第101話 Day 65 指定広域保護地区
翌朝、黒崎が目を覚ました時、最初に感じたのは寒さではなかった。
薄い毛布の向こうから聞こえてくる人の話し声と、広いホールの天井を一定の間隔で照らしている白い照明。それから、どこかで動き続けている空調の低い音だった。
床に敷かれた簡易マットの上では、昨日ここへ辿り着いた避難者たちが次々と身体を起こしている。泣いている子供もいれば、まだ眠っている老人もいる。壁際では職員が紙コップに水を注ぎ、医療スタッフが夜の間に体調を崩した者を診ていた。
暖かい。
それだけのことが、黒崎にはまだ信じられなかった。
昨日まで、自分たちは外に出るだけで死を意識していた。マンションでは病人が次々に亡くなっていき、襲撃された時には四人を失った。
ここへ向かう途中にも何度も足を止め、道路が塞がり車を捨ててからは、荷物を背負い、怪我人を支えながら雪の中を歩いた。それが今は、風の音さえ聞こえない場所で眠り、水を飲めている。
「黒崎さん」
声をかけられて振り返ると、一緒に来た男が立っていた。
「受付、始まるみたいです」
「ああ。みんなを起こそう」
昨日の夜は最低限の確認だけで中へ通されたが、それは吹雪の中から来た人間を入口で長時間待たせないためだったらしい。本格的な登録は翌朝から行われ、ホールの一角にはすでに複数の受付が設けられていた。
順番が来ると、氏名、生年月日、住所、家族関係などの基本情報から確認が始まり、身分を証明できるものがあれば提示を求められた。その後は持病、服用中の薬、感染症状の有無、怪我の状態など、健康に関する質問へ移っていく。
そこまでは黒崎も予想していた。
少し意外だったのは、その次だった。
「以前のお仕事を教えていただけますか?」
「仕事?」
「はい。寒波以前のもので構いません。資格や業務経験などもあればお願いします」
職員の前に置かれた端末には、電気、機械、建築、通信、医療、調理、大型車両など、かなり細かな項目が並んでいた。資格がなくても経験があれば申告でき、最後には現在の健康状態で作業が可能かどうかまで確認された。
「避難してきた人も働くんですか?」
「もちろん体調に問題がない方だけです。この規模の施設を職員だけで維持するのは難しいですから。清掃や物資の運搬、調理補助など、専門資格がなくてもお願いできる仕事はたくさんあります」
「なるほど」
黒崎は素直に頷いた。ここまで来れば何もせずに食わせてもらえると思っていたわけではない。むしろ、できることがあるならやった方がいい。それでこの場所を維持できるのなら、働ける人間が働くのは当然だと思えた。
登録を終えたところで、黒崎は昨日から気になっていたことを尋ねた。
「あの、昨日ここへ一緒に来た仲間なんですけど、怪我をして運ばれた人がいて。見舞いに行くことはできますか?」
「お名前をお願いします」
黒崎が答えると、職員は端末を操作した。しばらく画面を確認してから、その表情が少しだけ改まる。
「こちらの方でしたら、すでに別の医療施設へ移送されています」
「別の?」
「はい。怪我の状態から、こちらよりも適切な治療が可能な施設での対応が必要と判断されたようです」
黒崎は一瞬驚いたものの、すぐに肩の力を抜いた。昨日まで自分を置いていけと言っていた男だ。ここまで連れてきたものの、あの状態で本当に助かるのかという不安は残っていた。
「じゃあ、治療してもらえてるんですね」
「もちろんです」
「会いに行くことは?」
「申し訳ありません。別施設になりますので、こちらから面会することはできません」
「そうですか……」
「ただ、ご安心ください。治療を終え、こちらでの生活に問題がない状態まで回復すれば、再び合流することも可能です」
「……分かりました。ありがとうございます」
黒崎は頭を下げた。
よかった。
少なくとも、ここまで連れてきたことは無駄ではなかった。自分たちではどうすることもできなかった怪我を、今は専門の人間が診てくれている。それだけで十分だった。
