↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
102/162

第100話 Day 64 葛藤

昨夜――。


田村が柴田の部屋を訪れたのは、マンション内からほとんど人の気配が消えた頃だった。


扉を開けた柴田は何も言わずに田村を中へ通した。部屋には一ノ瀬もいたが、松本たちの姿はない。残っている仲間は食料を置いている保管場所の見張りに回っており、リビングには柴田と一ノ瀬、それに入ってきた田村の三人だけだった。


「で?」


柴田はソファへ戻りながら、面倒そうに田村を見る。


「どうだった」


何について聞いているのか、確認する必要はなかった。田村はしばらく口を開かず、その様子を見た柴田の眉が僅かに動く。


「……何だよ」


「先ほど、確認しましたが」


田村はそこで一度言葉を切った。


「……亡くなりました」


柴田の動きが止まった。


「……死んだのか?」


「はい」


田村が答えると、柴田は何も言わなくなった。テーブルの上に置いてあった煙草へ手を伸ばし、一本を口に咥えてライターを鳴らす。


だが、一度では火がつかなかった。


もう一度鳴らすと、ようやく小さな炎が煙草の先を赤く染めた。柴田は深く煙を吸い込み、しばらく肺の中に溜めてから、ゆっくりと吐き出す。


「……そうかよ」


それだけだった。泣くわけでも、謝るわけでもない。自分がやったことを悔やんでいるようにも見えなかったが、それでも、いつもの柴田ならその一言すら必要なかったはずだった。


