第96話 Day 61 同じ選択
午後になって最初に異変に気づいたのは、一階まで水を汲みに下りていた住民だった。
水道は今日になって突然おかしくなったわけではない。寒波が長引くにつれて上の階から少しずつ使えなくなり、ここ数日は水の出る階まで容器を持って下りることが当たり前になっていた。二十リットルのポリタンクを持つ者もいれば、空になったペットボトルや鍋、バケツまで使う者もいる。面倒ではあったが、下へ行けばまだ水が出る。その事実だけが、住民たちにとって最後の安心になっていた。
その日も、一人の男が一階の蛇口からポリタンクへ水を入れていた。
もともと勢いなどほとんど残っていなかった水が、途中からさらに細くなる。蛇口から垂れる糸のようになり、何度か途切れながら頼りなく流れ落ちたあと、男が見つめる前で完全に止まった。
「……え?」
男は蛇口を閉め、もう一度開いた。
何も出ない。
さらに何度か捻り直したが、配管の奥から小さな音が聞こえるだけだった。
「おい……」
近くにいた住民も集まり、別の蛇口を試す。そこも同じだった。
念のため二階、三階と確認したが、結果は変わらない。
これまで水が止まるたび、住民たちは一つ下の階へ向かった。それでも駄目なら、さらに下へ行けばよかった。
だが、今日は違う。
もう、下りる階は残っていない。
その知らせが住民専用グループへ流れるまで、それほど時間はかからなかった。
『一階も水出ない』
『こっちも確認した。完全に止まってる』
『え? 本当に?』
『誰か他の場所確認して』
『一階で出ないならもう無理だろ』
『待って、水どうすんの?』
『飲み水ほとんど残ってないんだけど』
次々と書き込みが増えていく中、さらに別の異変が見つかった。
『ガスもつかない』
『うっそ!』
『こっちも駄目』
『ガスも止まったの?』
『水もガスも同時ってどうすんだよ!?』
電気と通信だけは、政府が維持すると発表した最低限の供給がまだ残っている。しかし、水道とガスは完全に止まった。
蛇口を捻っても水は出ず、コンロを回しても火はつかない。
それまで不便になりながらも辛うじて残っていた「普通の生活」が、また一つ大きく削り取られた。
しばらく混乱したあと、住民の一人がマンション全体グループへ書き込んだ。
『一ノ瀬さん、共同物資に水ってまだありますよね?』
続けて別の住民も送る。
『水道が完全に止まりました』
『今日だけでも水を少し多めに分けてもらえませんか?』
『お願いします』
『うちもほとんど残ってません』
その頃、一ノ瀬はまだ保管庫にいた。
スマートフォンに表示されたメッセージを読み終えると、顔を上げて部屋の隅へ目を向ける。
ペットボトルの水は、まだケース単位で残っている。
今日明日でなくなる量ではない。
だが、以前と比べれば確実に減っていた。まして今朝、政府から今後の救援物資がこれまでのようには届かないことを知らされたばかりだ。
八十人以上いる住民へ追加で配れば、どれほどの速さで減っていくのか。
一ノ瀬は積まれた水をしばらく見つめた。
「……無理」
剛が顔を向ける。
「何が?」
「水。もっと分けてほしいって」
一ノ瀬はスマートフォンを見せたあと、もう一度ペットボトルのケースへ目を向けた。
「これ以上あげたら、私、たちの分がなくなるじゃない」
剛も水を見る。
「じゃあ断ればいいだろ」
「うん」
一ノ瀬はすぐには送信せず、少し考えてから文章を打った。
『ごめんなさい。残っている水もかなり少なくなっています』
『今ここで追加で配ってしまうと、今後の配給そのものが続けられなくなるので、これ以上は出せません』
送信する。
マンション全体グループには、すぐに返事は来なかったが、住民専用グループでは、その数秒後から書き込みが始まっていた。
『やっぱりな』
『まあ出さないよな』
『じゃあどうする?』
『どうするって、水ないとどうにもならないだろ』
『誰かまだ水残ってない?』
『代表たちから物資持っていった奴らは?』
『そうだよ。あいつらが持ってった中に水なかったの?』
『あったとしても全員分なんかあるわけないだろ』
それでもしばらく、誰かの部屋に残っている水、まだ確認していない場所、近くの店へ取りに行く可能性など、思いつく案が次々と出された。
しかし、どれも長くは続かなかった。
この寒さの中で外の店を探し回ること自体が危険であり、仮にどこかの部屋に数本残っていたとしても、それでマンション全体を支えられるはずがない。
