第91話 Day 60 雇用条件
食事を終えたあとも、朝霧はしばらくカップを両手で包んだままソファに座っていた。
風呂に入り、温かい食事を腹に入れ、今はこうして湯気の立つ飲み物まで目の前にある。ほんの少し前まで、壊された自室の中で食料も薬も失い、三浦に追われながら階段を駆け上がっていたことが、まるで何日も前の出来事のように感じられた。
同じマンションの中にいるはずなのに、扉一枚を隔てただけで世界が違う。
朝霧はカップを口元へ運び、一口を飲んだ。
その向かいでは、蓮が何も言わずに座っている。
やがて朝霧がカップをテーブルへ戻すと、それを待っていたかのように蓮が口を開いた。
「朝霧」
「……何?」
先ほどまでとは少しだけ空気が違った。
朝霧もそれに気づき、自然と背筋を伸ばす。
「じゃあ、これからの話をする」
「……ええ」
蓮は朝霧をまっすぐ見た。
「お前を雇いたい」
「……雇いたい?」
「ああ。俺の専属医としてだ」
朝霧は一度目を瞬いた。
――その医者は俺が雇う。手を離せ――
あの時、三浦に迫られた時もそんなことを言っていた。
医者として必要だからここへ来い。そこまでは何となく理解していた。
「専属医って……あなたの?」
「他に誰がいる」
「いや、そうだけど……」
蓮は朝霧の戸惑いを気にする様子もなく、そのまま条件を説明した。
「ここで暮らせ。衣食住に必要なものは俺が用意する。医療に必要な薬や器具も、用意できるものは用意する。その代わり、お前は俺の健康管理と、必要になった時の治療を担当しろ」
「つまり、本当にあなた一人のための医者ってこと?」
「そうだ」
条件だけを聞けば、この世界では異常なほど恵まれていた。
食料がある。水がある。暖房がある。風呂にまで入れる。外では一食分の食料を巡って人間同士が殴り合い、場合によっては命に関わる時もあるというのに、ここでは生活そのものが保証される。
それでも朝霧は、すぐには頷かなかった。
「……他の住民は?」
「何がだ」
「怪我人や病人が出たら、私は――」
「まだそんなことを言ってるのか」
蓮の声が僅かに低くなり、朝霧の言葉が止まった。
「さっき何を選んだのか、もう忘れたのか?」
「……忘れてないわ」
非常階段に倒れていた三浦の姿が頭をよぎる。呼吸もあった。脈もあった。助けようと思えば、助けることはできた。それでも朝霧は、自分で助けないことを選んだ。
「なら分かるだろ」
蓮は朝霧を見たまま、はっきりと言った。
「お前が必要なのは医者じゃない。俺の専属医だ。また同じことを繰り返すつもりなら、俺はお前を雇う意味がない」
朝霧は反論しなかった。以前の自分なら、きっと何かを言っていただろう。医者だから、目の前に患者がいるから、助けられる命だから。そんな言葉を並べて、結局また自分を後回しにしていた。
だが、その結果が何だったのかを、ついさっき思い知らされたばかりだった。
「……分かったわ」
「それでいい」
あまりにもあっさりと返され、朝霧は少しだけ眉を寄せた。
「随分簡単に言うのね」
「決めたのはお前だ」
「……そうだったわね」
朝霧は小さく苦笑した。確かにその通りだった。蓮に命令されたからではない。三浦を助けないと決めたのも、ここへ来たのも、最後には自分で選んだことだった。
そこで朝霧は、もう一つ引っかかっていたことを思い出した。
「じゃあ、聞いていい?」
「なんだ」
「どうして私なの?」
「医者だからだ」
「田村先生も医者よ」
「使えない」
即答され、朝霧は思わず口を閉じた。
「……容赦ないわね」
「事実だ」
田村が聞けば怒るだろうが、朝霧にも強く否定することはできなかった。少なくとも重症患者への対応経験という点では、救急医療の現場にいた自分とは大きな差がある。
「でも、それならもっと早く声をかけてもよかったんじゃない? あなた、ずっと前から私が医者だって知ってたんでしょ?」
「ああ」
「だったら、どうして今なの?」
蓮は僅かに間を置いた。
「お前が甘すぎたからだ」
朝霧の表情が止まる。
「誰かが困っていれば助ける。頼まれれば断れない。自分の食料が減ろうが、薬がなくなろうが、自分が危険になろうが関係ない。そんな人間に俺の命を預けるつもりはなかった」
朝霧は何も言えなかった。厳しい言い方だったが、今日までの自分を思い返せば、否定できる言葉は一つもない。
「誰かを助けるために勝手に死んでも意味がないし、俺を脅かす可能性すらある」
そこまで聞いて、朝霧はようやく一つのことに気づいた。
「……じゃあ、さっきの三浦のことも?」
