↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
100/150

第98話 Day 63 世界は変わった

朝の配給は、今日も大きな問題が起きることなく進んでいた。


もう減った配給量にも住民たちは少しずつ慣れ始め、順番が来れば前へ出て、渡された食料を受け取ると黙って自分の部屋へ戻っていく。以前のように量が少ないと騒ぐ者も、もっと寄越せと詰め寄る者もいない。


一見すれば、マンションの中には再び秩序が戻ったようにも見えた。


ただ、一ノ瀬は配給を続けながら、昨日までとは少し違うものも感じていた。


列に並んでいる住民たちの顔色が、どことなく悪い。壁に片手をついたまま順番を待っている男がいれば、何度も咳き込んでいる女もいる。配給を受け取ったあと、その場で一度しゃがみ込み、しばらくしてから立ち上がった者もいた。


誰かが突然倒れたわけでも、重病人が続出しているわけでもない。ただ、住民たちの身体から、少しずつ余裕が失われ始めているように見えた。


水道が完全に止まってから、住民たちは雪を集め、それを溶かして水を作るようになった。浴槽やペットボトル、鍋などに溜めておいた水がまだ残っている家庭もあるが、それも均等ではなく、すでにほとんど使い切った家庭もあれば、まだ数日分を残している家庭もある。


雪を溶かせば水にはなる。しかし、それを外から集めて部屋まで運び、電気を使って溶かし、口にするなら状態によっては煮沸もしなければならない。蛇口を捻れば好きなだけ水が出てきた頃とは、同じ一杯の水を手に入れるために必要な労力がまるで違っていた。


それでも、今日の配給は最後まで何事もなく終わった。


「……今日も大丈夫そうね」


一ノ瀬は小さく呟いたが、その視線は住民たちではなく、やがて廊下の先へと向けられた。


昨日からずっと、頭の中にあるのは2501のことだった。


あの部屋へ、どうやって入るか。


力ずくで扉を壊すのは無理だ。これまで何度試しても開かなかった以上、柴田たちが何人集まったところで、今さらどうにかできるものではない。


ならば、神崎たちが自分から出てくるまで待てばいい。昨日はそう考えたし、今でもその考え自体が間違っているとは思っていない。


神崎一人ならともかく、今は朝霧と三浦までいる。三人で生活すれば食料も水も減る速度は上がり、どれほど大量に蓄えていたとしても、いつかは底をつくはずだった。


問題は、その「いつか」がいつなのか分からないことだった。


一週間後なのか、一か月後なのか。それとも、もっと先まで神崎はあの生活を続けられるのか。一ノ瀬には、2501にどれほどの物資が残されているのかを知る方法がない。


だからこそ、昨日から何度も考えていた。


もし2501を手に入れることができれば、こんな生活を続ける必要はなくなる。配給品を持っていけば、食料も水もあり、暖房まで使えて、何よりあの頑丈な扉が外からの人間を拒んでくれる。


