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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第99話 Day 63 選んだ結果

 ガンッ――!


 重い金属音が、冷え切った廊下を震わせた。


「神崎! 開けろ!」


 柴田が両手で握ったハンマーを振り上げ、再び2501の扉へ叩きつける。


 ガンッ!


 しかし、分厚い金属製の扉はびくともしない。表面に鈍い音を残すだけで、鍵が壊れるどころか、歪む気配すらなかった。


「クソが……!」


 柴田が苛立ったようにもう一度ハンマーを振り上げる。その隣では、一ノ瀬がインターホンへ向かって声を張り上げていた。


「朝霧! 聞こえてるんでしょ!」


 返事はない。


「この子、本当に具合悪いのよ! 医者なんだから、診るくらいしろよ!」


 それでも扉は開かず、インターホンから朝霧の声が聞こえてくることもなかった。


 一ノ瀬は舌打ちすると、今度は扉そのものへ向かって叫んだ。


「何、自分だけ暖かい部屋に隠れてるのよ! 子供が死にかけてるのよ! それでも医者なの!?」


 その言葉にも反応はなかった。


 少し離れた場所では、母親が毛布に包んだ息子を抱きしめたまま立ち尽くしていた。


 ここまで来れば、朝霧は出てくる。子供を直接見れば、医者である朝霧が見捨てられるはずがない。


 一ノ瀬はそう言った。


 だから母親は、熱で身体を震わせ、ベッドから起き上がることすら辛そうにしていた息子を無理に連れてきた。廊下に出ることすら危険なこの寒さの中を、何度も毛布を掛け直しながら、二十階からここまで上がってきたのだ。