蓮は答えなかった。しかし、その沈黙だけで十分だった。
「私が助けるかどうか、見てたのね」
「ああ」
「……やっぱり」
朝霧は小さく息を吐いた。
非常階段で蓮が自分へ選択を委ねた意味が、ようやく完全に分かった。三浦をどうするかだけを聞いていたのではない。自分が今までと同じ人間のままなのかを見ていたのだ。
「もし私が三浦を助けてたら?」
「ここには入れてない」
「……厳しいわね」
「必要な条件だった」
朝霧はしばらく蓮を見つめたあと、肩から力を抜いた。
「まあ……合格したってことにしておくわ」
「そう思っておけばいい」
「そこは普通、そうだって言わない?」
「必要か?」
「……もういいわ」
朝霧は呆れたようにカップへ手を伸ばした。
◇
「……遅えな」
柴田は苛立った声を漏らし、何度目か分からない舌打ちをした。
部屋の隅では、腹を押さえた男が横になっている。顔色は先ほどよりも悪く、時折苦しそうな呻き声を漏らしていた。三浦が朝霧を連れに出てから、随分と時間が経っている。
「田村、本当に何もできねえのか」
「だから、さっきから言ってるでしょう。ちゃんと診るには検査が必要なんです。内臓に損傷があるかもしれないし、ここじゃ判断できない」
「朝霧なら分かるんだろ」
「朝霧先生なら、私よりはこういう患者を診た経験はあるでしょうが……」
柴田の顔がさらに険しくなる。
「おい」
近くにいた男が振り向いた。
「三浦に電話しろ」
「はい」
男がスマホを取り出し、三浦へ電話をかける。全員が何となくその様子を見ていたが、やがて男はスマホを耳から離して首を振った。
「……出ませんね」
「もう一回だ」
「はい」
再びかける。しかし結果は同じだった。
「駄目です」
柴田が舌打ちする。
「…………」
柴田は黙って扉を見る。
三浦が朝霧を連れて戻ってくるはずだった。ただ、それだけの話だった。
「何やってんだ、あいつ……」
低い声だけが、部屋の中に残った。
◇
2501では、朝霧がカップに残っていた飲み物を一口飲んでいた。
話は一段落したはずだった。
それでも、まだ聞いていないことがある。むしろここへ入ってから、疑問は増える一方だった。
朝霧はゆっくりと室内を見回す。
暖かいリビング。普通に使える照明。キッチン。風呂。監視室。そして、その奥の階段から繋がっていた屋上シェルター。大量の水、蓄電池、発電機、太陽光発電設備。
これだけでも異常だった。
だが、それだけではない。
「……神崎さん」
「なんだ」
「一つ、聞いていい?」
「ああ」
「あなた、何か隠してるわよね?」
蓮の表情は変わらなかった。
「何の話だ」
「ここよ」
朝霧は周囲へ視線を向けた。
「これだけ準備してたのも十分おかしいけど、それだけじゃない。六十日よ? 六十日も経ってるのに、あなたは今でも普通にお風呂に入って、普通に暖房を使って、普通に温かいものを食べてる」
蓮は何も言わない。
「それに、さっきの三浦」
朝霧の目が蓮へ戻る。
「あのボール、何だったの?」
「…………」
「目の前で見たんだから、見間違いじゃない。あなた、何かしたでしょ?」
しばらく沈黙が落ち、朝霧は蓮の答えを待った。
やがて蓮が口を開く。
「その先を聞くなら、今ここで決めろ」
「……何を?」
「これから俺が話すことは、外に漏らせない」
「誰にも言わないわ」
「そういう意味じゃない」
朝霧が眉を寄せる。
「知ったあとで、やっぱり雇われるのはやめると言われても困る。これを聞いたら、お前はもう後戻りできない」
「…………」
「今ならまだ聞かなくてもいい」
朝霧は黙った。
言葉の意味は理解できる。蓮がここまで隠している秘密だ。それを知れば、ただ「気が変わったから帰る」では済まないということも。
それでも、朝霧の答えは既に決まっていた。
今日、自分でここまで走ってきた。三浦を助けないことも、自分のために生きることも選んだ。今さら、知らないまま蓮のそばにいる方が怖かった。
「……聞くわ」
「いいんだな?」
「ええ」
蓮は数秒、朝霧を見たあと、テーブルの上へ手を伸ばした。そこには先ほど朝霧が使っていたコップが置かれている。
蓮手のひらを近づけた。
次の瞬間、コップが消えた。
「…………え?」
朝霧の目が大きくなる。
確かにあった。今の今まで、目の前にあったはずだ。
「……どこにやったの?」
蓮は答えず、何もない空間へまた手を伸ばす。
コップが現れる。
朝霧はコップを見て、それから蓮を見た。もう一度コップへ視線を戻し、しばらく黙ったあとで口を開く。
「……マジック?」
「違う」
