃあ失礼するわ! と、酸欠になり始めた吸血鬼を担ぎ上げてドタバタと応接室を後にする。怒涛の展開に一人取り残された執政会長はしばらくの間、小型の台風が過ぎ去っていった方向をぼんやりと見つめながら立ち尽くしていた。
*
碧石の噴水広場から少し離れた高台の展望公園。眼下に広がる西洋風の街並みの中央では、先程の噴水が碧色の飛沫をキラキラと振りまいている。その様はまるで大粒のエメラルドがはめ込まれた金細工の王冠のようであった。肩で息をする三毛猫と、文字通りに振り回されて三半規管に大ダメージを負った吸血鬼は公園の落下防止用のフェンスに寄りかかっていた。
「さっきの、どういうつもりよ」
「それはこっちの台詞だ」
眉間を抑えて眩暈を振りほどきながら、口を尖らせる三毛猫にさらに怪訝な顔で返す吸血鬼。あのまま彼の姓を武器に交渉を続けていれば確実に押し切ることが出来たであろうし、最終的には公園を利用する権利は吸血鬼ではなく三毛猫のものになるよう取り計らうつもりでいた。最も確実で手っ取り早い方法である。だがしかし、三毛猫はそんな吸血鬼の方針に断固として異を唱えた。
「あんな脅すようなやり方じゃ、それこそ一生信用されないわ」
初対面の相手というのは誰しも少なからず警戒心を抱くものであるし、それにそも三毛猫の腹の内に会長が懸念するような邪など無い。出だしの蟠りが大きくなることは必至であってもそれは時間が解決してくれる、そのような吸血鬼の主旨は三毛猫も承知しているところであったが、それでは駄目なのだ。それでは、一時的にとはいえ確実に、執政会長を筆頭にあの公園に関係する多くの者に不安や嫌悪といった不快感を与えることになる。それは執政会長の語った"害"に該当するだろう。その点を無視できるほど、三毛猫は合理的な思考を持ち合わせてはいなかった。三毛猫はくるりと身を返してフェンスに背中で寄りかかり言葉を続ける。
「それに——それに、アタシは自分の店が欲しいけど、アンタからはいどうぞってプレゼントされたいわけじゃない」
勿論、三毛猫は吸血鬼に最大限の助力を請うつもりでいる。そういう契約、そういう雇用関係だ。だがあくまでも吸血鬼が提供するものは手段であり、結果ではない。行動の主体は三毛猫でなくてはならない。自分自身の力で、自分自身の夢を勝ち取ること、それが三毛猫のプライドであった。
——とはいえ、手詰まりになってしまったことも事実だ。これからどうしたものか、うんうんと考え込む三毛猫の姿が紅色の虹彩に映った。
「……一つ聞いていいか」
「うん? 何かしら」
顎に当てていた手を放して顔を上げ、吸血鬼の方を向く。乱れた前髪と逆光に阻まれた紅色の瞳は見えない。
「どうして、そこまでして、ここに店を持ちたいんだ」
数秒の沈黙。再び姿勢を変えて、頬杖を突きながら街を見下ろす三毛猫。彼の勿体ぶった態度に吸血鬼はただ黙って返答を待っている。
「……そうね。かぼちゃが美味しかったからかしら」
整備された石畳の街路、ランタンを吊るした街灯、道沿いに建つ高さの整った集合住宅と商業施設、思い思いの花に飾られたバルコニー、賑わうテラス席、橙色に染まった落葉樹、碧色の噴水。二人の立つ公園からは、この街の特徴的な景観を一望することができる。
「適当に入った洋菓子屋で買ったパンプキンタルトが美味しくて、適当に歩きながら見た宵の空と街の灯りが綺麗だったからかしら」
吸血鬼に向き直った三毛猫は歯を見せていたずらっぽくにっこりと笑った。
「理由なんて、そんなものでいいのよ」
「…………、」
伸びをして、つま先で軽く地面を叩く三毛猫。まだ陽は高いがこのまま考え込んでいてもこれ以上何か思いつく気はしない。今日は早めに切り上げてお互い休息を取るのも悪くないだろう。思えば最近は開業準備のためにあまりゆっくりと休めていなかった。それに彼の身を鑑みても、本来夜行性である吸血鬼を連日真昼間から酷使し続けてしまっているのだ。市場調査やらコスト管理やら、三毛猫では考えも及ばなかった諸々の調整を請け負ってくれている。相当な疲労が溜まっていてもおかしくはないだろう。よし、今日は早く帰って気になっていたワインショップに行こう。吸血鬼にも何か買ってやるか。やはり赤ワインが似合うだろうか?
