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ヘリオトロープの本懐

マリアのとある一日のお話。


 月の無い夜の底。寝息をたてる館はオスマン様式が主流のこの街では珍しい独立した邸宅だ。闇に沈み切った館に一つだけ、その窓からぼんやりと鈍い光をこぼす部屋があった。

 部屋の主の青年——マリアは青い光を放つ画面から顔を上げ、伸びをしながら肩と首を回した。小気味の良い音が関節から響く。壁掛け時計は丁度綺麗なL字を描いていた。

(何とか夜明け前に終わらせられたな。明日も用事がある。早く寝よう)

 目覚ましの時刻を少し遅らせようと、愛用のスマートフォンを手に取る。長方形の中から笑いかける少女につられ、思わずふっと息を洩らした。半分だけ血の繋がった、彼の大切な妹。彼女と家族の幸福のためならばどんなことでもこなして見せよう。——その決意が単純に兄としての自負による大げさな例えだったのなら、どれほど幸せだっただろうか。

 彼の曽祖父が現当主を務める彼の家系——ソレイユは簡単に言えば吸血鬼の名家の一つである。社会的権力、個体の能力、双方に恵まれた血筋。無論、彼と両親、妹もその名を戴いている。だが実際には、正当に“ソレイユ”としての力を継いでいるのはマリアただ一人であった。


 *


 彼がまだ幼いころ、当主の孫娘の一人であった実の母が亡くなった。吸血鬼には珍しく生まれつき病弱だった母は彼を産んだ後寝たきりになり、それから十数年後に息を引き取った。悲嘆の底に沈む父子を誰もが憐れみ、過度な深入りは避けて過ごしていた。——ただ一人、稀代の偏物と名高い彼の曽祖父を除いて。

 まだ傷の癒えきらぬ時分、当主は彼の父に縁談を持ちかけた。そう、こともあろうに亡き孫娘と永遠を誓い合ったその男に、新しい妻をあてがったのだ。当然反対の声は多かった。二人を慮る者もいれば、血の繋がりの無いよそ者をどうしてこれ以上招き入れる必要があるのかと不服をあらわにする者もいた。だが、そんな叫びも当主命令の一言で一蹴されてしまっては押し黙る他ない。そうして半ば押し切る形で迎えられた二人目の母。はじめこそ腫れ物の扱いを受けていた彼女だが、大多数の者からは「まあ、また爺さんの酔狂か」となし崩し的に受け入れられていった。

 当時、マリアも彼女を容易に母とは認めなかった。当主の意向は絶対であることを頭では理解していても、感情が許容できなかった。しかしそんな彼を実の息子のように愛し、良き妻、良き母であろうと奔走する彼女。その献身的な姿に、彼の氷は少しずつ解かされていった。


 透明な空気が中庭の黄色い絨毯をほどき、その欠片を飛羅ひらと舞い上がらせる。マリアはバスケットいっぱいのリンゴを抱え、息を切らせていた。たどり着いた扉の前、一度深呼吸をしてからドアノブに手をかける。淡いオレンジ色に切り取られた四角の中、彼の父と義母、そして二人の腕の中ですやすやと眠る妹の姿があった。

「来てくれたのね。ふふ、あなたの妹よ。抱いてあげて? お兄ちゃん」

 彼の来訪に優しい笑みで応える義母。

 しどろもどろになりながらも、緊張に震える手で何とか赤ん坊を受け取る。赤くふやけたお世辞にも可愛いとは言えない顔、幾重かのタオル越しに感じる熱、少し力を入れれば簡単に壊れてしまいそうな弱々しさ、その全てが愛おしく、自然と笑みと涙がこぼれた。

 硝子細工に触れるように妹を抱きしめる彼に、父が一つ話を振った。

「マリア。そのお姫様はな、まだ名前が決まってないんだ。……もし、よかったらだが、お前からその子に名前を与えてやってほしい」

 驚いて僅かに顔を上げる。まさか自分が名付け親になるだなんて思ってもみなかった。責任重大。だが不思議と断るという選択肢は浮かばなかった。

 健やかな寝息をたてる宝物。傾きかけた太陽の光が濡らすまつ毛は透き通り、スファレライトの輝きを彷彿とさせた。

「……ルミ。ルミはどうかな。きらきらして、ぴったりだと思うんだ。」

 ためらいがちに、けれどもはっきりと宣言する。

「ルミ。ええ、いい名前だわ! 私たちを照らすルミエール! 素敵な名前をありがとうマリア。優しいお兄ちゃんがいて羨ましいわ、ルミちゃん」

「私も賛成だ。ルミ、これからよろしくな」

 父が頬をつつきながら話しかける。すると目を覚ましたルミが弾けたような泣き声をあげた。お父さんに起こされちゃいましたねぇと、兄からバトンタッチした母が妹をあやす。しょんぼりと小さくなる父。顔を見合わせて笑う三人は、窓辺の光に負けないほど明るく輝いていた。


