第95話 Day 61 残すもの
朝。
マンションの一室で、一人の住民が何となくテレビをつけた。
寒波が始まったばかりの頃には、まだいくつもの放送局がニュースを流していた。各地から中継が入り、専門家が今後の気象について解説し、政府の会見も一日に何度となく放送されていたが、そんな状況も長くは続かなかった。
寒波が長期化するにつれて民間の放送局は一つ、また一つと放送を停止し、現在テレビから流れてくるのは、政府からの情報を伝えるために維持されている災害統合放送だけになっている。
それすら一日中放送されているわけではなく、決められた時間になると各地の気温や停電状況、寸断された道路、避難時の注意事項などが流れ、あとは何度も見たような内容が繰り返されるだけだった。
ここ最近は新しい情報らしい情報もほとんどなく、寒波が始まった頃のように放送時間を待ってテレビの前に座る住民も少なくなっていた。この住民も別に何かを期待していたわけではなく、今日も何か変わったことはないかと、それくらいの軽い気持ちでテレビをつけただけだった。
だが、画面から聞こえてきた言葉に、手にしていたスマートフォンから顔を上げた。
『政府は本日、長期化する異常寒波への対応について、新たな方針を正式に発表しました』
画面の下には、これまで一度も見たことのない文字が大きく表示されていた。
《国家生存維持計画 本日より移行》
「……なんだ、これ」
住民はすぐにスマートフォンを操作し、マンション全体のグループを開いた。
『おい! 今ニュースやってるぞ!』
『政府が新しい政策を発表してる』
『国家生存維持計画? これ見た方がいい!』
数秒もしないうちに既読の数字が増え始め、『私も見てる』『今つけた』『何これ?』『新しい避難計画?』と次々に返信が流れてくる。それまで静かだったマンションのあちこちでテレビがつけられ、住民たちは唯一残された放送から流れてくるニュースへ意識を向け始めた。
画面の中では、ニュースキャスターが手元の原稿へ一度視線を落としていた。
『政府は本日、長期化する異常寒波への対応について、これまでの全国救援体制を見直し、新たに《国家生存維持計画》へ移行すると正式に発表しました』
画面が切り替わり、寒波発生直後から行われてきた救援活動の映像が流れ始める。雪に埋もれた道路を進む自衛隊車両、避難所へ次々と運び込まれる段ボール箱、給水を待つ長い列、毛布に包まれながら輸送車両へ乗り込む老人や子供たち――わずか二ヶ月足らず前の映像であるはずなのに、今となってはどれも遠い昔の光景のように見えた。
『異常寒波の発生以降、政府は全国の自治体、自衛隊および関係機関と連携し、各地域からの住民救助、避難施設への移送、食料、飲料水、燃料、医薬品などの緊急生活物資支援を継続してきました』
『しかし、異常寒波の長期化に伴い、道路網の寸断、輸送能力の低下、燃料不足、各地の避難施設における維持能力の低下が深刻化しています。特にここ数週間は輸送経路を確保できない地域が急速に増加しており、多くの地域において従来の支援体制を維持することが困難な状態となっていました』
映像には雪に埋もれた高速道路や、途中で放棄された大型トラック、建物の一階部分まで雪に覆われた各都市が映し出されている。
そのニュースを見ていた住民の一人が、グループへ書き込んだ。
『……だから最近、救援物資が全然届かなかったんだ』
『やっぱり道路のせいだったのか』
『でも今まで一応送ろうとはしてたってこと?』
『そういうことだろ』
これまで、このマンションにも外から物資が届いていた。決して十分な量ではなかったものの、食料や飲料水、簡単な医薬品などが運ばれてきたことは何度かあり、住民たちもそれを頼りにしていた。
しかし、その回数はいつしか減っていき、数日待っても来ない。一週間待っても来ない。それでも道路さえ復旧すれば、吹雪さえ弱まれば、また物資は届くのだと誰もがどこかで思っていた。
だが、ニュースから聞こえてきた次の説明は、その期待がすでに現実から大きく離れていたことを示した。