「……功績が必要か」
「え?」
ぽつりと呟く。一人るんるんと尻尾を揺らしながら計画を練っていた三毛猫は小首を傾げながら振り向いた。
「一つ手がある。……俺の仕事を手伝う気はないか?」
*
夜。明かりのない森には整備された道路などなく、数少ない通行人によって踏み固められた獣道に僅かな枯葉が積もる程度である。蜘蛛の巣を払い、キィキィと音として感知できる周波数の蝙蝠の鳴き声に見送られながら獣道を進んで行くと、周囲より木々の密度が小さく比較的に開けた空間に辿り着く。そこでは二人の青年が連れ立って、暗闇に浮かぶ無数の光の点と対峙していた。
「街の中枢の吸血鬼の、それも若輩の仕事だもの、色々と楽じゃないとは覚悟してたわよ。でもね……化け物退治とは聞いてないのよ!!」
「うるさい大声を出すな的になりたいのか」
「な~にが『残業代は一分単位で支給、未経験者歓迎、誰にでもできる簡単なお仕事です』よ十人中十人がヤバい仕事って答えるわこんなの!!」
ウガー! と喚き散らす三毛猫に淡々とつっこむ吸血鬼。心外だ、噓は言ってない。敵をぶん殴るだけの未経験者でも簡単にできるお仕事だ。
あの警戒心の強い執政会長を懐柔するには、三毛猫が信用に値し、益となる存在であることを証明しなくてはならない。そして会長は吸血鬼の一族の実績に対しては高く評価し、絶対的な信頼を置いている。
——で、あれば。簡単な話であった。"街に貢献する吸血鬼の一族に三毛猫が貢献し、そのお墨付きを得れば良い"。友達の友達は友達ではないが、信頼する相手が信頼する相手を無下に扱うというのはそれこそ、"信頼"という言葉に重きを置く執政会長には到底できることではない。故に吸血鬼は溜まった雑務の中から三毛猫にも対処可能な案件を片っ端から引き受け、業務の委託契約書と共に三毛猫のもとへ持ち帰ったのであった。
そして現在、胸倉を掴み合っている三毛猫と吸血鬼。二人の棘々しい空気の間に、唸り声の重低音が心なしか遠慮気味に割り込む。暗闇に浮かぶ無数の光の点の正体は、狼によく似た獣の眼球であった。
「で、こいつらは何なの? ……同族の気配ではないわ」
相対する化け物と同様に暗闇でなお明るい緑色の虹彩、その中心の瞳孔を針のように細める三毛猫。一方の吸血鬼は服装も相まって今にも闇に溶けそうな様子であるが、僅かな月光を捉える優れた視細胞は網膜に結んだ像を明瞭に脳内へと伝達している。
曰く、狼のような姿をしたそれは本物の狼ではなく、妖精と呼ばれるものの一つであるらしい。妖精というのは正しく系統を持った生き物ではなく、自然現象、モノ、所謂概念や死後の霊魂等が何らかのきっかけで意志や感情を持ち、新たな個として発生するものである。現在二人が立つ森のように、この世界で魔力と呼ばれている超自然的なエネルギーが濃厚な場所ではそのような妖精種が発生し易い傾向にあるが、反面通常のそれと比較して自我が未発達なまま形を成してしまうため、不安定な妖精となる場合が多いのだという。
狼の形をした妖精——姿だけならばどう見ても狼のためここでは狼と呼ぶことにしよう。狼もそのひとつで、本来補食を必要としない彼らは自ら人を襲うことはないのだがここ最近森に入った者が狼に襲われるという事件が多発しており討伐の対象となっている。——これは吸血鬼の憶測であるのだが、数週間前に森を挟んで隣接する街で居住区の拡大を目的とした大規模な伐採が行われたらしい。それによって住処を追われた狼達がこちら側に流れ込み、在来の狼の群れとの衝突が起きたために今回のような事態が発生したのではなかろうか。
獰猛な獣の群れ、対、細身の青年二人。もしこの場に人が取り掛かったなら間違いなく血相を変えて逃げろ、と叫ぶだろう。が、生憎のところ、二人とも一般常識の通用しない文字通りの人外である。三毛猫が旅の途中に投げ飛ばしてきた悪漢の数は両手の指では足りないし、夜の住人である吸血鬼はこの頃専ら事務に勤しんでいたが寧ろ荒事の方が得意分野である。天性の身体能力とそれを後押しする戦闘知識が二人には備わっている。
充満した生臭い獣の吐息と唸り、殺気がザワザワと木々を不気味に揺らす。張り詰める空気。高まっていく緊張に合わせ、三毛猫と吸血鬼は静かに臨戦態勢をとった。木の葉が月光を綺羅と反射すると同時、群れの中で一際若い姿をした一匹が雄叫びと共に湿った土を蹴った。それを皮切りに、化け物達の乱闘劇が幕を開けた。
三毛猫の得物は年季を感じさせるサバイバルナイフだ。彼の旅の相棒であり、獲物から木材、どうしても開かない食品梱包までありとあらゆる物を切ってきた。切れ味が良いとは言えないが何よりも三毛猫の手に良く馴染んでいる。基本的に相手の攻撃を持ち前の柔軟さで回避し、避けきれないものはナイフで受けていなす。そして態勢が崩れた隙に急所を叩くというのが彼の戦闘方針だ。時に地形や樹木を利用しながら、重力を感じさせない動きで狼をさばいていく。
