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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第89話 Day 60 選んだ先

三浦は一人、階段を上っていた。


先ほどまでの田村とのやりとりを思い出し、三浦は小さく舌打ちした。


最初から大して期待していたわけではない。それでも、あそこまで使えないとは思わなかった。


だが、医者ならもう一人いる。


朝霧詩織。


田村とは違い、以前は救急の現場にいたと聞いている。寒波が始まってからもマンション内で何人もの病人や怪我人を診ており、その腕が確かなことは三浦も知っていた。


正直なところ、仲間があの状態ではもう助からないかもしれない。三浦自身、薄々そう勘づいていた。


それでも、朝霧なら少なくとも田村よりはかなり使えるはずだ。


なら、連れてくればいい。


患者がいると伝えれば、朝霧の性格なら断らない。これまで散々住民のために動いてきた女だ。こちらが頼めば、多少嫌な顔をしたとしても最後には来るだろう。


三浦はそう考えていた。


やがて二十一階へ着き、階段から廊下へ出る。


朝霧の部屋は、この先だった。


三浦はそのまま廊下を歩き始めたが、十数歩ほど進んだところで、ふと足が鈍った。


「……ん?」


遠目では何がおかしいのか、すぐには分からなかった。


ただ、朝霧の部屋だけが妙に違って見える。


さらに近づく。


そこでようやく、違和感の正体が見えた。


玄関扉が閉まっていない。


ほんの僅かだが、開いている。


三浦の眉間に皺が寄った。


この状況で玄関を開けたままにする人間などいない。廊下そのものが冷え切っている今、少しでも室温を逃がさないよう、どの部屋も扉は閉め切っているのが当たり前だった。


まして今のマンションの状況なら尚更だ。


そんなことが分からない女ではない。


三浦はその場で一度足を止めた。


胸の奥に、嫌な感覚が生まれる。


「……おいおい」


さっきまでの余裕が消えた。


再び歩き出した三浦の足取りは、いつの間にか先ほどより速くなっていく。


近づくにつれて、漠然としていた嫌な予感は、目に見える異変へと変わっていった。


扉が開いているだけではない。


玄関扉そのものが僅かに歪み、ドア枠の一部が裂けるように壊れ、固定されていた金具ごと無理やり押し込まれていた。


三浦は足を止め、その跡を見つめた。


工具で鍵を壊したわけではない。


何人もの人間が、外側から何度も力任せにぶつかったのだ。


そうして最後には、鍵もドア枠も耐えきれずに破られた。


「……何やってんだ」


三浦の表情が険しくなる。


頭に浮かんだのは、ここ数日で急速におかしくなった住民たちだった。


代表たちの部屋が襲われ、高橋の部屋にも人が押しかけた。


自分がそう仕向けたことではあるが、その矛先が医者である朝霧にまで向くとは、三浦自身も想定していなかった。


「……まさかな」


三浦は扉の前まで来たが、すぐには中へ入らなかった。


僅かに開いた隙間から中を覗く。


人の気配はない。


「朝霧先生?」


返事はなかった。


三浦は扉へ手を掛ける。


「朝霧先生、いるんだろ?」


もう一度声をかける。


それでも返事はない。


三浦は眉をひそめたまま、ゆっくりと扉を押した。


歪んだ扉が床を擦りながら開いていく。


そして、その向こうにある光景を見た瞬間、三浦は思わず言葉を失った。


「……なんだ、これ」


室内は荒れ果てていた。


床には衣類や日用品が散乱し、収納という収納が開け放たれている。引き出しは抜かれ、中身は床へぶちまけられ、棚の中まで徹底的に探された跡が残っていた。


朝霧の姿はない。


三浦は部屋の入り口に立ったまま、数秒だけ室内を見回した。


何が起きた。


一瞬だけ考える。


だが、その答えに辿り着くまで時間はかからなかった。


壊された玄関。


荒らされた収納。


そして、ここが医者の部屋であること。


「……あの馬鹿ども!」


三浦は吐き捨てるように言うと、すぐに踵を返した。


今の住民たちが何を探したのかなど、考えるまでもない。


食料、そして薬。


朝霧まで襲いやがった。


問題は――本人がどこへ行ったかだ。


三浦が廊下へ飛び出した、その時だった。


ちょうど向こうから、一人の住民が歩いてくる。


「おい!」


突然怒鳴られ、男がびくりと足を止めた。


「朝霧見なかったか!」


「え? 朝霧先生?」


「そうだ! どこ行った!」


男は三浦の剣幕に押されながら、階段の方を指差した。


「つ、ついさっき見ましたよ。なんか慌てて……階段を上っていきましたけど」


「上?」


三浦の動きが止まった。


朝霧の部屋は二十一階。


下ではない。


上。


三浦は階段を見る。


二十二階、二十三階、二十四階、そして二十五階。


一瞬、上階の住民に呼ばれた可能性が頭をよぎった。


だが、すぐに消えた。


今さら住民の診察?


自分の部屋をあそこまで荒らされた直後に?


違う。


なら、朝霧はどこへ向かった。


……二十五階。


その言葉とともに、三浦の頭の中で一人の男の存在が浮かんだ。


このマンションにいながら、ほとんど姿を見せない男。


2501号室、神崎蓮。


三浦の目つきが変わった。


「……神崎か!」


次の瞬間、三浦は階段へ向かって走り出した。


◇


その頃、朝霧は必死に階段を駆け上がっていた。


二十一階から二十五階まで、たった四階。


以前なら大した距離ではなかった。


けれど今の朝霧には、その四階が信じられないほど遠かった。


寒波が始まってから、まともな食事などほとんど取れていない。限られた配給を少しずつ口にしながら、それでも病人が出れば階段を上り下りし、深夜でも早朝でも呼ばれれば診察へ向かった。十分に眠れた日の方が少なく、今日に至っては自分の部屋まで荒らされ、精神的にもひどく疲弊している。


身体はとっくに限界へ近づいているが、それでも朝霧は走った。


『2501へ来い』


蓮の言葉だけを頭の中で繰り返しながら、手すりを掴み、一段ずつ足を上げる。


『走れ!』


もう少し。


あと二階。


そう思った、その時だった。


足が上がらなかった。


「きゃっ……!」


爪先が階段に引っかかり、朝霧の身体が前へ倒れる。


咄嗟に手をついたものの、膝を強く打ちつけた。


「っ……!」


痛みに顔を歪め、その場に蹲る。


息が苦しい。


心臓が痛いほど鳴っている。


立たなければならない。


頭では分かっているのに、腕にも脚にもすