第94話 Day 60 亀裂
貯蓄庫へ移動してからも、柴田の苛立ちは収まらなかった。
三浦に何度電話をかけても繋がらない。メッセージを送っても既読すらつかず、大野は上の部屋で横になったまま、田村に診せても状態が良くなる気配はなかった。
今日の朝までは、こんなことになるとは思っていなかった。
三浦がいて、大野がいて、松本たち三人もいる。田村も自分からこちらへ寄ってきたことで、医者まで手元に置くことができていた。貯蓄庫にはマンションから集めた大量の物資があり、その出入り口には食料を対価に協力を申し出た住民三人を見張りとして立たせている。
少なくとも柴田にとっては、自分たちがこのマンションで最も強い立場にいることに疑いなどなかった。
それが、たった一日で大野はまともに動けなくなり、三浦は姿を消した。
「クソッ……」
柴田が吐き捨てるように呟く。
「三浦の野郎、まだ出ねえのか?」
「出ない」
一ノ瀬はスマートフォンから顔を上げることなく答えた。
「何回かけても同じ。無視してるんじゃない?」
「……あの野郎」
柴田が低く唸る。
三浦が朝霧を追って上階へ向かったことは分かっている。その途中で住民が聞いたという言葉を考えれば、朝霧を連れて神崎の側へ寝返ったと考えるのが自然だった。
少なくとも柴田たちは、そう結論づけていた。
「剛さん、どうします?」
松本が尋ねると、柴田は苛立ったまま顔を上げた。
「何がだよ」
「三浦ですよ。このまま放っとくんですか?」
「んなわけねえだろ。見つけたらぶっ殺す」
「いや、そうじゃなくて……今から探しに行くのかってことです」
「…………」
柴田は答えなかった。
神崎のいる2501まで行けば、三浦がいるかどうかは分かるかもしれない。
だが、あの部屋には異常な扉がある。
屋上を襲った時も、結局神崎には何もできなかった。何を持っているのかも、どうやってあれだけの準備をしたのかも分からない。
まして三浦まで向こう側にいるのなら、何も考えずに乗り込むわけにはいかなかった。
「……今はいい」
しばらくして柴田が言った。
「どうせあいつらは出てこねえ。先にこっちを固める」
松本たちも、それ以上は何も言わなかった。
誰も自分から2501へ行こうとはしなかった。
◇
同じ頃。
住民たちが使っているグループチャットに、一件のメッセージが投稿された。
『朝霧先生の部屋、誰か入ったんですか?』
最初は、それだけだった。
少しして別の住民が反応する。
『どういうことですか?』
『さっき前を通ったんですが、ドアが壊れてます。中もかなり荒らされてます』
『え?』
『朝霧先生は?』
『いません』
そこから、少しずつ書き込みが増え始めた。
『今日、何人か朝霧先生の部屋の前で揉めてましたよね?』
『私も見ました』
『何してたんですか?』
『まさか中に入ったんですか?』
誰も答えない。
しかし、今日の昼間に廊下で何が起きていたのかを見ていた人間は一人ではなかった。
やがて、一人の住民が具体的な名前を書き込んだ。
『河野さん、今日参加してましたよね?』
その一言を境に、止まっていた流れが一気に動き出した。
『私も見ました。河野さんいました』
『何考えてるんですか!』
『朝霧先生の部屋に何しに行ったんですか?』
『説明してください』
しばらく返事はなかった。
だが、名前まで出されたことで黙っていられなくなったのか、やがて河野本人からメッセージが返ってきた。
『いや、違います。俺は最初やめた方がいいって言ったんです』
『何が違うんですか?』
『寺田さんが朝霧先生は食料を隠し持ってるかもしれないから、一緒に確認しに行こうって言ったんです。俺が言い出したわけじゃありません』
その瞬間、別の名前から返信が飛んできた。
『ちょっと待ってください。何、人のせいにしてるんですか!』
以前、夫を朝霧に診てもらっていた寺田本人だった。
『あなたも一緒に入ったでしょう!』
『だから俺は最初やめようって言っただろ!』
『でも食べ物はあなたも持っていったじゃない!』
その言葉に、それまで事情を知らなかった住民たちが一斉に反応した。
『食べ物?』
『朝霧先生の食料取ったのか?』
『ちょっと待って。部屋荒らしただけじゃないの?』
『食料まで奪ったってことですか?』
河野はすぐに返した。
『俺だけじゃありません!』