対して吸血鬼が振るうのは、一般的なものと比べて華奢な作りの銀製の剣だ。本来脆い材質である純銀の硬度を、特殊な錬成により鋼と同格の強度まで高めた特別製である。吸血鬼は剣身を正眼に据え、真正面から飛び掛かってきた狼の凶爪を受けるように柄をひねり、踏み込みながら剣先を左上部に掲げた。そして浮いた左足に打突の勢いを乗せーー狼の腹部を思い切り蹴り上げた。
「「!?」」
ミシリ、と骨と肉が軋む音と共に狼の身体が僅かに浮き上がり、知性の無い獣の目が驚愕に見開く。
ついでに隣で戦っていた三毛猫も目を見開く。
「……アンタ、その剣は飾りなの?」
「飾りだ」
「飾りなの!?」
目線を動かさぬまま、内蔵を破壊されて哀れに痙攣する狼の首をその胴体から切り離す。
「ああ、それと止め用だな」
「わざわざ付け足して言わなくてもいいわよ……」
ガックリと呆れ半分に項垂れる三毛猫であったが、今はそんなことをしている場合ではないとすぐに体勢を直した。狼の数は多いものの、幸い一匹一匹の戦闘力に特筆すべき点はない。奇襲さえ気を付けていれば三毛猫と吸血鬼でなら十分に対処可能だ。このまま押し切れると僅かに安堵のため息を漏らした時、他の個体の三倍はあろうかという屈強な体躯の一匹が姿を現した。いかにも大将然としたそれに三毛猫は生唾を飲むが、吸血鬼の行動は速かった。
「これは俺がやるから、お前は他を片付けて」
言い切らないうちに突貫する吸血鬼。もはや剣は放り出してしまっている。はっと我に帰り狼達に向き直る三毛猫。先程まで吸血鬼が相手にしていた分も押し寄せ、狼の攻撃の波は一気に激しさを増す。彼の安否も気になるところではあるが、余所見をしている余裕はもうどこにもない。先ずは目先の敵を黙らせることが最優先だ。三毛猫は短く息を吐くと腰を落とし、さながら本物のネコ科の肉食獣のような構えを取った。
*
あれから、どれくらいの時間が経過しただろうか。三毛猫は肩を激しく上下させながらひんやりと湿った地面の上に四肢を投げ出していた。辺りは静まり返っており、もう狼の姿はどこにも見えない。どうやら彼らの死体は残らないらしく、散々返り血を浴びたはずの三毛猫の身体にも泥と自身の出血による汚れが付着しているのみであった。月の光が眩しい、ぼんやりと薄目を開ける三毛猫のもとへ、神経が過敏になっている今でなければ聞き逃してしまいそうなほど静かな足音が近づいてきた。
「……見つけた。お前も無事みたいだな」
「とんでもなく疲れたけどね。アンタも生きてて安心したわ」
三毛猫は無理矢理上体を起こし、報告より数が多かったと小さく零す吸血鬼を見る……見て、そのまま呼吸の乱れも忘れて硬直した。
「ちょっとまってそれはなに」
「?」
中性的な童顔をこてんと倒して見せる吸血鬼。無駄に愛らしい仕草に腹が立つ。無駄に愛らしいポーズで立っている吸血鬼の左手には、彼の右の上腕から下が握られていた。
「腕がもげた状態を普通無事とは表現しない!!」
「ああなんだこれか」
「おい馬鹿やめろ振り回すな!!」
言われてぶんぶんと右腕を振るのを止める吸血鬼。何食わぬ顔をしているが、右腕の切断面からは赤黒い液体が緩やかに流れ続けている。
「吸血鬼の身体は他より丈夫にできているし、回復も早い。腕も元に戻るから」
大丈夫——とは言い終えることができずに、ふらりとよろめいた彼の身体を三毛猫が咄嗟に支える。肩にかかる体重のあまりの軽さに驚く三毛猫。要らない、と逃げ出そうとするが、抵抗する力も今は弱く三毛猫でも簡単に抑え込めてしまう。三毛猫は右腕をふんだくるとそのまま吸血鬼を抱え上げた。
「おいなんだ離せ」
「うちに帰ってその傷の手当をするの。重症を負った友人をそのままにできるわけないでしょうが」
*
三毛猫が仮住まいとしているアパルトマンは部屋の面積に対するキッチンの割合が高く、如何にも料理人を目指す若者向けといった内装だった。誰もいない部屋にただいまと声を掛けた三毛猫は備え付けのソファに吸血鬼を放り投げ、右腕を中心に傷の処置を行った。されるがまま、包帯ぐるぐる巻きになった腕を見つめる吸血鬼の瞳は不機嫌な瞼に半月型に削られている。
「道中ほとんど意識飛んでたじゃない。連れてきて正解だったわ」
それはお前が腕を奪ったせいで止血ができなかったからだ。というか、詰めが甘い。看病したいというなら何よりもまず血をよこせ。悪態をつくのも今は億劫だと、吸血鬼はソファに沈み込みながら軽食を用意すると席を立った三毛猫を黙って見送った。
三毛猫は服を着替え、一応、吸血鬼に比べればほとんど無傷に近い自身の手当も終えた。所々破れた服を片付けながら、気に入ってたんだけどな、と苦笑をこぼした。何度も補修した跡の見えるエプロンを腰に巻いてオーブン付きのガステーブルの前に立つ。数分で二人分の調理を終えた三毛猫は湯気の立つ皿をテーブルに運び、厨房を片付けて来るから先に食べててと声をかけて再び席を離れた。