『政府は、現在の輸送能力および備蓄状況では、従来の全国的な救援体制を継続した場合、長期的な国民の生命維持そのものが困難になる可能性があるとしています。このため本日より、人的、物的資源を長期的に維持するため、全国各地に設けられた指定広域保護地区への救援資源の集約を開始します』
画面いっぱいに日本地図が映し出され、その各地にいくつもの印が表示されると、地図の横に大きな数字が現れた。
《指定広域保護地区 全国41地区》
『現在、政府が長期的な維持が可能と判断している指定広域保護地区は、全国四十一地区です』
グループへの書き込みが一度止まった。
四十一という数だけでは、それが多いのか少ないのか、住民たちにもすぐには判断できなかったのだろう。しかし、その直後に画面へ表示された数字の意味は、誰にでも理解できた。
《政府直接保護人口 約840万人》
『現在、これら四十一の指定広域保護地区では、合わせておよそ八百四十万人が政府の直接的な保護下にあります』
『……八百四十万人?』
『え? それだけ?』
『日本って一億人以上いるよな?』
驚きが広がりかけたところで、すぐに別の住民から書き込みが入った。
『待て、それは生き残ってる人数じゃない』
『保護地区にいる人数ってことだろ』
『じゃあ他の人は?』
その疑問に答えられる住民はいなかったが、まるで同じ疑問が全国で出ることを想定していたかのように、キャスターは淡々と説明を続けた。
『なお、指定広域保護地区外にも多数の生存者がいるとみられていますが、自治体機能の停止、長期間にわたり連絡の取れない地域も多く、政府は現在、国内の正確な生存者数を把握できていません』
その言葉が流れた直後、グループが静かになった。
政府が日本全体で何人生きているのか把握できていないのなら、自分たちはどうなのか。このマンションにまだ八十人以上の人間が生きていることを政府は知っているのか、それとも自分たちもまた、画面の向こうから見れば生きているのか死んでいるのかさえ分からない数字の外側にいるのか、それすら誰にも分からなかった。
やがて画面の表示が再び変わった。
《指定広域保護地区 最大受入予定人数 約1000万人》
『政府は、各地区における食料および燃料の備蓄量、発電能力、給水能力、医療体制、居住設備などを総合的に検討した結果、全国の指定広域保護地区で継続的に保護できる人数について、最大およそ一千万人を想定しています』
『各指定広域保護地区には最大収容人数が設定され、上限に達した地区については、新たな避難者の受け入れを停止する方針です』
今度は、その意味に気づいた住民からすぐに反応があった。
『待って』
『今840万人いるって言ったよな?』
『最大1000万なら……』
少し間が空いたあと、一つの書き込みが流れた。
『あと160万人しか入れないってこと?』
誰も否定しなかった。
八百四十万人と一千万人。その差が百六十万人であることなど、小学生でも計算できる。政府が今後、新たに受け入れられる人間は全国を合わせても最大でその程度しかおらず、それに対して保護地区の外にどれだけの人間が残されているのかは、政府自身にも分からない。
『全然足りないじゃん……』
その一言に、誰も返信しなかった。
テレビではそのまま、指定広域保護地区への避難についての説明が始まっていた。
『政府は、指定広域保護地区への避難を希望する国民に対し、各地区の受け入れ状況および道路状況を事前に確認し、生命に危険を及ぼす可能性のある無理な移動を避けるよう呼びかけています』
その直後、グループに『最寄りの保護地区どこ?』という書き込みが流れ、誰かが調べ始めたらしく、しばらく返信が途絶えた。
『……遠い』
『どれくらい?』
『今の道路じゃ車で行けるかも分からない』
『歩いて行くのは?』
『外何度だと思ってんだよ』
『でも車なら――』
『燃料どうすんだよ』
そこで再び会話が途切れた。
行けないと決まったわけではない。食料と防寒具を用意し、燃料の残っている車を確保し、雪に埋もれた道路を進むことができれば、辿り着ける可能性はある。