そして、自分だけが責められることに耐えられなくなったのか、今度は別の名前を出した。
『それなら高瀬さんが一番最初に薬を取っただろ!』
『は!?』
高瀬が反応する。
『薬を探そうって言ったのは寺田さんでしょう!』
『私は探そうって言っただけです! 持って帰ったのはみんなでしょう!』
『お前だって持ってっただろ!』
『河野さんだって食料持って帰ったじゃない!』
『俺だけじゃねえだろ!』
誰か一人が責任を逃れようとするたび、別の誰かの名前が出た。
誰が朝霧の部屋へ行こうと言い出したのか。
誰が扉を壊すことに加わったのか。
誰が最初に部屋を探し始めたのか。
誰が薬を見つけたのか。
誰が残っていた食料を持って帰ったのか。
最初は誰も正確に知らなかったはずの出来事が、当事者たち自身の責任転嫁によって次々と明らかになっていく。
そして、それを黙って見ていた住民たちの怒りが、ついに爆発した。
『ふざけるな!』
『お前ら何考えてるんだよ!』
『朝霧先生がどれだけ大変だったか知ってるだろ!』
『田村が柴田たちのところに行ってから、朝霧先生がずっと一人で診てたんだぞ!』
『うちの子が熱出した時だって夜に来てくれました』
『うちもです!』
『それなのに、その朝霧先生から薬奪ったのかよ!』
『マジでもう人として終わってんな!』
怒りは止まらなかった。
この六十日間、グループチャットでは何度も言い争いが起きている。配給が少ない、誰かが食料を隠している、あの部屋だけ優遇されている、誰かが嘘をついている
――疑いも不満も、すでに珍しいものではなくなっていた。
だが、今日のそれは今までとは明らかに違った。
『薬まで奪ったらマンション中の病人どうするんだよ!』
『自分たちだけ助かればいいのか!?』
『代表や高橋を襲った連中よりタチ悪いだろ!』
『今すぐ薬返してこい!』
『朝霧先生に謝れ!』
そして、その中に一つ。
『もう死ね!』
短い言葉が流れた。
以前なら、誰かが止めたかもしれない。
いくら腹が立っていても、そんなことを言うものではない。同じマンションに住んでいる人間なのだから、そこまで言う必要はない。
そんな言葉が、一つくらい返ってきたかもしれない。
だが、今日は誰も止めなかった。
『ほんとそれ』
『お前らみたいなのが一番迷惑なんだよ』
『自分らが何したか分かってんのかよ!』
六十日前なら、画面に打ち込むことさえ躊躇したはずの言葉が、今では何の抵抗もなく同じマンションの住民へ向けられている。
そして、それを異常だと指摘する者もいなかった。
極寒の世界で二か月を過ごし、食料を失い、家族を失い、隣人を疑い、誰かが誰かを襲う光景を何度も目にしてきた。
人々の中に残っていた何かが、また一つ削れていた。
その怒りの中心にいたのが、朝霧だった。
寒波が始まったばかりの頃、朝霧に対する住民たちの信頼は決して高くなかった。
若い、頼りない、田村先生の方が経験がある、田村の後ろについているだけ。
そんなことを口にする住民もいた。
しかし、その田村が自分の医療知識を武器に柴田たちへ近づいてから、朝霧は一人で住民たちを診続けてきた。
熱を出した子供がいれば部屋へ向かい、動けなくなった老人がいれば様子を見に行き、腹痛や嘔吐を訴える者がいれば限られた薬の中から使えるものを探した。薬も設備も足りず、医者であっても何もできないことは増えていったが、それでも呼ばれれば朝霧は向かった。
自分自身も十分な食事を取れていなかった。
眠る時間さえ削られていた。
それでも診続けた。
誰もそれを数えてはいなかったが、その積み重ねは確実に残っていた。
最初は頼りないと言われていた朝霧詩織は、いつの間にかこのマンションで最も多くの住民から信頼される人間の一人になっていた。
そして、そのことが初めてはっきりと表に現れたのは――
彼女がいなくなったあとだった。
『……それで、朝霧先生はどこにいるんですか?』
一つの書き込みによって、罵声の流れが少し変わった。
『そうですよ。部屋にいないんですよね?』
『誰か朝霧先生と連絡つく人いませんか?』
『朝霧先生、これ見てますか?』
少し間が空く。
『今日のこと、本当にすみませんでした』
『やったのは一部の人ですけど、私からも謝ります』
『申し訳ありませんでした』
『先生、出てきてください』
『まだ診てもらいたい人がいるんです』