一通り作業を終えた三毛猫はソファから移動してきた吸血鬼と向かい合う位置に腰を下ろした。極めて整った作法でカトラリーを扱う吸血鬼の姿を見て、右腕が問題なく動いていることと食事を摂る体力はあることにそっと胸をなで下ろした。ふう、と息を吐いて彼も自分の皿に手を付ける。幸い今朝はいつもより多めに仕込みを行っていたため食材に困ることはなかった。三毛猫が用意したのは、鶏肉と朝市で購入したトマト、数種類の香草とチーズを合わせたパスタ料理だった。
三毛猫は"猫"とは言うものの、禁忌となるような食物はない。硫黄を含む野菜類を口にしても溶血は起こらないし、何ならチョコレートは好物の部類に入る。食経験の豊富さと生来の手先の器用さもあり、料理にはそれなりに自信があった。あった、のだが。二、三度咀嚼したところで動きが止まった。
三毛猫が作った料理は頑張れば食べれないこともなくはなくはない……が、好き好んで食べたい味かと聞かれたら断じてNOであった。犯人は間違いなく鶏肉だ。肉質を軟化させるために梅酒を加えた調味液に漬けておいたのだが、梅酒の量と漬け込む時間を完全に間違えた。料理全体に甘ったるいにおいが移ってしまっているし、肉本体からは加熱で揮発しきれなかったアルコールが嚙むたびにあふれ出してくる。三毛猫は腕に自信がある分、たまにこういうことをやらかすのである。
さらに今回はタイミングが悪い。吸血鬼にも同じ物を出してしまっている。あれだけ大口たたいて嫌がる彼を無理矢理拉致しておきながら、怪我人にゲテモノを食わせた。恥ずかしさと申し訳なさでいっそ消えてしまいたい気分だった。
自慢の猫耳をしおれさせ、真っ赤になった顔を両手で覆い項垂れる三毛猫。震える指の隙間からおそるおそる吸血鬼の顔色を窺うが、目の前の彼はもはや見慣れた無表情のまま、皿を空にしていた。
「……は? え、なに、それ食べたの? というか食べれたの?え、口に合った……?」
「いや普通に不味かったが」
「なんで食べたの!?」
作った本人がこの言いぐさである。対して吸血鬼の表情はやはり変わらない。
「? 別に、毒が入っている訳ではないだろ? 多少不快ではあってもそれだけだ、食べられない理由にはならない」
「それだけって……」
あっけらかんと言い放つ吸血鬼。——薄々感づいてはいたが、この男は何というか、万事に対して頓着というものが薄い。とりわけ自分自身の機嫌というものには全くと言っていいほど関心が無いように思える。三毛猫とは業務上の付き合いである以上はそれが彼のビジネススタイルなのだと言われてしまえばそれまでではあった。が、さすがにここまで来てそれは些か無理があるだろう。
三毛猫はしばし無言で吸血鬼の顔を見つめた後、自分の分の料理を無理矢理飲み込むと音を立てて席を立った。——そしてそれから少し後、気が付くと、色鮮やかな冷菜から湯気の立つスープ、可愛らしく転がる焼き菓子まで、バラエティに富んだ皿の数々がこれから食事会でも始めるのかという様子でテーブルの上を埋め尽くしていた。
「食べて。全部。少しずつで構わないから」
「なぜ」
「いいから。試作の手伝いだとでも思いなさい」
行動の意図をはかりかねた吸血鬼は単純な疑問を口にするが、三毛猫の圧に負けて渋々と食器を手に取った。言われた通り少量ずつ口に運ぶが、如何せん数が多くそれなり時間がかかった。最後の一口を飲み込んだのを見届けて、終始沈黙を貫いていた三毛猫は口を開いた。
「どれが一番美味しかった?」
「どれも美味しかったと思う」
「そうじゃなくて、アンタが一番好きだったのはどれかって聞いてるの」
軽く首を振って聞き直す三毛猫。ただ好みを聞かれているだけ、だというのに、吸血鬼はそのありふれた質問に即答することが出来なかった。目を伏せてしばし逡巡するうち、一つの皿が彼の目に留まった。
「……これ、かな」
指をさしたのは小さな苺のタルトだった。メープルシロップを練りこんだ底生地に胡桃入りのクレームダマンドを詰めて焼き上げ、ラム酒で香りを付けたクリームと秋採れの苺を乗せた三毛猫の自信作だ。存外に可愛らしい選択に、三毛猫は思わず口許を緩ませた。
「前に『どうしてそこまでして』って聞かれたことがあったじゃない。あれの答えに、少し、付け足すことがあるわ。……極論になるけど、あんたにとってのそのタルトが、アタシにとっての店を出すことだからよ。楽しいとか嬉しいとか、これが欲しい、あれがしたい、そういう、シンプルなことを叶えるためにアタシは息をするの」
三毛猫は柔らかな印象の目で、吸血鬼の顔を真っ直ぐに見つめながらゆっくりと静かに話す。もし、アタシがアンタだったとしたらね、と続けて言葉を紡ぐ。
「苺のタルトを食べて、それで嬉しいって気持ちになったのなら、それだけでもう十分な意味になるの」
言い終えて三毛猫はふう、とため息をついた。正直、こんな持論を話してはみたものの、彼に何を求めている訳でもないし、何かが変わるとも期待していない。お節介なきらいがあることは自覚しているが、好き好んで傲慢な押し付けをしたい訳ではない。——ただ、なんとなく。知っておいて欲しかったのだ、自分の信じる価値を。大切にしたい何かを。そうして、少しだけ、ほんの少しだけ、あわよくばそれを、彼と共有してみたいと、そんなふうに思うのであった。