しかし、まともに通れる道がどれだけ残っているのかも分からず、途中で車が動かなくなれば、その時点で外気に晒される。何日かかるのかも分からない道のりを越え、ようやく辿り着いたとしても、その時まで受け入れ枠が残っている保証すらない。
今いるマンションを捨ててまで賭けるには、あまりにも危険が大きかった。
そんな住民たちの迷いとは関係なく、ニュースは政府の新しい方針を淡々と伝えていく。
『今回の移行に伴い、今後の救助活動については、指定広域保護地区への集約を基本とした体制へ順次移行します。これにより、指定広域保護地区外における個別の救助活動については大幅に縮小されます』
続いて表示された文字を見て、グループの書き込みが止まった。
《指定地区外への定期物資輸送 原則終了》
『また、食料、飲料水、燃料、医薬品などについては、指定広域保護地区への供給を最優先とし、指定地区外への定期的な物資輸送について、本日をもって原則終了します』
しばらく何も流れなかった。
やがて一人が『え?』と書き込み、それをきっかけに『終了?』『じゃあ、もうここには来ないってこと?』と短い言葉が続いていく。
そして少し前に書き込んでいた住民が、もう一度同じことを書いた。
『……だからか』
『だから最近は、もう救援物資が届かなかったんだ……』
今度は、誰も道路のせいだとは言わなかった。
もちろん道路のせいでもあり、吹雪のせいでもあり、燃料や輸送手段が足りないせいでもある。しかし、それよりも大きな問題として、国そのものが、すでにすべての国民へ物資を届け続けることのできる段階を過ぎてしまっていた。
『俺たち、この41地区に入ってないよな?』
『入ってない』
『じゃあ……』
そこから数秒、書き込みが途絶えた。
『見捨てられたってこと?』
すぐに別の住民が反応した。
『違うだろ。もう全部の地域を助けられないってことだろ』
『それを見捨てたって言うんじゃないの?』
『じゃあどうしろってんだよ。日本中こんな状態なんだぞ』
『知らないよ! じゃあ俺たちはどうすればいいんだよ!』
『保護地区に行くしかないんじゃないか?』
『だからどうやって行くんだよ!』
それきり、返事はなかった。
政府を責めたところで食料は増えず、政府を擁護したところで救助が来るわけでもない。誰が悪いのかを決めたところで、自分たちがこのマンションに取り残されているという現実だけは何も変わらなかった。
テレビの中では、キャスターが変わらない口調で次の項目を読み上げている。
『一方、政府は電力および通信について、国民の生命維持と情報伝達に不可欠な社会基盤であるとして、指定広域保護地区外についても、可能な限り最低限の供給を維持する方針です』
『電気と通信は残すって』
『じゃあ完全に見捨てたわけじゃないんじゃない?』
『食い物が来ないのに電気だけあってどうすんだよ……』
『でも電気まで止まったら本当に終わりだろ』
住民たちの意見が割れ始めたところで、キャスターが読み上げた政府の説明に、今度は別の意味で反応が止まった。
『なお政府は、《国家生存維持計画》について、現在の極めて厳しい気象および輸送環境に対応するための、緊急的かつ一時的な措置であると説明しています』
『……一時的?』
『今後、気象条件の改善および広域輸送網の復旧状況を踏まえ、指定広域保護地区外への物資支援についても、段階的な再開を検討するとしています』
それまでとは違う沈黙が、グループに流れた。
絶望的な数字を次々と見せられていた住民たちにとって、「一時的」という言葉は、政府が意図した以上に大きな意味を持った。
『じゃあ……ずっとじゃないのか』
『寒波が弱くなれば、また救援物資来るってこと?』
『再開を検討するって言ってる』
『なら今無理して保護地区まで行かなくてもいいんじゃない?』
その書き込みをきっかけに、『そうだよ。途中で死んだら意味ないし』『ここにはまだ食料あるんだろ?』『今は耐えるしかないんじゃないか』『寒波が落ち着くまでだろ』と、先ほどまでとは違う言葉が少しずつ増えていった。