次々とメッセージが送られていく。
既読の数字だけが増えていったが、朝霧からの返事はなかった。
一分、二分、五分。
誰もが同じ画面を見ながら待っていたが、朝霧の名前が表示されることはない。
その時、一人の住民が思い出したように書き込んだ。
『そういえば、今日朝霧先生が上の階に向かって走っていくのを見ました』
『上?』
『何階ですか?』
『そこまでは分かりません。でもかなり急いでました』
続けて、
『そのあと三浦が追いかけていったと思います』
『三浦?』
『柴田と一緒にいる人ですよね?』
『なんで三浦が?』
今度は別の住民が反応した。
『姿は見てないですけど、私も声なら聞きました』
『何て言ってました?』
『全部は聞こえませんでした。ただ、三浦さんがかなり大きな声で「もうあんな連中のところにいる必要はない」って』
少しして、もう一通。
『あと、食べ物も飲み物もやるとか、もう安全だからとか言ってたと思います』
グループが静かになった。
数十秒後。
『……それ、朝霧先生を柴田さんたちのところに誘ってたってこと?』
『俺もそう聞こえる』
『じゃあ朝霧先生、今は柴田たちのところにいるってこと?』
『おいおい……』
『田村先生も朝霧先生も、結局二人とも柴田組に行ったっていうのかよ』
その瞬間、怒りの矛先が再び朝霧の部屋を襲った住民たちへ戻った。
『お前らのせいじゃねえか!』
『何してくれてんだよ!』
『朝霧先生まで向こうに行ったら病人どうすんだよ!』
『責任取れよ!』
『お前らが朝霧先生追い出したようなもんだろ!』
しかし、今度は誰も反論しなかった。
先ほどまで自分だけは悪くないと主張し、互いの名前を出して責任を押しつけ合っていた者たちは、一人として返信しなくなった。
ただ既読だけが増えていった。
◇
「……ねえ」
貯蓄庫の中で、一ノ瀬が突然声を上げた。
「なんだよ」
「これ、こんなに少なかったっけ?」
柴田が顔を向ける。
一ノ瀬は貯蓄庫に積まれている食料を見ていた。
ここへ来たことがないわけではない。
ただ、一ノ瀬は普段ほとんど配給の現場には顔を出していなかった。住民へ何をどれだけ渡すのか、毎日どれだけの物資が減っているのか、そんなことは三浦やマンション代表たちに任せ、自分は柴田たちと部屋で過ごしていた。
だから一ノ瀬の記憶に残っているのは、貯蓄庫に大量の物資が積まれている光景だった。
床を埋める段ボール、積み上げられた飲料水、米、乾麺、缶詰、保存食。
あれだけあった。
それが今では、積まれていた箱の高さが明らかに低くなり、以前は見えなかった壁や床が見えるようになっている。
「配給の食料、かなり減らしたんだよね?」
「ああ。前よりは減ってるはずだ」
松本が答えた。
一ノ瀬は納得できないように物資を見回した。
「それでも……こんなに早く減るの?」
「そりゃ減るだろ」
「でも、一人分はかなり少ないんでしょ?」
「一人分はな」
「じゃあなんで?」
松本は少し考えてから答えた。
「まだこのマンション、八十人以上はいるみたいだからな」
「……まだそんなに?」
「ああ」
一ノ瀬は改めて貯蓄庫を見る。
一人が食べる量だけなら大したことはない。
だが、それが八十人以上。
今日も、明日も、その次の日も。
毎日食べる。
一ノ瀬は初めて、その人数を物資の減り方として考えた。
「八十何人?」
「さあ」
「さあって何よ」
「俺に聞くなよ。正確な人数なんか知らねえって」
「…………」
一ノ瀬は別の男を見るが、首を横に振られた。
田村を見る。
「私は知りませんよ。配給には関わってませんから」
柴田も当然知らない。
一ノ瀬は少し黙ったあと、積まれた物資を指差した。
「……じゃあ、これ何日分?」
誰も答えなかった。
「何日分かって聞いてるの」
「…………」
「あと一週間? 二週間? 一か月?」
それでも返事はない。
やがて松本が言った。
「そういうの……全部三浦がやってたから」
「…………」
「残りがどれくらいあるとか、一日どれだけ出すとか。代表と話してたのも三浦だし」
一ノ瀬の顔から、少しずつ余裕が消えた。
食料の量は、さっきから何一つ変わっていない。
それなのに一ノ瀬には、先ほどよりもずっと少なくなったように見えた。
「……だめ」
「あ?」
「だめ。絶対だめ」
「何がだよ」
「このまま配ってたら、私たちの食料もどんどん少なくなるじゃん」
