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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第92話 Day 60 もう一つの終末

「あの時の俺は――」


蓮はそこで一度言葉を止めた。


朝霧は何も言わず、続きを待っている。


暖房の効いた部屋は静かだった。窓の向こうでは今日も雪が僅かながら降り続いているが、蓮の目に映っていたのは今の雪ではなかった。


もう一度、すべてを失う前に見た雪だった。


◇


あの頃の神崎蓮は、まだ人間というものを信じていた。


もちろん、誰かを無条件に信用するほど世間知らずではなかったし、仕事柄、人間が金のためなら簡単に嘘をつくことも、昨日まで笑っていた相手と利益一つで争えることも知っていた。


それでも、困っている人間がいれば自分にできる範囲で手を貸す。受けた恩には返礼し、約束したことは守る。


それが社会で生きる人間として当たり前のことであり、自分の周囲にいる大半の人間も、程度の差こそあれ同じような感覚で生きているのだと思っていた。


そんな当たり前が、食料一つ、薬一錠で簡単に失われることを、この頃の蓮はまだ知らなかった。


◇


異常寒波が日本列島を覆って二日目、蓮のスマートフォンに黒崎恒一から電話がかかってきた。


『蓮、お前、食料どれくらい持ってる?』


「食料?」


唐突な質問に首を傾げながら、蓮はキッチンへ向かった。


冷蔵庫には肉や野菜が多少残っており、冷凍食品もいくつかある。米もまだあったし、カップ麺やレトルト食品も数食分くらいなら残っていた。


「まあ、数日くらいなら何とかなると思うけど」


『今から買いに行け』


「は?」


『できるだけ多く買ってこい。この雪、ちょっと普通じゃねえぞ』


黒崎は以前、大きな地震災害を経験していた。


それ以来、災害への備えには人一倍敏感になり、自宅には保存水や缶詰、レトルト食品、簡易トイレ、乾電池などを大量に保管している。


蓮も何度かその話を聞き、「そんなに置いてどうするんだ」と笑ったことがあった。


「ニュースじゃ数日がピークって言ってるぞ。物流だってそのうち戻るだろ」


『戻ったら俺のこと笑えばいい。でも戻らなかったら、今日買わなかったことを絶対後悔する。米、乾麺、缶詰、レトルト、保存水。長く持つものを優先しろ』


「そこまで言うなら行ってみるけど」


『行ってみるじゃねえ。絶対行け』


「分かったよ」


普段なら、大袈裟だと笑って終わらせていたかもしれない。


だが、災害を実際に経験している黒崎がここまで言うのだから、何か感じるものがあるのだろう。


蓮は防寒着を着込み、雪の中を近所のスーパーへ向かった。


店内はすでに異様な混雑だった。


パンやカップ麺の棚には空白が目立ち、レジには見たこともないほど長い列ができている。


蓮は残っていた米や缶詰、乾麺、レトルト食品、保存水などを可能な限りカゴへ入れ、二時間近く並んで会計を済ませた。


さらに別の店にも足を延ばした。


それが後になって、自分の命を何週間も繋ぐことになるとは、その時の蓮は思っていなかった。


◇


一週間が過ぎても、雪は止まらなかった。


最初の頃、マンションにはまだ助け合いという言葉が残っていた。


高齢者の代わりに若い住民が水を運び、余っている毛布を融通し合い、食料が少ない世帯には持っている者が少しずつ分ける。


蓮もその輪の中にいた。


自分の食料にも限りがある以上、誰にでも大量に配ることはできなかったが、それでも困っている人間を見れば、缶詰を一つ、レトルト食品を二袋という程度なら渡していたし、物資を運ぶのを手伝うこともあった。