誰も、政府が「必ず再開する」とは言っていないことを指摘しなかった。
一時的。
気象条件が改善すれば。
段階的な再開を検討する。
政府が約束したのはそれだけだったが、六十日もの間、寒さと空腹に耐えてきた住民たちには十分だった。あと少し、もう少しだけ耐えればいい――そう思える理由が、今の彼らには何より必要だった。
テレビでは最後に、政府から国民への呼びかけが流れていた。
『政府は国民の皆様に対し、不確かな情報による混乱を避け、政府および自治体から発信される情報を確認し、冷静に行動するよう呼びかけています。また、物資の強奪や略奪、指定広域保護地区への強行進入など、救援活動および治安維持を妨げる行為を厳に慎むよう求めています』
その言葉を聞いていた住民は、少なくなかった。
だが――、このマンションで起きたことについて、グループに書き込む者はいなかった。
◇
ニュースが終わってしばらくすると、いつもの場所で朝の配給が始まった。
袋や容器を手にした住民たちは静かに列を作り、自分の順番が来るのを待っている。昨日まで配給を取り仕切っていた三浦の姿はなく、マンション代表も現れない。代わりに柴田たちが物資を並べ、そのすぐそばには一ノ瀬が立っていた。
そして今日は、もう一つ、昨日までにはなかったものが用意されていた。
配給場所のすぐ横に簡単な机と椅子が置かれ、田村がそこで住民を診ていた。
「次の人」
田村の前に座った女性が咳をすると、田村は胸の音を確認しながらいくつか質問をしていく。本格的な設備などなく、できることにも限界はあるが、それでも医者がいるという事実だけで安心する住民は少なくなかった。
朝霧がいなくなった今、このマンションで住民が頼ることのできる医者は、田村しかいない。
配給の列は大きな混乱もなく、少しずつ前へ進んでいった。
やがて自分の番になった男が、渡されたものを袋へ入れようとして手を止めた。袋の中を確認し、配給台に残っている物資へ目を向けてから、少し迷った様子で一ノ瀬を見る。
「……あの」
「何?」
「今日……少なくないですか?」
その声に怒気はなく、責めるような響きすらなかった。ただ、昨日までより明らかに少なくなっていることに気づき、その理由を確認しただけだった。
後ろに並んでいた何人かも同じことを感じていたらしく、何も言わないまま一ノ瀬へ視線を向ける。
「ええ。今日から少し減らしてるの」
一ノ瀬は隠そうともせずに答えると、すぐ横へ視線を向けた。
そこでは田村が、別の住民の喉を確認している。
「昨日、みんな医者が必要だって言ってたでしょう? だから今日から、田村先生にはここでみんなを診てもらうことにしたの。減った分の一部は、医療などを維持するために必要なものだと思ってもらえればいいわ」
「……医療のため?」
「そう。それに、今日のニュースも見たでしょう?」
男は何も言わなかったが、後ろにいた者の一人が小さく頷いた。
「政府からの物資支援も、これからは期待できない。だったら今ここにあるものを、できるだけ長く持たせなきゃいけないでしょう? 今までと同じように配り続けて、全部なくなってからじゃ遅いのよ」
一ノ瀬の言っていることに、すぐ反論できる者はいなかった。
外から新しい食料が来なくなる。それを今朝、政府自身が正式に発表したばかりなのだ。これまでと同じ量を食べ続ければ、備蓄がそれだけ早くなくなることくらい、詳しい計算ができなくても誰にでも分かる。
一ノ瀬は住民たちの反応を確認すると、少しだけ声を柔らかくした。
「政府だって、一時的な措置だって言ってたでしょ? 寒波が落ち着いて、また支援が再開されるまでよ。それまで少しずつ我慢しましょう。ね?」
「……はい」
男はもう一度、自分が受け取った食料を見る。
以前より少ないことは間違いなく、これだけでは満足に腹が満たされないことも食べる前から分かっていた。それでも、政府からの支援が戻るまでの一時的なものだと思えば、今ここで争うほどのことではないようにも思えた。
「……分かりました」
男はそれ以上何も言わず、袋を持って列を離れた。