あそこを自分たちの拠点にできれば、このマンションで誰に怯える必要もなくなる。


どうすれば、あの扉を開けられるのか――。


一ノ瀬がそんなことを考えていた時、少し離れた場所から田村の声が聞こえてきた。


「はい、次の方」


顔を向けると、配給場所の近くでは今日も田村が住民を診ていた。昨日より人数が増えているようで、五人ほどの住民が壁際に並び、自分の順番が来るのを待っている。


「昨日から腹が痛くて……」


「熱はありますか?」


「たぶん、ないと思います」


「水はちゃんと飲んでますか?」


「飲んではいますけど……もうあんまり残ってなくて」


田村は相手の額に触れながら、いくつか質問を続けている。その後ろでは別の女が不安そうな顔をして待っており、診察が一区切りつくのを待って声をかけた。


「田村先生、うちの子もあとで診てもらえませんか?」


「症状は?」


「咳がひどくなってきて……」


一ノ瀬は何気なくその光景を眺めていた。


体調を崩した住民。


足りなくなっていく薬。


そして、その住民たちを診察する医者。


そこまで考えたところで、一ノ瀬の頭の中に一人の女の顔が浮かんだ。


朝霧。


「……そうか」


一ノ瀬は小さく呟くと、田村のところへ歩いていった。


「ねえ、田村」


「はい?」


「ちょっと聞きたいんだけど」


「何でしょうか?」


一ノ瀬は診察を待っている住民たちを一度見回してから、声を少し落とした。


「子供が病気で、薬が足りてない家ってある?」


「子供?」


「いるの? いないの?」


田村は少し考えてから頷いた。


「ええ……います」


一ノ瀬の目がわずかに細くなった。


「誰?」


「二十階の母親です。子供と二人で住んでます」


「母子家庭?」


「確かそうだったはずです」


「病気は?」


「熱が続いてまして、咳も出てるし、昨日診た時より少し悪くなってます」


「そう」


必要なことだけを聞き終えると、一ノ瀬はすぐにスマートフォンを取り出した。田村が怪訝そうな顔を向けてきたが、それには答えず、マンション全体のグループから女の名前を探して個別にメッセージを送る。


『少しお話ししたいことがあります』


続けて、もう一通。


『お子さんのことです。今、私たちのところまで来てもらえませんか?』


◇


同じ頃、黒崎たちを乗せた車列は、雪に埋もれた街の中をゆっくりと進んでいた。


先頭を走っているのは、先日の襲撃者たちが残していった車両だった。元は救援物資の輸送に使われていたらしく、通常の車より雪には強い。それでも、雪の上を走れることと、目的地まで道が繋がっていることはまったく別の話だった。


「……またかよ」


黒崎は小さく息を吐きながらブレーキを踏んだ。


数十メートル先では、大型トラックが道路を塞ぐように斜めに止まっていた。その周囲には何台もの乗用車が放置され、その大半が雪に埋もれている。車同士の隙間にも大量の雪が積もっており、無理に進めば今度はこちらが動けなくなるのは明らかだった。


助手席の男が地図と前方を交互に見比べる。


「抜けられないか?」


「無理だ。横も完全に埋まってる」


「じゃあ、また戻るしかないな……」


「さっきの交差点まで戻る。そこから南へ回ってみよう」


黒崎は無線を手に取り、後続車へ迂回することを伝えた。


返ってきた声には、隠しきれない疲労と不安が混じっていた。


出発した時は、誰もが順調に辿り着けると思っていた。政府が発表した指定広域保護地区までは、車があればいけない距離ではない。


しかし実際に街へ出てみれば、まともに使える道路の方が少なかった。雪に埋もれた道路だけならまだいい。放置された車や事故車両が道を塞ぎ、場所によっては大型車が完全に横向きになっている。進めると思った道を数キロ走った末に引き返したのも、一度や二度ではなかった。


車列がゆっくりと後退を始める。


黒崎がバックミラーを見ると、後続車の窓越しに、マンションを出てきた住民たちの姿が見えた。荷物を抱えた家族、子供を膝に乗せた母親、窓の外を不安そうに眺め続けている老人。出発した直後には多少なりともあった期待のようなものが、迂回を繰り返すたびに少しずつ薄れている。