——翌日、昼過ぎ。今日はここ数日の中でもとくに過ごしやすい陽気で、空には雲一つない。頬を撫でる柔らかな風が心地良い絶好の昼寝日和だ。三毛猫は欠伸を嚙み殺しながら、いつも通りに二人の待ち合わせ場所となっている喫茶店に向かっていた。
昨夜その後。吸血鬼を無理矢理毛布でくるんでソファに押し込めた三毛猫は、まだ夜明け前の時間帯にふと目を覚ました。いつの間にか彼自身も眠ってしまっていたらしい。テーブルに伏していた首を起こすと肩から毛布が滑り落ちた。そこに吸血鬼の姿は既になく、代わりに事務的な謝意の述べられた置手紙がぽつんと取り残されていた。今朝は身体を休めて午後から行動しようという提案も、その紙によって伝達されたものであった。
待ち合わせの相手は既に到着しており、席は取らずにテラスの陰で陽射しを避けていた。三毛猫は歩調をを速めながら、おや、とそのシルエットがいつもの見慣れたそれと少しだけ異なっていることに気が付いた。待ち合わせ相手の吸血鬼も三毛猫に気が付いたらしく、目線をこちらに移してひらひらと手を降った。三毛猫は何も言わずにいつもより小さい彼の姿をまじまじと見つめた。
「何だ?」
「今日は上着、着てないのね」
吸血鬼がいつも羽織っていた重たそうな黒いコート。それを今は身に着けていなかった。
「……暑かった、から」
何の気なしにかけられた言葉に、何故かバツが悪そうに後ろ髪をかく吸血鬼。瞬きをした三毛猫はそれ以上詮索せず、それじゃあ今日も頑張ろうか、と笑いながら踵を返した。
そうして、昼の間は家具や機材の調達等開業のための準備を進め、日が落ちると先日の化け物退治のようなソレイユの雑務処理をこなす、という三毛猫と吸血鬼の多忙な日々が始まった。
忙しさにも慣れ始めたある日のことだった。
「一つ、お前に伝えなければならないことがある」
いつになく深刻な面持ちの吸血鬼に、三毛猫も姿勢を正して次の言葉を待った。
「……多分、またたび酒だけで別冊のメニュー表を作る必要はないと思う」
「…………………………まじか」
*
その夜、いつも通りに日中を過ごし夜の仕事に汗を流していた三毛猫と吸血鬼であったが、吸血鬼の方が用事があるからと普段よりも早く切り上げて解散することになった。時計の針は二十一時を少し過ぎたあたりをさしていた。
振り返ると三毛猫も結構な場数を踏んできたように思える。一番初めがアレであっただけにこれから一体どれほどの暴力沙汰に骨を折ることになるのかと猫耳をしおらせていたが、いざ本格的に蓋を開けてみれば、全くの、とは言えないものの杞憂であったことが判明した。その代わりに、ソレイユの雑務処理というものの守備範囲の広さを思い知った。あの狼ほどの危険度ではないものの、似たような危険生物の始末は勿論、詐欺師集団の捕縛と尋問と制裁、夜店にたむろする不良少年達の排除、家出をしたペット探し、誕生日パーティの余興のボランティア、ソレイユ邸の大掃除ーー挙げだしたらキリがない。周辺の家屋に甚大な被害をもたらしていた頻発する小型の竜巻の原因が風竜カップルの痴話喧嘩で何故かカップルVS三毛猫&吸血鬼の構図での大乱闘に発展しその戦いの末にカップルは和解しプロポーズまで成功させていたうえ二竜の恋の恩人として式のスピーチまで依頼してきたときは本当にこの街大丈夫か?と頭を抱えそうになった。そんなことを思い出して乾いた笑みを浮かべながら三毛猫は一人、橙色の灯りが規則的に並ぶ夜の石畳に小気味の良い靴音を響かせていた。
——所変わって、ククルビティア中央部、"碧石の噴水広場"執政会:碧水会事務所、会長室。
一日の業務を終え、一通り室内の片づけを済ませた執政会長は帰宅の準備を始めていた。凝り固まった肩を軽く回していると、ふと窓の外からか細い鳴き声が聞こえた。野良猫だろうか、ぼんやりと推測する執政会長の脳裏にふと先日の騒がしい三毛猫の姿がよぎった。
ここ碧石の噴水広場は今でこそ噴水という建造物として管理されているが、元をたどればそれは小さな、けれど冷たく澄み切った美しい泉であった。そして今は亡き、碧水の泉の妖精。ソレイユなどという吸血鬼が台頭するよりもずっと昔、それこそこの土地が街としての体制を成す以前から、彼女はそこに住まう者たちに寄り添い、見守り続けてきた。長い時間、多くの代替わりを経て、その血はまさに一滴が水に落ちたように薄く弱々しいものとなり果てたが、濃紺の瞳を持つ執政会長は紛れもない碧水の泉の妖精の子孫であった。自らの、無垢な始祖が愛した土地、先祖代々が守り続けてきた清らかな泉水。彼自身の存在価値とも言える場所に、得体の知れぬ野良猫が土足で踏み入るなど断じて看過できる話ではなかった。