やがて書き込みが途切れた。
少しして、一つのメッセージが流れた。
『……雪は?』
『雪?』
『外の雪』
『溶かせば水になるんじゃない?』
数秒の間を置いて、反応が続いた。
『それならいくらでもある』
『でもガス止まってるぞ』
『電気まだ来てる』
『IHとかケトル使えばいいんじゃない?』
『炊飯器もいける?』
『お湯沸かせるやつなら何でもいいだろ』
それまで不安と愚痴ばかりだったグループの流れが、そこで初めて変わった。
誰かが卓上IHを持っていると言い、別の住民が大きな鍋を出せると書き込む。電気ケトル、炊飯器、電気ポット。使えそうなものを持っている住民が次々と名乗り始めた。
誰か一人が指示したわけではない。
水がなければ自分たちが困る。
ただそれだけの理由で、住民たちは自分たちから動き始めた。
◇
二十五階。
監視室の大型モニターには、マンション各所の監視カメラ映像とともに、朝霧のスマホから投影された住民専用グループの画面が表示されていた。
新しいメッセージが投稿されるたびに画面が更新されていく。
朝霧は蓮の隣でそのやり取りを見ていた。
『なるべく綺麗な雪取ってこよう』
『道路のところはやめた方がいいよな』
『上に積もってるやつなら大丈夫じゃない?』
朝霧がわずかに眉を寄せる。
「……雪を溶かして飲むつもりみたいね」
「みたいだな」
「でも、雪だから綺麗とは限らないわ。降ってくる途中で大気中の汚れを取り込むこともあるし、積もったあとなら埃や土なんかも混ざる。見た目が白いからって、そのまま飲み水にして安全とは言えない」
蓮はモニターへ目を向けたまま訊いた。
「沸かす気でいるな」
「細菌なんかのリスクはかなり下げられる。でも、それで全部なくなるわけじゃない。汚れや化学物質まで沸騰させれば消えるわけじゃないから、できるだけ汚れてない雪を選ぶのが前提ね。飲む分はちゃんと沸かした方がいい」
「だろうな」
「それと、雪って見た目ほど水にならないのよ。かなり集めないと必要な量にはならないと思う」
朝霧が言っている間にも、監視カメラの中では住民たちが動き始めていた。
厚着をした数人が容器を抱えて外へ出る。
別の住民たちは鍋や家電を持って一つの部屋へ集まっていく。
「あと、雪をそのまま食べて水分を取ろうとするのも、この環境じゃやめた方がいいわね」
「体温か」
「ええ。飲むならちゃんと溶かした方がいい」
朝霧はそこまで言うと、それ以上は何も言わなかった。
住民へ伝えるためのスマートフォンは、今は蓮が預かっている。
だが朝霧は、それを返してほしいとも、住民へ教えてあげてほしいとも言わなかった。
ただ一人の医者として、モニターの向こうで始まった作業を見ていた。
最初からうまくいったわけではなかった。
雪を入れた大鍋を卓上IHへ載せ、その横では電気ケトルが動き、さらに別の住民が炊飯器まで持ち込んだ。
「これも使えるだろ」
「とにかく一気にやろう」
限られた電力供給がいつ止まるか分からない。
使えるうちに少しでも多くの水を作りたい。
その焦りから、同じ部屋で次々と高出力の家電が動き始めた。
数分後。
突然、部屋の照明が消えた。
「え?」
「停電!?」
「おい!」
一瞬で騒ぎになったが、廊下へ出た住民がすぐに気づく。
「違う! 廊下ついてる!」
「ここのブレーカーだ!」
「使いすぎたんだよ!」
慌てて家電の電源を切り、ブレーカーを戻す。
それをきっかけに、やり方が少しずつ変わった。
『一ヶ所に集めるのやめよう』
『ケトルある人は自分の部屋でやって』
『IHも部屋分けた方がいい』
『できた水をあとで持ってくればいいだろ』
『雪取ってくる人も交代にしよう。ずっと外は無理だ』
誰かが案を出せば、別の誰かが修正する。
外へ雪を取りに行く者、部屋で溶かす者、容器を運ぶ者。
最初は混乱していた作業も、少しずつ形になっていった。
これまでは最低限とはいえ配給される物資を受け取っていれば生きていけた。しかし、水道が止まった今、水だけは誰かが動かなければ手に入らない。不思議と、そこには何週間ぶりかの共同作業が生まれていた。
しかし、実際にやってみると、雪から水を確保する作業は想像していたほど簡単ではなかった。
大きな鍋いっぱいに雪を詰めても、溶ければ水位は驚くほど下がる。
「……これだけ?」
鍋を覗き込んだ住民が思わず呟いた。
「もっと入れろ」
「もう何回目だと思ってんだよ」
「これ全員分作るの?」
