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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第90話 Day 60 同じ六十日

朝霧は2501号室の前で、一人蓮を待っていた。


つい先ほどまで必死に目指していた巨大な金庫扉が、今は目の前にある。


蓮に言われた通り、ここで待っている。


三浦は非常階段に残され、そこには蓮と三浦の二人だけが残っていた。


何をするつもりなのかは朝霧には聞けなかった。


いや――聞かなくても、なんとなく分かっていたのかもしれない。


その時だった。


――ドォォォン!!


凄まじい轟音が、建物の中に響き渡った。


「っ……!」


朝霧の肩が跳ねた。


足元にまで僅かな振動が伝わってくる。


何か巨大なものを落としたような、あるいは何かを叩き潰したような音だった。


朝霧は反射的に非常階段の方を見る。


「…………」


何が起きたのか。


確認しに行こうとは思わなかった。


自分はさっき、選んだのだ。


三浦を助けないと。


このまま放っておけば死ぬと分かっていながら、自分の意思でそう決めた。


それでも、長年染みついた医者としての感覚まで、一瞬で消えるわけではない。


朝霧は胸元を押さえたまま、その場を動かなかった。


やがて、非常階段の方から足音が聞こえてきた。


朝霧が顔を上げる。


蓮だった。


一人で、何事もなかったかのようにこちらへ歩いてくる。


朝霧はその姿を見つめた。


「……さっきの音」


「ん?」


「あれ……何?」


蓮は一瞬だけ朝霧を見る。


「気にするな」


「気にするなって……」


あれだけの音を聞いて、気にするなという方が無理だった。


朝霧は蓮の後ろを見る。


誰もいない。


「……三浦は?」


「もう来ない」


「…………」


それだけで十分だった。


朝霧は唇を僅かに結ぶ。


何をしたのか、三浦がどうなったのか、聞こうと思えば聞けた。


けれど――聞かなかった。


「……そう」


蓮も、それ以上は何も言わなかった。


そのまま朝霧の横を通り過ぎ、巨大な金庫扉の前へ立つ。


ロックを解除し、重い金属音とともに、扉がゆっくりと開いていった。


「入れ」


「いいの?」


「じゃあ帰るか?」


「……」


朝霧は一度だけ、誰もいない廊下の奥を振り返った。


そして自分の意思で、その扉を越えた。


そして――。


「……え?」


足が止まった。


最初に感じたのは、目に映るものではなかった。


暖かい。


頬に触れる空気が、暖かい。


朝霧は呆然とその場に立ち尽くした。


寒波が始まってからというもの、室内にいるからといって暖かいわけではなかった。暖房などとっくにまともに機能せず、厚着をして毛布に包まり、それでも寒さに耐えるのが当たり前になっていた。