「そりゃそうだろ」
「もっと減らさないと……」
柴田が食料を見る。
「あぁ? どれくらいだ?」
「…………」
一ノ瀬は少し考えた。
「半分……」
「半分はさすがに減らしすぎだろ」
「じゃあ……三分の一くらい?」
「まあ、まずはそれでいいんじゃねえの?」
二人があまりにも簡単に決めようとしたため、松本が困ったように口を挟んだ。
「三分の一って、実際どれくらい減らすんです?」
「は?」
「いや、今も一人分って結構少ないじゃないですか。それを三分の一減らすって、どうやって分けるんです?」
「そんなの知らないわよ!」
一ノ瀬は苛立ったように言ったあと、少し考えた。
「缶詰一個減らすとかでいいんじゃない?」
「毎回、全員に缶詰配ってるわけじゃないですよ」
「じゃあ似たようなもの一個減らせばいいじゃん」
「子供がいる部屋とかは?」
「…………」
「じゃあ全部同じ?」
「それでいいじゃん!」
一ノ瀬の声に苛立ちが混じる。
「とにかく、今までより少なくすればいいのよ。私たちの分までなくなったら意味ないでしょ!」
誰も反論しなかった。
八十人以上の住民へ明日からどれだけの食料を渡すのか。
その重要な決定が、残量も正確な人数も、一日の消費量も分からないまま決められようとしていた。
「でも、配る方はどうするんすか?」
別の男が尋ねた。
「代表にやらせりゃいいだろ」
柴田が当然のように答える。
「代表、住民たちにやれたんですよね」
「電話くらいできんだろ。今までどうやってたか聞けばいい」
柴田はスマートフォンを取り出した。
何度か呼び出し音が鳴る。
なかなか出ない。
「……チッ」
切ろうとした直前、ようやく繋がった。
『……はい』
女性の声だった。
「渡辺いるか?」
『主人は出られません』
「明日の配給のことで聞きてえんだよ。代われ」
『……すみません』
「あ?」
『よそをあたってください』
「は?」
柴田の眉間に皺が寄った。
「何言ってんだ。今まであいつがやってただろ。ちょっと聞くだけだ。代われ」
『主人は……まだ怪我の状態がひどいんです』
「だから電話くらい――」
『それに……』
電話の向こうで、女の声が止まった。
少しの沈黙。
そして、疲れ切った声で続けた。
『もう住民は、誰も主人の言うことなんて聞かないと思います』
「…………」
『ですから……よそをあたってください』
「おい、ちょっと待て」
『失礼します』
「おい! おい、待てって!」
通話が切れた。
柴田は耳からスマートフォンを離し、画面を睨みつけた。
「……チッ。切りやがった」
「どうでした?」
松本が聞く。
「怪我がひどくて無理だとよ。それに、もう住民は自分の言うこと聞かねえから、よそあたれってさ」
「…………」
貯蓄庫の中が静かになった。
柴田は舌打ちし、苛立ちをぶつけるように椅子を蹴った。
「だからあの時、俺は止めた方がいいって言ったんだ!」
誰も答えない。
「三浦の野郎が、そのままやらせとけって……クソッ!」
代表を襲ったのは住民たちだった。
柴田はそれを止めようとした。
だが三浦は、住民同士で勝手にやらせておけばいいと判断した。
あの時は、それで何の問題もないように思えた。
代表がどうなろうと、自分たちには関係ない。
むしろ住民側の人間同士が疑い合い、争ってくれるなら都合がいい。
しかし今になって、その結果が自分たちへ返ってきた。
代表はまだ生きている。
だが、住民をまとめる代表という存在は、もう機能していなかった。
そして肝心の三浦もいない。
住民側を把握していた人間と、物資側を把握していた人間。
明日の配給を成立させていた二人が、同じ日にいなくなった。
◇
その時、一ノ瀬のスマートフォンが震えた。
「……ん?」
通知は、マンション全体で使っているグループチャットだった。
一ノ瀬が画面を開く。
そこには、自分宛てのメッセージが届いていた。
『一ノ瀬さん、すみません。朝霧先生は今そちらにいらっしゃるんですよね?』
続けて、
『今、診ていただきたい病人がいるのですが、朝霧先生に来ていただくことはできませんか?』
そしてもう一通。
『今日のことについては、住民一同、朝霧先生に本当に申し訳ないと思っています。申し訳ございませんでした。朝霧先生にもそうお伝えください』
一ノ瀬は、その文章を黙って読んだ。
「なんだ?」
柴田が聞く。
