第102話 Day 66 役割
黒崎たちが《国家非常時継続施設 第七号》で迎えた最初の朝は、あまりにも静かだった。
目を覚ましてしばらくの間、自分が地下百メートル近い場所にいることさえ忘れそうになる。
窓を震わせる風の音も、朝になれば必ずどこかから聞こえていた雪掻きの音もない。代わりに耳へ届くのは、大勢の人間が起き出して動き始める気配と、天井の奥から低く響き続けている換気設備の駆動音だけだった。
何より、寒くなかった。昨日まで何枚も重ねていた防寒着を脱いでも震えることはなく、薄い毛布一枚で朝まで眠ることができた。それだけのことが、外の世界を歩いてここまで辿り着いた黒崎には、信じられないほどありがたかった。
「おはよう、黒崎さん。昨日はあんなに身体が痛かったのに、一晩寝ただけでだいぶ楽になったよ」
「暖かい場所でまともに寝られたからだろ。ここまで来たからって急に元通りになるわけじゃないんだから、今日は無理するなよ」
「はは……それ、昨日も言われたな」
一緒にここまで来た男が笑う。その表情にはまだ疲労が残っていたが、マンションを出た直後の張り詰めたものは消えていた。周囲でも似たような会話が聞こえ、昨夜初めて温かい場所で眠れた住民たちの顔には、ほんの少しだけ余裕が戻っているように見えた。
黒崎も、ようやくここまで来たのだと思った。
だが朝食を終えたあと、黒崎たちは昨日とは別の場所へ集められ、そこで初めて、この巨大な地下施設には単に人間を受け入れるだけではない仕組みが存在することを知った。
正面の表示板に映し出されていたのは、《第一適性評価》という文字だった。
「昨日の入所手続きで登録していただいた職歴、保有資格、実務経験、健康状態などを基礎情報として、皆さんには第一適性評価を受けていただきます」
いきなり聞きなれない言葉を耳にする。
「原則として入所から三日以内に初期評価を確定し、その結果に基づいて居住区分と当面の担当業務が決定されます。ただし、これは皆さんの今後の生活を永久に固定するものではありません。勤務状況や健康状態などによって評価は更新され、居住区分が変更される場合もあります」
昨日の受付で職業だけではなく、資格や経験、健康状態まで細かく聞かれた理由を、黒崎はそこでようやく理解した。
しばらくして一人ずつ渡されたカードを確認すると、黒崎のものには大きく《D》と表示され、その下に《施設内物流・物資管理》と記されていた。
「Dか……物流と物資管理なら、まあ俺にもできそうだな」
特別な資格を持っているわけでもない黒崎にとって、それほど意外な結果ではなかった。ところが隣では、一緒にマンションを出てきた男が自分のカードを何度も見直しながら、驚いたように黒崎へ顔を向けていた。
「黒崎さん、俺……Cになってるんだけど。何かの間違いじゃないよな? 俺、別に医者でも技術者でもないし、大した資格なんか一つも持ってないぞ」
「昨日の受付で何か話さなかったか? 仕事以外でも、昔やってたこととか聞かれただろ」
「昔って言われても……ああ、実家が農家だったとは言ったよ。高校を出るまではずっと手伝ってたし、会社に入ってからもしばらくは休みのたびに帰ってたから、その話はしたけど」
「たぶんそれだろ。今の世界なら、食い物を作れる人間はかなり重要なんじゃないか? 少なくとも、俺みたいに特別な資格もない奴よりは役に立つと思うぞ」
「農業なんて、もう何年もまともにやってないんだけどな……」
男は困惑しながらも、先ほどとは違う目で自分のカードを見つめていた。
もう一人Cに指定されたのは、電気設備関係の仕事をしていた住民だった。建物の配電設備や非常用電源の保守に携わっていたらしく、昨日の登録でもどんな設備を扱っていたのか、実際にどこまで作業できるのかをかなり細かく聞かれたという。