 途中で息子は何度も咳き込んだ。そのたびに母親は立ち止まり、背中を擦った。


『もう少しだからね』


『先生に診てもらったら楽になるからね』


 そう言い聞かせながら、ここまで来た。


 それなのに――何も起きない。


 目の前にある扉は、最初から最後まで閉ざされたままだった。


「……話が違う」


 一ノ瀬が振り返った。


「え?」


「話が違うじゃない……」


 母親の声は小さかったが、はっきりと震えていた。


「朝霧先生なら出てくるって……あなた、言ったじゃない」


「何言ってるの? 私は可能性があるって言っただけでしょ」


「違う……」


「朝霧先生なら病気の子供を放っておけないと思うって言ったの。絶対に助けてもらえるなんて、一度も言ってないわよ」


 母親が一ノ瀬を見る。


「でも……この子を連れてくればいいって……」


「それはそうでしょ。本人もいないのに診察なんてできないじゃない」


「だから私は……!」


 母親の声が大きくなる。


「この子を連れてきたのよ!」


 一ノ瀬の眉が僅かに動いた。


「それを決めたのはあなたでしょ?」


「……え?」


「私は方法を教えただけ。ここまで連れてくるって最後に決めたのは、あなたじゃない」


 母親が固まった。


 一ノ瀬はその表情を見ても言葉を止めなかった。


「それに、悪いのは私じゃないでしょ。子供がこんな状態なのに扉を開けないのは神崎と朝霧なんだから」


「…………」


「私は助けようとしたじゃない」


 母親の腕の中で、息子が小さく咳き込んだ。


「……違う」


「何が?」


「違う!」


 突然響いた大声に、一ノ瀬が僅かに身体を引いた。


「あなたが言ったんでしょ! この子を連れていけば朝霧先生が出てくるって! だから私、この子を……!」


「だから、絶対なんて言ってないって――」


「だったらどうするのよ!」


 母親は息子を抱いたまま、一ノ瀬へ詰め寄った。


「出てこないじゃない! 朝霧先生、出てこないじゃない!」


「私に言われても困るわよ!」


「この子、ずっと熱が下がらないのよ! 薬だってもうないの! さっきから咳だって酷くなってるし、ここまで連れてきたせいで……!」


「だったら部屋に戻ればいいじゃない!」


「あなたが連れてこいって言ったんでしょ!」


 母親の空いている手が一ノ瀬の服を掴んだ。


「ちょっと! 離してよ!」


「どうしてくれるのよ! ねえ! この子に何かあったらどうしてくれるのよ!」


「知らないわよ! 離して!」


「あなたが――」


「うるせえな!」


 柴田の怒鳴り声が割り込んだ。


 次の瞬間、その太い腕が母親の肩を強く押した。


「いつまで騒いでんだよ!」


「きゃっ――!」


 母親の身体が大きくよろめい、片腕で抱えていた息子の身体も一緒に傾いた。


「あっ――」


 母親は咄嗟に抱き留めようとしたが、体勢を崩したままでは支えきれず、二人の身体がそのまま冷たい床へ倒れ込む。


 ゴッ。


 硬い音がした。


 ほんの一瞬だった。


「……え?」


 母親が身体を起こす。


 すぐ隣に息子が倒れていた。


「けんちゃん……?」


 息子の目は薄く開いていたが、焦点が合っていない。


「けんちゃん?」


 母親が慌てて息子を抱き起こす。


「ねえ、けんちゃん。お母さんよ」


 頬を軽く叩くが、反応はほとんどなかった。


「けんちゃん……?」


 もう一度、今度は少し強く頬を叩く。


「ねえ。やめてよ」


 返事がない。


「ねえったら……」


 それまで時折聞こえていた咳も、今は聞こえなかった。


「ねえ……ちょっと……」


 母親の顔から血の気が引いていく。


「けんちゃん! ねえ、けんちゃん!」


 何度も身体を揺する。


「目開けて! お願いだから! ねえ!」


 廊下に母親の声だけが響いた。


「お母さんここにいるから! ねえ、返事して!」


 柴田は何も言わず、手にしたハンマーを下ろしたまま、床に座り込んだ母親を見ている。


 一ノ瀬も黙っていた。


 母親には、そんな二人を見る余裕すらなかった。


「お願い……お願いだから……」


 ぐったりした息子を胸へ抱き寄せる。


「ごめんね……ごめんね……お母さんが連れてきたから……」


 その言葉を聞いた一ノ瀬の視線が僅かに動いたが、何も言わなかった。


「けん……ちゃん……」


 母親の嗚咽が廊下に響く。


 一ノ瀬はしばらくその姿を見下ろしていたが、やがて視線を逸らした。


「……あとで田村をそっちに行かせるから」


 母親は顔を上げない。


「田村に診てもらえばいいでしょ。とりあえず部屋に戻って待ってて」


 返事はなかった。


 一ノ瀬は柴田を見る。


「行こ」


「……ああ」


 柴田もそれ以上2501の扉を叩こうとはしなかった。


 二人の足音が少しずつ遠ざかっていく。


 母親は追わなかった。


 冷たい廊下に座り込んだまま、腕の中の息子を抱きしめ、何度も何度もその名前を呼び続けていた。


 ◇


 2501の監視室。


 朝霧はモニターの前から動けずにいた。