午前の登録が一通り終わると、黒崎たちの一団は職員から再び集まるよう指示された。
「それでは、これから本収容区画へご案内します」
「本収容区画?」
黒崎は思わず聞き返した。
昨夜からいるこの場所だけでも、十分すぎるほど巨大だった。広い防災公園の中には複数の大型施設があり、物資倉庫や医療スペース、車両区画まである。黒崎自身、寒波が来る前からこの辺りに大きな防災施設があることくらいは知っていた。
職員は慣れた様子で説明した。
「現在いる場所は主に新規避難者の受付、応急医療、物資の集積、それから一次滞留に使用しています。長期的な居住については別区画になります」
「……ここじゃないんですか?」
「はい。こちらです」
案内されたのは建物の奥にある地下駐車場だった。
そこからさらに一般車両区画の端まで歩くと、古びたシャッターの前で職員がカードをかざした。《関係者以外立入禁止》と書かれた表示は新しいものではなく、寒波が始まってから急造された設備には見えない。ゆっくりとシャッターが上がると、その向こうには車両がすれ違えるほど幅のある下り坂が続いていた。
「まだ下にあるのか……」
誰かが呟いた。
黒崎たちは職員の後について坂を下った。最初に目に入った深度表示は地下十八メートル。それを過ぎても通路は終わらず、二十七メートル、三十六メートルと数字は大きくなっていく。
深くなるにつれて壁沿いの配管は太くなり、電力ケーブルや設備室も増えていった。途中には別方向へ延びる車両用通路があり、小型の作業車が荷物を積んで走っていく。壁や床は決して新しくない。何度も補修された跡があり、古いコンクリートの横に新しい制御盤が取り付けられ、そのさらに横を真新しい通信ケーブルが走っている。
やがて三十六メートルの表示を過ぎたところで坂が終わり、黒崎たちは広大な地下空間へ出た。
黒崎はそこが本収容区画なのだと思った。
だが、違った。
目の前に広がっていたのは巨大な地下輸送区画だった。複数の搬送路が交差し、物資を積んだ電動車両が行き交っている。壁際には大型コンテナやパレットが積まれ、そのさらに奥には倉庫の入口と見間違えるほど巨大な金属扉が何枚も並んでいた。
「……ここが?」
「いえ」
職員はそのまま巨大な扉の一つへ向かった。
「本収容区画は、ここからさらに下です」
「まだ下?」
黒崎だけでなく、何人かが足を止めた。
職員が認証を済ませると、巨大な金属扉が左右へ開いた。
その中を見て、黒崎はようやく正体に気づいた。
「……エレベーター?」
「大型昇降機です。人員だけでなく、物資や小型作業車、医療搬送車両なども運べます」
内部は普通のエレベーターとは比較にならないほど広く、床には車両を誘導するためのラインが引かれていた。壁には積載重量や非常時の運用手順が記され、天井も大型車両がそのまま入れるほど高い。
黒崎たちと別の避難者、職員が乗り込んでも、まだまだ余裕があった。
「これで、どこまで下りるんです?」
「本収容区画までです」
答えになっているようで、深さは分からない。
やがて扉が閉じ、低い機械音とともに床がわずかに揺れた。
降下が始まった。
壁際の表示に現在の深度が映し出される。
四十メートル。
五十メートル。
六十メートル。
黒崎は黙ったまま数字を見ていた。
七十メートルを超えたところで、隣にいた男が小さく息を吐いた。
「……まだ下りるのか」
八十メートル。
九十メートル。
そこでようやく昇降機の速度が落ち始めた。
停止した時、表示されていた数字は地下九十八・六メートルだった。
「……百メートル近いじゃないか」
「本体の主要区画は、おおむねこの深度帯にあります。ただし、すべての設備が同じ深さにあるわけではありません。貯水設備や熱交換設備など、一部はさらに下層にあります」
扉が開いた。
その先に、もう一つ巨大な防護扉が待っていた。
今度こそ、その中央に記された文字を、黒崎は声に出さず読んだ。
