第98話 Day 63 世界は変わった
朝の配給は、今日も大きな問題が起きることなく進んでいた。
もう減った配給量にも住民たちは少しずつ慣れ始め、順番が来れば前へ出て、渡された食料を受け取ると黙って自分の部屋へ戻っていく。以前のように量が少ないと騒ぐ者も、もっと寄越せと詰め寄る者もいない。
一見すれば、マンションの中には再び秩序が戻ったようにも見えた。
ただ、一ノ瀬は配給を続けながら、昨日までとは少し違うものも感じていた。
列に並んでいる住民たちの顔色が、どことなく悪い。壁に片手をついたまま順番を待っている男がいれば、何度も咳き込んでいる女もいる。配給を受け取ったあと、その場で一度しゃがみ込み、しばらくしてから立ち上がった者もいた。
誰かが突然倒れたわけでも、重病人が続出しているわけでもない。ただ、住民たちの身体から、少しずつ余裕が失われ始めているように見えた。
水道が完全に止まってから、住民たちは雪を集め、それを溶かして水を作るようになった。浴槽やペットボトル、鍋などに溜めておいた水がまだ残っている家庭もあるが、それも均等ではなく、すでにほとんど使い切った家庭もあれば、まだ数日分を残している家庭もある。
雪を溶かせば水にはなる。しかし、それを外から集めて部屋まで運び、電気を使って溶かし、口にするなら状態によっては煮沸もしなければならない。蛇口を捻れば好きなだけ水が出てきた頃とは、同じ一杯の水を手に入れるために必要な労力がまるで違っていた。
それでも、今日の配給は最後まで何事もなく終わった。
「……今日も大丈夫そうね」
一ノ瀬は小さく呟いたが、その視線は住民たちではなく、やがて廊下の先へと向けられた。
昨日からずっと、頭の中にあるのは2501のことだった。
あの部屋へ、どうやって入るか。
力ずくで扉を壊すのは無理だ。これまで何度試しても開かなかった以上、柴田たちが何人集まったところで、今さらどうにかできるものではない。
ならば、神崎たちが自分から出てくるまで待てばいい。昨日はそう考えたし、今でもその考え自体が間違っているとは思っていない。
神崎一人ならともかく、今は朝霧と三浦までいる。三人で生活すれば食料も水も減る速度は上がり、どれほど大量に蓄えていたとしても、いつかは底をつくはずだった。
問題は、その「いつか」がいつなのか分からないことだった。
一週間後なのか、一か月後なのか。それとも、もっと先まで神崎はあの生活を続けられるのか。一ノ瀬には、2501にどれほどの物資が残されているのかを知る方法がない。
だからこそ、昨日から何度も考えていた。
もし2501を手に入れることができれば、こんな生活を続ける必要はなくなる。配給品を持っていけば、食料も水もあり、暖房まで使えて、何よりあの頑丈な扉が外からの人間を拒んでくれる。
あそこを自分たちの拠点にできれば、このマンションで誰に怯える必要もなくなる。
どうすれば、あの扉を開けられるのか――。
一ノ瀬がそんなことを考えていた時、少し離れた場所から田村の声が聞こえてきた。
「はい、次の方」
顔を向けると、配給場所の近くでは今日も田村が住民を診ていた。昨日より人数が増えているようで、五人ほどの住民が壁際に並び、自分の順番が来るのを待っている。
「昨日から腹が痛くて……」
「熱はありますか?」
「たぶん、ないと思います」
「水はちゃんと飲んでますか?」
「飲んではいますけど……もうあんまり残ってなくて」
田村は相手の額に触れながら、いくつか質問を続けている。その後ろでは別の女が不安そうな顔をして待っており、診察が一区切りつくのを待って声をかけた。
「田村先生、うちの子もあとで診てもらえませんか?」
「症状は?」
「咳がひどくなってきて……」
一ノ瀬は何気なくその光景を眺めていた。
体調を崩した住民。