一方、黒崎を含め、健康ではあっても特別な資格や希少な技能を持たない成人の多くはDだった。
そして、それよりさらに下の区分があることを黒崎が知ったのは、少し離れた場所にいた初老の住民が、手元のカードを見ながら不安そうに呟いたときだった。
「……E、か」
六十代の男だった。その近くでは、ここまで一緒に歩いてきた五十代の男も同じEのカードを持っている。彼には以前から持病があり、マンションにいた頃から薬を服用していたが、歩けないほど身体が悪いわけではない。実際、何度も休憩を挟みながらではあったものの、自分の足でここまで辿り着いていた。
黒崎は少し迷ったあと、近くにいた職員へ声をかけた。
「すみません。このCとかDとかEって、具体的には何が違うんですか? あの人なんか普通に歩けますし、できる仕事ならあると思うんですけど、持病があるだけでEになるんですか?」
「いいえ。疾病そのものを理由に評価を下げているわけではありません。現在の身体状態、継続的な医療管理の必要性、一日に可能な就労時間、保有されている資格や実務経験などを総合して初期配置を決定しています。あくまで現時点での適性評価ですので、健康状態が安定し、勤務実績が積み上がれば居住区分が変更されることもあります」
「じゃあ、一度EになったらずっとEってわけじゃないんですね」
「はい。ただし逆の場合もあります。現在の居住区分が将来にわたって保証されるものでもありませんので、その点については皆さん同じです」
黒崎は礼を言うと、もう一度自分のカードへ目を落とした。
人間にCやDやEと文字をつけて振り分けることには、正直なところ多少の抵抗を感じる。それでも、この地下に何人の人間が暮らしているのか、黒崎にはまだ全体像すら分からない。昨日見ただけでも水、電気、食料、医療、そのすべてを維持するために膨大な設備と人手が必要だった。
限られた場所と物資しかない以上、全員をまったく同じように扱うことの方が難しいのかもしれない。何より今の状況で、電気設備を直せる人間や食料を作れる人間が自分より高く評価されることについて、黒崎はそれほど不公平だとは思わなかった。
今の自分より、彼らの方が必要とされている。
ただ、それだけの話だった。
◇
「黒崎恒一さんで合ってる?」
「はい。今日から物資管理に入るように言われました」
「じゃあ俺と一緒だな。物資管理って書いてあるけど、最初のうちは運搬がほとんどだと思っていいよ。この施設、初めてだと本気で迷うからな。しばらくは俺について回りながら場所と仕事を覚えてくれればいい」
「分かりました。よろしくお願いします」
「そんな固くならなくていいって。俺も別に偉いわけじゃないし、ここじゃ同じDなんだから」
そう言って笑った男は四十代後半くらいに見え、作業着の胸元には黒崎と同じDを示す表示が付いていた。黒崎より年上ということもあって、施設内での呼び方を尋ねるのも面倒だった黒崎が何となく「先輩」と呼ぶと、男は「好きに呼べ」と笑ってそのまま受け入れた。
二人が最初に向かったのは、居住区から少し離れた物資集積区画だった。巨大な扉の向こうには大型の棚が何列も続き、食料や衛生用品、衣類だけでなく、交換用の設備部品や工具まで細かく分類されている。
通路では小型の電動運搬車が絶えず行き交い、端末を手にした作業員たちが次々と物資を積み替えていた。
「これ、全部この施設で使うんですか? 昨日も相当広いとは思いましたけど、ここまで来ると何人住んでるのか想像もつかないですね」
「ここにあるのも一部だよ。各区画に小さい倉庫があって、ここから必要な分を振り分けてる。俺たちはその補充と回収が中心だから、嫌でも施設の中を歩き回ることになる。最初は面倒だけど、仕事覚える頃にはどこに何があるか大体分かるようになるよ」
先輩は端末で今日の配送表を確認しながら、黒崎へ一台の荷台を任せた。