 *


 けたたましいアラーム音が彼を現実に連れ戻す。絶妙に押しにくい位置に設定した停止アイコンをタップして、前髪を掻き上げる。結局昨日は机に張り付いたまま眠ってしまったらしい。手元のスマートフォンには白く7:00が浮かんでいた。予定の時刻までまだ余裕がある。彼は不快に張り付く汗を流すため、備え付けの浴室の扉に手をかけた。

 真新しいシャツに袖を通し、一番上のボタンから丁寧に掛けていく。美麗な金髪を整え終わるのと同時に、トントントンと控えめなノックが聞こえた。どうぞ、と入室の許可を出す。

「おはようございます! 朝のあいさつにきました!」

 子犬のような明るい茶色の髪を二つに結び、柔らかなブラウスとバルーンスカートを着込んだ少女——ルミは快活な声を上げた。

「おはよう。今日もちゃんと挨拶が出来てえらいね」

 お気に入りの愛らしい髪型を崩さないよう優しく撫でてやると、少女は心地良さそうに瞳を細めた。

「いい子いい子。これからお勉強の時間かな? 頑張っておいで」

 名残惜し気に彼の手を見つめる少女だったが、すぐに笑顔を戻して口を開いた。

「あ、そうだ、今日はね、終わったらちょっといいことがあるの !楽しみにしててね。それじゃあ行ってきます! お兄ちゃんもお仕事がんばってください!」

 にこやかに手を振って妹を送り出す。

 さて、自分もそろそろ準備に取り掛からなくては。血族内での定例会議。それが本日の最重要項目だ。半年に一度、ソレイユの名を持つ親族たちが一堂に会し、各々の近況報告を行う。——尤も、長命の彼らにとって変化というものは縁遠く、取り立てて報告すべきことなど滅多に起こらない。故に通例この会合は倦怠な時間の浪費に他ならないのだが。

 備えあれば患いなしと作成した資料をまとめる。彼は部屋を後にする直前、もう一度姿見の前に立ち、睨み付けるような目の青年に吐き捨てる。

「大丈夫。僕が認めさせてやる。絶対に、誰にも踏み荒らさせはしない」


 *


 会議室へ向かう途中。いつもより人影の多い回廊。形骸化されているとは言え、一応は当主主催の会合だ。観光ついでに遠方からも親族が訪れている。

 ——マリアにとってソレイユの血族が会するのはあまり喜ばしいことではない。中庭で談笑していた二人組が彼に気付いて話題を変えた。「ねえ、あの人でしょう。あの人の家族が……」「ああ。血の繋がらない……」「どうして、……」彼は聞こえないふりをして二人の横を毅然と通り過ぎた。

 吸血鬼は元来血を重んじる種族だ。自分と同じ血が流れるものは仲間、異なるものは敵とみなす。今日び古臭い考えと切り捨てる者がほとんどだが、如何せんこれは霊格に焼き付いた本能のようなものでもある。故に、繋がりを持たない彼の家族を疎ましく思う者も少なからず存在しているのだ。

 一人ソレイユの血を継ぐマリアは言わば大陸と孤島の架橋である。彼の評価が彼の家族の肩身の幅に直結する。妥協は許されない。愛する人を守るため、彼は己に潔癖な理想を求めるのだった。

 

 重たい両開きの扉を片手で開き中に入った。まだ誰もいない会議室に灯りはない。部屋の中央で圧倒的な存在感を放つ円卓。その一席に腰掛けた彼は、静かに開会の時を待っていた。


 *


「——では。本日はこれにて解散とさせて頂きます。皆々様、お忙しい中のご出席、誠に感謝いたします」

 司会の女性のお手本のような挨拶で定例会議は幕を閉じた。結局、今回も月並みな情報交換に終わった。用意していた資料も大して活躍することはなかった。それでも収穫が全くなかった訳ではない。一人席を立たずに情報をまとめる彼は、隣で様子を伺う黒髪の青年の存在に気が付いていなかった。

「やあ、久しぶりマリア。会議はとっくに終わってるんだが、外に出ないのか?」

 マリアより一つ上の隣の席に座っていた青年。先程まであくびを隠そうともせずに退屈な会議に参加していた彼——ジャンヌは軽い口調でそう言った。

「久しぶり、と言うならもう少しマメに顔を見せにきたらどうなの、兄さん。まったくどうしてそう適当な人になっちゃったかな。今日だってどうせ碌に聞いてやしなかったんでしょう。」