足りなくなっていく薬。
そして、その住民たちを診察する医者。
そこまで考えたところで、一ノ瀬の頭の中に一人の女の顔が浮かんだ。
朝霧。
「……そうか」
一ノ瀬は小さく呟くと、田村のところへ歩いていった。
「ねえ、田村」
「はい?」
「ちょっと聞きたいんだけど」
「何でしょうか?」
一ノ瀬は診察を待っている住民たちを一度見回してから、声を少し落とした。
「子供が病気で、薬が足りてない家ってある?」
「子供?」
「いるの? いないの?」
田村は少し考えてから頷いた。
「ええ……います」
一ノ瀬の目がわずかに細くなった。
「誰?」
「二十階の母親です。子供と二人で住んでます」
「母子家庭?」
「確かそうだったはずです」
「病気は?」
「熱が続いてまして、咳も出てるし、昨日診た時より少し悪くなってます」
「そう」
必要なことだけを聞き終えると、一ノ瀬はすぐにスマートフォンを取り出した。田村が怪訝そうな顔を向けてきたが、それには答えず、マンション全体のグループから女の名前を探して個別にメッセージを送る。
『少しお話ししたいことがあります』
続けて、もう一通。
『お子さんのことです。今、私たちのところまで来てもらえませんか?』
◇
同じ頃、黒崎たちを乗せた車列は、雪に埋もれた街の中をゆっくりと進んでいた。
先頭を走っているのは、先日の襲撃者たちが残していった車両だった。元は救援物資の輸送に使われていたらしく、通常の車より雪には強い。それでも、雪の上を走れることと、目的地まで道が繋がっていることはまったく別の話だった。
「……またかよ」
黒崎は小さく息を吐きながらブレーキを踏んだ。
数十メートル先では、大型トラックが道路を塞ぐように斜めに止まっていた。その周囲には何台もの乗用車が放置され、その大半が雪に埋もれている。車同士の隙間にも大量の雪が積もっており、無理に進めば今度はこちらが動けなくなるのは明らかだった。
助手席の男が地図と前方を交互に見比べる。
「抜けられないか?」
「無理だ。横も完全に埋まってる」
「じゃあ、また戻るしかないな……」
「さっきの交差点まで戻る。そこから南へ回ってみよう」
黒崎は無線を手に取り、後続車へ迂回することを伝えた。
返ってきた声には、隠しきれない疲労と不安が混じっていた。
出発した時は、誰もが順調に辿り着けると思っていた。政府が発表した指定広域保護地区までは、車があればいけない距離ではない。
しかし実際に街へ出てみれば、まともに使える道路の方が少なかった。雪に埋もれた道路だけならまだいい。放置された車や事故車両が道を塞ぎ、場所によっては大型車が完全に横向きになっている。進めると思った道を数キロ走った末に引き返したのも、一度や二度ではなかった。
車列がゆっくりと後退を始める。
黒崎がバックミラーを見ると、後続車の窓越しに、マンションを出てきた住民たちの姿が見えた。荷物を抱えた家族、子供を膝に乗せた母親、窓の外を不安そうに眺め続けている老人。出発した直後には多少なりともあった期待のようなものが、迂回を繰り返すたびに少しずつ薄れている。
無線から声が聞こえた。
『黒崎さん』
「どうした?」
『本当に今日中に着けるんですよね?』
黒崎はすぐには答えなかった。
『さっきからずっと戻ってばかりじゃないですか。燃料は大丈夫なんですか?』
そこへ別の車からも声が重なる。
『まだどれくらいかかるんです?』
不安になるのも当然だった。
自分たちは、これまで暮らしてきたマンションを捨ててここまで来た。戻ったところで、以前と同じように生活できる保証など何もない。
だからこそ、全員がその先にあるものへ期待している。
政府が発表した、指定広域保護地区。
そこへ辿り着くことさえできれば、少なくとも今よりは安全になる。食料も水もあり、政府の保護を受けながら生きていける。