隣室の住民が訪ねてきたのも、そんな頃だった。


「神崎さん、すみません。解熱剤って持ってませんか? 子供が熱を出しちゃって……」


玄関の向こうには、何度か顔を合わせたことのある男が立っており、その後ろには、妻らしい女性もいた。


「ちょっと待ってください」


蓮は薬箱を確認し、未開封の解熱剤を見つけた。


一錠か二錠だけ取り出して渡してもよかったが、子供ならまた熱が上がるかもしれない。


「これ、持っていってください」


「え、一箱いいんですか?」


「また必要になるかもしれないでしょう。俺は今のところ元気ですから」


「ありがとうございます。本当にありがとうございます!」


何度も頭を下げる夫婦を見ながら、蓮は大したことをしたつもりもなかった。


困った時はお互い様だ。


自分が困った時には、きっと誰かが同じように助けてくれる。


その時は、本当にそう思っていた。


数日後、今度は蓮が熱を出した。


寒さと食事量の減少で体力が落ちていたのだろう。朝から身体が重く、夕方には明らかに熱があることが分かった。


薬箱を開けたところで、以前解熱剤を隣へ渡したことを思い出した。


仕方なく隣室を訪ねると、以前の男が扉をわずかに開けた。


「すみません。この前渡した薬、まだ残ってますか? 俺も熱が出ちゃって。一錠だけ分けてもらえればいいんですけど」


男は一瞬黙り、それから困ったように眉を寄せた。


「いや……ちょっと」


「もう使い切りました?」


「そういうわけじゃないんですけど、子供がまた熱を出すかもしれないんで」


蓮は一瞬、言葉の意味が分からなかった。


「一錠でいいんです」


「でも今、薬なんて手に入らないじゃないですか。うちも子供がいるんで、残しておきたいんですよ」


「……そうですか」


腹が立たなかったと言えば嘘になる。


だが、子供がいるのなら仕方がないのかもしれない。


そう考えて、蓮は引き下がった。


みんな、余裕がないんだ。


そう思うことにした。


◇


雪は降り続けた。


電気や水道は不安定になり、行政から届く情報も日に日に少なくなっていった。時間が経つほど外へ移動することそのものが難しくなり、残った住民たちはマンションの中だけで生きていかなければならなくなった。


そして、物資が減るにつれて人間も変わった。


最初は住民同士の揉め事を止め、物資探索の順番を決めていた男が、やがて各部屋から食料を集め始めた。


「全員で管理した方が公平だ。今は全員で生き延びることが一番大事だ」


最初は、そう言っていた。


だが、集められる物資が減るにつれて要求は激しくなった。


食料を出さない者を脅し、拒否すれば殴る。


男の周囲には腕力に自信のある人間が集まり、いつしかマンションの中では彼らに逆らうこと自体が危険になっていた。


蓮の部屋にも男たちは来た。


冷蔵庫を開け、棚を漁り、目についた食料を持っていった。


それでも蓮は抵抗しなかった。


幸運だったのは、その中に以前、蓮から食料を受け取った住民がいたことだった。


「こいつは…… もういいだろ」


その一言で、部屋のすべてをひっくり返されることだけは免れた。


男たちが帰ったあと、蓮は隠していた食料が無事であることを確認した。


人にしたことは、巡り巡って自分へ返ってくることもある。


その時の蓮は、まだそう思うことができた。


だが、マンションを支配した男にも食料を生み出すことはできなかった。


奪える物があるうちは、支配が成立した。


それがなくなれば、残るのは暴力だけだった。


昨日まで缶詰を一つ差し出せば許された部屋が、今日は「まだ隠しているだろう」と家具までひっくり返される。


泣いて頼んでも聞き入れられず、抵抗すれば殴られる。


そしてある夜、ついに住民たちが一斉に男たちへ襲いかかった。


積み重なっていた恐怖と怒りが、一気に噴き出した。


翌朝、支配者だった男は死んでいた。


誰が最後に手を下したのか、蓮は知らない。


住民たちは喜んだ。


これで終わった。


これで物資を奪われない。


これで少しは元に戻れる。


蓮自身も、ほんの少しだけ期待した。


だが、男が死んでも食料は一つも増えなかった。


むしろ、唯一残っていた秩序まで消えた。


翌日には別の部屋から食料が盗まれ、その翌日には廊下で殴り合いが起きた。夜になればどこかで他人の部屋のドアをこじ開けようとする音が響き、昨日まで一緒に支配者へ立ち向かった住民同士が、今日は一袋の乾麺を巡って争った。


人を見る目も変わった。


廊下ですれ違えば挨拶していた隣人たちは、相手の顔ではなく手元を見るようになった。


ポケットの膨らみを見る。


服の下を見る。


少しだけ血色のいい人間がいれば、何を食べているのかと疑う。


蓮もまた、いつしか同じ目で他人を見るようになっていた。


そして、死人が増えた。


外へ遺体を運び出すことさえ難しくなっていたため、亡くなった住民については空いている共用スペースへまとめて置くことになった。


暖房などとうに止まっているから温度は低く、腐敗はほとんど進まなかった。


誰も好んで近づこうとはしない場所だった。


ある日、その前を通りかかった蓮は足を止めた。


何かがおかしい。


暗い空間に横たわる遺体を見て、蓮はしばらく動けなかった。


少ない。


正確な人数を数えていたわけではない。


それでも分かる。


昨日まで、もっとあった。


誰かが外へ運んだのかと一瞬考えたが、そんなはずはない。


外は吹雪だった。


生きている人間でさえ外へ出ることを恐れているのに、わざわざ死体を運び出す理由などない。


蓮は何も言わず、そこを離れた。


確認しようとは思わなかった。


誰が持ち出したのか。


何のために持ち出したのか。


考えれば、一つの答えに辿り着く。


だが、その答えだけは間違っていてほしかった。


それから蓮は、その部屋へ近づかなくなった。


◇


それでも、完全に外へ出られなくなったわけではない。


風が弱まり、視界が多少確保できる日には、生き残った住民たちが物資を探して街へ出た。


スーパーもコンビニも、とっくに空だった。


飲食店は荒らされ、自動販売機すら壊されている。


そんな中、蓮は偶然、小さな学習塾を見つけた。


奥の倉庫には、保存水、アルファ米、クラッカー、缶詰が入った段ボールがあった。


一人で食べるなら、かなりの期間を生きられる。


以前の蓮なら、マンションへ戻って住民たちへ教えていたかもしれない。


だが、その時の蓮にそんな考えは浮かばなかった。


これを知られれば奪われる。


大量の食料を持って帰れば、自分の部屋どころか命が狙われる。


蓮は必要な分だけを防寒着の内側へ隠し、手にはティッシュや使えそうな日用品、文房具を持つ。


マンションへ戻った時、住民から何か見つかったかと聞かれ、


「これくらいですね。ティッシュ、いります?」


そう言って一箱渡した。


次の探索でも同じことをした。


その次も。


誰にも気づかれない量だけを服の中へ隠して持ち帰り、表向きは大したものを見つけられなかったふりをした。


誰かに会えば、時には生活用品を自分から渡した。


だから誰も、神崎蓮が食料を見つけているとは思わなかった。


蓮は少しずつ、生き残る方法を覚えていった。


他人に期待しない。


自分の持っているものを教えない。


自分の命は、自分で守る。


それでも、一人だけ完全には切り捨てられない人間がいた。


◇


一ノ瀬美咲。


同じ街の別のマンションに住む彼女が、どんな生活をしているのか蓮には分からなかった。


こちらですらこの有様なのだ。


向こうでも同じことが起きているかもしれない。


蓮は数日に一度、彼女へメッセージを送った。


『今日も雪やまないね』


しばらくすると既読がつくが、返事はなかった。


別の日には、マンションで起きた出来事を送った。


『今日こっちでまた暴動があったよ。そっちは大丈夫?』


既読。


やはり返事はない。


生きてはいるし、スマートフォンを見る余裕もある。


それだけでもいい。


蓮はそう思った。


そんなことが何度か続いたある日、蓮は何気なく尋ねた。


『まだ食べ物ある?』


送信して、それほど時間も経たないうちにスマートフォンが震えた。


『もうほとんどないよ』


蓮は少し驚いた。


ここ数日、一度も返事がなかったからだ。


『蓮くんはまだ持ってる?』


『少しならあるよ』


『本当? もし余裕あるなら少し分けてもらえないかな』


蓮は食料を袋へ詰め、彼女へ届けた。


翌日、またメッセージを送った。


『昨日大丈夫だった?』


既読。


返事はない。


数日後。


『こっちはまた一人亡くなった。そっちは変わりない?』


既読。


それだけだった。


そして、また食料について尋ねた時だけ、すぐに返事が来た。


『実はもうあんまりなくて……』


さすがに蓮も気づいていた。


自分が送るメッセージには既読しかつかない。


食料の話をした時だけ返事が来る。


違和感はあった。


それでも、その違和感を認めてしまえば、一ノ瀬まで疑わなければならなくなる。


マンションの人間たちが変わっていく姿を、蓮は嫌というほど見てきた。


助けた相手に拒絶され、昨日まで隣人だった者同士が食料を奪い合い、人を殺し、最後には死者にさえ手をつける人間が現れた。


そんな世界の中で、せめて彼女だけは以前と変わっていないと思いたかった。


きっと彼女も大変なんだ。


雑談に返事をする余裕はなくても、食料の話なら返さなければ生きていけない。


そう考えれば説明できた。


蓮はまた、自分の食料を袋へ詰めた。


◇


寒波到来四十五日目。


学習塾に残っていた最後の保存食がなくなった。


自分の部屋に残っている食料も、あと僅かだった。


一日に必要な最低限しか食べない。


腹が鳴っても我慢し、空腹で眠れなくても翌日の分には手をつけない。


明日必要になる一口を、今日食べるわけにはいかなかった。


それでも限界は近かった。


黒崎の助言がなければ、とっくに死んでいただろう。


偶然、学習塾の備蓄を見つけなければ、それでも死んでいた。


いくつもの幸運に恵まれてここまで持ちこたえてきたが、それでも四十五日目には、すべてが底をつこうとしていた。


その日、スマートフォンが震えた。


一ノ瀬美咲。


久しぶりに向こうから届いたメッセージだった。


その名前を見た瞬間、蓮の胸に安堵が広がった。


生きている。


まず、そう思った。


メッセージを開く。


『私、食べるものがほとんどなくなっちゃった』


『蓮は大丈夫?』


『蓮なら、私のこと助けてくれるよね?』


蓮はしばらく画面を見つめた。


それから、自分の部屋に残った食料を確認した。


本当に、これだけだった。


これを食べれば、自分はあと何日か生きられる。


その間に雪が弱くなるかもしれない。


まだ誰も見つけていない食料を発見できるかもしれない。


救助が来る可能性だって、ゼロではない。


だから渡すべきではない。


そんなことは、考えるまでもなく分かっていた。


それでも蓮は袋を取り出し、一つずつ食料を入れていく。


途中で手が止まった。


これを渡したら、自分はどうする。


答えはなかった。


何とかなる。


そう自分に言い聞かせた。


だが、その言葉を自分自身が信じていないことも分かっていた。


もう、自分は駄目なのかもしれない。


だったらせめて、一ノ瀬だけでも。


蓮は残った食料を袋へ詰めたが、彼女へ渡すには少ないように思えた。


迷った末、スマートフォンを手に取る。


黒崎恒一。


寒波が始まって二日目、食料を買えと何度も念を押してくれた男。


あの時、黒崎の言葉を聞かなければ、四十五日目まで生きることすらできなかっただろう。


黒崎だって余裕があるはずがない。


彼には愛もいる。


それでも、蓮にはもう他に頼れる人間がいなかった。


薬を一箱渡しても、一錠すら返してくれなかった隣人。


昨日まで同じマンションで暮らしていた人間から物資を奪い、暴力で支配した男。


その男を皆で殺し、自由になった翌日から互いの食料を奪い始めた住民たち。


そして、いつの間にか減っていた遺体。


この四十五日間で、蓮は嫌というほど人間を見た。


それでも、黒崎だけは違った。


そして一ノ瀬も違うのだと、まだ信じていた。


蓮は黒崎へ電話をかけた。


「……悪い。何か食べ物、余ってないか?」


◇


その日の夕方。


蓮は雪の中を歩いていた。


黒崎から分けてもらった食料も、リュックの中に入っている。


黒崎からは「一ノ瀬にはもう何もあげるな」と罵声まで浴びせられたが、結局、自分が用意した分だけは一ノ瀬へ渡すことにした。


身体は重く、空腹で足に力が入らない。


吹きつける雪に何度も足を取られながら、それでも歩いた。


ようやく一ノ瀬の住むマンションへ辿り着いた時には、指先の感覚すらほとんど残っていなかった。


スマートフォンを取り出す。


『着いたよ』


しばらくして、一ノ瀬が現れた。


「蓮!」


その顔を見た瞬間、蓮は安心した。


ちゃんと生きている。


「よかった。無事だったんだね」


「うん。寒かったでしょ?」


「これ。少ないけど、持ってきたよ」


蓮は持ってきた袋を差し出した。


一ノ瀬が中を見ると、その表情が僅かに明るくなった。


「ほんと!?」


「助かったぁ……」


一ノ瀬は袋を抱えた。


蓮はその姿を見ながら、ようやく肩の力を抜いた。


これでしばらくは大丈夫だ。


そう思った。


そして、玄関の向こうから外より暖かい空気が漏れてくる。


帰るだけでも、かなりの体力を使う。


今日くらいは、ここで少し休ませてもらえるかもしれない。


帰ろうとする自分を、引き止めてくれるかもしれない。


「それじゃあ……」


一ノ瀬の表情が変わった。


「……え?」


一ノ瀬は困ったように視線を逸らし、蓮もわずかばかりその反応に期待を寄せた。


「部屋に入れてあげなくてごめんね。まだ、そういう関係じゃないから」


一ノ瀬は袋を抱いたまま、小さく笑った。


蓮はしばらく何も言えなかった。


何かがおかしい。


そう思った。


自分はこの雪の中を歩いてきた。


自分が生きるために必要だった食料まで持ってきた。


別に泊めてほしいと言っているわけではない。


少し暖まりたい。ただそれだけだった。


だが、一ノ瀬は食料の入った袋を抱えたまま、扉の前から動こうとしなかった。


「……そうだよね」


蓮はそれ以上何も言わなかった。


身体を返そうとした、その時だった。


「何だよ。まだいたのか?」


部屋の奥から、男の声がした。


蓮の動きが止まる。


一ノ瀬の表情が強張った。


やがて、一人の男が姿を現した。


蓮は男を見る。


知らない男だった。


だが、厚めの部屋着を着ており、明らかにこの部屋の中にいた。


「その人は……誰?」


蓮が一ノ瀬を見る。


一ノ瀬は答えなかった。


代わりに、男が鼻で笑う。


「ごちゃごちゃうるせぇな」


蓮は何も言えなかったが、どういう関係かは見ればすぐに分かった。


頭の中で、これまでのやり取りが繋がっていく。


その後、蓮は男と黒崎からもらったリュックを奪い合い、もつれ合った。


そして――。


強い衝撃が、蓮の頭を襲う。


何が起きたのか、最初は分からなかった。


視界が大きく揺れ、そのまま床へ倒れる。


薄れゆく意識の中で、蓮は一ノ瀬を見た。


一ノ瀬と目が合ったが、彼女は動かなかった。


ただ、蓮が持ってきた食料の袋を抱えていた。


その瞬間。


四十五日間、何度も見ないふりをしてきたものが、ようやく全部見えた。


自分は気づいていた。


ずっと前から。


何かがおかしいことも。


それでも信じたかった。


周りの人間がどれだけ変わっても。


人が人を疑い、奪い、殴り、殺し、最後には死んだ人間さえ食料として見るようになっても。


一ノ瀬だけは違う、そう思いたかった。


でも、違った。


自分が見ようとしなかっただけだった。


そして――


◇


「――そこで死んだ」


蓮はさらに、一ノ瀬がこのマンションへ来てからのことも一通り話した。


すべてを聞き終え、朝霧はようやく我に返る。


暖かい部屋。


明るい照明。


テーブルの上には、まだ湯気の残るカップがある。


先ほどまでと何も変わっていない。


それなのに朝霧には、この部屋の空気そのものが変わってしまったように感じられた。


しばらく言葉が出なかった。


「……ひどい」


ようやく出たのは、それだけだった。


蓮は何も答えない。


「彼女……あなたが自分の食べるものまで渡してたの、知ってたの?」


「知らない」


「でも、何度も食料をもらってたのよね」


「ああ」


「それなのに……」


朝霧は、その先を言えなかった。


蓮は淡々としていた。


まるで、他人の話でもしているようだった。


「でも、前世で分かった」


「……何が?」


「人間がどこまで醜くなれるのか」


朝霧が蓮を見る。


「今の住民たちは、まだ恵まれてる」


「……これで?」


思わず聞き返した。


住民が殺され、代表たちはその住民に襲われた。


そして今日、自分自身も同じ住民たちに部屋を壊され、薬も食料も奪われた。


朝霧には、十分すぎるほど壊れているように見える。


「やっぱり、そうなのかな……」


「ああ」


蓮は即答した。


「まだ食えるものがある。まだ他人の死体を食わなくても生きていける。まだ一人で廊下を歩ける。まだ扉の向こうにいる人間全員を敵だと思わずに済んでる」


「…………」


「俺が見たのは、その先だ」


朝霧は何も言えなかった。


「このまま寒波が続いて、食料が減って、誰も助けに来なければ、ここもいずれ同じになる」