無線から声が聞こえた。


『黒崎さん』


「どうした?」


『本当に今日中に着けるんですよね?』


黒崎はすぐには答えなかった。


『さっきからずっと戻ってばかりじゃないですか。燃料は大丈夫なんですか?』


そこへ別の車からも声が重なる。


『まだどれくらいかかるんです?』


不安になるのも当然だった。


自分たちは、これまで暮らしてきたマンションを捨ててここまで来た。戻ったところで、以前と同じように生活できる保証など何もない。


だからこそ、全員がその先にあるものへ期待している。


政府が発表した、指定広域保護地区。


そこへ辿り着くことさえできれば、少なくとも今よりは安全になる。食料も水もあり、政府の保護を受けながら生きていける。


誰もが、そう信じていた。


「進める道を探してる」


黒崎は無線に向かって答えた。


「今はそれしか言えない。とにかく、はぐれないようについてきてくれ」


それ以上のことは、黒崎にも言えなかった。


無線を置くと、助手席の男が地図を見たまま小さく息を吐いた。


「……こんなに時間かかるとは思わなかったな」


「ああ」


黒崎も前方を見る。


地図に表示されている目的地までの距離は、それほど大きな数字ではない。


それなのに、その距離を縮めるための道がない。


黒崎はハンドルを切り、再び来た道へと車を戻した。


◇


一ノ瀬からメッセージを受け取った女性が部屋を訪れたのは、それからしばらくしてからだった。


「すみません……」


「入って」


部屋へ入ってきたのは三十代半ばほどの女だった。疲労の色が濃く、目の下には隈ができている。寝不足なのか、それとも子供の看病が続いているのか、一ノ瀬にはどちらでもよかった。


椅子を勧め、女が腰を下ろしたところで、一ノ瀬はすぐに本題へ入った。


「田村先生から聞きました。お子さん、まだ熱が下がらないんですよね?」


「……はい」


「薬も、もうほとんどないって」


女は不安そうに俯いた。


「はい……」


「朝霧先生に診てもらった方がいいと思います」


その名前を聞いた瞬間、女が顔を上げた。


「朝霧先生に……?」


「今、2501にいます」


しかし女の顔に浮かんだのは希望ではなかった。むしろ表情を曇らせると、すぐに小さく首を振った。


「……無理です」


「どうして?」


「前に一度、あの部屋まで行ったことがあるんです。子供の薬を少し分けてもらえないかって、神崎さんにお願いしました」


「それで?」


「断られました」


女は膝の上で両手を握った。


「だから、もう一度行っても……たぶん同じだと思います」


「神崎はそうでしょうね」


一ノ瀬があっさり認めると、女は戸惑ったように顔を上げた。


「でも、今は朝霧先生がいます」


「え……?」


「朝霧先生は、今までずっと住民優先してたでしょ? だったら、病気の子供を目の前にして放っておけると思いますか?」


女は何も答えなかった。


一ノ瀬はその表情を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「もう一度、行ってみた方がいいと思います」


「でも……また断られたら……」


「その時は、すぐに帰っちゃ駄目」


「え?」


「神崎が何を言っても、朝霧先生に直接お願いするの。何度断られても、子供を診てほしいって言い続けてください」


女の顔にはまだ迷いが残っていた。


「朝霧先生なら、きっと最後は助けてくれます」


一ノ瀬はそこで少し間を置いた。


「それと――今度は、お子さんも連れていった方がいいです」


女の表情が一変した。


「そんな……無理です! あの子、今も寝込んでるんですよ!?」


一ノ瀬は黙って女を見る。


「こんな寒いところを連れ回したら、もっと悪くなります!」


「分かってます」


「だったら――」


「でも、それくらいしないと、あの扉は開きません」


女が言葉を失った。


一ノ瀬は責めるでもなく、ただ当然のことを説明するように続ける。


「あなた一人で行って、『子供が病気なんです』って言って、それで前は断られたんでしょう? だったら今回は、朝霧先生にその子を直接見てもらうしかありません」


「でも……」


「このまま薬がなくなったら、どうするんですか?」


女の唇がわずかに震える。


「熱がもっと上がったら? 田村にも薬がないんでしょう?」


「…………」


「助けてもらえる可能性があるのに、何もしないまま待つんですか?」


女は俯いたまま、長い間何も答えなかった。


寝込んでいる子供を連れ出すことが危険なのは、母親自身が一番分かっている。それでも、部屋で待っていれば熱が下がるわけでもなければ、明日になれば薬が手に入るという保証もない。