《国家非常時継続施設 第七号》
「……こんなもの、いつ造ったんですか?」
黒崎の問いに、職員は少しだけ振り返った。
「最初の計画まで遡れば、四十年以上前になります」
「四十年?」
「首都圏で大規模な地震が発生した翌年です。当時、道路や鉄道だけではなく、電力、水道、通信、行政機能まで広範囲で停止しました。その経験から、通常の避難所や備蓄だけでは対応できない事態を想定した国家非常時継続計画が始まりました」
巨大な扉の脇には、古い金属板がいくつも残されていた。第一次整備、第二次拡張、耐震改修、設備更新。それぞれに記された年代は違い、この場所が一度に造られたものではないことが分かる。
「じゃあ、今回みたいな寒波を予想してたわけじゃない?」
「もちろん違います。大地震、複合災害、長期的なインフラ停止、戦争など、通常の行政機能だけでは対応できない事態を想定してきた施設です。災害は、前回と同じ形で来るとは限りませんから」
黒崎はもう一度、目の前の扉を見上げた。
やがて認証を終えた巨大な防護扉が開き、その向こうに現れた光景に、黒崎だけでなく何人もの避難者が足を止めた。
地下都市と呼べるほど華やかなものではなかった。壁はむき出しのコンクリートで、天井には無数の配管とケーブルが走り、どこからともなく大型機械の低い駆動音が響いている。だが、通路の先に掲げられた案内表示を見るだけで、この場所の規模が普通ではないことは分かった。
《医療》《給水・水処理》《備蓄》《設備管理》《通信》《一般居住》《食料生産》
フォークリフトが物資を運び、その横を医療用のカートが通り過ぎる。別の通路では作業服姿の人間が配管を点検しており、何十年も前に造られた地下施設というより、一つの巨大な工場が今も休むことなく動き続けているようだった。
それでも黒崎が最初に不思議に思ったのは、もっと単純なことだった。
「……暖かいですね」
歩いているうちに、黒崎はもう一つ、この施設の異常さに気づいた。これだけ広大な地下空間でありながら、どこへ行っても寒さを感じない。外では気温がマイナス三十度近くまで下がっているというのに、厚い防寒着を着たままではむしろ暑いくらいだった。
「……ここ、どうやって暖めてるんですか?」
「地下そのものの温度が安定しているのもありますが、この施設では地下熱源を利用しています」
「地下熱源?」
「この一帯の地下には大規模な高温地下水帯があります。施設建設前の地質調査で確認されました」
「この辺に温泉なんてあったんですか?」
「正確には高温地下水帯ですね。一般利用されたことはありませんから、知らないのも当然だと思います」
職員によれば、地下から得られる高温水をそのまま居住区へ流しているわけではなく、熱交換設備を介して施設内の循環水へ熱を移し、それを各区画へ送っているという。居住区だけではなく、医療区画、給湯、設備の凍結防止などにも使われ、外気をそのまま暖めるより遥かに少ないエネルギーで施設内の温度を維持できる。
さらに高温地下水を利用するための設備そのものは、黒崎たちが立っている場所より下層にあり、取水井はさらに深い地層まで延びているという。
「じゃあ、ここに造ったのも……」
「それも理由の一つです。地盤、地下水、それから地下熱源。長期運用を考えれば、場所の選定は非常に重要ですから」
四十年以上前。
まだ自分が生まれるよりも前から、誰かが地面の下を調べ、ここなら人を生かせると判断していた。
黒崎がそれを実感したのは、その後だった。
居住区へ向かう途中、職員が希望者に簡単な施設説明を行ってくれた。水は地下の貯水設備と取水設備を利用し、用途に応じて処理系統を分けている。飲料や調理に使用する水と、洗浄や一部の生活用途に使う水は同じではなく、処理した排水も可能な範囲で再利用される。ただし処理能力にも限界があるため、シャワーの利用回数や時間、一人当たりの使用量には制限が設けられていた。