一ノ瀬がそんな柴田を横から見ていた。


「別に私らのせいじゃないじゃん」


柴田が顔を向ける。


「……あ?」


「だってそうでしょ?」


一ノ瀬は当たり前のことを説明するように言った。


「そもそも朝霧が出てきてれば、あんなことになってないんだから」


田村が僅かに目を動かしたが、一ノ瀬は気にする様子もなく続ける。


「具合悪い子供を連れて行ったのに、医者なのに出てこなかったんでしょ? それに、あの人だっていきなり私に掴みかかってきたじゃん」


「……まあ、そうだけどよ」


柴田はもう一度煙草を吸った。


「流石にガキだとな……」


「何言ってんの?」


一ノ瀬が怪訝そうな顔をする。


「もう何人も殺してるくせに」


部屋が静かになった。


柴田は煙草を口元から離し、田村も一瞬だけ一ノ瀬を見る。だが、一ノ瀬だけは二人がなぜ黙ったのか分からないような顔をしていた。


「何?」


柴田はしばらく一ノ瀬を見ていたが、やがて視線を外し、短くなった灰を灰皿へ落とした。


「……別に」


一ノ瀬もそれ以上追及しなかった。


「それより」


今度は柴田を見る。


「誰かに見られてたとかないよね?」


「いねえよ」


柴田は面倒そうに答えた。


「俺が押した時、周りには誰もいなかった」


「だよね?」


「いたら分かるだろ」


一ノ瀬は少し考え、それから田村へ視線を向ける。


「グループは?」


田村はポケットからスマートフォンを取り出し、マンション内のグループを確認した。何度か指を滑らせ、昨夜からの書き込みを一通り確認してから顔を上げる。


「……今のところ、それらしい話は出ていませんね」


一ノ瀬は小さく息を吐いた。それが安堵だったのかどうかは分からない。


「あの階って、三部屋だよね?」


突然話が変わり、柴田が眉を寄せる。


「何の話だよ」


「二十五階」


一ノ瀬は柴田を見る。


「神崎のところ。剛たちが壁壊した部屋って2502でしょ?」


「ああ」


「あそこに住んでた夫婦は?」


今度は田村が答えた。


「2502のご夫婦なら、あの一件で部屋の壁を壊されてから、しばらくしてマンションを出ていますよ」


「あ、そうなんだ」


「さすがにあの状態では住み続けられなかったんでしょう。壁もかなり壊されていましたから」


一ノ瀬は少しだけ考えた。


「じゃあ今、二十五階にいるのって神崎だけ?」


「そうですね。2503も以前から空室ですから、今も残っているなら神崎さんだけです」


「あっそ」


一ノ瀬はソファの背にもたれた。


「なら好都合じゃん」


田村が一ノ瀬を見る。柴田も僅かに眉を動かしたが、何も聞かなかった。一ノ瀬自身もすでにこの話には興味をなくしたように、スマートフォンへ視線を戻している。


その時だった。


コン、コン。


扉が鳴り、柴田が顔を上げる。


「誰だ」


『……俺です』


少し間があった。


『松本です』


「待ってろ」


柴田が扉を開けると、松本が入ってきた。だが、いつものように勝手にソファへ座ろうとはせず、扉の近くに立ったまま動かない。


「……剛さん」


「あ?」


松本はすぐには続きを言わなかった。その顔を見て、柴田も何かを感じたのか、ソファから僅かに身体を起こす。


「何だよ」


「大野が……」


柴田の眉が動く。


「大野がどうした」


松本は一度唾を飲み込んだ。


「……息してないんです」


柴田が動かなくなった。


「……は?」


「何回呼んでも起きなくて……身体も冷たくなってます」


柴田は何も言わなかった。


大野の状態が悪いことは分かっていた。怪我をしてからほとんどまともに動けず、食事を取る量も目に見えて減っていた。それでも大野は、旧マンションからここまで一緒に来た人間だった。配給に並んでいる名前も知らない住民たちとは違う。


柴田は口元まで持っていった煙草を止めたまま、しばらく動かなかった。


「……マジかよ」


松本は何も答えない。


その横から、一ノ瀬が口を開いた。


「……じゃあ、地下にでも運んどけば?」


松本が顔を上げ、柴田もゆっくりと一ノ瀬を見る。


「……え?」


「だから地下」


一ノ瀬は二人の反応を気にする様子もなく松本を見る。


「他の死んだ人たちも地下駐車場に運んでるんでしょ?」


松本はしばらく何も言わなかった。


「……大野だぞ」


「分かってるけど?」


一ノ瀬は眉を寄せる。


「だからって、ここに置いとくわけにもいかないでしょ」


また部屋が静かになった。


ほんの少し前、一人の子供が死んだと聞いた時も、この女だけは何も変わらなかった。そして今度は、ここまで一緒に来た仲間が死んだと聞いても、その反応はまるで同じだった。


柴田が煙草を灰皿へ押しつける。


「……お前、ちょっと黙ってろ」


一ノ瀬が柴田を見る。


「何よ」


「いいから黙ってろ」


「でも――」


「黙れっつってんだろ」


一ノ瀬は不満そうに口を閉じた。柴田はそれ以上一ノ瀬を見ることなく、松本へ視線を戻す。


「……運んどけ」


「剛さん……」


「そのまま置いとくわけにもいかねえだろ」


柴田は一度だけ大きく息を吐いた。


「ただ、今じゃねえ」


「……はい」


「もっと遅くなってからだ。住民には見られんな」


松本はしばらくその場に立っていたが、やがて小さく頷いた。


「……分かりました」


扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻った。柴田は灰皿の中で潰れた煙草を見つめたまま動かず、一ノ瀬はそんな柴田を気にする様子もなく、またスマートフォンへ視線を戻していた。



◇



朝。


水道が完全に止まってから三日が経っていた。


各家庭に汲み置きしていた水はまだ多少残っているものの、その量にはかなりの差がある。住民たちは昨日から本格的に雪を溶かし、不足分を補い始めていた。まだ誰かの家へ押し入って水を奪うような事態にはなっていないが、廊下を歩く人間の姿には日に日に疲労の色が濃くなっている。


頬が痩せ、壁に手をつきながら階段を上る者もいれば、何度も咳を繰り返している者もいた。以前なら病院へ行くか、一日家で休めば済んだ程度の体調不良であっても、食事も暖房も十分ではない今の環境では、簡単には回復しない。