そこから二人は倉庫と各区画を何度も往復した。
厨房では大量の食事が作られ、洗濯区画では回収された衣類や寝具が次々と処理されている。別の通路を抜ければ水処理設備へ向かう作業員とすれ違い、さらに奥では電気や機械設備を担当する者たちが工具を抱えて移動していた。
昨日は「巨大な避難施設」にしか見えなかった場所が、実際には一つの小さな都市に近いことを、黒崎は自分の足で歩くうちに理解し始めた。
「そういえば先輩もDなんですね。ここには長いんですか?」
「一ヶ月ちょっとかな。でも俺、三日前までEだったんだよ。ここへ来たときに身体を痛めてな、最初の二日くらいはまともに動けなかった。それで第一評価はE。体調戻してから仕事始めて、ようやくこの前Dに上がったところだ」
「Eから上がってきたんですか? さっき職員から区分は変わるって聞きましたけど、本当に上がれるんですね」
「上がれるよ。じゃなきゃ誰もこんな必死に働かないって。勤務の評価は七日ごとに更新されて、居住区分の定期的な見直しは三十日ごとにある。仕事をちゃんと続けてれば評価は積み上がるし、資格や経験があれば配置も変わる。もちろんサボってりゃ逆もあるけどな」
人間を評価し、住む場所まで変える制度と聞けば冷たい印象を受けるが、目の前にEからDへ上がった人間が実際にいる。それも、特別な資格を持った者ではなく、体調を戻して普通に働き続けただけの男だった。
「病気になったら、その時点で評価が下がるんですか?」
「いや、病気になっただけじゃ下がらない。そこはちゃんと決まりがあるし、俺も最初は休ませてもらった」
それを聞いて黒崎は少し安心した。
「ただ、長引いたら仕事できないだろ? 仕事しなきゃ勤務実績は増えないし、できる配置も限られてくる。だから結果として上がりにくくなるし、場合によっては区分が下がることもあるって話だ」
「なるほど……減点されるんじゃなくて、働けないから評価が増えなくなるのか」
「そういうこと。だから俺も今は無茶しない程度に働いてる。次はCに行きたいからな」
先輩はそう言って笑うと、荷台を押して再び歩き始めた。黒崎もその後を追いながら、先ほどEを告げられた仲間のことを思い出したが、しっかり上へ行けるのなら、今すぐ心配する必要もないのだろうと思った。
◇
昼休憩で出された食事は、昨日の夕食とそれほど変わらなかった。穀物を混ぜた米に野菜の入った汁物、少量の漬物、そして茶色いハンバーグのような加工食品が一つ添えられている。
黒崎は箸でそれを割ってみたが、見た目から何の肉なのかは分からなかった。
「先輩、これって何の肉ですか? 鶏ですかね。昨日、飼育区画に鶏がいるって聞きましたけど」
「それ、肉じゃないよ」
「……え?」
「昆虫。大豆とか穀物も混ぜてるらしいけど、タンパク質の一部は虫から取ってるんだと。最初に聞いたとき俺も箸止まったから、その顔するのは分かるよ」
黒崎は箸の先にあるものを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……虫って、あの虫ですよね?」
「他にどんな虫があるんだよ。安心しろって、ちゃんと加熱して処理してあるし、粉にして混ぜてるから形なんか残ってない。知らずに食ったら普通の加工食品だぞ」
「いや、形が残ってるかどうかだけの問題じゃない気がするんですけど……」
「そう言ってるのも最初だけ。全員に毎日肉食わせるなんて無理なんだから、食えるタンパク質があるだけありがたいよ。俺なんか三日目には何も考えなくなったぞ」
そう言いながら先輩は自分の分を平然と口へ運んでいる。
「……ちなみに、何の虫なんですか?」
「ミールワームとかコオロギだって聞いたな。大豆や穀物と混ぜて加工してるらしい」