やがて、膝の上で握られていた手に力が入った。


「……分かりました」


一ノ瀬は何も言わない。


「連れて……行ってみます」


「その方がいいと思います」


一ノ瀬が頷くと、女はゆっくりと立ち上がった。もう一度小さく頭を下げ、そのまま部屋を出ていく。


ドアが閉まり、廊下を歩いていく足音が完全に聞こえなくなったところで、それまで黙っていた柴田が口を開いた。


「で?」


一ノ瀬が振り返る。


「何?」


「お前、何考えてんだ? あの女、前にも神崎に追い返されたんだろ」


一ノ瀬は少しだけ笑った。


「あの人だけなら、今回も神崎は絶対に扉を開けないでしょうね」


「じゃあ意味ねえじゃねえか」


「神崎ならね」


柴田が眉を寄せる。


「あ?」


「でも、今は朝霧がいる」


一ノ瀬は先ほど母親が出ていったドアへ目を向けた。


「あの母親と、あんな状態の子供を目の前で見せられたら、朝霧はきっと我慢できない。今まで散々、他の住民を助けてきた人なんだから」


柴田は黙ったまま聞いている。


「だから、あんたも一緒に来て」


「俺も?」


「姿は見せないで。少し離れたところに私と隠れてればいい」


一ノ瀬の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。


「朝霧先生が子供を診るために扉を開けた瞬間、あんたが飛び出して中に入るの」


柴田は数秒ほど黙っていたが、やがてその意味を理解すると、口元を大きく吊り上げた。


「……なるほどな」


「一度中に入っちゃえば、こっちのものよ」


「神崎を押さえて、あの部屋を奪うってわけか」


「全部ね」


柴田は喉の奥で低く笑った。


「いいじゃねえか。ついでに三浦の野郎も一緒にぶっ殺してやる」


「好きにすれば?」


二人は顔を見合わせた。


その顔には、同じ笑みが浮かんでいた。


◇


2501の監視室でモニターを眺めていた朝霧は、廊下の奥から近づいてくる人影に気づき、わずかに眉を寄せた。


「……誰か来る」


蓮も画面へ視線を向ける。


映っていたのは一人の女だった。両腕には毛布に包まれた子供を抱えており、その重さに耐えるように何度も壁へ手をつきながら、それでもゆっくりと2501へ近づいてくる。


朝霧はその顔に見覚えがあった。


「……あの女」


以前、子供の薬をお願いされた母親だった。


やがて女は2501の前まで辿り着き、苦しそうに息を整えてからインターホンを押した。


蓮が通話を繋ぐ。


『何の用だ』


『お願いします! 朝霧先生はいますか!?』


その名前が聞こえた瞬間、朝霧の身体がわずかに強張った。


『子供が……熱が下がらないんです! 咳もひどくなってて……田村先生にも診てもらったんですけど、治らなくって!』


蓮は答えない。


『お願いします! 朝霧先生に診てもらえませんか!?』


朝霧はモニターから目を離せなかった。


毛布の隙間から見える子供の頬は赤く、目を閉じたまま母親の腕の中でぐったりとしている。画面越しでは詳しい状態など分からない。それでも、少なくとも元気な子供ではないことだけは見れば分かった。