それなのに、ここは違う。


吐く息は白くならない。


指先も痛くない。


顔に当たる空気そのものが、久しく忘れていた温度を持っている。


「……暖かい」


朝霧は無意識に呟いた。


「ああ」


蓮は当然のように答える。


「暖房をつけてるからな」


「…………」


朝霧はゆっくりと蓮を見る。


「何だ」


「……なんでもない」


視線を戻す。


明るい照明、広々としたリビング、大型のテレビ、大きなソファ、綺麗に片付いたキッチン。


そして何より、生活している人間の部屋とは思えないほど整った室内。


朝霧は何度も瞬きをした。


「……ここ、本当に同じマンション?」


「2501だ」


「それは知ってるわよ」


朝霧は呆れたように答えながら、さらに室内を見回した。


暖かい、あまりにも暖かい。


それまで着込んでいた上着が、一気に邪魔に感じられるほどだった。


朝霧はようやく肩の力を抜き、厚手の上着を脱いだ。


その時だった。


「……」


蓮の眉間に、僅かに皺が寄った。


朝霧の手が止まる。


「……何?」


「いや」


「今、何か思ったでしょ」


蓮は数秒だけ朝霧を見た。


「風呂でも入るか?」


「……は?」


朝霧の動きが止まった。


つい先ほど初めて顔を合わせた男の部屋。


しかも、自分から助けを求めて転がり込んだばかりだ。


その男から突然、風呂に入るかと聞かれた。


朝霧は脱いだ上着を思わず胸元へ抱えた。


「……何考えてるの?」


「何が?」


「何がって……」


蓮は怪訝そうに朝霧を見る。


数秒。


ようやく意味を理解したのか、僅かに眉を寄せた。


「……いや、結構匂うぞ」


「…………」


朝霧の顔が固まった。


一秒、二秒。


頬が見る見る赤くなっていく。


「……借りるわ」


「そうか」


「今すぐ借りる」


「そうか」


「二回言わなくていいの!」


朝霧は顔を背けた。


自分でも最後にまともに身体を洗ったのがいつだったか、すぐには思い出せない。


病人が出れば階段を上り下りし、暖房もない部屋で何日も過ごし、今日に至っては自分の部屋を荒らされたあと全力で階段を駆け上がってきた。


考えてみれば、匂わない方がおかしい。


分かっている。


分かってはいるが――。


「服も替えた方がいい」


「もういいから!」


蓮は僅かに首を傾げた。


朝霧は深く息を吐く。


「……着替えなんて持ってないわよ」


「あるぞ」


「え?」


「詳しい話は後でするから、今は気にするな」


朝霧は言いたいこと、聞きたいことが山ほどあったが今は黙ることしかできなかった。


「…………」


朝霧は小さく息を吐くと、改めて室内を見回し、すぐに別のものが目に入った。


リビングの奥。


そこだけ、明らかに普通の住居とは雰囲気の違う空間がある。


「……あれは?」


「監視室」


「監視室?」


「見るか?」


朝霧は少し迷ったあと、頷いた。


「……ええ」


蓮が先に歩き出す。


朝霧もそのあとを追った。


そして監視室へ入った瞬間――。


「…………」


今日何度目か分からない沈黙が訪れた。


壁一面に並べられたモニター。


そこにはマンション内の各所が、複数の角度から映し出されている。


エントランス、各階の廊下、階段、共用部。


朝霧はゆっくりとモニターへ近づいた。


「これ……全部、このマンション?」


「ああ」


「ずっと見てたの?」


「ああ」


朝霧の視線が止まる。


「……ちょっと待って」


「何だ」


「今日のことも?」


「見てた」


「私が部屋を襲われたところも?」


「そこは室内だから見えない」


「じゃあ、そのあと私が走ってたのは?」


「見てた」


朝霧の眉が僅かに動いた。


「……転んだのも?」


「ああ」


「…………」


蓮は何も言わない。


朝霧はゆっくりと蓮を振り返った。


「何だ」


「……なんでもない」


なぜか少し腹が立った。


その時、朝霧は監視室のさらに奥にある扉へ気づいた。


普通の室内扉とは明らかに違う。


分厚い金属製の扉。


「……あれは?」


「屋上」


「屋上?」


蓮は扉の前へ行き、ロックを解除した。


重い扉が開く。


その向こうにあったのは外ではない。


上へと続く階段だった。


朝霧が目を瞬く。


「……階段?」


「屋上へ直接繋がってる」


「ここから?」


「ああ」


蓮は当然のように階段を上り始めた。


朝霧はその場に残ったまま、しばらく背中を見送る。


「……まだ何かあるの?」


「ある」


「…………」


もう驚くのにも疲れてきた。


それでも朝霧は蓮を追った。


階段を上り、その先にあるもう一枚の扉を抜ける。


そして――。


「…………嘘でしょ」


思わず声が漏れた。


そこにあったものを、朝霧は屋上と呼んでいいのか分からなかった。


頑丈な構造体に囲まれた巨大なシェルター。


大型の貯水設備、蓄電設備、非常用発電機、各種制御盤。


外部環境から隔離するための設備が並び、普通のマンションの屋上とはまるで別物になっている。


朝霧はゆっくりと中を歩いた。


「これ……水?」


「ああ」


「ここも常温なの?」


「凍ったら水出ないからな」


「これは?」


「非常用発電機」


朝霧が横を見る。


「……もう一台あるけど」


「予備だ」


「予備……」


朝霧は天井を仰いだ。


それから周囲を見る。


そして、もう一度蓮を見る。


「……神崎さん」


「なんだ」


「ここまで必要だったの?」


「生きるためだ」


蓮は当然のように答えた。


朝霧は何も言えなくなった。


もう一度シェルター全体を見回す。


やがて、半ば呆れたように口を開いた。


「……宇宙人が侵略してきても防げそうね」


「それは無理だろ」


「そこは真面目に答えなくていいわ……」


「そうか」


朝霧は思わず額を押さえた。


しばらくして、蓮が先ほど上ってきた階段へ向かう。


「戻るぞ」


「ええ」


朝霧もあとを追った。


監視室へ戻り、さらにリビングへ。


その途中、朝霧はもう一度室内を見回した。


暖房、電気、水、食料、衣類、監視設備。


そして屋上のシェルター。


同じマンション。


同じ六十日間。


それなのに――。


