第97話 Day 62 静けさ
朝食を終えて間もなく、テーブルに置いていた蓮のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を確認した蓮は、そのまま通話を繋ぐ。
『蓮、昨日のニュース見たか?』
聞こえてきたのは黒崎の声だった。
「ああ。国家生存維持計画の話か」
『そう、それだ。こっちでもみんなで見た』
いつもと変わらない口調に聞こえたが、声には隠しきれない疲れが滲んでいた。蓮はソファーへ深く腰を下ろし、少し離れたところでコーヒーを飲んでいた朝霧も、何となくこちらへ視線を向ける。
「そっちはどうするんだ?」
『……行くことにした』
「保護地区へ?」
『ああ』
黒崎は短く答え、それから小さく息を吐いた。
『こっちもな、もう住民の数がかなり減った』
蓮の表情がわずかに変わる。
『マンションの中だけなら、何とかやれてたんだよ。食料を節約して、水もみんなで融通して、揉め事もあったけど、それでも何とかやってた』
「…………」
『でも、この前……外から十五人くらいの連中が来た』
「外から?」
『ああ。最初から話し合う気なんかなかった。食料を出せって言われて、断ったらそのまま入ってこようとした』
黒崎の声が低くなる。
『向こうも武器になるようなものを持ってた。こっちだって、このマンションを取られたら終わりだ。だから……みんなで戦った』
「それで?」
『何とか勝った』
答えは短かった。
しかし、その後に続いた言葉は軽くなかった。
『四人死んだ。怪我した奴も何人かいる』
朝霧の手が止まった。
通話の内容まではすべて聞こえていなくても、蓮の返事から何かが起きたことは察したらしい。
『向こうだって必死だったんだと思う。もう食うものがなかったのかもしれない。でも、そんなこと言ってられなかった。入れたら今度は俺たちが死ぬからな』
「……そうだな」
『それで昨日のニュースだろ』
黒崎は少し間を置いた。
『みんなで話し合った。このままここに残ってても、また別の連中が来るかもしれない。次も勝てる保証なんかないし、怪我した奴や病人もいる。食料だっていつまでも持つわけじゃない』
「だから保護地区に行くのか」
『ああ』
その声に迷いがないわけではなかった。
『入れてもらえるかは分からない。そもそも無事に辿り着けるかも分からない。でも、ここにいたって時間の問題だと思う。だったら賭けてみようってことになった』
黒崎はそこで少しだけ声を明るくした。
『幸い、攻めてきた連中が乗ってきた車両が残ってるんだ。雪の上を走れるやつ。たぶん元は救援物資の輸送にでも使われてた車だと思う』
「動くのか?」
『動く。燃料もまだ残ってる。他にも使えそうな車を集めて、何台かに分かれて行くつもりだ』
「そうか」
『それでさ、蓮』
黒崎の声が少し変わった。
『お前も一緒に行くか?』
蓮は答えなかった。
『お前が行くなら、そっちまで迎えに行ける。そのくらいならみんなも分かってくれると思う』
蓮は窓の外へ目を向けた。
1週間前まであれだけ降り続いていた雪は、今ではかなり弱くなっている。それでも街は白く埋まり、遠くに見える建物の輪郭さえ霞んでいた。
数秒だけ考え、蓮は口を開く。
「いや、俺はいい」
『……そうか』
「俺のことは気にするな。自分が生き延びることを優先しろ」
電話の向こうで、黒崎が小さく笑った。
『そっか。まあ、お前なら俺が心配しなくても何とかしそうだけどな』
「お前も死ぬなよ」
『分かってる』
少しだけ沈黙が続いた。
『じゃあ、俺たちもすぐ出発の準備をする。また何かあったら連絡する』
「ああ」
『じゃあな』
通話が切れた。
蓮はしばらく暗くなった画面を見ていたが、やがてスマートフォンをテーブルへ置いた。
「……意外ね」
朝霧の声が聞こえた。
「何がだ」
「あなたにも友人がいたのね」
蓮がゆっくりと朝霧を見る。
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ。自分以外の人間には、興味がないのかと思ってた」
「…………」
蓮は反論しなかった。
少しして、テーブルのスマートフォンへ視線を落とす。
「あいつは前世で、最後まで俺を助けようとした」
朝霧の顔から、からかうような表情が消えた。
「あの時も、自分たちの食料に余裕なんてなかった。それでも俺に食料を分けた」
蓮は一度言葉を切った。
「その恩を忘れたわけじゃない」
「……だったら、どうしてこっちに呼ばなかったの?」