電力についても、生きている外部の優先系統だけに依存しているわけではなかった。大型蓄電設備と非常用発電設備を持ち、施設内部や近距離の物資輸送には主に電動車両を使用することで、燃料は除雪、救助、長距離輸送など代替の利きにくい用途へ残しているという。
だが、黒崎が本当に言葉を失ったのは、そのさらに奥だった。
厚い扉の向こう側に広がっていたのは、地下とは思えないほど明るい空間だった。
「……畑?」
「植物工場です」
何段にも積み上げられた栽培棚の上で、緑色の葉が一面に並んでいた。頭上にあるのは太陽ではなく無数のLED照明で、棚ごとに配管が通され、土の代わりに水と養液によって植物が育てられている。
「ここで食料を?」
「一部ですが。完全制御型なので、温度、湿度、二酸化炭素濃度、光量、養液などは管理システムで調整しています。水もできる限り循環させています」
「こんなところまで……」
「備蓄だけでは、いつかなくなりますから」
職員は当たり前のことのように言った。
施設内で発生する二酸化炭素や排水、熱なども、処理可能なものは別の設備へ回す。植物工場は食料生産だけでなく、施設全体の環境制御の一部として組み込まれているらしい。もちろん何もかも完全に循環できるわけではなく、肥料や設備部品など外部から補充しなければならないものもある。それでも、ただ倉庫に食料を積み上げて減っていくのを待つ施設ではなかった。
さらに先で黒崎は、別の案内表示を見つけた。
《畜産・蛋白生産区画》
「……家畜までいるんですか?」
「いますよ。鶏が中心ですけどね」
衛生管理のため内部へ入ることはできなかったが、ガラス越しに見える区画には確かに鶏の姿があった。畜産区画は居住区とは換気系統そのものが分けられ、湿度や二酸化炭素だけでなく、糞尿から発生するアンモニアなども常時監視されているという。排泄物もただ捨てるのではなく処理され、利用可能なものは肥料などへ回される。植物工場で発生した非食用部分についても、種類によっては飼料として利用されていた。
「じゃあ、肉もここで作れるってことですか?」
「一応は」
黒崎が少し期待すると、職員は苦笑した。
「ただ、あまり期待しない方がいいですよ。植物と違って、家畜は飼料も水も使いますし、生産できる量はかなり限られています。卵も含めて、医療上の栄養管理が必要な人や、一部の優先業務に回されることが多いので」
「一般の人には?」
「全く出ないわけではありません。ただ……まあ、ここでは肉は高級品だと思ってください」
「そりゃそうか」
黒崎は笑った。
肉が毎日食べられないことなど、どうでもよかった。外では今日食べるものさえ手に入らない人間がいる。それに比べれば、地下で野菜が育ち、鶏が卵を産み、水を再利用し、地面の熱まで使って人間を生かそうとしていること自体が驚きだった。
誰かが、ここまで考えていた。
四十年以上も前から設備を造り、壊れれば直し、新しい技術が生まれれば組み込み、いつ来るかも分からない災害のために維持し続けてきた。
政府は消えていなかった。
少なくとも、この場所では本気で人を生き残らせようとしている。
黒崎たちが最終的に案内された一般居住区も、豪華とは程遠かった。
巨大な地下空間はいくつもの区域に分けられ、簡易ベッドが規則正しく並んでいる。家族単位で簡単な仕切りを使うことはできても、個室と呼べるものではない。それでも暖房があり、水があり、決められた時間には食事が出る。医療区画もあり、警備員も巡回している。
移動の途中、黒崎は一般居住区とは明らかに造りの違う一角を見つけた。
《優先機能従事者区画》
「あそこは?」
「医療、設備、通信、行政など、施設の継続運用に必要な業務へ従事する方の居住区です」
「なるほど」
黒崎はそれ以上聞かなかった。
医者が倒れれば患者を診る人間がいなくなる。発電設備を直せる技術者が倒れれば、何千人、何万人という人間が困る。そういう人間を優先して休ませるのは当然だと思った。