具体的な名前を聞いた途端、さっきまで普通のハンバーグにしか見えなかったものが、急に別の食べ物に見えてくる。黒崎は箸で切り分けた断面をしばらく眺めたものの、当然そこに虫の形など残っているはずもなかった。
「……まあ、ゴキブリじゃないだけマシですね」
「ゴキブリ? あんなもん使ったら暴動起こすぞ。ちゃんと食用に育てやすい虫がいるんだから、わざわざ選ぶ理由もないだろ」
先輩はそう言いながら、自分の皿に残っていた加工食品を口へ放り込んだ。ここへ来て一ヶ月も経てば、本当にこの程度のことは気にならなくなるらしい。
「なんか、漫画とか映画だとありそうじゃないですか。地下でゴキブリ育てて、それを食料にしてるとか」
「そういうのはフィクションの中だけにしてくれ。俺だってそこまでいったら、さすがに食う前に一回考えるわ」
「先輩でも考えるんですね」
「当たり前だろ。俺をなんだと思ってんだ」
黒崎は思わず笑いながら、もう一度自分の皿へ視線を落とした。何の虫がどれだけ混ざっているのかまでは知りたくなかったが、少なくとも味そのものは悪くない。
「……普通ですね」
「だろ? そのうち虫って聞いても、腹減ってりゃ普通に食うようになるよ」
「それはそれで嫌だな……」
二人は顔を見合わせて笑った。こんなことで笑える程度には、自分にも余裕が戻ってきているらしい。その事実に気づいた黒崎は、残った加工食品を今度は迷わず口へ運んだ。
◇
午後になると、二人はC地区へ生活物資を運ぶことになった。
D地区との違いは、足を踏み入れてすぐに分かった。決して豪華ではないものの、一つの空間に詰め込まれている人数が少なく、一人あたりに与えられている生活スペースにも余裕がある。共有設備の数もDより多く、通路を歩く人々の表情にも、どこか落ち着きがあった。
「ここがC地区か……確かにDよりだいぶいいですね」
「だろ? 俺が次に狙ってるのがここ。飯も少し良くなるし、シャワーなんかもDより使いやすい。あの虫も食うには食うけど、こっちは出る回数が少ないって聞いたな」
「ランクによって食べ物も違うんですね」
「当たり前だろ。ちゃんと働いた奴にちゃんと得があるから、みんな頑張るんだよ」
ただ生かされるだけではなく、働けば生活が少しずつ良くなる。昨日までの世界なら当たり前だったことを、この地下では評価という数字を通して維持しているらしい。
黒崎がそんなことを考えながら荷台を押していると、区画管理窓口の近くから男の大きな声が聞こえてきた。
「だから、金ならあるって言ってるんです! 状況が戻ればいくらでも払いますから、Bが無理ならCでもいい。なんとかしてもらえませんか!」
窓口の前には一組の夫婦が立っており、夫が職員へ何度も食い下がっていた。妻は疲れ切った顔でその隣に立ち、夫の腕を何度か引いているものの、男は引き下がる様子を見せない。
「申し訳ありませんが、金銭によって居住区分を変更することはできません。C地区への変更をご希望の場合は、今後の評価に基づく区分変更をお待ちください」
「だったらBはなんなんですか! 医者や技術者だけじゃないでしょう。どう見ても普通の家族だって住んでるじゃないですか!」
「B地区以上には医療、技術などの指定専門職、国家機能の維持に必要な指定人員のほか、非常事態発生以前に締結された優先収容契約の対象者が居住しています。現在、新規の優先収容契約は受け付けておりませんので、ご了承ください」
「だったら今から契約すればいいだろ! 金なら払うって言ってるんですよ!」
「申し訳ありませんが、できません」
何度訴えても職員の返答は変わらず、やがて妻に強く腕を引かれた男は、苛立ちを隠そうともせず窓口から離れていった。
「くそ! あいつらさえ勝手に入って壁を壊さなければ、こんなところに来る必要はなかった!」
遠ざかっていく声を聞きながら、黒崎は荷台を押してその場を通り過ぎた。この施設へ辿り着いた人間には、それぞれ事情があるのだろう。昨日来たばかりの自分がいちいち気にしていても仕方がない。