 廊下の監視カメラには、床に座り込んだ母親と、その腕に抱かれた子供が映っている。


 朝霧の手が震え、無意識に一歩、監視室の出口へ向かう。


 転倒。


 頭部への衝撃。


 その後の反応低下。


 画面越しでは何も断定できない。


 だからこそ、直接診なければならない。


 意識状態を確認する。瞳孔を見る。呼吸を確認する。頭部外傷の有無を調べる。必要ならすぐに処置を――。


 そこまで考えて、朝霧の足が止まった。


 扉の向こうには、母親だけがいるわけではない。柴田がいて、一ノ瀬もいて、ハンマーまで持ってきていた。


 もし自分があの扉を開けていたら、その瞬間、柴田が中へ飛び込んでくる可能性は十分にあった。


 分かっている。


 分かっているのに、身体の奥から別の声が聞こえてくる。


 ――患者がいる。


 ――子供だ。


 ――今ならまだ助けられるかもしれない。


 それは何年もかけて染みついた、医者としての習慣だった。


 患者がいれば診る。苦しんでいる人間がいれば手を伸ばす。自分が疲れていようが、眠れていなかろうが、食事を取れていなかろうが関係なかった。


 誰かが待っているなら行く。


 それが当たり前だった。


 少し前までの自分なら、きっともう玄関へ走っていた。


 朝霧はもう一度だけ足を動かしかけた。


 だが――止めた。


 自分の意思で。


 蓮は何も言わなかった。


 止めもしなかった。行けとも言わなかった。


 ただ少し離れた場所から、朝霧の背中を見ていた。


 やがてモニターの中で、母親がゆっくりと立ち上がる。ぐったりした息子を抱え直し、何度も2501の扉を振り返りながら歩き始め、その姿が画面の端へ消えていった。


「……私が」


 朝霧の口から掠れた声が漏れた。


「私が扉を開けてたら……」


「柴田も入ってきてた」


 背後から蓮の声が返ってきた。


 朝霧は唇を噛んだ。


「……分かってる」


「なら、それが答えだ」


「でも……」


 朝霧は誰も映っていなくなったモニターを見つめる。


「私が診ていれば、あの子は助かったかもしれない」


「かもな」


 朝霧が振り返った。


 蓮は否定しなかった。


「……否定してくれないのね」


「可能性はあっただろ」


「あるわよ。実際に診てないんだから、どれくらいだったかなんて分からない。でも……まだ何かできたかもしれない」


「そうか」


「…………」


「なら、助かった可能性はあった」


 蓮はそこで一度言葉を切った。


「同時に、お前が扉を開けたせいで柴田たちが入ってきた可能性もあった。お前がどうなったか、俺がどうなったか、その後ここがどうなったかも分からない」


 朝霧は黙っていた。


「結果を知ってからなら、何とでも言える」


「……でも、私は医者よ」


「知ってる」


「患者を見て、それでも行かなかった」


 朝霧の目から一筋の涙が落ちた。


「子供だったのよ」


「ああ」


「……私、間違ってたのかな」


「さあな」


 朝霧が蓮を見る。


 その答えだけは予想していなかったのか、僅かに目を見開いた。


「俺にも分からない」


「…………」


「ただ、お前は選んだ」


「……何を?」


「あの子を見捨てることじゃない」


 蓮は静かに答えた。


「自分が生きる方を選んだんだ」


 朝霧は何も言えなかった。


 正しかった。


 そう言ってほしかったのかもしれない。


 間違っていない。


 仕方がなかった。


 そう言ってもらえれば、少しは楽になれたのかもしれない。


 けれど蓮は言わなかった。


 朝霧自身にも、それを言うことはできなかった。


 ただ一つだけ確かなのは、あの扉を開けなかったのは蓮ではない。


 最後に拒絶したのは、自分だった。


 そして今も、自分は暖かい2501の中に立っている。


 朝霧は目元を拭った。


「……少し、一人になりたい」


「ああ」


 蓮はそれ以上何も言わなかった。


 ◇


 窓の外では、弱くなった雪がまだ降り続けていた。


 黒崎たちはその頃、指定広域保護地区からそれほど離れていない場所にある小さな建物へ身を寄せていた。


 何に使われていた建物なのかは分からない。


 中には古い棚や机が残され、窓の一部は割れていた。それでも壁と屋根があるだけで、外にいるよりは遥かにましだった。


 建物の中央では、小さな火が燃えている。


 壊れた椅子、棚板、転がっていた木材。


 燃やせるものを少しずつ集めて火へ入れ、その周囲に何人もの住民が座り込んでいた。濡れた手袋を外して手を火へ向ける者、靴についた雪を落とす者、疲れ切って壁にもたれたまま目を閉じる者もいる。


 誰もほとんど喋らなかった。


 ここまで来るだけで、想像以上に体力を奪われていた。


 地図上では遠くない。


 だが、道路はほとんど道路として機能していなかった。


 雪に埋もれた乗用車を避けた先には大型トラックが横転し、別の道へ入れば事故車が何台も重なっている。通れると思った道が数百メートル先で完全に雪に塞がれ、来た道をそのまま戻ったことも一度ではない。