ただ、開いた扉の向こうに見えた人々の中には、作業服でも白衣でもない男女や、小さな子供を連れた家族の姿もあった。
家族も一緒に暮らしているのだろう。
その程度に考えて、黒崎は通り過ぎた。
夕方には温かい粥と保存食、それに少量の野菜が配られた。量は決して多くなかったが、湯気の立つ食事を前に文句を言う者はいない。昨日まで食料をいつまで持たせるかを考えながら、一口一口を惜しむように食べていたのだ。
食事を終え、自分たちに割り当てられた場所へ戻った頃、仲間の一人がベッドに腰を下ろしながら呟いた。
「……来てよかったですね」
黒崎は周囲を見た。
暖かい空気の中で子供が眠り、その隣では母親が毛布を掛け直している。少し離れた場所では職員が水を提供していた。もう夜中に交代で見張りを立てる必要もない。入口を破られる心配をしながら眠る必要もない。
「……ああ」
黒崎は小さく笑った。
「助かったな」
その言葉を口にしてから、黒崎はポケットからスマートフォンを取り出した。蓮にも無事に着いたことを知らせておこうと思ったのだが、画面を見たところで思わず手が止まった。
「……電波、入ってるのか」
考えてみれば、ここは地下百メートル近い。地上からこれだけ離れた場所で通話ができるとは思っていなかったが、画面にはしっかりとアンテナが立っている。この施設では通信設備も独自に整備されているのだろう。
試しに蓮へ電話をかけると、数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってきた。
『着いたか』
「ああ。無事着いた」
『そうか』
「ここ、すごいぞ。水もあるし、飯も出る。医者もいる。地下には植物工場まであるんだ。家畜まで飼ってる」
『それはすごいな』
「お前も来た方がいいんじゃないか?」
少し間があった。
『いや、俺は俺でなんとかする』
「そっか、そう言うと思ったよ」
黒崎が苦笑すると、電話の向こうで蓮が少し黙った。
『なぁ、黒崎』
「なんだ?」
『なんでもかんでも簡単に人を信用するなよ』
「……なんだよ、それ。せっかく無事に着いたって報告してるのに」
『気をつけて損はない』
「相変わらずだな、お前は」
黒崎は苦笑した。それでも、蓮の声にどこか安心している自分がいた。
「まあ、とりあえず俺たちは大丈夫だ。みんなも久しぶりに暖かい飯を食えて喜んでる」
『そうか、よかったな』
「ああ」
短い沈黙のあと、蓮が言った。
『気をつけろよ』
「そっちもな」
その後も二人はしばらく他愛もない話をして、電話を切った。
◇
「黒崎さん?」
監視室で朝霧が尋ねると、蓮はスマートフォンをテーブルに置いた。
「ああ。着いたらしい」
「よかったわね。無事に到着できて」
「そうだな」
朝霧は少し安心したように息を吐いたあと、椅子に座ったまま蓮を見る。
「あなたは向かうつもりはないの?」
「ないな」
「即答ね」
「自分のことは自分でなんとかする。それに……」
蓮は少し間をおいて───
「そんなに単純な話なら、誰も苦労はしない」
朝霧が眉を寄せた。
「……なによそれ」
「さあな」
◇
同じ頃、一ノ瀬たちは黙り込んでいた。
食料庫そのものには、まだ箱が積まれている。数える前に見た時、一ノ瀬は思っていたより残っていると感じた。だが、柴田と松本を交えて一つずつ数量を確認し、現在の人数と一日当たりの配給量を当てはめていくと、その印象は完全に消えた。
「……六日?」
一ノ瀬が聞き返した。
松本がもう一度計算しても数字は変わらない。
「今までと同じ量なら、それくらいですね」
「嘘でしょ。あれだけ減らしてるのに?」
「人数がいますからね……」
八十人を超える人間が、一日二回食べる。それだけで箱は驚くほどの速さで空になる。
三浦の記録をさらに遡ると、彼が毎日の生存人数と在庫量を照らし合わせながら、配給量を何度も微調整していたことも分かった。一度に大きく減らせば不満が出るため、住民が気づきにくい範囲で少しずつ変え、その日の状況に合わせて次の数字を決めていたらしい。