誰もが、そう信じていた。
「進める道を探してる」
黒崎は無線に向かって答えた。
「今はそれしか言えない。とにかく、はぐれないようについてきてくれ」
それ以上のことは、黒崎にも言えなかった。
無線を置くと、助手席の男が地図を見たまま小さく息を吐いた。
「……こんなに時間かかるとは思わなかったな」
「ああ」
黒崎も前方を見る。
地図に表示されている目的地までの距離は、それほど大きな数字ではない。
それなのに、その距離を縮めるための道がない。
黒崎はハンドルを切り、再び来た道へと車を戻した。
◇
一ノ瀬からメッセージを受け取った女性が部屋を訪れたのは、それからしばらくしてからだった。
「すみません……」
「入って」
部屋へ入ってきたのは三十代半ばほどの女だった。疲労の色が濃く、目の下には隈ができている。寝不足なのか、それとも子供の看病が続いているのか、一ノ瀬にはどちらでもよかった。
椅子を勧め、女が腰を下ろしたところで、一ノ瀬はすぐに本題へ入った。
「田村先生から聞きました。お子さん、まだ熱が下がらないんですよね?」
「……はい」
「薬も、もうほとんどないって」
女は不安そうに俯いた。
「はい……」
「朝霧先生に診てもらった方がいいと思います」
その名前を聞いた瞬間、女が顔を上げた。
「朝霧先生に……?」
「今、2501にいます」
しかし女の顔に浮かんだのは希望ではなかった。むしろ表情を曇らせると、すぐに小さく首を振った。
「……無理です」
「どうして?」
「前に一度、あの部屋まで行ったことがあるんです。子供の薬を少し分けてもらえないかって、神崎さんにお願いしました」
「それで?」
「断られました」
女は膝の上で両手を握った。
「だから、もう一度行っても……たぶん同じだと思います」
「神崎はそうでしょうね」
一ノ瀬があっさり認めると、女は戸惑ったように顔を上げた。
「でも、今は朝霧先生がいます」
「え……?」
「朝霧先生は、今までずっと住民優先してたでしょ? だったら、病気の子供を目の前にして放っておけると思いますか?」
女は何も答えなかった。
一ノ瀬はその表情を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「もう一度、行ってみた方がいいと思います」
「でも……また断られたら……」
「その時は、すぐに帰っちゃ駄目」
「え?」
「神崎が何を言っても、朝霧先生に直接お願いするの。何度断られても、子供を診てほしいって言い続けてください」
女の顔にはまだ迷いが残っていた。
「朝霧先生なら、きっと最後は助けてくれます」
一ノ瀬はそこで少し間を置いた。
「それと――今度は、お子さんも連れていった方がいいです」
女の表情が一変した。
「そんな……無理です! あの子、今も寝込んでるんですよ!?」
一ノ瀬は黙って女を見る。
「こんな寒いところを連れ回したら、もっと悪くなります!」
「分かってます」
「だったら――」
「でも、それくらいしないと、あの扉は開きません」
女が言葉を失った。
一ノ瀬は責めるでもなく、ただ当然のことを説明するように続ける。
「あなた一人で行って、『子供が病気なんです』って言って、それで前は断られたんでしょう? だったら今回は、朝霧先生にその子を直接見てもらうしかありません」
「でも……」
「このまま薬がなくなったら、どうするんですか?」
女の唇がわずかに震える。
「熱がもっと上がったら? 田村にも薬がないんでしょう?」
「…………」
「助けてもらえる可能性があるのに、何もしないまま待つんですか?」
女は俯いたまま、長い間何も答えなかった。
寝込んでいる子供を連れ出すことが危険なのは、母親自身が一番分かっている。それでも、部屋で待っていれば熱が下がるわけでもなければ、明日になれば薬が手に入るという保証もない。