それでも配給の時間になれば、人は集まってくる。体調が悪かろうが身体が重かろうが、今日の食料だけは受け取らなければならない。それを取りに来られなくなった時、自分がどうなるのかは、誰も口にしなかった。


「次」


一ノ瀬の声に、前にいた住民が袋を受け取って離れていく。


「次」


また一人が前へ出る。


一ノ瀬は次の袋を手に取りながら、並んでいる住民たちへ何気なく視線を向けた。昨日の母親はいない。そのまま一人、また一人と配給を終え、列が短くなっていっても、最後までその姿が現れることはなかった。


一ノ瀬は何も言わない。


「次」


そのまま配給を続けた。


やがて住民の一人が、受け取った袋の中を覗き込みながら口を開いた。


「……あの」


「何?」


「食料って、あと何日分あるんですか?」


一ノ瀬の手が止まった。


「え?」


「いや……最近、少しずつ量も減ってるじゃないですか」


男は袋を持ったまま、一ノ瀬を見る。


「今の量で配って、あとどれくらい持つんですか?」


周囲にいた住民たちの視線が集まり、別の住民も続く。


「水も止まってますし……このままずっと雪を溶かすんですか?」


「大丈夫よ」


一ノ瀬はすぐに答えた。


「配給量も調整してるし、ちゃんと考えて配ってるから」


これまでは、その一言で終わっていた。少なくとも、住民たちはそれ以上聞こうとはしなかった。


だが今日は違った。


「……何が大丈夫なんですか?」


一ノ瀬が男を見る。


「だから、あと何日あるのか聞いてるんです。明日も大丈夫って意味なのか、一週間なのか、それ以上なのか。それくらいは分かるでしょ?」


「そんなの、これから何が起きるかで変わるでしょ」


「でも、残ってる量は分かりますよね?」


周囲が静かになった。


誰も怒鳴っているわけではなく、食料を奪おうとしているわけでもない。ただ、自分たちがあとどれくらい生きられるのか、その目安くらいは知りたがっていた。


「そういえば……三浦さんは?」


別の住民が口を開く。


「最近見てないけど」


一ノ瀬はほんの一瞬だけ黙ったが、その程度で表情を崩す女ではない。


「三浦なら、ちょっと体調を崩してるだけよ」


「体調?」


「今は部屋で休んでもらってる」


「でも、三浦さんが食料を管理してたんじゃないんですか?」


一ノ瀬の眉が僅かに動く。


「今は私たちでやってる」


「じゃあ、残りは分かりますよね?」


話がまた同じ場所へ戻った。


「……まだ問題ないわ」


「どれくらい?」


「だから、今すぐなくなるような量じゃないって言ってるでしょ」


「だったら……」


男は少し躊躇してから言った。


「残ってる食料、見せてもらえませんか?」


「…………」


一ノ瀬はすぐには答えなかった。


その時だった。


「さっきから何騒いでんだ」


柴田が廊下へ出てきた。


その姿を見ただけで、それまで質問を続けていた住民たちの空気が変わる。一ヶ月近く積み重ねられてきた恐怖は、疑問を持った程度で簡単に消えるものではない。


柴田は住民たちを睨みつけた。


「食い物なら毎日配ってんだろ」


誰も答えない。


「だったら黙って受け取っとけ。余計なこと考えてる暇があったら、水でも作ってろ」


住民たちは互いの顔を見ながら、少しずつその場を離れ始めた。まだ柴田は怖い。逆らえば殴られるかもしれず、次の配給から外されるかもしれない。そんな恐怖を押し退けてまで、正面から逆らえる人間はいなかった。