 黒崎はスマートフォンの地図を見る。


 目的地を示す印は、もうかなり近い。


 それなのに、その僅かな距離を縮めるための道が見つからない。


「黒崎さん」


 声をかけられ、黒崎が顔を上げた。


 一緒に来た住民の一人だった。


「明日には……着けますよね?」


 その声に、火の周りにいた何人かも黒崎を見る。


「保護地区です。明日には入れますよね?」


 黒崎はすぐには答えなかった。


 約束などできない。


 今日だって、本当ならもっと先まで進めると思っていた。明日、また道路が塞がっていない保証などどこにもない。


 それでも、不安そうな顔をしている住民たちを見回し、黒崎は小さく頷いた。


「……ああ。あと少しだ」


 住民の表情が僅かに緩んだ。


「よかった……」


「今日はもう無理しない。ここで身体を温めて休む。明るくなってから進める道を探そう」


「分かりました」


 男が火のそばへ戻っていく。


 黒崎はもう一度地図へ目を落とした。


 本当に、あと少しだった。


 少なくとも距離だけなら。


 黒崎は連絡先を開き、蓮へ電話をかけた。


『どうした』


「蓮、今いいか?」


『ああ』


「かなり近くまで来た」


『保護地区か』


「ああ。今は途中の建物で休んでる。壊れた家具とか燃やして、少し身体温めてるところだ」


 黒崎は火の向こうを見る。


「……思ってたより外はひでえよ」


『道か』


「ああ」


 黒崎は苦笑した。


「地図じゃすぐそこなんだけどな。道がねえんだよ」


『進めないのか』


「進める。たぶんな。ただ、まともな道を探すだけで時間がかかる。何回も迂回して、進んだと思ったら戻っての繰り返しだ」


 少し離れたところでは、住民の一人が車から持ってきた水を少量ずつ配っている。


「燃料も無限じゃない。みんなもかなり疲れてる」


『今日はそこで休むのか』


「ああ。そのつもりだ。無理して暗くなってから動く方が危ねえ」


 黒崎は地図を拡大した。


「でも、明日には着けると思う」


『そうか』


「中に入れりゃ、少しは楽になるだろ」


 その言葉には、黒崎自身の期待も混じっていた。


 政府が指定した保護地区なのだから、少なくとも今いる場所よりは遥かに安全なはずだ。


『……そうだといいな』


「何だよ、それ」


『別に』


「相変わらずだな、お前」


 黒崎が少しだけ笑った。


「まあ、着いたらまた連絡する」


『ああ』


「お前も生きてろよ」


『そっちもな』


 通話が切れる。


 黒崎はスマートフォンをしまい、火のそばへ腰を下ろした。


 冷え切った両手を炎へかざす。


 火の向こうでは、疲れ切った住民たちが身体を寄せ合っていた。


 あと少し。明日には着く。


 中へ入ることさえできれば、きっと今よりはよくなる。


 その場にいる誰もが、そう信じていた。


 ◇


 蓮がスマートフォンを置いた頃には、朝霧も少し落ち着いていた。


 リビングのソファに座り、両手で温かい飲み物の入ったカップを包んでいる。


「黒崎さん?」


「ああ」


「もう保護地区に着いたの?」


「いや。かなり近くまでは行ったらしいが、今日は途中で休むそうだ」


「……そう」


 朝霧はカップの中を見る。


「無事に着けるといいわね」


「ああ」


「あなたでも心配するのね」


「恩があるって言っただろ」


「そうだったわね」


 少しだけ沈黙が流れた。


 朝霧はカップをテーブルへ置いた。


「黒崎さんの選択は、正しかったのかな」


 蓮が彼女を見る。


「マンションに残るんじゃなくて、外へ出て保護地区へ向かったこと」


「それは知らん」


 また同じ答えだった。


 朝霧が僅かに苦笑する。


「やっぱりそう言うのね」


「実際、分からないからな」


 蓮はソファの背にもたれた。


「あいつらは自分で決めて出ていった。明日、保護地区へ着いて安全に暮らせるかもしれない。途中で何か起きるかもしれない」


「…………」


「今ここで、正しかったかどうか決める意味があるか?」


 朝霧は答えなかった。


「お前も同じだ」


 その言葉に、朝霧の表情が変わる。


「今日扉を開けなかったことが正しかったのか、間違ってたのか。今は誰にも分からない」