「呼ぶ必要がない」
「でも、ここなら――」
「あいつが来ると言えば、拒まなかったかもしれない」
朝霧が蓮を見る。
「だったら……」
「でも、あいつの人生だ」
蓮は淡々と続けた。
「どこに残るか、誰と生きるか、どこへ行くか。自分で選べばいい。俺が決めることじゃない」
朝霧はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「……人が良さそうね、その人」
「ああ」
「彼女とかはいないの?」
その問いに、蓮が一瞬だけ黙った。
「……今はもういない」
「今は?」
朝霧が首を傾げる。
「どうして?」
「以前、このマンションに一人で女が来て、少し話題になってただろ」
朝霧は記憶を探るように眉を寄せ、すぐに目を見開いた。
「あのDMをいろんな人に送ってた人?」
「あいつが黒崎の彼女だ」
「……え?」
朝霧が思わず声を上げた。
「ちょっと待って。なんでその彼女さんが、こんなところまで一人で来るのよ?」
「俺が飯の画像を送ったからだ」
「…………」
朝霧の目が細くなった。
「あなたねえ……こんな時にそんなもの送ったら、そりゃ――」
そこまで言って、朝霧の声が止まった。
何かに気づいたように蓮を見る。
一ノ瀬。
黒崎の彼女。
食料の画像。
足りない物資。
そして、このマンションまで一人でやってきた女。
朝霧の表情がゆっくりと変わった。
「……もしかして」
蓮は何も言わない。
「あなた、わざと……?」
返事はなかった。
蓮はテーブルに残っていたコーヒーへ手を伸ばし、それ以上、その話を続けようとはしなかった。
*
その頃、マンションでは朝の配給が始まっていた。
昨日は水道が完全に止まり、共同備蓄の水を巡って住民たちの間に不満が生まれたばかりだった。さらに一ノ瀬たちが配る食料も以前より少なくなっている。
何か起きてもおかしくはなかった。
ところが――今日の配給は驚くほど順調だった。
「次の人」
一ノ瀬に呼ばれた住民が前へ出る。
決められた分の食料を受け取り、中身を確認すると、そのまま列を離れていく。
「はい、今日の分です」
「……ありがとうございます」
昨日のように量について訊ねる者さえほとんどいない。
少ないことは、もう分かっている。
隣では田村が簡単な診察を続けており、体調に不安のある住民が数人、順番を待っていた。咳や軽い腹痛、寒さによる体調不良を訴える者が中心で、今のところ大きな混乱はない。
列は少しずつ短くなっていった。
怒鳴り声もない。
物資を奪おうとする者もいない。
昨日までの騒ぎが嘘だったかのように、配給は淡々と進んでいく。
水についても、すぐに争いが起こることはなかった。
水道が完全に止まったのは昨日だが、それ以前から水の出が悪くなっていたため、危機感を持っていた住民は少なくない。浴槽を満たしていた部屋もあれば、空いたペットボトルや鍋、ポリタンクなど、使える容器へ水を貯めていた世帯もあった。
それに、昨日から始まった融雪も続いている。
外から運び込まれた雪が、大きなバケツや鍋に詰められ、それぞれの部屋へ運ばれていく。
ただ、実際にやってみれば想像していたほど簡単ではなかった。
「……これだけ?」
大きな鍋いっぱいに詰め込んだ雪が溶けたあと、底に残った水を見て一人の住民が呟く。
見た目には大量だった雪も、水になれば驚くほど量が減る。雪の状態によって差はあるものの、十リットル分ほど詰め込んでも、得られる水は数リットル程度にしかならなかった。
それでも、昨日よりは作業に慣れていた。
外へ雪を取りに行く者、部屋で溶かす者、容器を運ぶ者。
最初は混乱していた作業が、少しずつ形になり始めている。
「うちはまだ浴槽に残ってるから、今日は大丈夫」
「うちも飲む分はペットボトルに結構貯めてある」
「じゃあ雪はトイレとかに回した方がいいか」
「飲むなら、なるべく綺麗なところの雪にしよう」
まだ余裕がある家庭も多かった。
全員が今すぐ飲み水に困っているわけではない。
だからこそ、表面上は平穏だった。
やがて最後の住民が食料を受け取り、配給が終わる。
一ノ瀬は空になった箱を片づけながら、列の消えた廊下を眺めた。
何も起きなかった。
昨日は少し不安だった。
三浦がいなくなり、今まで彼がやっていたことを自分たちだけで回さなければならなくなった。だが、実際にやってみれば、思っていたほど難しいものではない。
配給は終わった。
田村も住民を診ている。
水は住民たちが自分で作っている。
大きな揉め事もない。
一ノ瀬の口元が少し緩んだ。