ただ、最後まで残っていた男が背を向ける直前、小さく呟いた。


「……残りくらい、知る権利あるだろ」


「……あ?」


柴田が振り返る。


男は一瞬だけ柴田を見たものの、すぐに目を逸らした。


「だったら最初から黙ってろ」


柴田は鼻を鳴らした。


配給所から人が消えていく。まだ、誰も柴田には逆らわない。それでも、以前なら口にすらされなかった言葉が、今日は確かに聞こえた。



◇



監視室では、朝霧が住民たちのやり取りをモニター越しに眺めていた。最後の住民が画面から消れるまで見届けてから、隣にいる蓮へ声をかける。


「……昨日のこと、特に騒ぎにはなってないみたいね」


蓮も同じ画面を見たまま答えた。


「そうみたいだな」


それだけだった。


朝霧はしばらく誰もいなくなった画面を見ていたが、やがて視線を机へ戻した。そこには昨日、蓮から渡された一冊のノートが置かれており、すでに何ページかが細かな文字で埋まっている。


蓮もそれに気づいた。


「もう書いてるのか」


「書けって言ったの、あなたでしょ」


「昨日のことか?」


「ううん」


朝霧はノートを開いた。


「最初から」


「最初?」


「寒波が始まった頃から」


朝霧はページを指で捲りながら、これまで書いた部分へ視線を落とす。


「覚えてることを少しずつ書いてる。何が起きたのか、誰と会ったのか、自分が何をしたのか。昨日のことまで辿り着くのに、まだかなりかかりそうだけど」


「そうか」


蓮はそれ以上聞かなかった。


朝霧も再びペンを持つ。


ただ、忘れないために書く。自分が正しかったのか、それとも間違っていたのか、それを今ここで決めるためではない。いつかこの日々を振り返ることができた時、その時の自分自身が判断できるように。


朝霧はページの続きを開き、新しい一行を書き始めた。



◇



昼前。


黒崎たちの車列は、再び止まっていた。


黒崎は先頭車両から降りると、雪に足を取られながら道路の先まで歩いていった。百メートルほど進んだところで足を止め、目の前の光景を見て小さく息を吐く。


駄目だった。


大型トラックが交差点を塞ぐように横転し、その周囲には何台もの乗用車が折り重なるように放置されている。そこへ大量の雪が積もり、車体ごと凍りついているせいで、すでに道路と車の境目すら分からない。右側は建物に塞がれ、左側には人の背丈を超える雪の壁ができており、車一台が通れる隙間さえ残されていなかった。


黒崎は念のためさらに先まで歩いてみたが、結果は変わらなかった。人ならどうにか通れる。しかし、車を進ませるのは無理だった。


しばらくその場で道路の先を睨んでいた黒崎は、やがて諦めて来た道を戻った。車の周囲では住民たちが待っており、その顔を見れば、誰もが黒崎の答えを待っていることが分かる。