誰も答えなかった。
雪そのものなら、外に嫌というほどある。
だが、それを集め、運び、溶かし、飲める状態にするには、人間の手と時間、そして電気が必要だった。
暖房にも電気がいる。
スマートフォンの充電にもいる。
料理にもいる。
そこへ今日から、水を作るための電気まで必要になった。
無限にあるように見えた雪が、必要な形へ変えようとした途端、まったく別のものになった。
その騒ぎに一ノ瀬が気づいたのは、住民たちが何度目かの雪を運び込んでいる時だった。
廊下をバケツや鍋を抱えた人間が何度も行き来している。
「……何してるの?」
声をかけられた住民が足を止めた。
「あ、水です」
「水?」
「雪を溶かしてるんです。水道、もう完全に止まったから」
「雪を?」
一ノ瀬は近くの部屋を覗いた。
鍋の中では、白かった雪が少しずつ透明な水へ変わっている。
「なるべく綺麗なところの雪を使って、飲む分は沸かそうって話になってます」
「……どれくらい作れるの?」
「まだ分かりません。思ったより全然少なくて」
一ノ瀬は鍋の中をしばらく見つめた。
それから住民へ言った。
「じゃあ、できた水の一部、こっちにも回して」
「……え?」
住民の表情が止まった。
一ノ瀬はその反応が理解できないように続ける。
「食料はこっちからみんなに配ってるでしょう?」
「…………」
「田村先生だって、みんなを診てる。こっちには何人もいるんだから、水を少し回してもらうくらいはいいでしょう?」
住民はすぐには答えなかった。
「……ちょっと、みんなで相談します」
「うん。数人分でいいから」
一ノ瀬はそれだけ言って戻っていった。
ほどなくして、住民専用グループに書き込みが増え始めた。
『ふざけんなよ』
『自分たちは水を出さないくせに、俺らが作った水はよこせって?』
『だったら自分たちで雪取りに行けよ』
『食料配ってるって言ってたけど、あれ元々共同の物資だろ』
『田村先生だって無償で診るって話じゃなかった?』
そこへ別の住民が書き込む。
『無償って言いながら今日配給減らしただろ!』
『結局俺らから取ってるのと何が違うんだよ!』
不満は一度出始めると止まらなかった。
朝から減らされた食料。
共同物資。
医療。
そして今度は、自分たちが寒い外へ出て集め、自分たちの電気を使って作った水。
だが、次のメッセージが流れた瞬間、それまでの勢いが消えた。
『お前ら、やめた方がいい』
続けて、
『誰が見てるか分からないぞ』
『また告げ口されて、連帯責任にされたいのか?』
そこで書き込みが止まった。
誰も否定しない。
誰も「そんなことは起きない」とも書かない。
ただ既読の数字だけが増えていった。
数分。
新しいメッセージは一つもなかった。
やがて、誰かが書いた。
『……数人分くらいならいいんじゃない?』
少しして、
『まあ、それくらいなら』
さらに別の住民が続ける。
『食料もらってるのは事実だし』
最後に、
『こっちで提供しよう』
それ以降、反対する者はいなかった。
しばらくして、住民たちが作った水の一部が、一ノ瀬たちのところへ運ばれた。
「これ……そちらの分です」
「ありがとう」
一ノ瀬は普通に受け取った。
その水が差し出されるまで、住民専用グループでどんな会話が交わされていたのかを、一ノ瀬は知らない。
監視室のモニターには、その一連の流れが映し出されていた。
朝霧は何も言わずに画面を見ていたが、一ノ瀬が水を受け取ったところで小さく息を吐いた。
「……自分たちは水を渡さなかったのに」
蓮は答えなかった。
モニターの別画面では、住民たちがまだ雪を運び続けている。
一度や二度で終わる作業ではない。
今日を乗り切ったとしても、明日も水道が戻らなければ同じことをしなければならない。雪を集め、運び、溶かし、飲む分を沸かす。それを電気が使える時間に合わせながら、何度も繰り返す。
「……これ、毎日やるのね」
朝霧が呟いた。
「それも生きるためだ」
蓮は短く答えた。
その時だった。
監視カメラの一つに、動体を知らせる表示が出た。
蓮が画面を切り替える。
雪に覆われたマンションの外。
雪は以前よりかなり弱くなり、白く霞む視界の向こうには、いくつもの黒い影が見えた。
「……人?」
朝霧がモニターへ近づく。
一人ではない。
二人、三人。
さらに後ろにもいる。
合わせて六人。
厚い防寒具に身を包み、大きな荷物を背負った者もいる。互いに離れないよう固まりながら、ゆっくりとマンションへ近づいていく。