「住民」
「何て?」
「朝霧を戻してくれって」
「は?」
「病人がいるんだって。今日のことは悪かったから、朝霧に謝ってくれって」
「知らねえよ。あいつは神崎んとこだろ」
「…………」
一ノ瀬は返事をしなかった。
画面を見たまま、しばらく考えている。
柴田が怪訝そうに見る。
「おい」
「……ねえ」
「なんだよ」
一ノ瀬が顔を上げ、にたりと笑った。
「朝霧がいないなら、今このマンションにいる医者って田村だけだよね?」
「あぁ?」
「ヤブだけど」
「いや……」
突然そう言われた田村が僅かに顔を引きつらせたが、一ノ瀬は気にも留めなかった。
柴田が田村を見る。
「まあ……そうみてえだな」
「…………」
一ノ瀬は再びスマートフォンへ視線を落とした。
少しして、指を動かし始める。
「何してんだ?」
「返信」
一ノ瀬は文章を打ち、少し読み返したあと、そのまま送信した。
『今日、一部の住民の方が朝霧先生の部屋へ押しかけたことについては、私も許されることではないと思っています』
住民たちはすぐに反応した。
『本当にそう思います』
『あの人たちがしたことは私たちも許せません』
一ノ瀬はそれを確認してから、次の文章を送る。
『ただ、残念ですが、朝霧先生はもう皆さんのところへ戻るつもりはないと思います』
少し間を置く。
『朝霧先生はその後2501へ向かい、神崎さんのところへ行きました』
反応はすぐに返ってきた。
『え?』
『2501?』
『神崎さんの部屋に入ったんですか?』
一ノ瀬はさらに続けた。
『皆さんの中には、今も朝霧先生を必要としている患者さんがたくさんいると思います。それでも朝霧先生は皆さんのところへ戻らず、2501を選びました』
最後に、もう一つ。
『今頃は暖かく安全な部屋で過ごしていると思います』
一ノ瀬は、それ以上何も書かなかった。
朝霧が住民を裏切ったとは一言も書いていない。
患者を見捨てたとも書いていない。
ただ、起きたことを並べただけだった。
だが、どの事実を並べ、どの事実を強調するかによって、人が受け取る意味はいくらでも変わる。
案の定、数十秒後には住民から書き込みが始まった。
『……じゃあ、俺たちを見捨てたってことですか?』
『2501に入れてもらったの?』
『こっちはまだ病人いるんですよ?』
『朝霧先生、本当に戻ってこないんですか?』
しかし、すべての住民が同じ方向へ流れたわけではなかった。
『いや、でも今日あんなことされたんですよ』
『朝霧先生を責めるのは違うと思います』
『部屋壊されて薬も食料も取られたんですよ? そりゃ出ていくでしょう』
すぐに反論が返る。
『それはそうだけど、やったのは一部の人でしょう?』
『今はみんな苦しいんですよ』
『自分だけ安全なところに行くっていうのは、ちょっと違うと思います』
『でも朝霧先生だって今まで十分やってくれたでしょう』
『だからって病人まで置いていくの?』
数分前まで朝霧の部屋を襲った住民たちへ向けられていた怒りが、少しずつ別の方向へ枝分かれしていく。
一ノ瀬はそのやり取りを黙って眺めていた。
「……三浦のことは言わねえのか?」
横から柴田が聞いた。
一ノ瀬は画面から目を離さない。
「言わない」
「なんでだよ」
「バレるまでは言わない」
「…………」
「わざわざこっちの人数が減ったって教える必要ないでしょ」
柴田は少し黙ったあと、納得したように鼻を鳴らした。
「大野のことも言わないから」
「ああ」
「今こっちが何人動けるか、あいつらに教える必要ないでしょ」
一ノ瀬は再び画面へ視線を戻した。
住民たちはまだ言い争っている。
朝霧を責める者、擁護する者、襲った住民を責め続ける者。
病人がいるから戻ってきてほしいと訴える者。
意見は完全に割れていた。
それを十分に確認してから、一ノ瀬は次の文章を打った。
『ただ、病人の方については安心してください』
流れていたメッセージが止まる。
一ノ瀬は続けた。
『田村先生にお願いして、今後は希望する住民の方を診察していただけることになりました』
「……え?」
田村が顔を上げた。
一ノ瀬は構わず、さらに打つ。
『診察や治療に対して、皆さんから食料などをいただく必要もありません』
そして最後。
『田村先生への報酬はこちらで用意します』
「ちょっと待ってください」
田村が慌てて口を挟んだ。
「私、まだ何も――」