「……駄目だ。この先は車じゃ通れない」


すぐに声が上がった。


「迂回は?」


「さっきの道も塞がってた」


「他は?」


「地図にある道はほとんど試した」


「じゃあ、どうするんですか?」


黒崎は一度、雪に塞がれた道路の先へ目を向けた。


「ここから歩く」


誰も喋らなかった。


数秒遅れて、誰かが聞き返す。


「……歩く?」


「ああ」


「この寒さで?」


「歩ける道はある。距離も、地図の上ではもうそれほど遠くない」


「どれくらいですか?」


黒崎はすぐには答えなかった。


「黒崎さん」


「……正確には分からない」


その一言で、周囲の空気が変わった。


「分からないって……」


「道路が地図通りに使えない。真っ直ぐ行ければ近い。でも、歩いてどれだけ迂回することになるかまでは分からない」


「そんな……」


別の男が声を上げる。


「怪我してる人もいるんですよ!」


「分かってる」


「分かってるって……歩けるわけないだろ!」


それまで黙っていた別の住民も、堪えきれなくなったように口を開いた。


「だから言ったんだよ……マンションに残った方がよかったんじゃないのか?」


「おい」


すぐに別の男が止める。


「今さら黒崎さんのせいにすんなよ」


「でも黒崎さんが言ったんだろ! 安全地区へ行けば助かるって!」


「お前だって賛成しただろ!」


「こんなことになるなんて聞いてねえよ!」


「誰が分かるんだよ!」


「やめろ!」


黒崎の声が響き、それまで互いに言葉をぶつけていた住民たちが一斉に黙った。


黒崎は誰か一人を睨むこともなく、その場にいる者たちの顔を順番に見ていく。誰もが疲れ切っていた。寒さと不安に削られ、マンションを出たことが本当に正しかったのか、その判断さえ揺らぎ始めている。


黒崎自身も同じだった。


「……俺が言った。安全地区へ行こうって言ったのは俺だ。ここに残るより、向こうへ行った方が安全なはずだって、俺がみんなに言った」


誰も口を開かない。


「だから俺を責めたいなら、それでいい」


「黒崎さん……」


「でも、ここで誰が悪いって言い合っても道は開かない。保護地区がこっちまで迎えに来てくれるわけでもない」


黒崎は雪に埋もれた道路の先を指した。


「俺たちが行くしかない」


住民たちは黙ったまま黒崎を見ていた。


「歩ける奴は荷物を持ってくれ。持っていけないものは置いていく。動くのが厳しい人は交代で支える」


「でも……」


「俺もやる」


黒崎は即座に答えた。


「誰か一人だけに背負わせるつもりはない」


その時、負傷している男が車内から声を出した。


「……俺、ここに置いていっていい……」


黒崎が振り返る。


「駄目だ」


「でも俺がいたら――」


「駄目だ」


今度は、先ほどよりもはっきり言った。


「マンションで何人も死んだ。襲われた時にも四人死んだ。あの四人の顔、俺はまだ忘れてない」


黒崎の声が僅かに低くなる。


「これ以上減らしてたまるか」


男は何も言えなくなった。


黒崎はもう一度住民たちを見回す。


「ここまで来たんだ」


そして言った。


「行こう」


一度だけ息を吸う。


「全員で」


すぐに動き出す者はいなかったが、やがて一人の男が車の荷台から荷物を降ろし、必要なものと置いていくものを分け始めた。それを見た別の男も無言で加わり、少しずつ全員が動き始める。