「……神崎さん」


朝霧が名前を呼ぶ。


蓮は朝霧へ視線を向けたが、何も言わなかった。


『お願いします! この子、本当に苦しそうなんです!』


その声を聞いた瞬間、朝霧の足が自然と前へ出た。


診なければならない。


どれくらい熱があるのか。呼吸状態はどうなのか。意識ははっきりしているのか。水分は取れているのか。頭の中ではすでに、医者として確認すべきことが次々と浮かんでいる。


必要な薬が2501にあるなら、自分なら何かできるかもしれない。


朝霧は扉へ目を向けた。


だが、そこで足が止まった。


もし、開けたらどうなる。


蓮は自分をここへ入れる時、いくつかの条件を出した。勝手に外へ出ないこと。スマートフォンを自由に使わないこと。そして、この部屋で知ったことを外へ漏らさないこと。


自分はもう、あまりにも多くのことを知ってしまっている。


2501に蓄えられた物資の量も、神崎が持つ《収納》の存在も、彼が一度死に、三十日前へ戻ってきたことまで知っている。


もし自分が勝手に扉を開け、神崎との約束を破ったら――


朝霧の視線が、ゆっくりと蓮へ向いた。


三浦は、あの日、何があったのかを朝霧は聞いていないし、蓮も話していない。それでも、もう何となく分かっている。


もし蓮から、危険な人間だと判断されたら。


もし、自分が信用できない人間になったら。


自分も――。


そこまで考えたところで、背筋を冷たいものが走った。


『朝霧先生! いるんでしょう!?』


母親の声が響き、朝霧は再びモニターを見る。


苦しそうな子供がいる。


助けたい。


その気持ちは、少しも消えていなかった。


むしろ目の前に患者がいるからこそ、身体の奥から今までの自分が引きずり出されてくるようだった。


世界がこうなる前、病院で働いていた頃もそうだった。


勤務時間を過ぎてから患者が運ばれてくれば、そのまま残った。ようやく休憩に入って食事を始めた直後でも、呼ばれれば箸を置いて立ち上がった。眠れないまま次の勤務に入った日も、自分自身が体調を崩していた日も、誰かに「先生、大丈夫ですか」と聞かれれば、いつも同じように「大丈夫です」と答えていた。


患者が待っているから。


自分より苦しんでいる人がいるから。


そして、自分は医者だから。


寒波が来てからも、それは変わらなかった。


薬が減っていくのを知りながら住民を診た。食料が少なくなっても、誰かに呼ばれれば部屋を出た。自分の身体が疲れていても、目の前に苦しんでいる人間がいれば、自分のことは後回しにした。


困っている人を助けることは正しい。


医者なら、それをするべきだ。


ずっと、そう思っていた。


だからこそ――朝霧の記憶の中に、あの日の光景が蘇った。


無理やり壊された自分の部屋のドア。


床に倒れた朝霧の横を、何人もの住民が通り過ぎていく。引き出しを開け、棚を漁り、残っていた薬を見つけると、それを当然のように持っていった。


わずかに残していた食料まで見つけられた。


やめて。


それは私のもの。


それまで持っていかれたら、私はどうすればいいの。


そう言いたかった。


だが、誰も朝霧を見ていなかった。


中には、自分が以前治療した人間までいた。それでも彼らの目に映っているのは薬や食料だけで、床に倒れている朝霧のことなど、最初からそこに存在していないかのようだった。