「いいじゃん」
「いや、いいじゃんって……」
「病人診るのが医者でしょ?」
「それはそうですけど……」
「食料ほしくないの?」
「…………」
田村が返事する前に、グループの空気は目に見えて変わっていった。
『本当ですか!?』
『また田村先生に診てもらえるんですか?』
『ありがとうございます!』
『助かります。うちにも体調悪い人がいます』
『食料もいらないんですか?』
一ノ瀬はそれを見ながら、僅かに口元を緩めた。
ほんの数分前まで、住民たちは朝霧を失ったことに不安を感じていた。
その不安の一部は柴田たちへ向かう可能性もあった。
だが今は違う。
朝霧は自分だけ安全な2501を選んだ。
一方で柴田たちは、残っている医者を住民へ無償で提供する。
少なくとも、画面の上ではそう見えていた。
「……なるほどな」
柴田もようやく一ノ瀬の意図を理解したらしい。
「医者が必要なら、私たちと揉めようとは思わなくなるじゃん」
「…………」
「食料もこっち。医者もこっち。でも診察代は取らない。だったら、わざわざ私たちと敵対する必要ないでしょ?」
柴田の口元にも笑みが浮かんだ。
「お前、こういうのは頭回るな」
「こういうのって何よ」
一ノ瀬は不満そうに言ったが、その視線はすぐに貯蓄庫の物資へ戻った。
食料。
先ほどまでとは違う意味で、それが目に入る。
田村を住民に使わせるなら、当然田村をこちらで養う必要がある。
診察に必要なものも確保しなければならない。
何より、このまま八十人以上へ同じ量を配り続ければ、自分たちの食料までなくなる。
「……やっぱり明日から減らそう」
「ああ」
「まずは一個ずつでいいでしょ。それで様子見ればいいし」
柴田も頷いた。
誰も、正確にあと何日分あるのかを知らない。
誰も、現在の正確な生存者数を知らない。
誰も、明日一日でどれだけの食料が必要なのかを計算していない。
それでも、明日の配給を減らすことだけは決まった。
◇
夜が深くなっても、マンションの空気は静まらなかった。
ある部屋では、熱を出した男がスマートフォンを握りながら、田村にいつ診てもらえるのか聞いていた。
別の部屋では、残っている食料を床に並べ、明日の配給が来るまで何を食べるか夫婦で相談していた。
子供のいる部屋では、母親が自分の分を半分残し、何も言わず子供の前へ置いた。
朝霧の部屋の前では、壊れた玄関扉が開いたままになっている。
昼間まで、そこには医者がいたが、今はもう誰もいない。
マンション代表の部屋では、妻が夫の怪我の手当てをしながら、鳴ったスマートフォンを見ても手を伸ばさなかった。
もう夫を外へ出すつもりはなかった。
住民たちのグループでは、朝霧を責める言葉と擁護する言葉が今も流れ続けている。
その中に、また一つ新しいメッセージが入った。
『明日の配給って、予定通りですよね?』
少しして、別の住民。
『何時からですか?』
さらに、
『三浦さんがやるんですか?』
誰も答えない。
既読だけが増えていった。
貯蓄庫には、まだ食料がある。
病人を診る医者も、一人だけ残っている。
柴田たちには、まだ住民を黙らせるだけの力もある。
全てがなくなったわけではない。
それでも、この六十日間、辛うじてマンションを動かしてきたものは、一つずつ失われていた。
住民をまとめていた代表。
物資と配給を管理していた三浦。
病人たちを診続けてきた朝霧。
そして、住民同士が互いを同じ人間として扱うための、僅かな余裕。
そのどれもが、今日一日で消えた。
残ったのは、正確な人数すら分からない八十人以上の住民と、いつまで持つのか誰にも分からない食料。
そして――明日の配給だった。
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Day 60
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 △
降雪 微弱
生存確認者 88人
【今日のメモ】
「壊れる時は、音がするとは限らない。」
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この話は本来1話を超えているのですが・・・
2話に分けると中途半端なので1話にまとめました。
少し文字数が多い回になってしまいましたがご了承ください。