次の住民も、渡された量を見た瞬間だけ僅かに手を止めたが、何も言わずに受け取った。さらにその後ろからも、「今は仕方ないよ」「なくなるよりはマシだ」「……支援が戻るまでだろ」と、自分たちを納得させるような声が小さく聞こえてくる。
六十日も続いた寒さと空腹の中で、住民たちにはもう、何かあるたびに声を荒らげ、誰かと争い続けるだけの力さえ残っていなかった。
食料はまだもらえる。
田村も診察してくれる。
政府も、今回の措置は一時的なものだと言っている。
それなら今は耐えるしかない――そう自分に言い聞かせながら、住民たちは少なくなった食料を受け取り、それぞれの部屋へ戻っていった。
誰もそれ以上、文句を言わなかった。
ただ、口に出さなかっただけで、先の見えない生活への不安も、少なくなっていく食料への不満も、確実に昨日より大きくなっていた。
◇
朝霧詩織が目を覚ました時、最初に感じたのは、いつもの寒さではなかった。
柔らかな布団に包まれた身体は暖かく、目を開ければ見慣れない天井がある。何度か瞬きをしているうちに、ようやくここが昨夜から自分の暮らすことになった2501の一室なのだと思い出した。
寒波が始まってからというもの、朝はいつも寒さと一緒にやってきた。眠っている途中で何度も冷えに起こされ、朝になれば布団から身体を出すことさえ億劫で、指先や顔に触れる冷気によって嫌でも目を覚まされる。それが昨夜は、いつ眠りに落ちたのかさえ覚えていないほど深く眠り、そのまま一度も寒さに起こされることなく朝を迎えていた。
「……こんなに寝たの、いつ以来だろ」
身体を起こしてみると、頭は驚くほどすっきりしており、昨日まで身体の奥に溜まり続けていた重さも少し抜けている。よく眠れたという当たり前のことだけで、自分がこの二か月間どれほど疲れていたのかを、今さら思い知らされたような気がした。
朝霧は布団から足を出して床へ下ろしたが、そこでもまた違和感を覚えた。
冷たくない。
以前なら当たり前だったはずのことなのに、六十一日目の朝には、それだけのことが異常に感じられた。
そして、自分の身体へ視線を落としたところで、昨夜蓮から渡された清潔なパジャマを着ていることにも改めて気づく。
もちろん、自分で着替えたのだから覚えている。
それでも、外では食料や薬を巡って人が争い、昨日は自分自身の部屋まで壊され、僅かに残していたものまで奪われたというのに、自分は今、暖かい部屋の柔らかなベッドから清潔なパジャマ姿で起きている。
その落差を朝になって改めて突きつけられると、この2501という場所が同じマンションの中に存在していること自体、どこか現実離れしているように思えた。
「……ここ、本当にありえないわね」
誰に言うでもなく呟き、部屋を出る。
顔を洗おうと洗面所へ向かって蛇口をひねれば、当然のように水が流れ出し、少し待つだけで温かくなった。昨日も使ったのだから分かっているはずなのに、朝霧はしばらく流れる水を眺めてしまった。
六十一日目の朝に、蛇口をひねれば温かい水が出る。
それだけのことが、まだ自分の中では当たり前になっていない。
顔を洗ってタオルで水気を拭き取り、リビングへ向かうと、すでに蓮は起きていた。
ソファに腰掛け、片手にコーヒーを持ちながらテレビを見ている。六十一日目の朝とは思えないその姿に、朝霧は一瞬だけ何とも言えない顔をしたものの、そのまま声をかけた。
「……おはよう」
「ああ」
「早いのね」
「習慣だ」
「そう……」
朝霧はそう返しながら蓮の視線の先へ目を向け、テレビに映っている文字を見たところで表情を変えた。
《国家生存維持計画》
「何これ?」
「今朝発表された」
朝霧もソファの近くへ移動し、そのままニュースを見る。
ちょうど画面には全国四十一の指定広域保護地区についての説明が映し出され、現在の保護人口約八百四十万人、最大受入予定人数約一千万人という数字が表示されていた。
朝霧はしばらく無言でその数字を見ていたが、やがて意味を理解したのか、眉を寄せる。
「……待って」
「何だ」