溜息をつきながら執政会長は事務所の鍵を閉め、帰路を急いだ。鼻腔に流れる冷たく乾燥した空気が心地よかった。整然としたオスマン様式の集合住宅が特徴的な中心部とは異なり、この辺りには独立した建物の点在している。そのひとつが建っていた場所——火災で焼け落ちた住宅の跡地では、「keep out」と書かれた蛍光色のテープがそこに近付こうとする者を固く阻んでいた。
途中、街路の真ん中で彼はふと足を止めた。細い路地の入り口に、ふらふらと小さな人影が揺れているのが見えた。少女と思しきその影に近づく。人気のない夜中に幼子が一人出歩いているなど、尋常な神経の持ち主であったら誰だって心配になるだろう。警戒心と正義感の強い彼ならば尚更そうだ。無論、この魑魅魍魎の庭において少女の姿をしている者が本当に守られるべき少女であるか、という点に疑問が生じることは否定のしようがないが、仮にその通りであったとしても一声確認をとって安心したかった。
近づいてはっきりと見えた姿はやはり髪の長い少女であった。一瞬、これもしかして私が不審者では? と思いかけたがまあ弁明の余地はあるだろうと気を取り直して、極めて型通りの大人らしい台詞で声をかけた。僅かに肩を震わせながらくるりと振り向いた少女は、零れ落ちそうな瞳からはらはらと涙を流していた。執政会長を見上げ、小さな両手を胸の前で組んだ彼女は
「………………a…………a……ra、a、aaaaaaaaa!!!!!!」
燃え上がった。
「は?」
素っ頓狂な声を上げる執政会長。裸足のつま先から長い髪の一本まで、比喩抜きに、少女の全身は真っ赤に燃え盛る炎に包まれていた。呆然と炎の前に立ちすくんでいた執政会長は、鼻を掠めた火花の熱さにはっと我に返り慌てて飛びのいた。少女から繰り出される、浮遊、あるいは地面を走行するねずみ花火のような火炎を避けながら距離を取る。見ればその姿は少女が炎を纏っていると言うよりも、炎が少女の形を取っていると言った方が正しかった。炎の少女の正体を悟った執政会長は額に脂汗を浮かべた。歌うような、笑うような、悲鳴のような叫びをあげて迫りくる炎。こちらに敵意を持っていることは明らかだった。
ろくな戦闘能力を持たない執政会長がこの場を切り抜けるには助けを呼ぶ他ないが、辺りに人の姿は見えない。局所的な気圧の操作と空気の燃焼によって爆発的な速度を生み出す炎に脚力で敵うとは到底思えないが、どうにか時間を稼ぎながら安全な場所まで逃げるしかないと腹をくくったとき、執政会長の背中を超重量の衝撃が襲った。——爆発。今しがた思い至ったばかりの現象であっただけに舌打ちをした。体勢を崩した執政会長は受け身を取ることも出来ず、硬い地面に叩き付けられて軽い咳を吐いた。どうやら右足の靭帯を損傷したらしく立ち上がることができない。血の滲んだ視界でなんとか炎を睨み付ける。虚勢を張ってはみたものの既に打つ手なしだ。必死に打開策を探す彼の目前に迫る炎。執政会長は歯ぎしりをしながらその瞳を固く閉じた。
「……?」
あわやと思われた瞬間から数秒の後。いくら待っても燃え盛る炎が執政会長の身を焦がすことはなかった。
おそるおそる瞼を上げた執政会長の目に飛び込んできたのは予想外かつ何とも出鱈目な光景だった。
——炎の少女の頭が、何者かに鷲掴みにされ、短い手足でじたばたと必死に抵抗している。そして少女の頭を鷲掴み——正しくは顔面に素手でアイアンクローを食らわせている長身の青年は、件の三毛猫であった。
「ちょっとそこのヒト、無事!? 生きてる!? 生きてるわねよし!!」
首だけを回して叫ぶ三毛猫。吸血鬼と別れた後、突然の爆発音を驚いた彼は何事かと急ぎその発生源へと駆けつけた。そして地面に倒れる男性と、加害者と思しき炎の化け物を見つけ、咄嗟に二人の間に割り込んだのであった。生来の気性に加え最近の夜仕事のせいで拍車がかかっていた面倒ごとに首を突っ込む癖が今回は功を奏した。顔は見えないもののひとまず男性の安否を確認して安堵の息をついた三毛猫。そしてその隙をついて、少女はその身から放つ炎を自身の持てる最大火力まで引き上げた。
身の危険を察して反射的に地面を蹴るも、僅かに動作の遅れた右手に赤黒い炎が燃え移っていた。耐久性の高い獣人族の肉体であれば、並みの炎に少し炙られた程度で熱傷を負うことはない——並みの炎であれば。少女はその黒みを帯びた赤に変色したの炎の体積を、数分前とは比較にならないほどに膨れ上がらせていた。
三毛猫は体勢を整える動きを利用して燃え移った炎を霧散させた。見ると熱に蝕まれた右手の表皮は黒く焼け焦げていた。皮膚感覚の消えた右手に舌打ちをする。どうやら存外に厄介な相手らしい。
地獄の釜もかくやという灼熱に姿を変えた炎に素手で挑むのは愚策である。幸い炎本体の動きは速くないし、際限なく放たれる火球も三毛猫であれば見切ることは容易い。三毛猫はナイフを取り出し前傾に姿勢を落とした。狙うは一瞬。火柱の中心に突貫し、すれ違い様に少女の形をしたそれの首を落とす。無論、あの業火を全身に浴びれば三毛猫もただでは済まないが、彼の憶測では少女を殺せば炎も消えるだろうし最悪の場合は吸血鬼から渡されていた内服の傷薬(エルミニア医師謹製)を使えば何とかはなるだろう。使いたくはないが。