やがて、膝の上で握られていた手に力が入った。
「……分かりました」
一ノ瀬は何も言わない。
「連れて……行ってみます」
「その方がいいと思います」
一ノ瀬が頷くと、女はゆっくりと立ち上がった。もう一度小さく頭を下げ、そのまま部屋を出ていく。
ドアが閉まり、廊下を歩いていく足音が完全に聞こえなくなったところで、それまで黙っていた柴田が口を開いた。
「で?」
一ノ瀬が振り返る。
「何?」
「お前、何考えてんだ? あの女、前にも神崎に追い返されたんだろ」
一ノ瀬は少しだけ笑った。
「あの人だけなら、今回も神崎は絶対に扉を開けないでしょうね」
「じゃあ意味ねえじゃねえか」
「神崎ならね」
柴田が眉を寄せる。
「あ?」
「でも、今は朝霧がいる」
一ノ瀬は先ほど母親が出ていったドアへ目を向けた。
「あの母親と、あんな状態の子供を目の前で見せられたら、朝霧はきっと我慢できない。今まで散々、他の住民を助けてきた人なんだから」
柴田は黙ったまま聞いている。
「だから、あんたも一緒に来て」
「俺も?」
「姿は見せないで。少し離れたところに私と隠れてればいい」
一ノ瀬の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「朝霧先生が子供を診るために扉を開けた瞬間、あんたが飛び出して中に入るの」
柴田は数秒ほど黙っていたが、やがてその意味を理解すると、口元を大きく吊り上げた。
「……なるほどな」
「一度中に入っちゃえば、こっちのものよ」
「神崎を押さえて、あの部屋を奪うってわけか」
「全部ね」
柴田は喉の奥で低く笑った。
「いいじゃねえか。ついでに三浦の野郎も一緒にぶっ殺してやる」
「好きにすれば?」
二人は顔を見合わせた。
その顔には、同じ笑みが浮かんでいた。
◇
2501の監視室でモニターを眺めていた朝霧は、廊下の奥から近づいてくる人影に気づき、わずかに眉を寄せた。
「……誰か来る」
蓮も画面へ視線を向ける。
映っていたのは一人の女だった。両腕には毛布に包まれた子供を抱えており、その重さに耐えるように何度も壁へ手をつきながら、それでもゆっくりと2501へ近づいてくる。
朝霧はその顔に見覚えがあった。
「……あの女」
以前、子供の薬をお願いされた母親だった。
やがて女は2501の前まで辿り着き、苦しそうに息を整えてからインターホンを押した。
蓮が通話を繋ぐ。
『何の用だ』
『お願いします! 朝霧先生はいますか!?』
その名前が聞こえた瞬間、朝霧の身体がわずかに強張った。
『子供が……熱が下がらないんです! 咳もひどくなってて……田村先生にも診てもらったんですけど、治らなくって!』
蓮は答えない。
『お願いします! 朝霧先生に診てもらえませんか!?』
朝霧はモニターから目を離せなかった。
毛布の隙間から見える子供の頬は赤く、目を閉じたまま母親の腕の中でぐったりとしている。画面越しでは詳しい状態など分からない。それでも、少なくとも元気な子供ではないことだけは見れば分かった。
「……神崎さん」
朝霧が名前を呼ぶ。
蓮は朝霧へ視線を向けたが、何も言わなかった。
『お願いします! この子、本当に苦しそうなんです!』
その声を聞いた瞬間、朝霧の足が自然と前へ出た。
診なければならない。
どれくらい熱があるのか。呼吸状態はどうなのか。意識ははっきりしているのか。水分は取れているのか。頭の中ではすでに、医者として確認すべきことが次々と浮かんでいる。
必要な薬が2501にあるなら、自分なら何かできるかもしれない。
朝霧は扉へ目を向けた。
だが、そこで足が止まった。
もし、開けたらどうなる。