「……俺、こっち持ちます」


「じゃあ俺は水」


「毛布は?」


「持っていけるだけ持とう」


最後まで文句を言っていた男も、やがて黙って荷物を背負った。


黒崎は最後に、ここまで自分たちを運んできた車を振り返った。キーを抜いてポケットへ入れると、それ以上振り返ることなく、雪に埋もれた道路の先へ向かって歩き始めた。



◇



三十分ほど進んだ頃、後ろから「黒崎さん……」と声をかけられた。


振り返ると、歩いている者たちの間隔がかなり広がっている。足取りも明らかに遅く、負傷者を支えている二人に至っては、支えられている本人以上に疲れているように見えた。


黒崎は周囲を見回した。


少し先に、雪に埋もれかけた小さな建物がある。


「……あそこで休む」


すぐに反対の声が上がった。


「もう休むんですか?」


「ああ」


「でも、暗くなる前に少しでも進んだ方がいいんじゃ……」


「駄目だ」


黒崎は首を振った。


「歩けなくなってから休んだら遅い。一回身体を温める。食べて、水も飲む」


その言葉を聞いた一人が、自分の背負っている荷物へ視線を落とした。


「食べるんですか?」


「ああ」


「でも食料、もうそんなに残ってませんよ」


「分かってる」


「安全地区までどれくらいかかるかも分からないんですよね? だったら少しでも残した方が……」


それは間違った意見ではなかった。残り少ない食料と先の見えない道を考えれば、少しでも長く持たせようとするのは当然だった。


黒崎も少し黙った。


「……安全地区に着けば、食料はあるはずだ」


男が不安そうに黒崎を見る。


「はずって……」


「いや」


黒崎は一度言葉を切った。


「きっとある」


そこに確かな根拠があるわけではない。政府が発表した保護地区なのだから、避難民を生かすための食料も水も用意されているはずだと、今はそれを信じるしかなかった。


「今の俺たちに必要なのは、食料を一日長く持たせることじゃない。そこまで歩ける身体を残すことだ」


黒崎は全員を見る。


「腹が減ったまま無理して歩いて、一人動けなくなったら、その人を支える奴まで疲れる。そうなればもっと遅くなる」


そう言って、少し先の建物を指した。


「だから食おう。水も飲め」


「……いいんですか?」


「ああ。ちゃんと休んでから行く」


黒崎は先に建物へ向かい、数人がそれに続いた。入口周辺の雪をどかして内部に人がいないことを確かめると、使えそうな場所と換気できる場所を探し、残されていた木材や持ってきた燃料を使って火を起こした。


決して大きな火ではない。それでも皆が周囲へ集まり、手袋を外して手をかざすと、凍りついていた指先へ少しずつ感覚が戻ってくる。


誰かが長く息を吐いた。


持ってきた食料と水も全員へ分けられた。最初は残りを気にして躊躇していた者たちも、一人が口にすれば、それに続くように食べ始める。


黒崎も皆と同じものを食べた。


多くもなく、少なくもない。


しばらくすると、完全に消えていた会話が少しずつ戻ってきた。


「……温かいだけで全然違うな」


「ああ」


「足、感覚戻ってきた」


誰かの小さな笑い声まで聞こえた。


先ほど黒崎を責めていた男が、火を挟んだ向こう側から黒崎を見ている。


「……黒崎さん」


「ん?」


「さっきは……」


黒崎は男が続きを言う前に止めた。


「後でいい」


「え?」


「今は休め」


男はしばらく黒崎を見ていたが、やがて小さく頷いた。


「……はい」


黒崎も壁へ背中を預け、ようやく少しだけ身体の力を抜いた。目を閉じれば、すぐにでも眠ってしまいそうなほど疲れている。怖くないわけでもなかった。


それでも、ここで止まるわけにはいかなかった。



◇



休憩を終え、再び歩き始めてからしばらく経った頃だった。


最初に気づいたのは、先頭を歩いていた男だった。


「……人?」


黒崎が顔を上げると、前方の交差点を数人の人間が歩いている。こちらへ向かっているのではなく、黒崎たちと同じ方向へ進んでいた。


近づいてみると家族連れだった。父親らしき男が大きな荷物を背負い、女が子供の手を引いている。


距離が縮まったところで、黒崎が声をかけた。


「すみません」


男が警戒したように振り返る。


「……何ですか」


「保護地区へ?」


男は一瞬黙り、それから頷いた。


「はい」


黒崎たちの中から「やっぱり……」と小さな声が漏れた。


男も黒崎たちを見る。


「あんたらも?」


「そうです」


「なら、こっちで合ってます。さっきも何組か同じ方向へ歩いてました」


「ありがとうございます」


家族が先へ進んでいくのを見送り、黒崎たちも再び歩き始めた。


それからだった。


進むほどに、同じ方向へ向かう人間の姿が増えていった。一組、また一組と別の道から合流し、荷物を背負った男や、簡単なソリに荷物を積んで引く家族、老人を左右から支えて歩く若者、子供を背負った母親、足を引きずる怪我人までいる。