「……でも、結果はいつか出る」


「ああ」


「その結果が、取り返しのつかないものだったとしても?」


「それでもだ」


 蓮はそう言って立ち上がった。


 朝霧はその背中を目で追う。


「どこ行くの?」


「待ってろ」


「?」


 数秒後、蓮が戻ってきた。


 手には一冊のノートと一本のペンがあり、それを朝霧の前のテーブルへ置いた。


「……なに、これ」


「日記帳にでも使え」


「日記?」


 朝霧は怪訝そうに蓮を見る。


「急にどうしたの?」


「正しかったか間違ってたか、今分からないなら記録しとけばいい」


「…………」


「寒波が来てから今まで、何があったか。お前が何を見て、何をして、何を考えたか」


 朝霧の視線がノートへ落ちる。


「俺と会ったことも、俺から聞いたことも」


「あなたのことも?」


「ああ」


「時間が戻ったことも?」


「好きにしろ」


「……いいの?」


「誰かに見せるわけじゃないんだろ」


「今のところはね」


「なら構わん」


 朝霧はノートへ手を伸ばし、まだ一文字も書かれていない白い表紙を指先でなぞった。


「これまでのことを全部書くの?」


「全部じゃなくていい。覚えてることだけでいいだろ」


「今日のことも?」


「ああ」


 蓮は答えた。


「これから起きることも書けばいい」


「…………」


「いつか振り返った時に、自分で判断すればいい」


 朝霧が顔を上げる。


「…………」


「今日のお前が正しかったのか、間違ってたのか」


 朝霧はしばらく蓮を見つめていた。


「……それ、いつになるのかな」


「知らん」


「一年後かもしれない?」


「かもな」


「十年後かもしれない?」


「生きてればな」


「そこは生きてるって言いなさいよ」


「保証できないことは言わん」


 朝霧は呆れたように息を吐いた。


 けれど、その口元はほんの僅かに緩んでいた。


「……変な慰め方」


「慰めてない」


「そういうところよ」


 朝霧はもう一度ノートを見る。


 そして、大切なものを扱うように両手で持ち上げた。


「……ありがとう」


「ああ」


 その日から、朝霧は少しずつ記録を残すようになる。


 最初から順番に書いたわけではない。思い出したことから、一つずつ書いた。


 寒波が始まった日のこと。


 窓の外が白く染まり、それでも数日で終わると思っていた頃のこと。


 医者として住民たちを診続けたこと。


 薬が減り、食料が減り、それでも誰かに呼ばれるたびに部屋を出たこと。


 神崎蓮という男と出会ったこと。


 2501から薬を受け取ったこと。


 初めてこの男を、自分とはまったく違う人間だと思ったこと。


 自分の部屋を住民たちに襲われたこと。


 三浦に追われ、階段を駆け上がったこと。


 2501へ逃げ込んだこと。


 そして蓮から聞いた、もう一つの時間の話。


 蓮が一度死んだこと。


 そして、もう一度この世界を生きていること。


 思い出したことから、少しずつ。


 過去だけではない。


 今日起きたことも、明日から起きることも、朝霧は空いた時間を見つけるたび、その白いページへ書き残していった。


 自分が何を見たのか。何を感じたのか。何を選んだのか。


 いつか、その選択を振り返る日のために。


 ◇


 田村がその部屋を訪れたのは、それからしばらく経ってからだった。


 一ノ瀬から話を聞き、二十階まで降りてきた田村は、母親の部屋の前で足を止めた。


 扉を叩く。


「田村です」


 返事はない。


「一ノ瀬さんから聞きました。お子さんを診に来ました」


 しばらく待つと、ようやく扉の向こうから物音がした。


 ゆっくりと扉が開き、泣き腫らした目をした母親がそこに立っていた。


「……お願いします」


「ああ。診ます」


 田村が部屋へ入る。


 暖房はない。


 冷え切った室内の床に布団が敷かれ、その上に子供が横たわっていた。


 母親はすぐにその隣へ座った。


「さっき転んだんです」


「転んだ?」


「……この子、頭を打って」


 田村の表情が変わる。


「いつです?」


「少し前……」


「それから意識は?」