蓮は自分をここへ入れる時、いくつかの条件を出した。勝手に外へ出ないこと。スマートフォンを自由に使わないこと。そして、この部屋で知ったことを外へ漏らさないこと。
自分はもう、あまりにも多くのことを知ってしまっている。
2501に蓄えられた物資の量も、神崎が持つ《収納》の存在も、彼が一度死に、三十日前へ戻ってきたことまで知っている。
もし自分が勝手に扉を開け、神崎との約束を破ったら――
朝霧の視線が、ゆっくりと蓮へ向いた。
三浦は、あの日、何があったのかを朝霧は聞いていないし、蓮も話していない。それでも、もう何となく分かっている。
もし蓮から、危険な人間だと判断されたら。
もし、自分が信用できない人間になったら。
自分も――。
そこまで考えたところで、背筋を冷たいものが走った。
『朝霧先生! いるんでしょう!?』
母親の声が響き、朝霧は再びモニターを見る。
苦しそうな子供がいる。
助けたい。
その気持ちは、少しも消えていなかった。
むしろ目の前に患者がいるからこそ、身体の奥から今までの自分が引きずり出されてくるようだった。
世界がこうなる前、病院で働いていた頃もそうだった。
勤務時間を過ぎてから患者が運ばれてくれば、そのまま残った。ようやく休憩に入って食事を始めた直後でも、呼ばれれば箸を置いて立ち上がった。眠れないまま次の勤務に入った日も、自分自身が体調を崩していた日も、誰かに「先生、大丈夫ですか」と聞かれれば、いつも同じように「大丈夫です」と答えていた。
患者が待っているから。
自分より苦しんでいる人がいるから。
そして、自分は医者だから。
寒波が来てからも、それは変わらなかった。
薬が減っていくのを知りながら住民を診た。食料が少なくなっても、誰かに呼ばれれば部屋を出た。自分の身体が疲れていても、目の前に苦しんでいる人間がいれば、自分のことは後回しにした。
困っている人を助けることは正しい。
医者なら、それをするべきだ。
ずっと、そう思っていた。
だからこそ――朝霧の記憶の中に、あの日の光景が蘇った。
無理やり壊された自分の部屋のドア。
床に倒れた朝霧の横を、何人もの住民が通り過ぎていく。引き出しを開け、棚を漁り、残っていた薬を見つけると、それを当然のように持っていった。
わずかに残していた食料まで見つけられた。
やめて。
それは私のもの。
それまで持っていかれたら、私はどうすればいいの。
そう言いたかった。
だが、誰も朝霧を見ていなかった。
中には、自分が以前治療した人間までいた。それでも彼らの目に映っているのは薬や食料だけで、床に倒れている朝霧のことなど、最初からそこに存在していないかのようだった。
欲しいものを見つけた時の目。
他人の部屋を荒らす手。
自分が生きるためなら、誰かから奪うことを当然だと思っている顔。
人間のはずなのに、あの時の朝霧には、その顔がまるで悪魔のように見えた。
また誰かの手が、自分のものへ伸びてくる。
「……やめて」
誰も止まらない。
薬が持っていかれる。
食料が持っていかれる。
自分には何も残らない。
「やめて……」
それでも、誰も朝霧を見ない。
「やめて!」
自分の声に、朝霧は大きく息を吸った。
目の前にあったのは、荒らされた自分の部屋ではなかった。
暖かい2501。
そして、何も言わずに自分を見ている蓮。
朝霧はしばらくその顔を見つめていた。自分でも気づかないうちに、一筋の涙が頬を伝っている。
「……世界は、変わってしまったんだよね」
蓮は静かに答えた。
「ああ、そうだ」
『朝霧先生! お願いします!』
母親の声が、再び朝霧を現実へ引き戻す。
朝霧はモニターへ視線を戻した。
そこには病気の子供がいる。
自分なら、助けられるかもしれない。
「私……」
今までの自分なら、迷わなかった。
「私……」
医者なら助けるべきだと、それだけで扉を開けていた。
「私……」
朝霧は何度も首を振った。