それより黒崎が気になったのは、先ほど職員が口にした《優先収容契約》という言葉だった。
その意味を知ることになったのは、それから間もなくB地区へ物資を運んだときだった。
◇
「……ここ、本当に同じ施設なんですか?」
「同じだよ。気持ちは分かるけどな。俺も初めて来たとき、同じこと言ったから」
B地区へ足を踏み入れた黒崎は、思わず周囲を見回した。
D地区やC地区との違いは、単に部屋が少し広いという程度ではなかった。個人、あるいは家族ごとにきちんと区切られた部屋が用意され、その中にはベッドだけでなく机や椅子、収納まで置かれている。家族向けの部屋には複数の寝具と小さな生活空間が確保され、共同生活というより、災害前の小さな住居に近い。
さらに黒崎が驚いたのは、配送先を通ったときに見えた食事だった。
米と野菜、温かい汁物に加えて、皿の上には明らかに本物と分かる肉が載っていた。別の場所では卵も見えた。災害前なら何の感想も抱かなかったはずの食事が、昆虫由来の加工食品を食べたばかりの黒崎には、ひどく贅沢なものに見えた。
「こっちは、さっきの加工食品じゃないんですね」
「B以上は基本的に普通の食事だよ。医者とか、高度な技術を持ってる人間とか、施設や国を維持するのに必要な人も多いからな。それだけじゃないのは、さっき聞いただろ?」
「あの契約ってやつですか?」
「そう。この施設って何十年もかけて造って、何度も拡張してきたらしいんだけど、全部を国の金だけでやったわけじゃないんだと。企業とか財団とか、個人の出資者からも金を入れてもらって、その代わり本当に非常事態が起きたときには優先的に収容するとか、一定以上の生活環境を保証するとか、そういう契約を結んでたらしい」
「じゃあ、金でB地区に入った人もいるってことですよね」
「まあ、言い方は悪いけどそういうことだな。ただ、今金持ってますって言っても駄目だ。災害が起きる前に金を出して、施設を造る側に回ってた連中だけだ。さっき窓口で騒いでた奴が断られてただろ?」
黒崎は先ほどの夫婦を思い出しながら、少し複雑な気持ちでB地区を見渡した。今の世界になってから金を積んで待遇を買っているのなら納得しにくいが、まだ何も起きていなかった頃から何年、何十年も施設へ出資し、その対価として非常時の契約を結んでいたのなら、話は少し違ってくる。
「なんか……ずるいような気もするけど、契約なら守らない方がおかしいのか」
「俺も最初はそう思ったよ。でも、あの人たちが昔出した金がなかったら、この施設自体が今より小さかったかもしれないだろ? そう考えたら、俺たちが寝てるベッドだって、その金で増えた一つかもしれない。だったら簡単に文句も言えないよな」
「確かに……」
黒崎が頷いたところで、配送先の一室から一人の男が出てきた。
男は黒崎たちが押している荷台を見るより先に、黒崎の胸元へ視線を落とした。そこに表示された区分を確認すると、ほんのわずかに眉を動かす。
「Cの……いや、Dの人か?」
「……そうですけど」
「その荷物、そこに置いてくれればいいから。中まで入らんでくれ」
「分かりました」
黒崎が言われた場所へ荷物を置くと、男はそれ以上何も言わずに部屋へ戻っていった。目の前で扉が閉まるのを見届けたところで、隣にいた先輩が呆れたように小さく息を吐いた。
「まあ、出資してくれたのはありがたいし、契約を守るのも仕方ない。それとあいつがムカつくのは別だけどな」
「……それは俺も同意します」
二人は顔を見合わせて苦笑すると、空になった荷台を押しながら次の配送先へ向かった。
◇
その日の仕事が終わりに近づいた頃、黒崎は先輩から、評価が下がった場合の話も聞いた。
CからDへ、DからEへと居住区分が下がることは珍しくないらしく、さらに評価が落ちれば、地下の居住区から地上勤務へ配置される場合もあるという。