「疲れて寝てるだけです」


「呼びかけには?」


「……寝てるんです」


 田村はそれ以上聞かなかった。


 子供のそばへ膝をつく。


「診ますね」


 母親は何も言わなかった。


 田村が子供の状態を確認する。


 呼吸、脈、瞳孔。


 何度確認しても、結果は変わらなかった。


 田村の手が止まる。


「…………」


「どうですか?」


 母親が尋ねた。


「寝てるだけですよね?」


 田村は答えなかった。


「熱があったから、疲れたんですよね?」


「…………」


「薬を飲ませれば起きますよね?」


 田村はゆっくり俯いた。


「……残念ですが」


「……何?」


 母親が顔を上げた。


「お子さんは――」


「うそよ……」


 田村の言葉が止まった。


「……え?」


「うそよ。そんなわけないでしょ!」


「ですが……」


「この子は生きてる!」


 母親が息子を抱き起こした。


「ほら! 温かいでしょ!」


「…………」


「さっきまで私と話してたのよ! ねえ、けんちゃん!」


 母親が息子の頬を撫でる。


「先生来てくれたよ。起きて」


 返事はない。


「ほら、眠ってるだけじゃない!」


「……お母さん」


「うるさい!」


 田村が口を閉じる。


「勝手なこと言わないで!」


「ですが……」


「うるさい! もう出ていって!」


「一度、落ち着いて――」


「出ていって!」


 母親が立ち上がり、田村を扉の方へ押した。


「もう出ていって! この子が起きちゃうでしょ!」


「…………」


「早く!」


 田村は何かを言おうとして、やめた。


「……分かりました」


 そのまま部屋を出る。


 扉が閉まった。


 廊下に残された田村は、しばらくその扉を見つめていたが、やがて何も言わず、ゆっくりと歩き去っていった。


 足音が遠ざかる。


 部屋の中は静かになった。


 母親は息子のそばへ戻った。


「ごめんねえ」


 そっと身体を抱き上げ、胸元へ引き寄せると、乱れた髪を指先で整える。


「変な先生だったね」


 優しく頭を撫でた。


「けんちゃんは寝てるだけなのにねえ」


 返事はない。


「大丈夫よ」


 母親は微笑んだ。


「怖かったねえ」


 小さな身体を、さらに強く抱きしめる。


「でも、もう大丈夫だからね」


 何度も、何度も髪を撫でる。


「お母さんがいるから」


 静かな部屋の中に、母親の声だけが響いていた。


「もう誰にも連れていかせないからね」


 母親は息子の額へ頬を寄せた。


「これからは、ずっと一緒だからねえ」


「ふふ……」


 小さな笑い声が漏れた。


 それからも母親は笑いながら、息子の頭をいつまでも優しく撫で続けていた。



――――――――――――――――

Day 63


電力     ▲

ガス     ×

水道     ×

通信     ▲

降雪     微弱


生存確認者  87人


今日のメモ:

「正しかったかどうかは、いつか生き残った自分が決めればいい。」

――――――――――――――――

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

この母親については、きっと賛否わかれるんだろうなと思いながら描きました。

怒りの矛先がちがう、話が通じない、ただのヒステリー、いろんな意見が聞こえてきそうですが、作者は何度も書き直してこの内容にさせて頂きました。

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― 新着の感想 ―
いやぁ、小説のifストーリーで非現実的なのは当たり前なんだけど、この状況になったら…の描写がリアルに想像出来ちゃうのが怖さであり魅力だよね あとがき読んで思う事、万人が賞賛する物語なんて絶対あり得ない…
一ノ瀬ほんまそういうとこやで罪悪感ないんかな
なんか、バットエンドの匂いがしてきたな。ううっ、泣けてきた。お母さんは悪くないよ。縋ってはいるけれど攻撃はしていないだろ。蓮さんが非情になりすぎて、朝霧先生が吹っ切れた傍観者になりつつあるね。これは、…
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