「……そんな」


「ならないと思うか?」


否定できなかった。


今日、自分の部屋へ押し入ってきた人間たちの顔が浮かぶ。


彼らも最初から悪人だったわけではない。


自分が治療した人間もいた。


感謝してくれた人間もいた。


それでも、食料がなくなれば扉を壊した。


「一度助けても同じだ」


蓮が言った。


「……え?」


「今日食うものを渡せば、今日は生きる。じゃあ明日はどうする?」


「…………」


「明日の分も渡すのか? 明後日は? 一ヶ月後は?」


朝霧は答えられなかった。


蓮の声にも責めるような響きはなく、ただ事実を並べているだけだった。


「それで生き残ったとして、そいつは何ができるようになる?」


「…………」


「何も変わらない。次も誰かに助けてもらわないと死ぬ」


蓮は朝霧を見る。


「自分で生きる力がなければ、いつか死ぬ。助けることで、その日を少し後ろへずらすことはできるかもしれない。でも、それだけだ」


朝霧は唇を結んだ。


「……でも」


「人を助けること自体、間違ってるとは言わない」


予想していなかった答えに、朝霧が顔を上げる。


「助けたい奴は助ければいい。それで救われる人間もいる。それを否定するつもりはない」


「だったら――」


「ただ、それで自分が生き残る可能性が減るなら、俺はやらない」


朝霧の言葉が止まった。


「それだけだ」


「…………」


「俺は一度、人を優先し、人を信じた」


蓮は淡々と続けた。


そして――。


「死んだ」


朝霧は何も言えなかった。


「だから今度は自分のためだけに生きる」


「……それが、あなたの言う『甘さ』なのね」


「ああ」


そこで朝霧は、ようやく分かった。


なぜ蓮が今まで誰にも手を差し伸べなかったのか。


なぜ今日、三浦を助けるかどうかを自分に選ばせたのか。


神崎蓮は、人を助けることそのものを否定していたわけではない。


ただ、自分自身まで差し出す人間を信用していなかった。


「……だから以前の私には、ここに来る資格はなかった」


「そうだ」


「私が、自分を犠牲にしてでも他人を助けると思ってたから」


「思ってたんじゃない。実際そうだろ」


「……否定できないわね」


「俺の専属医が、知らない誰かを助けるために勝手に死んだら意味がない」


朝霧は苦笑した。


「本当に言い方が悪いわね」


「事実だ」


「分かったわ」


朝霧はカップへ視線を落とした。


少し前までなら、その言葉を冷たいと思っただろう。


だが今は、少し違って聞こえる。


蓮は最初から、こういう人間だったわけではない。


一度、自分自身が同じことをしたのだ。


人を助け、信じ、自分より他人を優先した。


そして、その結果として死んだ。


「……神崎さん」


「なんだ」


「一ノ瀬を、このマンションに呼んだのは……復讐のため?」


蓮は朝霧をしばらく見つめてから、口を開いた。


「そうだ」


迷いのない答えだった。


あまりにもあっさりと認めたため、朝霧の方が言葉を失った。


だが、一ノ瀬が蓮にしたことを聞いたあとでは、それを簡単に責めることもできなかった。


蓮は一度、彼女を信じた結果として死んでいる。


二度目の人生で同じ状況を作り、同じ言葉を返した。


決して優しいやり方ではない。


それでも、それで終わったのなら――。


朝霧はそこで、ふと疑問を覚えた。


「……でも」


「なんだ」


「それなら、もう終わったんじゃないの?」


蓮が朝霧を見る。


「何がだ」


「復讐よ」


蓮は沈黙しながら、朝霧の次の言葉を待つ。


「一ノ瀬をここへ呼んで、自分が言われたのと同じ言葉を返した。前のあなたがされたことを、今度はあなたが返したんでしょ?」


「…………」


「だったら……それで終わりじゃないの?」


蓮は答えなかった。


暖かい部屋の中で、窓の向こうの雪だけが静かに降り続いている。


朝霧は蓮の答えを待った。


やがて、蓮は静かに口を開いた。


「いや、まだだ――」


────────────────


Day 60


電力 ▲

ガス ▲

水道 ▲

通信 △

降雪 微弱


生存確認者 88人


【今日のメモ】


「甘さの代償は、一度で十分だ。」


────────────────


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