地上施設の点検や除雪、搬入物資の処理、外部から回収された物資の運搬など、誰かがやらなければならない仕事ではあるが、外は今もマイナス三十度前後の世界だ。
「もちろん防寒装備は出るし、休憩時間も決まってる。それでも誰も好き好んで地上には行きたくないよ。せっかく命懸けで上から逃げてきたのに、またあそこへ戻ることになるんだからな」
「……地上勤務になって、そこでまた評価が下がったらどうなるんです?」
「ん? どうって?」
「Eの下が地上勤務なんですよね。そこで働いても評価が上がらなかったり、もっと下がったりしたら、その次はどうなるのかなって」
先輩はすぐには答えず、少し考えるように眉を寄せたものの、やがて肩をすくめた。
「……そこまでは知らん。俺だってこの施設の規則を全部知ってるわけじゃないからな。まあ、普通に働いてりゃ関係ないって。俺なんかEからDまで上がってきたんだぞ? 今から下の心配するより、次にCへ上がること考えた方がいいだろ」
「それもそうですね。俺なんか今日が初日ですし」
「そういうこと。まず仕事覚えろ、仕事」
先輩に笑われ、黒崎も笑い返した。
少なくとも今の黒崎には、この施設の仕組みが理不尽なものには見えなかった。限られた食料、限られた設備、限られた人員で大勢の人間を生かし続けるためには、誰かが働かなければならず、その働きに応じて待遇に差がつくことも理解できる。
昨日まで生き延びられるかどうかさえ分からなかった自分たちには、暖かい寝床があり、食事があり、水があり、医者もいる。それだけでも十分すぎるほどだった。
◇
同じ日の朝、蓮が住むマンションでも昨日までとは少し違う配給が始まっていた。
働ける住民には、これまでと同じ量が渡される。一方、高齢者や病人、現在の身体状態では作業に参加できない者へ渡されたのは、その半分だった。
「……これだけか?」
順番を待っていた老人が自分の手に渡された食料を見て、思わず聞き返した。
配る側も気まずそうな顔をしたものの、昨日の多数決で決まったことだと告げるだけで、それ以上何かを言うことはなかった。
「昨日の半分じゃないか。こんな量でどうしろっていうんだ……」
老人の声を聞き、列に並んでいた一人の男がその手元へ目を向けた。
昨日まで配給が少ないと何度も文句を言っていた男だった。
やがて自分の番が来て、昨日と変わらない量の食料を受け取る。腹を満たすには到底足りず、それは昨日までと何も変わっていないはずだった。
だが、男は何も言わなかった。
少し前まで不満しかなかったはずの食料を手に、そのまま自分の部屋へ戻っていく。
自分より少ない人間がいる。
ただそれだけで、昨日まで少ないと思っていた自分の取り分が、今日は少しだけ多く見えていた。
「まあ、俺らは毎日雪運んだり、水作ったりしてるからな。これくらいは仕方ないんじゃないか?」
「俺もそう思う。あの寒さの中で動いてるんだぞ。考えてみたら、ずっと部屋にいる奴と同じ量だった方がおかしかったかもな」
誰かがそう口にすると、近くにいた別の住民も小さく頷いた。
昨日まで彼らは、同じマンションの中で同じように救援を待ち、同じように食料を受け取る住民だった。しかし食料が足りなくなり、配給される量に差がついたことで、そこにはいつの間にか新しい境界が生まれ始めていた。
働いている者と、働けない者。
そして今度は、同じ働いている者同士でさえ、誰がどれだけ役に立っているのかを比べ始めていた。
◇
「……昨日の多数決、本当にそのままやったのね」
監視室の画面に映る配給の様子を眺めながら、朝霧は手元のノートから顔を上げた。
老人が半分の食事を持って戻っていく姿を目で追ったあと、少し離れたソファに座っている蓮へ視線を向ける。
「高齢者と病人だけ半分。食料が足りないのは分かるけど、ひどいわね……」