欲しいものを見つけた時の目。


他人の部屋を荒らす手。


自分が生きるためなら、誰かから奪うことを当然だと思っている顔。


人間のはずなのに、あの時の朝霧には、その顔がまるで悪魔のように見えた。


また誰かの手が、自分のものへ伸びてくる。


「……やめて」


誰も止まらない。


薬が持っていかれる。


食料が持っていかれる。


自分には何も残らない。


「やめて……」


それでも、誰も朝霧を見ない。


「やめて!」


自分の声に、朝霧は大きく息を吸った。


目の前にあったのは、荒らされた自分の部屋ではなかった。


暖かい2501。


そして、何も言わずに自分を見ている蓮。


朝霧はしばらくその顔を見つめていた。自分でも気づかないうちに、一筋の涙が頬を伝っている。


「……世界は、変わってしまったんだよね」


蓮は静かに答えた。


「ああ、そうだ」


『朝霧先生! お願いします!』


母親の声が、再び朝霧を現実へ引き戻す。


朝霧はモニターへ視線を戻した。


そこには病気の子供がいる。


自分なら、助けられるかもしれない。


「私……」


今までの自分なら、迷わなかった。


「私……」


医者なら助けるべきだと、それだけで扉を開けていた。


「私……」


朝霧は何度も首を振った。


助けたいという気持ちと、もうあの日の自分には戻りたくないという気持ちが、胸の中で何度もぶつかり合う。


それでも最後には、自分で決めなければならなかった。


朝霧は震える手を伸ばし、インターホンの通話ボタンに触れた。


「……すみません」


『朝霧先生!?』


母親の声が一気に明るくなる。


その声を聞いた瞬間、また心が揺れた。


それでも朝霧は目を閉じ、震える唇を開いた。


「……お断りします」


一瞬、向こうから何も聞こえなくなった。


『……え?』


「…………」


『待ってください! 先生、待ってください!』


朝霧は答えない。


『この子を見てください! 本当に苦しそうなんです! お願いします!』


母親の声が次第に大きくなっていく。


『朝霧先生! この子が死んでもいいんですか!?』


朝霧の目から、また涙が落ちた。


それでも、もう答えなかった。


その時だった。


「おい! 朝霧!」


突然、別の声が廊下に響いた。


朝霧が顔を上げると、モニターの端から一ノ瀬が姿を現した。


「てめえ医者だろ! 子供が死にかけてんだぞ!」


朝霧の目が大きく見開かれる。


「何、自分だけ暖かい部屋でいい思いしてんだよ! 早く出てこいよ!」


母親も驚いたように一ノ瀬を見ている。


朝霧は何も言えなかった。


どうして、一ノ瀬がここにいる。


偶然ここを通りかかったはずがない。


そんな朝霧の隣で、蓮が初めて口を開いた。


「……これが現実だ」


朝霧がゆっくりと蓮を見る。


蓮はモニターに映る母親と、その腕に抱かれた子供を見ていた。


「こんな状態で、こんな寒さの中、寝込んでる息子をここまで連れてくるかよ」


朝霧は答えない。


「あの母親も利用された」


そこで蓮は一度言葉を止めた。


「……いや」


朝霧の目がわずかに揺れる。


「あいつも息子を利用したんだ」


その言葉を聞いて、朝霧はもう一度モニターを見た。


子供を助けたいという気持ちは、今も消えていない。


それでも、一ノ瀬がそこにいるという事実が、今まで見えていなかったものを嫌でも見せていた。


「だから世界が変わったって言ったろ」


朝霧はしばらく黙っていた。


やがて頬に残った涙を手の甲で拭い、小さく頷く。


「……そうね」


蓮はそれ以上何も言わず、インターホンの通話を切った。


一ノ瀬の声が途切れ、監視室に静けさが戻る。


朝霧はしばらくモニターを見つめていたが、やがて自分から目を逸らした。蓮も何も言わず、二人はそのまま監視室を離れて部屋の奥へ戻っていった。


その頃、2501の外では一ノ瀬がまだ扉へ向かって叫んでいた。


「おい! 朝霧! 聞いてんのかよ!」


返事はない。


すると、少し離れた場所に隠れていた柴田も姿を現し、苛立った足取りで2501の前まで歩いてきた。


「神崎!」


柴田は持ってきたハンマーを振り上げ、目の前の金庫扉へ叩きつけた。


ドンッ――。


重い金属音が、冷え切った廊下に響く。


「開けろ! 聞こえてんだろ!」


もう一度、ハンマーが叩きつけられる。


一ノ瀬も横から扉を叩きながら、何度も朝霧の名前を叫んだ。


しかし、2501から返事が返ってくることはなかった。


柴田がどれだけハンマーを叩きつけても、一ノ瀬がどれだけ声を張り上げても、目の前の扉は微動だにしない。


ただ鈍く、空虚な金属音だけが、誰もいない廊下の奥へ何度も響いていった。



────────────────


Day 63


電力 ▲

ガス ×

水道 ×

通信 ▲

降雪 微弱


生存確認者 87人


【今日のメモ】

「扉を閉ざすことより、自分の心を閉ざすことの方が難しい。」


────────────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
吐き気をもよおす『邪悪』とはッ!なにも知らぬ無知なる者を利用する事だ……!!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。