「最大一千万人って……じゃあ、それ以外の人はどうなるのよ」
「まあ、そうなるだろうな」
あまりにも淡々とした返事に、朝霧は思わず蓮を見る。
「そうなるって……日本には一億人以上いるのよ?」
「考えてみろ。国なら全員を助けようとして全員死なせるのと、確実に生かせる人間を残すのと、どっちを選ぶ?」
「それは……」
「国だって存続させなきゃならない。人間だけ集めれば終わりじゃない。食料、水、電気、燃料、医療、治安、それを何か月維持するつもりだ?」
朝霧は答えられなかった。
蓮はテレビに映る日本地図へ視線を向けたまま、さらに続ける。
「過去の大震災を思い出してみろ。あれだけの災害でも、国が直接面倒を見られたのは被災者の一部だけだ。大半は自宅に残るか、親戚を頼るか、地域で助け合うか、自分たちで何とかするしかなかった」
「…………」
「それでも成り立ったのは、被災してない地域が残ってたからだ。外から食料も燃料も人も送れた。今は違う。日本全国が被災地だ」
蓮はテレビに映る日本地図へ目を向けた。
「一億人以上を国が直接収容して、食わせて、暖めて、治療して、それを何か月も続ける。そんな仕組み、最初からあるわけないだろ」
「でも……」
「だから八百四十万人でも、むしろよく維持してる方だ。全員を助けようとして全部潰すより、維持できる範囲を残す。国だって存続させなきゃならない」
「理屈ならわかるけど……」
朝霧は再びテレビを見る。
指定保護地区外への物資輸送は原則終了し、個別の救助活動も大幅に縮小される。その一方で、電力と通信については可能な限り最低限の供給を維持し、今回の措置については緊急的かつ一時的なものだと政府は説明している。
「でも……一時的って言ってるし……」
蓮は何も答えなかった。
否定もしなければ、肯定もしない。ただ手にしていたコーヒーを一口飲み、テレビから流れる政府発表をそのまま聞いている。
朝霧も少しだけ蓮の横顔を見たが、それ以上は何も聞かなかった。
やがてニュースが一段落すると、蓮がソファから立ち上がった。
「食うか」
「え?」
「朝飯」
「あ……うん」
蓮がテーブルの方へ歩き、片手を伸ばした。
次の瞬間、何もなかったテーブルの上に料理が並ぶ。
朝霧は思わず黙り込んだ。
焼きたての香りを残したクロワッサンに、ふわりとしたスクランブルエッグ、綺麗な焼き色のついたソーセージ、サラダ、温かなスープ、瑞々しい果物。それにコーヒーまで用意され、どう見ても世界が崩壊して六十一日目の朝に出てくるような食事ではない。
「…………」
「どうした」
「これ、何?」
「朝飯だ」
「それは見れば分かるわよ」
朝霧は椅子へ座りながら、改めて料理を眺めた。
「……ホテル?」
「そうだな」
「高級ホテルよね?」
「多分な」
「多分って……」
昨夜、《収納》についての説明は受けた。
中に入れたものは、入れた時の状態を保つ。
理屈としては理解したつもりだったが、六十一日目の朝に焼きたてのクロワッサンや温かなスープが当たり前のように目の前へ出てくる光景を、理屈だけで簡単に受け入れられるはずもなかった。
朝霧はクロワッサンを手に取って一口食べた。薄い生地が小さく音を立てて崩れ、バターの香りが口の中に広がったところで、そのまま動きを止める。
「……おいしい」
昨日とは違う。
昨日は空腹だった。
あれほど腹が減っていれば、何を食べてもおいしいと感じただろう。
だが、これは本当においしい。
スープは温かく、卵も作りたてのような状態を保ち、果物まで瑞々しい。朝霧は最初こそ信じられないものを見るように料理を眺めていたものの、いつしかそんなことも忘れ、黙々と食べ続けていた。
「……私、ここにいたら駄目になりそう」
「何がだ」
「色々よ」
「意味が分からん」
「分からなくていいわ」
食事を終える頃には、朝霧の皿には何も残っていなかった。
しばらくして蓮が立ち上がり、監視室へ向かう。
朝霧も少し迷ったあと、その後についていった。
監視室ではマンション各所に設置されたカメラの映像がいくつものモニターに映し出されており、エントランスや廊下、階段などに混じって、ちょうど朝の配給場所も映っていた。