 紫色の眼光を鋭くして顔を上げる。ため息交じりの返答に苦い笑いを浮かべる彼を余所目に、手早く片づけをして席を立った。

「言われなくても出ていくよ。これ以上兄さんと話したくないからね」

 一瞬だけ寂しそうに笑って、そうか、と言ったきり口を閉ざしたジャンヌ。二人は無言のままそれぞれ右と左の扉を押して、重苦しい部屋から外に出た。

 回廊を抜け広間に出る。すると少し離れた位置から一人の少女が、砂糖菓子のような髪を揺らして小さく駆け寄ってきた。彼の横を歩いていた青年が同じように少女に駆け寄ると、二人は数回言葉を交わした後マリアに振り返った。ジャンヌは笑顔で軽く手を振り、少女の方は深めにお辞儀をした。それを去り際の挨拶に、二人はその場を後にしていった。

(…兄さんはああいうのが好みなのか)

 最近、人間の女を一人眷属にしたと聞いていた。瞳の色からしておそらくあの少女で間違いないだろう。


 兄さん——正確には母方の従兄弟である彼。かつてこの屋敷で共に暮らしていた。当時の彼の姿は、まさにマリアが求める理想そのものだった。彼を心から尊敬すると同時に、どうしようもない劣等感を感じていたのもまた事実だった。

 ある時、彼は屋敷から出ていった。突然のことに困惑し詰め寄ったマリアに彼は「少し違う景色が見たくなっただけ、そう深刻に考えるな」そう簡単に告げ、鳥が羽ばたくが如く去って行ってしまった。後になって、籍や仕事は今までと変わらないこと、本当にただ住居が変わるだけで何ということはないことを説明された。

 だが、彼のこの行動が与えた影響は大きかった。具体的に言うと、彼以外の作業量が五割増しになった。新しい暮らしをエンジョイして仕事をサボった彼の尻拭い、なんて愉快な理由だったらどれだけ気が楽だったろうか。残念ながらその逆、いや、《《今までがその逆》》だった。彼が、彼以外の仕事を間接的に引き受けていたのだ。彼が十割以上の成果を求めなくなった今、作業配分が正常に戻っただけに過ぎない。彼とて意図していた訳ではないが、自らの課題をこなすだけで周囲に影響を与えるほどに以前の彼は完璧にすぎた。——傍らにあっても。姿を見せずとも。己が非才を濃紺の影としてありありと映し出す陽光の彼。それはいつしかマリアにとって自身を苛むだけの存在になってしまっていた。


 *


  自室に続く気だるい廊下の途中。正面に、白い箱を抱えながら軽やかにステップを踏む少女が目に入った。少女は彼に気がつくと、嬉しそうに小走りで近寄ってきた。

「お兄ちゃん! 今日のお仕事はもう終わったの?」

 マリアは先ほどまでの不機嫌な表情をはがし、代わりに柔らかい笑みを貼り付ける。不完全にまとめられた書類を後ろ手に隠して彼女に目線を合わせた。

「ああ。今日は話し合いだけだったからこれで終わり。あとはもう自由に過ごせるよ」

 それを聞くやいなや、少女は浅い藤色の瞳を輝かせた。

「そっか、今日もおつかれさまでした! がんばったお兄ちゃんにプレゼントがあります。準備してくるから、ちょっと待っててね!」


 促されるままルミの自室で待機していた。両手が使えないからここを開けてください、申し訳なさそうに響いた声に苦笑しながら、可愛い妹のオーダーに応える。

 再び席に着いた二人。菫模様のティーカップが二つ。ルミは得意気な笑みで箱の蓋を外した。少し歪なガトーショコラ、彼女は大きく四分の一を切り取ってマリアに手渡した。

「どうぞ! 私が作ったんだよ。ちょっとだけ手伝ってもらっちゃったけどね。今日は特別にケーキ屋さんのお姉ちゃんたちが先生をしに来てくれたんだ」

 食べてみて、少しだけ緊張した目で様子を窺う少女。マリアは小さいフォークで切り取った一口分を、ゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。

「うん。すごく美味しい! こんな可愛い妹が手作りしたケーキが食べられるなんて僕は幸せ者だね、ありがとう、ルミ。」

 朗らかな感嘆を受け取った彼女はくすぐったそうに笑った。

「えへへ、そっか、喜んでもらえてよかったぁ。お兄ちゃん、いつもがんばってるから、たまにはこうやってゆっくり休んでほしいな」

 ——ああ。本当に、どこまでも愛しい宝物。

 傾きかけた太陽が二人の頬を淡く染める。羽毛のようなこの時間をいつまでも守り続けたいと思った。何時しか課された噎せ返りそうな重圧を、憧憬の本懐として抱き返す。例え報われぬ人柱の役だとしても、愛する人を守るためならば演じ切ってみせようか。彼は粛然として、強固な決意を握りしめるのだった。


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