意を決して深く息を吐いた三毛猫は後方に下げた左足に力を込め、
「止まれそこの猫ッ! それは普通のやり方では殺せない!」
完全に意識の外にあった男性からの制止に出鼻を挫かれて前方にこけた。
膝をついたままの執政会長が叫ぶ。額の傷を抑える彼の手のから覗く濃紺の瞳は淡い光を放っている。
「同族の勘から言うが、そいつはおそらく、数週間前の火災でその炎が犠牲者の断末魔を吸って発生した妖精だ! そいつは、“水によって鎮火されないと死ぬことが出来ない” ……ッ!!」
妖精には、あの狼のように殴って斬って物理的に肉体を破壊することで殺害が可能なものと、何らかの法則によって守られ通常の手段では殺害が不可能なものが存在する。妖精、というのものの多様性には如何に探求心豊かな学者であってもほとほと呆れ返るだろう。そして、二人の目の前で全てを焼き尽くさんと煌々と燃え盛る炎精は後者であった。
「そんなこと言ったって、この辺りに水なんか無いし、そもそもこんな陽炎紛いの化け物に水なんかぶっかけたところで鎮火する前に全部蒸発して」
終わり——と言い切る前に、顔面に飛来した物体を反射的に掴み取る。それは淡い碧色の水が入った小さなアンプルだった。アンプルを投げた本人である執政会長が叫ぶ。
「それは私達が守り続けてきた泉の、最も深層の水を加工したものだ! その水には泉精の加護と祈りが宿っていて……ええい、とにかく!!そ れを核にかければ炎精は消滅するッ!!」
「核!? 核って何!?」
「それも視えているッ! あの手に握っている紙切れ、あれが核だ!!」
言い終えて痛む両目を抑える執政会長。確かに目を凝らすと、胸の前で組まれた炎精の両手の指に朽ちかけた紙切れのようなものが挟まっているのが見える。三毛猫は左手にアンプルを握ると、再び息を整えて赤黒い炎に向き合った。
手札を手に入れたとはいえ、その身一つが武器である三毛猫はやはり真正面からぶつかるより他はない。一足で間合いを詰め炎に触れる。一度経験したとはいえ、肌に触れる殺意まみれの熱さは慣れで誤魔化せるようなものではない。端正な顔に苦悶が浮かぶ。あとどれくらい身体は持つだろうか、三毛猫は計算しながら極めて無駄のない動きで炎精に肉薄した。
対する炎精は、アンプルを持つ三毛猫に本能的な恐怖を感じていた。先ほどまでただ攻撃を仕掛けるのみであった彼女は変幻自在の炎を用いて防御と回避の動きを見せ始めた。三毛猫の振り下ろしたナイフは質量を持った火球で弾かれ、返した腕は紙一重で避けられバランスを崩す。ならばと反対に踏み込み懐に潜り込むも、小規模な爆発によって距離を取られる。熱い。三毛猫はその勢いで一度炎から抜けて呼吸を整えた。
炎精の操る炎は火力、汎用性ともに強力だが、彼女自身の動きは稚拙さが目立つ。爆発は連続で引き起こせない、火球は手放した後の操作は不可能、少女の身体部分の膂力は極めて弱い。数手で読み取った三毛猫は一瞬瞳を閉じた後再び地面を蹴り、真っ直ぐに炎精の持つ“核”を狙って炎へと飛び込んだ。
反応の遅れた炎精は三毛猫の手が届く寸前で上体を左にひねり、急所である核の紙切れを自身の左手に逃がした。先程負傷させた彼の右手は使い物にならないと判断した……が、誤算である。生来の獣の性は少し感覚が消えたくらいで止まることを許さない。パリン、と軽快な音を立ててアンプルを握り潰した右手が無防備に投げ出された炎精の小さな左手に襲い掛かり——指先が触れる数ミリメートル手前で、鞭のようにしなった炎精の長い髪に弾き飛ばされた。
「……っ!」
アンプルの中身で濡れていた三毛猫の右手が一瞬で湿度を失う。さながら勝利宣言のように口角を上げた業火はくるくると輪舞を踏みながら、朽ちかけた紙切れを大切そうに両手に包み直した。
「ra、ra、ra、ra、ra——」
少女の歌うような、泣くような笑い声。その最後の一節はーー炎精が佇んでいた地点から数メートル上空で紡がれた。状況を理解できずに半ばパニック状態に陥る炎精。一秒前まで自分と同じか寧ろ少し高い位置にあった猫耳が今は真下にある。宙に浮いた彼女の両手にはガラスの破片と淡く光る碧色の水が付着していた。急激に奪われていく熱。炎精の顔に再び驚愕の色が浮かぶ。
数秒前、三毛猫は切り札のアンプルを使って核の破壊を試み惜しくも炎精の奥の手によって阻まれた。が、あの一手はブラフだ。あの時彼が割ったアンプルはただの傷薬である。そのような事実には微塵も気が付かずに、脅威が去ったと安心しきった炎精。その隙だらけの小さな体を、三毛猫は投げつけた本物のアンプルごと思い切り蹴り上げたのだ。
「——ra、a、a、a……a…………ma……ma……」