誰もが疲れ切り、寒さに耐えながら、それでも全員が同じ方向へ歩いていた。


「……みんな、保護地区に行くのか」


住民の一人が呟く。


黒崎は前を見たまま答えた。


「ああ」


少なくとも、方向は間違っていない。


その事実だけで、皆の足取りが僅かに軽くなった。



◇



二度目の休憩を取る頃には、もう誰も黒崎の判断へ反対しなかった。


黒崎が少し先の建物を指す。


「次、あそこで休もう」


すると一人がすぐに前へ出た。


「俺、中見てきます」


「じゃあ俺、燃やせそうなもの探す」


「こっちは怪我人連れてく」


黒崎は何も言わず、その様子を見ていた。


最初の休憩とは違う。誰かに指示されるのを待つのではなく、それぞれが今の自分にできることを考えて動き始めている。


再び火を起こし、残っていた食料を出す。


もう多くはなかった。


黒崎は袋の中を確認してから皆を見る。


「……これ食ったら、ほとんど残らないぞ」


すると、近くにいた男が小さく笑った。


「向こうにあるんでしょ?」


黒崎が男を見る。


つい数時間前、自分を責めていた男だった。


黒崎も少しだけ笑った。


「……ある」


「じゃあ食いましょう」


「ああ」


最後に近い食料を皆で分けた。これでもう、途中で何日も足止めされれば持たない。


後戻りもできない。


それでも休憩を終えて建物から出た時、マンションへ戻ろうと言う者は一人もいなかった。



◇



午後。


時間が経つにつれ、人の流れはさらに大きくなっていた。


もはや道路を歩いているのは黒崎たちだけではない。別の道から来た避難民が合流し、さらに別の道から新しい集団が加わってくる。数十人だった人の流れはいつしか百人を超え、そのさらに先にも途切れることなく人影が続いていた。


「……すごい数だな」


誰かが呟く。


別の男が不安そうに周囲を見回した。


「これ……全員入れるんですかね」


黒崎は答えられなかった。


政府がどれほどの規模の施設を準備しているのかも、そこへ何人を受け入れられるのかも知らない。それでも今は、前へ進むしかなかった。


やがて空が暗くなり始め、長時間歩き続けた者たちの疲労も限界へ近づいていく。足を止める者が出るたびに、黒崎はその傍まで戻って声をかけた。


「もう少しだ」


「次の交差点まで行こう。そこで一回止まる」


「急がなくていい。止まらなきゃいい」


負傷者の肩を担ぎ、重そうな荷物があれば代わりに持つ。遅れている者がいれば足を止め、追いつくまで待った。


誰かを置いて先へ行くことだけはしなかった。


そして――。


「……黒崎さん」


誰かが立ち止まった。


「どうした」


男は答えず、ただ前を指している。


黒崎もその先へ目を向けた。


最初は何なのか分からなかった。


暗くなり始めた空と、雪に覆われた灰色の街。そのずっと向こうに、いくつもの白い光が浮かんでいる。


一つではない。


道路を照らす照明だけでなく、高い位置から雪面を照らす巨大な投光器が何基も並び、さらにその奥には、いくつもの建物から漏れる明かりまで見えていた。


この二か月、ほとんど見ることのなかった規模の人工光だった。


「……あった」


後ろから声がした。


「保護地区……?」


さらに別の誰かが呟く。


「本当に……あった……」


泣き始める者がいた。


黒崎もすぐには言葉が出なかった。


自分が皆へ言い続けてきたものが、遠くに見えるあの光の中に、本当に存在している。


しばらくその光を見つめてから、黒崎は再び足を踏み出した。


「……行こう」


今度は誰も反対しなかった。



◇



近づくほど、その規模がはっきりと分かってきた。


黒崎たちが想像していた避難所とはまるで違う。


広大な敷地が巨大なフェンスで囲まれ、その内外を何十基もの照明が昼間のように照らしている。大型施設も一棟ではなく、巨大な倉庫や体育館ほどの建物、行政施設らしき棟や医療施設が何棟も並び、その一角には大量の車両が整然と並べられていた。


雪の中では除雪車が絶えず動き、救急車や輸送車両が次々と出入りしている。防寒装備を身につけた職員、警備要員、医療班が忙しく行き交い、二か月近く失われていた社会の機能が、この場所だけでは今も動き続けていた。