「ほら」
近くにいた柴田が振り向く。
「あ?」
「三浦がいなくても、私がいれば大丈夫だったでしょ?」
「…………」
「配給だってちゃんとできたし、水だって自分たちで何とかしてる。田村もいるし」
柴田は少し考え、それから肩をすくめた。
「まあな」
「三浦がいなくなったくらいで、別に何も変わらないじゃない」
一ノ瀬はそう言って、残っている物資へ視線を向けた。
昨日より少なくなっている。
当然だ。
毎日配っているのだから、減るのは当たり前だった。
だが、それがどれほどの速さで減っているのか。
今の量で何人を、あと何日養えるのか。
昨日配給量を減らしたことで、それが何日延びたのか。
一ノ瀬は知らなかった。
そして――今は、それを知る必要があるとも思っていなかった。
◇
「……よかった」
監視室の大型モニターを眺めていた朝霧が呟いた。
複数に分割された画面には、マンションの共用部が映っている。
食料を受け取った住民たちはすでに各自の部屋へ戻り始め、別の画面では数人が容器を持って雪を運んでいる。昨日のような争いは起きていない。
住民専用グループにも、大きな揉め事を示す書き込みはなかった。
「今のところ、何もトラブルなさそうね」
「ああ、今はな」
蓮は短く答えた。
朝霧はもう一度モニターを見る。
昨日、水道が完全に止まった時にはどうなるかと思ったが、住民たちは思っていた以上に対応していた。雪から作れる水の量は多くない。それでも、各家庭に残っている水と合わせれば、今日明日ですぐに全員が困るわけではない。
少なくとも今は、まだ回っている。
「じゃあ」
朝霧が立ち上がった。
「始めましょうか」
「何を?」
「あなたの健康診断」
蓮が朝霧を見る。
「……は?」
「何、その顔」
「何で俺が健康診断を受けるんだ」
「何でって……私、あなたの専属医なんでしょ?」
「…………」
「だったら、あなたの健康管理をするのは私の仕事じゃない」
当然のことを言っているような顔だった。
朝霧はすでに必要なものを準備している。
「まず血圧。それから脈拍、体温。簡単な問診もするわ」
「必要ない」
「必要かどうかを判断するのは医者よ」
「健康だ」
「だから、それを確認するの」
「…………」
「座って」
「もう座ってる」
「じゃあ腕出して」
蓮はしばらく朝霧を見ていた。
昨日、自分が言った言葉を思い出す。
お前はもう、あいつらの医者じゃない。
俺の専属医だ。
どうやら本人は、それを想像以上に真面目に受け取っているらしい。
諦めたように腕を差し出すと、朝霧は満足そうに血圧計を巻き始めた。
「最近、頭痛は?」
「ない」
「めまい」
「ない」
「寝つきは?」
「普通だ」
「夜中に目が覚める?」
「たまに」
「何回くらい?」
「……これは健康診断なのか?」
「問診よ」
「細かすぎないか?」
「専属だからね」
朝霧は平然と答えた。
蓮は何も言えなくなる。
しばらくして測定を終えた朝霧は数値を確認し、小さく頷いた。
「今のところ大きな問題はなさそうね」
「最初からそう言ってる」
「あなたの自己申告と私の診断は別物よ」
「…………」
「これから定期的にやるから」
「一回で十分だ」
「だめ」
即答だった。
蓮は面倒そうに息を吐いた。
朝霧はそんな蓮を見て少しだけ笑うと、器具を片づけ始める。
「それと、もう一つ」
「まだあるのか」
「家事」
「家事?」
「掃除とか洗濯とか。そういうのも私がやるわ」
「必要ない」
「必要あるわよ」
「収納するばいい」
「そうだけど……やらせてほしいの」
蓮が朝霧を見る。
朝霧は器具を片づけながら続けた。
「これだけの生活を提供してもらって、何もしないで暮らすつもりはないもの」
「お前は医者として雇った」
「医者の仕事が毎日あるわけじゃないでしょ? あなたが毎日怪我してくれるなら別だけど」
「する予定はない」
「でしょうね。だったら暇な時くらい、できることはやるわ」
朝霧は指を折る。
「掃除、洗濯、料理。他にも必要なら――」
「料理はいい」
朝霧の指が止まった。
「何で?」
「お前、料理できるのか?」
「…………」
今度は朝霧が蓮を見る番だった。
「……できるわよ」
「そうか……」
二人の間にしばしの沈黙が続いた。
「とにかく」
朝霧が少し真面目な表情になる。
「私はあなたに守ってもらうためだけに、ここへ来たわけじゃない」
「…………」
「専属医なら医者として働く。それ以外にもできることがあるなら、それもやる。じゃないと、私自身が納得できないの」