蓮は再びコップを消し、そのままもう一度取り出した。
朝霧は思わずテーブルの下へ視線を向ける。
「何をしてる」
「……仕掛けがないかと思って」
「ないぞ」
「そう言われても……」
目の前で起きたことは理解できない。しかしコップ程度なら、まだ手品だと言われた方が納得できる。
蓮もそれを察したらしい。
「なら、これはどうだ」
蓮がリビングの空いている場所へ手を向けた。
次の瞬間、そこに小型フォークリフトが現れた。
「…………は?」
朝霧の口が開いたまま止まった。
黄色い車体。運転席。太いタイヤ。その前方には荷物を持ち上げるための二本のフォークまで付いている。どう見ても本物であり、人間がどこかに隠しておけるような大きさではない。
朝霧は立ち上がってフォークリフトを見たあと、蓮を見る。そしてもう一度フォークリフトへ視線を戻した。
「…………」
蓮が手を向けると、フォークリフトは一瞬で消えた。
今度は朝霧もマジックとは言わなかった。
「これが俺の秘密だ」
「……何なの、今の」
「収納。俺の能力だ」
「超能力……かなにか?」
「そんなもんかもな」
朝霧はしばらく何も言えなかった。
超能力。
そんな言葉を真顔で聞かされる日が来るとは思わなかった。だが、今さら否定することもできない。人間一人より遥かに大きなフォークリフトが、何もない場所から突然現れ、そして消えたのだ。
「……つまり、物をどこかに入れられるってこと?」
「そう思えばいい」
「どこに?」
「俺にも正確には分からない。少なくとも、普通の空間じゃない」
朝霧は先ほどフォークリフトがあった場所を見つめた。
「大きさは?」
「今見た通りだ」
「もっと大きなものも?」
「ああ」
「…………」
朝霧は再び黙ったが、すぐにあることに気づいた。
「じゃあ……物資も?」
「ああ」
「食料も、水も?」
「入ってる」
「どれくらい?」
その質問に、蓮はすぐには答えなかった。
《収納》については、もう隠す必要はない。しかし、その中に何が、どれだけ入っているのかは別の話だった。特に、あの巨大倉庫から物資を回収したことだけは、絶対に誰にも話すつもりはない。
あそこにあった物資は、スーパー一店舗などとは比較にもならない。その事実が知られれば、狙ってくるのはこのマンションの住民だけでは済まない。状況次第では、国家や軍が動いてもおかしくない規模だった。
蓮は一瞬考え、あえて曖昧に答える。
「今の生活を一年以上続けても問題ない程度だ」
「…………一年?」
「そうだ」
朝霧の顔から表情が消えた。
「この生活を?」
「ああ」
「お風呂も?」
「入れる」
「暖房も?」
「使える」
「食事も?」
「問題ない」
朝霧はしばらく蓮を見つめたあと、天井を仰いだ。
「……聞かなきゃよかった」
「聞いたのはお前だ」
「そうだけど……」
そこで朝霧は、ふと自分の服へ視線を落とした。風呂上がりに用意されていた服はサイズまで大きく外れていない。そして、当然ながら用意されていたのは服だけではなかった。
「……待って」
「なんだ」
「じゃあ、なんで女物の服まであるの?」
「…………」
「下着もあったわよね……」
蓮は一瞬だけ黙った。
「ついでだからまとめて買った」
「何のついでよ」
「備蓄だ」
「女性用の下着を?」
「必要になる可能性はある」
朝霧は何とも言えない顔で蓮を見た。
「寒波が来る前から?」
「ああ」
「…………」
「何だ」
「いえ……あなたなら本当にやりそうだから、反応に困ってるだけ」
蓮はそれ以上説明しなかった。
物資の入手経路については、これから先も誰にも話すつもりはない。朝霧をここへ入れ、収納の存在まで明かしたとしても、それだけは別だった。
「それから」
蓮が話を戻した。
「さっきも言ったが、これを見た以上、お前はもう外には出せない」
朝霧の表情から、僅かに笑いが消えた。
「……ええ」
「スマホを出せ」
「スマホ?」
「ああ。俺が保管する」
朝霧はポケットに入れていたスマホへ手を伸ばした。
「連絡も駄目?」
「必要な時は渡す。使うなら俺の前で使え」
朝霧は少し迷ったあと、スマホを蓮へ差し出した。
「……分かったわ」
蓮はそれを受け取る。
「もう一つ。寝室は別だ」
朝霧が一瞬きょとんとした。
「……それは当たり前でしょ」
「俺の寝室には絶対に近づくな」
「近づくのも?」
「ああ。俺が許可した時以外は、扉にも近づくな」
「……随分警戒するのね」
「寝ている時は無防備になる」
朝霧は蓮を見る。
「私が何かするとでも?」
「しない保証はない」