一ノ瀬はそこで初めて、自分たちが今までやっていたことと、三浦がやっていたことの違いに気づいた。
食料を渡すだけなら誰にでもできる。
だが、八十人以上の人間へ、どれだけの量を、いつまで、どうやって配り続けるのかを決めるのは別の話だった。
「……減らすしかないじゃん」
呟いた一ノ瀬に、柴田が煙草を咥えたまま答える。
「だったら減らせばいいだろ」
「全員?」
「知らねえよ。半分にでもすりゃ倍持つだろ」
一ノ瀬はすぐには答えなかった。
全員を一律で減らせば、住民全員が自分たちに不満を向ける。水道が止まってからただでさえ空気は悪くなっており、今朝の配給でも残りの食料を見せろという声まで出た。八十人以上を一度に敵へ回すのは面倒だった。
なら、全員を減らす必要はない。
「……まずは老人と病人とか?」
松本が顔を上げた。
「は?」
「だって、ほとんど何もしてないでしょ。雪を運んでるわけでもないし、見張りも出来ないでしょ? ずっと部屋にいるなら、動いてる人より消耗だって少ないじゃん」
「それは……」
「何?」
一ノ瀬は本当に分からないという顔で松本を見返した。
「今はまだ働ける人まで減らす必要ないでしょ?」
理屈はそれで十分だった。
ただし、一ノ瀬はそれを自分の決定にするつもりはなかった。全員の食事を減らせば全員から反発がある。老人と病人だけを減らせば、その家族から文句が出る。それなら最初から、自分で決めなければいい。
「多数決で決めさせよ」
「多数決?」
「みんなに決めてもらえばいいじゃん」
その日の夜、久しぶりにマンションの全体グループチャットが大きく動いた。
一ノ瀬が提案したのは、作業にほとんど参加できていない高齢者と病人の配給を、翌日から半分にするというものだった。予想通り、最初は反発する書き込みが続いた。病人だからこそ食事が必要だ、老人を切り捨てるつもりなのか、全員同じ量を減らすべきだという意見も出た。
一ノ瀬はその一つ一つに長々と反論しなかった。
『全員に今の分を配給して、無くなるのをただ見てるだけですか?』
『政府の配給も一時的に止めてるだけで、状況が回復したら再開するって言ってます。私たちはそれまで耐えなきゃいけません』
それだけで十分だった。
議論が続くにつれて、住民たちの意見は少しずつ変わっていった。毎日雪を運んでいる者は自分の食事を減らされたくなかった。家族と暮らしている者は妻や子供の分を守りたかった。一人暮らしの者にしても、自分の食料を削ってまで他人の分を維持したいとまでは思わなかった。
高齢者や病人を切り捨てたい者が多かったわけではない。
ただ、自分が切り捨てられるよりはよかった。
やがて賛成の数が、反対を上回った。
明日から、作業に参加できない高齢者と病人の配給は半分になる。
それでも最後まで納得しなかった一人が、グループに書き込んだ。
『こんなの間違ってるだろ。病人や年寄りだって同じ住民だぞ』
『多数決で決めたことです』
『だからって、こんなの……』
『それなら、保護地域に行けばいいんじゃないですか?』
しばらく返信はなかった。
『その分、マンションの食料も節約できますし』
その後、大きな反対意見は出なかった。
一ノ瀬はスマートフォンを伏せると、今日松本が残した記録へもう一度目を落とした。
残り、六日だった食糧。
明日からは、もう少し延びる。
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Day 65
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 87人
今日のメモ:
「守る側がいて、初めて守られるものが成立する。」
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