「……でかいな」


誰かが呟く。


「これ全部……保護地区なんですかね」


黒崎も施設を見上げた。


「……たぶんな」


だが、それ以上に圧倒されたのは人の数だった。


施設へ続く導線には大量の避難民が並んでいる。家族連れもいれば、老人や怪我人、子供もいる。黒崎たちと同じように長い距離を歩いてきた者も、別の場所から車で辿り着いた者もいた。


その大勢の避難民を前に、職員たちが声を張り上げて誘導している。


『止まらず進んでください!』


『歩行困難者はこちらです!』


『ご家族は離れないようにしてください!』


『体調不良者は医療班へ申し出てください!』


誰も避難民を見捨てようとしているわけではない。職員も警備員も医療班も、押し寄せ続ける人々を一人でも多く施設内へ入れるため、休む暇もなく動き続けている。


ただ、あまりにも人が多かった。


黒崎たちもその列へ加わり、少しずつ前へ進んでいく。


やがて施設の入口まで辿り着くと、職員が黒崎たちを見た。


「何名ですか?」


黒崎が人数を答え、すぐに付け加える。


「怪我人がいます」


「こちらへ!」


その一言ですぐに医療班がやってきた。


ここまで皆で支えてきた男の状態を確認すると、手際よく担架へ乗せる。


「いつ負傷しました?」


「数日前です」


「意識は?」


「あります」


「分かりました。こちらで診ます」


男が運ばれていくのを、黒崎はしばらくその場で見ていた。


本当に医者がいる。


本当に助けてくれる。


「次の方、止まらず中へ!」


職員の声に押されるように、黒崎も建物の中へ入った。


扉を潜った瞬間、思わず足が止まりそうになった。


暖かい。


ただ、それだけだった。


それだけのことが、今は信じられないほど特別なことになっていた。


後ろから入ってきた住民たちも同じだった。


「……あったかい」


誰かが呟き、別の誰かはその場で泣き始めた。


黒崎は何も言わず、長く息を吐いてから職員の誘導に従って奥へ進んだ。


案内された先には巨大なホールがあり、床には簡易マットが並び、毛布に包まれた大勢の避難民が座っていた。給水場所が設けられ、職員が絶えず行き交い、暖房も照明も動いている。壁には受付番号を示す表示まであり、これまで自分たちがいたマンションとは何もかもが違った。


途中で黒崎を責めた男が、隣へ立った。


「……黒崎さん」


「ん?」


男は少し俯いた。


「……すみませんでした」


黒崎は男を見る。


「何が?」


「途中で……あんなこと言って」


黒崎は少しだけ笑った。


「俺だって不安だったよ」


「でも……」


「着いた」


黒崎は周囲を見た。


暖かい空気の中を動き回る職員。医療班に運ばれていった怪我人。給水所で水を受け取る避難民。そして、ここまで自分についてきた仲間たち。


「それでいいだろ」


男はしばらく黒崎を見ていたが、やがて小さく頷いた。


「……はい」


そこへ職員がやってきた。


「皆さん、長時間の移動でお疲れだと思います。本日はまず、こちらで待機してください。順番に受付と健康状態の確認を行います」


「分かりました」


黒崎が答えると、職員はすぐに次の避難者のところへ向かっていった。


黒崎は空いている場所へ腰を下ろし、仲間たちも次々とその周囲へ座っていく。もう歩かなくていい。今夜は外で火を起こせる場所を探す必要もなく、水もあれば医者もいる。そして何より、政府はまだ動いている。


黒崎は壁へ背中を預け、ゆっくりと目を閉じた。


ようやく、ここまで来た。


全員で。


──────────────────


Day 64


電力 ▲

ガス ×

水道 ×

通信 ▲

降雪 微弱


生存確認者 87人


今日のメモ:


「辿り着くまで、正しいかどうかは分からない。」


──────────────────



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
黒崎さんがたどり着いて本当に良かった
サイコパス一ノ瀬
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。