「まぁ、合理的ではある」
「相変わらず他人事ね……」
「実際他人だからな」
あまりにも蓮らしい答えに、朝霧は呆れたように息を吐いたものの、それ以上は何も言わなかった。
しばらく監視画面を見つめてから、ふと思い出したように口を開く。
「そういば、黒崎さんがたちが行った保護地域はどうなんだろうね」
「さあな」
「ちゃんとみんな食べれてるのかな」
蓮は一度だけ朝霧へ目を向けると、少し考えてから答えた。
「昨日の電話では食べてるようだ。ただ皆が平等なのは無理だな。あれだけの人を生かす場所で、全員を同じように扱えるわけがない」
「……言い切るわね」
「食料も薬も人手も無限じゃない。なら、どこかで優先順位はつく」
「そう言われると否定できないわ」
朝霧はそれ以上追及せず、再びノートへ視線を落とした。しばらくペンを走らせていると、今度は蓮の方が気になったのか、ソファからその手元を眺めながら声をかけてきた。
「……何書いてる?」
「内緒」
「俺が渡したノートだぞ」
「だからって、中身まであなたのものじゃないでしょ」
「それもそうだな」
あっさり引き下がった蓮を見て、朝霧は少しだけ笑った。そのまま再びペンを動かし始めると、蓮もそれ以上中身を聞こうとはせず、監視画面へ視線を戻した。
◇
「剛さん、このままじゃジリ貧ですよ」
配給が終わったあと、残された食料を確認していた松本が、周囲に住民がいないことを確かめてから柴田へ声をかけた。
「配給減らしたから多少は延びるでしょうけど、それだって無くなるのが少し先になるだけじゃないですか。だったら無くなる前に、俺らが持ってトンズラした方がよくないですか?」
柴田はすこし考えてから答えた。
「……俺もそれは考えてたんだがな。車の燃料がもうほとんどねえんだよ。これ全部持って逃げるなんて無理だし、それにお前、前のとこに戻りたいか?」
「……いや、あそこはもう今、相当やばいでしょうね。俺らが出る前でも食料で揉めてましたし」
「いやよ! 私は絶対ここから出ないからね!」
二人の話を聞いていた一ノ瀬が突然割り込んできた。柴田がうるさそうに顔を向けるが、一ノ瀬は気にする様子もなく、まだ残っている食料へ目を向けた。
「だって、まだこんなにあるじゃない。なんでわざわざ外に出なきゃいけないのよ」
一ノ瀬は目の前にある食料を見ながら、納得できない顔をしていた。
「それに神崎のところ、そのうち乗っ取ればいいじゃん。あそこなら水も電気もあるんでしょ? 他よりずっと快適じゃん」
「お前は簡単に言うけどな、あの扉どうすんだよ。三浦だって戻ってこねえし、力ずくでどうにかできるならとっくにやってる」
「だから、そのうちって言ってるじゃん。何か方法くらいあるでしょ」
「その何かを聞いてんだよ」
一ノ瀬は不満そうに口を尖らせたが、具体的な方法があるわけでもなく、それ以上は答えなかった。
「……もう少し様子見るか」
しばらく考えた末に柴田がそう言うと、結局誰からも他の意見は出なかった。
ここに残ることが最善だと判断したわけではない。ただ、他にいい案が出ない以上、彼らは結論を先送りにした。
そうして四人は、現状維持を選んだ。
まもなくマンション内で大きな動きが起きるとも知らずに――。
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Day 66
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 87人
今日のメモ:
「優遇される理由は、優遇された人が決める。」
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ちょっと説明が多く、長くなってしまいました・・・
読みづらかったら申し訳ないです。