助けたいという気持ちと、もうあの日の自分には戻りたくないという気持ちが、胸の中で何度もぶつかり合う。
それでも最後には、自分で決めなければならなかった。
朝霧は震える手を伸ばし、インターホンの通話ボタンに触れた。
「……すみません」
『朝霧先生!?』
母親の声が一気に明るくなる。
その声を聞いた瞬間、また心が揺れた。
それでも朝霧は目を閉じ、震える唇を開いた。
「……お断りします」
一瞬、向こうから何も聞こえなくなった。
『……え?』
「…………」
『待ってください! 先生、待ってください!』
朝霧は答えない。
『この子を見てください! 本当に苦しそうなんです! お願いします!』
母親の声が次第に大きくなっていく。
『朝霧先生! この子が死んでもいいんですか!?』
朝霧の目から、また涙が落ちた。
それでも、もう答えなかった。
その時だった。
「おい! 朝霧!」
突然、別の声が廊下に響いた。
朝霧が顔を上げると、モニターの端から一ノ瀬が姿を現した。
「てめえ医者だろ! 子供が死にかけてんだぞ!」
朝霧の目が大きく見開かれる。
「何、自分だけ暖かい部屋でいい思いしてんだよ! 早く出てこいよ!」
母親も驚いたように一ノ瀬を見ている。
朝霧は何も言えなかった。
どうして、一ノ瀬がここにいる。
偶然ここを通りかかったはずがない。
そんな朝霧の隣で、蓮が初めて口を開いた。
「……これが現実だ」
朝霧がゆっくりと蓮を見る。
蓮はモニターに映る母親と、その腕に抱かれた子供を見ていた。
「こんな状態で、こんな寒さの中、寝込んでる息子をここまで連れてくるかよ」
朝霧は答えない。
「あの母親も利用された」
そこで蓮は一度言葉を止めた。
「……いや」
朝霧の目がわずかに揺れる。
「あいつも息子を利用したんだ」
その言葉を聞いて、朝霧はもう一度モニターを見た。
子供を助けたいという気持ちは、今も消えていない。
それでも、一ノ瀬がそこにいるという事実が、今まで見えていなかったものを嫌でも見せていた。
「だから世界が変わったって言ったろ」
朝霧はしばらく黙っていた。
やがて頬に残った涙を手の甲で拭い、小さく頷く。
「……そうね」
蓮はそれ以上何も言わず、インターホンの通話を切った。
一ノ瀬の声が途切れ、監視室に静けさが戻る。
朝霧はしばらくモニターを見つめていたが、やがて自分から目を逸らした。蓮も何も言わず、二人はそのまま監視室を離れて部屋の奥へ戻っていった。
その頃、2501の外では一ノ瀬がまだ扉へ向かって叫んでいた。
「おい! 朝霧! 聞いてんのかよ!」
返事はない。
すると、少し離れた場所に隠れていた柴田も姿を現し、苛立った足取りで2501の前まで歩いてきた。
「神崎!」
柴田は持ってきたハンマーを振り上げ、目の前の金庫扉へ叩きつけた。
ドンッ――。
重い金属音が、冷え切った廊下に響く。
「開けろ! 聞こえてんだろ!」
もう一度、ハンマーが叩きつけられる。
一ノ瀬も横から扉を叩きながら、何度も朝霧の名前を叫んだ。
しかし、2501から返事が返ってくることはなかった。
柴田がどれだけハンマーを叩きつけても、一ノ瀬がどれだけ声を張り上げても、目の前の扉は微動だにしない。
ただ鈍く、空虚な金属音だけが、誰もいない廊下の奥へ何度も響いていった。
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Day 63
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 87人
【今日のメモ】
「扉を閉ざすことより、自分の心を閉ざすことの方が難しい。」
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