「……神崎さん」


「何だ」


「私たち、本当に同じ寒波を経験してた?」


「外は寒かったぞ」


「外だけでしょ!」


思わず声が大きくなった。


蓮は怪訝そうに朝霧を見て、朝霧はもう一度深く息を吐いた。


「……もういいわ」


「そうか」


「とりあえず、お風呂借りる」


「そうしろ」


「匂いの話はもうしないで」


「分かった」


「絶対よ」


「ああ」


どこから持ってきたのか蓮は朝霧に着替えを渡し、そして浴室を案内した。


◇


浴室からシャワーの音が聞こえ始めたところで、蓮は一人リビングへ戻った。


ソファへ腰を下ろしかけ、ふと考える。


朝霧はまともに食事も取れていないと言っていた。


今日の様子を見る限り、それは大袈裟でも何でもないのだろう。僅か数階の階段を上っただけで、ほとんど限界だった。


何か食わせた方がいい。


蓮は収納の中に収納されている食料を思い浮かべた。


寿司、焼肉、鰻、ステーキ、様々なホテルから回収した料理。


探せばいくらでもある。


「……」


そこで、ふと思い出した。


そういえば一つ、どうするか困っていたものがある。


「……いつかのあれでいいか」


蓮はそう呟いた。


◇


しばらくして、浴室の扉が開いた。


「……生き返った」


朝霧が心の底からそう呟きながら出てくる。


濡れた髪、新品の部屋着。


先ほどまでの疲れ切った姿とは、かなり印象が変わっていた。


「大袈裟だな」


「大袈裟じゃないわよ」


朝霧は即座に言い返した。


そしてふと何かを思い出したように蓮を見る。


「あなた、最後にお風呂に入ったのいつ?」


「昨日」


「…………」


朝霧が止まった。


「もしかして、毎日お風呂に入ってるの?」


「あぁ」


「…………なんて不公平なの」


「まぁ、他人が不幸でも、俺はへぇぐらいにしか思わん」


「…………あっそう」


なぜか声が冷たくなったが、蓮にはどうでもよかった。


「まず飯食え、話はそれからだ」


「……え?」


朝霧がテーブルを見る。


そこには湯気を立てる料理が置かれていた。


その瞬間、朝霧の表情が変わった。


「これ……」


ゆっくりと近づく。


湯気が立っている。


出来たてのように温かい。


「……温かい」


「冷たい方がいいのか?」


「そういう意味じゃないわよ!」


朝霧は椅子へ座り、しばらく料理を見つめる。


こんな状況下で、まだ普通に料理ができる。それだけでも十分信じられないことなのだが、ここへ入ってから驚かされてばかりの朝霧は、もはやいちいち疑問に思う気力すらなくなっていた。


そして、ふと蓮を見る。


「これ……あなたが作ったの?」


「……」


蓮はテーブルの上の料理へ視線を落とした。


確かに作った、自分で、嘘ではない。


「……ああ、そうだ」


「へえ……」


朝霧が少し意外そうに蓮を見る。


「料理するのね」


「たまにな」


朝霧は箸を手に取った。


そして料理を一口、口へ運ぶ。


「……」


動きが止まった。


蓮が僅かに眉を上げる。


やはりまずかったか。


そう思った、その時だった。


朝霧の目から、一筋の涙が零れた。


「……?」


蓮が眉をひそめる。


朝霧は何も言わず、もう一口食べた。


そして、また一口。


「……美味しい」


声が震えていた。


「すごく……美味しい」


「…………」


蓮は黙って料理を見る。


自分が食べた時とは、随分と評価が違う。


「温かいご飯って……」


朝霧が涙を拭う、それでも箸は止めなかった。


「こんなに美味しかったのね……」


一口、また一口。


まるで誰かに取られる前に食べてしまおうとするかのように、朝霧は夢中で食べ続けた。


だが途中で、ふとその手が止まる。


朝霧は自分の箸を見つめた。


そして、少しだけ速度を落とした。


もう奪われない。


急いで食べる必要もない。


ここには、食料を奪おうとする人間はいない。


朝霧はゆっくりと噛み締めるように、次の一口を食べた。


「神崎さん」


「なんだ」


「本当に美味しい」


「……そうか」


「料理、上手なのね」


「…………そうか」


蓮はそれ以上何も言わなかった。


少なくとも、自分で食べるよりは有効な使い道だったらしい。


◇


食事を終える頃には、朝霧の表情からもようやく緊張が抜けていた。


久しぶりの風呂に入り、清潔な服へ着替え、温かい食事を腹いっぱい食べた。


ほんの数時間前まで、自分の部屋を荒らされ、食料も薬も奪われ、三浦に追われていたことが嘘のようだった。


朝霧は温かい飲み物の入ったカップを両手で包み、小さく息を吐く。


「……なんだか、まだ夢みたい」


蓮は何も答えなかった。


「同じマンションにいたはずなのにね」


朝霧は苦笑しながら室内を見回す。


「私たち、全然違う世界で暮らしてたみたい」


「そうかもな」


「そうかもって……」


朝霧が呆れたように笑った。


だが、その笑みは長く続かなかった。


蓮がテーブルの向こうから朝霧を見る。


先ほどまでとは、僅かに目が違っていた。


朝霧もそれに気づいた。


「朝霧」


「……何?」


「じゃあ、これからの話をする」


朝霧の表情から笑みが消えた。


カップを静かにテーブルへ置き、僅かに姿勢を正す。


ここへ来れば、それですべてが終わるわけではない。


自分は神崎蓮に助けを求め、自分の意思でこの扉を越えた。


ならば――ここから先がある。


朝霧は小さく息を吸った。


「……ええ」


そして、蓮の次の言葉を待った。


────────────────


Day 60


電力 ▲

ガス ▲

水道 ▲

通信 △

降雪 微弱


生存確認者 88人


【今日のメモ】


「空腹は、最高の調味料らしい。」


────────────────

この話の内容は本当はもっと短かったんですが、最近シリアスな回やフラストレーションが溜まる回も多かったので、息抜き回にさせていただきました。

蓮もついに初めてのお客さんを迎えることができました。

あの料理がわかる人いるのかな(笑)


そして不公平ネタを提供してくださった読者さんもありがとうございます!

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