だんだんと小さくなる炎と共に消え入るような悲鳴を上げてゆっくりと墜落する少女の影。完全に熱を失った彼女が最後に消滅した場所には、半分以上が焼け落ちた一枚の家族写真が残されていた。
ふう、と三毛猫は息を吐いた。振り返って倒れ込んでいた男性に駆け寄る。右手の熱傷は傷薬(エルミニア医師謹製)のおかげで完治していたが、後遺症や副作用の心配がないとは言い切れないため一応左手を差し出す。手を取った男性の顔を見て三毛猫はおや、と猫耳をぴんと立てた。
「怪我はないかしら……ってあれ、あなた確か執政会長の——」
*
三毛猫が借りているアパルトマンの一室、そこで三毛猫と吸血鬼の二人は書類の仕上げ作業を行っていた。
三毛猫が炎精を退けたあの夜から数日後、改めて三毛猫は吸血鬼と共に噴水広場の執政会長のもとを訪れた。ソレイユからの業務委託証明書と推薦状、三毛猫に助けられた住民からの感謝の手紙数枚。それらと三毛猫の顔を交互に見比べた執政会長は腕を組んで黙り込み、長い沈黙の後に口を開いた。
「本当、初めはどうなることかと思ったわ」
伸びをしながら三毛猫が呟く。結論から言うと、三毛猫は噴水広場の使用許可を得ることが出来た。しかめっ面で腕を組む執政会長に吸血鬼の策が敗れたかと肝を冷やしたが、次の瞬間には彼の瞳には穏やかな色が浮かんでいた。
「あれだけ雑よ……面倒ご……コホン、街に貢献して見せたんだ。既成事実は十分。加えて、執政会長と知らぬまま炎精から直接彼を助けた、あれが心理的な面に大きく働いただろうよ」
「そうかしら……ほとんど偶然だったけどね」
身分証明、営業所の所在地、名称、業種……必要な項目を全て埋め終わり、完成した個人事業開廃業許可申請書を吸血鬼に手渡す。
「うん、確かに。……それにしても、万が一と渡しておいた傷薬をあんなふうに使うとは思わなかった。一応、傷薬としての役割も果たせたみたいだから暇な時に使用者アンケートに回答しておいてくれ」
「やっぱりあれ治験中の薬だった……って、ちょっと待って。どうしてアンタがそのことを知ってるの」
三毛猫の問いに吸血鬼は両手で頬杖をついてにこにこと笑った。
「なんでだろうな?」
——何を隠そう、あの炎精を嗾けたのはこのにこにこ顔の吸血鬼である。実体を取るほどの力を持っていなかった、言わば霊魂のようなそれであった火災の妖精を無理矢理励起し、あの夜あの場所で二人を襲うよう状況を操作したのだ。「いつ何をきっかけに目覚めるか分からなかった炎精を、被害が出る前に適切に処理し危険性を排除したまで」というのが吸血鬼の言い分である。
よくよく思い返せばあれだけ大暴れをして野次馬の一匹も姿を見せなかったも不自然であるし、三毛猫が駆け付けた原因の爆発の目撃者が彼一人というのもおかしい。が、それもこいつが裏で手を回していたとすれば符号が合ってしまう。
最悪だ。比喩抜きのマッチポンプだ。あの執政会長の優しそうな顔が目に浮かぶ。申し訳なさでせっかくもらった許可を辞退したくなってきた。ガックリと項垂れる三毛猫を見ながら吸血鬼はにこーと表情を崩さない。
——思えば、吸血鬼の笑った顔を見たのはこれが初めてだった。夢を語って、その実現のために共に奔走した、三毛猫にとっては唯一無二の友人である。常に無を貼り付けた彼の顔が綻ぶところを見てみたいと思ったことがないはずがない。が、なんかちがう。こんな今にも殴りつけてやりたくなるような笑顔が見たかった訳ではない。端正な顔立ちをしているせいで余計に腹が立つ。もしやこいつ結構性格が悪いのでは、そんなことを悶々と考える三毛猫の猫耳に、部屋に備え付けの時計から正午を知らせる鳩の鳴き声が届いた。そういえば今日は朝から何も口にしていなかった。休憩ついでに昼食にしようと三毛猫は席を立った。
「お昼用意するから、アンタも食べていって。何かリクエストある?」
にこにこを仕舞った吸血鬼は別に何でもいい、そう言いかけてふと言葉を切った。
「……あとで、お前が作った苺のタルトが食べたい」
そっぽを向きながら段々と小さくなる語尾で甘味を所望する吸血鬼。その頬が少しだけ紅潮して見えるのは窓から差し込む陽光が明るすぎるせいだからということにしておこう。
三毛猫はそんな吸血鬼の様子に小さく吹き出し、快く了承して厨房に向かっていった。
——彼の第一印象を聞かれたら、まあ、覇気のない子、そのくらいのことしか浮かばなかった。苺色の目には、何も映っていないようだった。別に、だから悪いなんて思わないし何も押し付けたくないけど、ただ、せっかくだから、もうちょっとだけ、楽しんでみてもいいんじゃない?そんなふうに思ったのだった。
さて、実は本日、十八センチ型で焼いた特大サイズのタルトを用意してあるのだ。下手をしたら吸血鬼の顔よりも大きいかもしれない。勿論、真っ赤な苺もこれでもかと言わんばかりに盛りに盛ってある。これを見たらどんな顔をするかしら、三毛猫は一人微笑み、仕上げの飾り付けを終えたタルトを片手に吸血鬼の待つ食卓へと早歩きで向かうのであった。