その映像を見た朝霧が足を止める。
配給を待つ住民たちのすぐ横で、椅子に座った一人の住民を田村が診察していた。
「……よかった」
蓮は椅子へ座りながら朝霧を見る。
「何がだ」
「田村先生。ちゃんと、みんなを診てるみたいね」
朝霧はモニターを見たまま、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「昨日、私がいなくなったから……少し気になってたの」
昨日、朝霧は自分で選んだ。
もう住民たちの医者ではなく、蓮の専属医としてここで暮らすことを選び、自分自身も救う側の人間に含めると決めた。その選択を後悔しているわけではないが、だからといって、昨日まで自分が診ていた人間たちのことを一晩で何とも思わなくなれるわけでもない。
蓮はそんな朝霧に何かを言うこともなく、モニターへ視線を戻した。
配給場所では一ノ瀬が住民たちへ食料を渡し、そのすぐ横では田村が別の住民を診察している。しばらくその様子を眺めていた蓮が、やがて小さく口を開いた。
「あの女のやりそうなことだ」
「え?」
「田村をそこに置いたのは」
朝霧はモニターの中にいる一ノ瀬を見る。
「一ノ瀬さんが?」
「ああ」
「どうして分かるの?」
「分かりやすいだろ。配給のすぐ横で医者に診察させる。食料を減らされても、その理由を目の前に置いておけば文句は出にくい」
朝霧はもう一度モニターへ目を向けた。
ちょうど一人の住民が、いつもより少なくなった食料について一ノ瀬に何かを尋ねている。一ノ瀬が田村の方へ視線を向けると、住民もつられるようにそちらを見て、少し話したあと、それ以上何も言わずに食料を持って離れていった。
「……わざとだっていうの?」
「ああ、そうだろうな」
蓮はテーブルに置いていたコーヒーを手に取った。
「相変わらず、ずる賢さだけは大したもんだ」
「でも、それなら上手くやってるってことでしょう?」
「人を丸め込むやり方は知ってる」
「だったら――」
「だが、肝心なものが分かってない」
朝霧は蓮を見る。
「肝心なもの?」
「ああ」
「何?」
蓮はすぐには答えず、住民たちが次々と食料を受け取っていく映像を眺めていた。
「三浦とは天地の差だな」
「だから、何が違うのよ」
「そんなに時間はかからないだろ」
「…………」
「そのうち分かる」
それ以上、蓮は説明しなかった。
モニターの中では、今日の配給が何事もなく続いていた。住民たちは列に並び、順番が来れば食料を受け取り、その横では田村が診察を続けている。誰も暴れず、大声で文句を言う者もいない。一ノ瀬もまた、問題なく進んでいく配給を見ながら、自分のやり方が住民たちに受け入れられたことを確認しているようだった。
一見すれば、何も問題はない。
むしろ昨日より秩序立っているようにさえ見える。
ただ一つ――住民たちへ渡されていく食料だけが、昨日までより明らかに少なかった。
蓮はその量をしばらく眺めると、何も言わず、手にしていたコーヒーをもう一口飲んだ。
────────────────
Day 61
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 88人
【今日のメモ】
「希望は、時に現実よりも人を狂わせる。」
────────────────
今日一日、長い話が続いてしまい申し訳ありません・・・!
前話に続き、本話も予定していた2話分を1話にまとめました。
一度は2話に分けていたのですが、自分で読み直してみると、どうしても途中で切るのが中途半端に感じ、納得できず・・・
ここは今後へ繋がる重要な導入でもあるため、今回は最後まで1話でお届けすることにしました。
今日の2話を合わせるとかなり文字数があります。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
今日は皆様も朝霧先生と同じように、何も考えず早めにお休みください。
一日お疲れ様でございました……!