あまりにも迷いのない即答に、朝霧はしばらく言葉を失った。
「信用と警戒は別だ」
「……専属医なのに、随分信用のない話ね」
「生きるためだ」
朝霧はしばらく蓮を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……分かったわ。近づかない」
「それでいい」
「はいはい」
朝霧はそう返しながら、先ほどまでフォークリフトが存在していた場所をもう一度見た。
常識では考えられない能力。
これなら、大量の物資をどこに保管しているのかは説明できる。冷蔵庫や収納箱の大きさなど関係ない。蓮自身が巨大な保管庫を持ち歩いているようなものなのだ。
そこまで考えたところで、朝霧の思考が止まった。
何かがおかしい。
能力がある。物資を大量に保管できる。それは分かった。
だが、それでは一つだけ説明できないことがある。
「……神崎さん」
「なんだ」
「あなた、この能力は寒波が来る前から持ってたの?」
「ああ」
朝霧の目が僅かに細くなる。
「備蓄は寒波前からしていたの?」
「ああ」
「屋上の設備も、あの扉も、この部屋の補強も?」
蓮は答えなかった。
朝霧の中で、ばらばらだったものが繋がり始める。
あまりにも準備が良すぎる。
寒波が来てから対応した人間の備えではない。それどころか、何が起きるのかを最初から知っていた人間の準備にしか見えなかった。
朝霧はゆっくりと蓮を見る。
「あなた……やっぱりこの寒波が来ることを、知ってたの?」
僅かな沈黙が落ちた。
蓮は否定しなかった。
「……ああ、そうだ」
朝霧の表情が固まる。
「……どういうこと?」
「一度経験してる」
「何を?」
「この寒波をだ」
朝霧は理解できなかった。いや、言葉の意味は分かる。だからこそ理解できない。
「一度って……この寒波は今、初めて起きてるんでしょ?」
「俺にとっては二度目だ」
「…………どういう意味?」
蓮は朝霧を見た。
「俺は一度、この寒波の中で死んだ」
朝霧の目が見開かれる。
「……死んだ?」
「ああ」
「ちょっと待って。それじゃ……」
「死んだあと、寒波が始まる三十日前に戻った」
朝霧は完全に言葉を失った。
能力だけでも常識の外だった。その直後に、今度は死んだあと過去へ戻ったと言われたのだ。すぐに信じられるはずがない。
「……さすがに、それは……」
朝霧はそこで言葉を止めた。
否定しようとして、できなかった。
視線が自然と室内へ向く。
暖房の効いたリビング。電気、水、食料、監視設備。あの異常な扉。屋上に造られたシェルター。大量の水と蓄電池、発電機。そして、寒波が始まる前から集められていたという一年以上の物資。
偶然で説明するには、あまりにも出来すぎている。
朝霧はしばらく黙ったあと、ゆっくりと息を吐いた。
「……信じられない話だけど、これだけのものを狂気とも言えるほど事前に用意してるのを見せられたら……信じざるを得ないわね」
朝霧は苦笑することもできなかった。
むしろ、ようやく納得できた気がする。
なぜ蓮だけが、寒波の中でここまで完璧に生きていられるのか。なぜ世界が壊れていく中でも、常に一歩先を見ているように動けるのか。なぜ誰よりも早く、人間がどう変わっていくのかを知っているような言葉を口にできたのか。
一度、見ているのだ。
この世界を。
そして朝霧は、もう一つのことに気づいた。
一度、この寒波を経験している。
そして蓮は、そこで死んだと言った。
ならば、今の神崎蓮を作ったのは彼の能力だけではない。
「……神崎さん」
「なんだ」
朝霧は目の前の男を見る。
今日まで、何度も冷たい人間だと思った。どうしてここまで割り切れるのか。どうして人を見捨てられるのか。どうして誰かが死ぬかもしれない状況でも、あれほど冷静でいられるのか。
その答えが、そこにあるような気がした。
「前のあなたに……何があったの?」
蓮はすぐには答えなかった。
ほんの僅かに、その目が変わる。
朝霧は何も言わずに待った。
長い沈黙のあと、蓮はゆっくりと口を開いた。
「あの時の俺は――」
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Day 60
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 △
降雪 微弱
生存確認者 88人
【今日のメモ】
「秘密には、知る前に戻れないものがある。」
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