以前の朝霧なら、誰かの役に立たなければならない、と言っていたかもしれない。
だが今は少し違う。
誰かのために自分を削るのではなく、自分がここで生きていくために、自分の役割を持とうとしている。
蓮は数秒だけ朝霧を見たあと、背もたれへ身体を預けた。
「……好きにしろ」
「分かった」
朝霧が頷く。
「じゃあ健康診断は週一回ね」
「それは多すぎだろ」
「専属医の私が決めます」
「誰が雇い主だ」
「医療については医者の方が上よ」
「…………」
どうやら、面倒な人間を雇ってしまったらしい。
蓮はそう思ったが、口には出さなかった。
◇
夜。
外の気温は依然として低く、マンションの中にも冷気が染み込んでいた。
「さみーな……」
柴田は肩を縮めながら、湯気の立つカップ麺をすすった。
電気が使える時間に沸かしておいた湯を使ったものだった。
水道が完全に止まってから一日。
住民たちは少しでも水を残そうと雪を運び、溶かし、飲み水と生活用水を分け始めている。
だが柴田たちの前には、湯をたっぷり使ったカップ麺が並んでいた。
「……やっぱ温けえもん食うと違いますね」
松本もカップを両手で持ちながら、冷えた指先を温めている。
しばらく誰も喋らず、麺をすする音だけが続いた。
やがて松本が何気なく口を開く。
「三浦たち、今頃何食べてるんですかね」
柴田が顔を上げる。
「知らねえよ」
「神崎のところでしょ? いいもん食ってんのかなって」
「だから知らねえって」
柴田は面倒そうに答え、再び麺をすすった。
その横で、一ノ瀬の手が止まる。
「……ねえ」
「あ?」
「神崎のところって、どれくらい食料あると思う?」
柴田が眉を寄せた。
「知らねえよ。何だよ急に」
「だって、もう二か月よ」
「だから?」
一ノ瀬は自分のカップを見ながら考える。
「いくら神崎が備蓄してたって、もう二か月ずっと食べてるんでしょ?」
「……まあな」
「最初は一人だったかもしれない。でも今は朝霧と三浦が加わった……」
柴田の箸が止まった。
「何が言いてえんだよ」
「だから……」
一ノ瀬はゆっくりと顔を上げる。
「そのうち、食料なくなるんじゃない?」
柴田は何も言わなかった。
一ノ瀬自身も、口に出してから考え始めたようだった。
「食料だけじゃない。水だってそうでしょ? 三人で生活してるなら、一人の時より減るのは早いはずよ」
「…………」
「神崎がどれだけ備蓄してるか知らないけど、無限にあるわけじゃない」
その言葉だけは、一ノ瀬にとって疑う理由がなかった。
どれほど周到に準備した人間でも、持っている食料には限りがある。
一か月分なら、一か月。
三か月分なら、三か月。
半年分あったとしても、いつかはなくなる。
まして人数が増えれば、それだけ早く減っていく。
「……それがどうした?」
柴田が訊いた。
一ノ瀬は少し黙った。
そして、何かに気づいたように目を細める。
「食べるものがなくなったら……どうする?」
「さあな」
「……出てくるんじゃない?」
今度こそ、柴田の箸が完全に止まった。
「……神崎が?」
「だって、中のなくなったら外から取るしかないじゃない」
柴田はカップ麺を持ったまま、一ノ瀬を見る。
これまで2501は、どうしようもない場所だった。
扉は開かない。
中へ入ることもできない。
神崎は自分から出てこない。
だから、手の出しようがなかった。
だが――。
「……待てばいいってことか?」
一ノ瀬はすぐには答えなかった。
頭の中で何かを組み立てるように、ゆっくりと箸を置く。
「まだわからない、でも外から壊せないなら、中から開けてもらうしかない……」
一ノ瀬は2501がある上の階へ視線を向けた。
「もしあそこを拠点にできたら……」
柴田が一ノ瀬の次の言葉を待つ。
「マンションのすべての物資を独占できる」
柴田は何も答えない。
手にしたカップからは、まだ白い湯気が上がっている。
その湯を作るために使った水を、今日一日、住民たちがどれほど苦労して作っていたのか。
二人とも、そのことを気にしてはいなかった。
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Day 62
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 88人
【今日のメモ】
「何も起きていない日は、何も進んでいない日とは限らない。」
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