その姿に最初に気づいたのは蓮たちだけではなかった。
『外に人いる』
住民専用グループにメッセージが流れる。
『どこ?』
『入口の方』
『五、六人くらいいない?』
『マジだ』
そして次の瞬間。
『入れるな』
ほとんど間を置かず、別の住民が続いた。
『絶対開けるな』
『入口の鍵確認して』
『誰も勝手に開けないで』
『食料目当てだろ』
『今人が増えるのは無理』
『水だって今日止まったんだぞ』
反対意見は、一つもなかった。
三十日ほど前にも、同じように外から人が来たことがあった。
あの時は違った。
入れてやれないのか。
このままでは死ぬ。
少しくらいなら助けられるんじゃないか。
そんな声が確かにあった。
だが今日は、誰も迷わない。
マンション全体グループにも一ノ瀬からメッセージが流れる。
『入口は開けないでください』
『今のマンションには、外部の人を受け入れる余裕はありません』
住民専用グループにも異論は出なかった。
やがて、外の人間たちがエントランスへ到着した。
分厚い扉の向こうから、何度も叩く音が響く。
「お願いします!」
監視カメラのマイクが、その声を拾った。
「誰かいませんか!」
「中に入れてください!」
「お願いします! もう行くところがないんです!」
住民専用グループでは、
『開けるなよ』
『絶対開けるな』
『誰も返事するな』
『そのうち諦めるだろ』
というメッセージが流れている。
外から再び声がした。
「せめて水だけでも分けてもらえませんか!」
しばらく誰も答えなかった。
やがて、エントランス近くにいた住民の一人が、扉を開けないまま大声で返した。
「こっちだって水なんかないんだよ!」
「お願いします! 少しだけでいいんです!」
「無理だ!」
外の人間がなおも何か言おうとした。
その時、住民が吐き捨てるように言った。
「自分たちで何とかしてくれ!」
監視室で、朝霧の表情が止まった。
モニターには、扉の外に立つ十人ほどの人間と、住民専用グループが並んで映っている。
朝霧はしばらくその両方を見たあと、静かに口を開いた。
「今朝」
「……」
「この人たち、政府の発表に怒ってたわよね」
「ああ」
「見捨てるのかって」
「言ってたな」
それきり、二人とも何も言わなかった。
外では、再び扉を叩く音が続いていた。
「お願いします!」
「本当に行くところがないんです!」
「ここから離れたら死んじゃいます!」
それでも扉は開かない。
誰も下りていかない。
住民専用グループにも、彼らを中へ入れようという書き込みは一つも現れなかった。
しばらくすると、外から聞こえていた声が止んだ。
『静かになった』
『諦めた?』
『なんかするんじゃないだろうな』
住民たちがそう書き込む中、蓮と朝霧は監視カメラの映像を見ていた。
外の人間たちはまだ帰っていない。
先頭にいた男が扉から離れ、仲間たちのところへ戻り、何かを話している。
風の音に遮られ、監視カメラのマイクでは内容までは聞き取れない。
やがて男はもう一度エントランスの前へ戻ってきた。
今度は扉を叩かなかった。
「くそっ! 覚えてろよ! お前らだって、いつかはこうなるからな!」
男は最後まで罵声を浴びせながら、仲間たちとともに雪の向こうへ消えていった。
しばらくして、窓際で様子を見ていた住民の一人が声を上げた。
「……帰った!」
その言葉に、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
「なんだったんだ、あいつら」
「最後、なんか叫んでなかったか?」
「知らねえよ。帰ったならもういいだろ」
安堵した声があちこちから上がり、住民たちはそれぞれの部屋へ戻ろうとする。
その時、一人の女性がぽつりと呟いた。
「ねぇ……あの人たち、ここに食料があると思って来たんだよね?」
何人かが足を止めた。
「だったら……ここに食料があると思って来る人、またいるんじゃない……?」
誰も答えなかった。
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Day 61
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 88人
【今日のメモ】
「捨てられた者が、誰かを見捨てないとは限らない。」
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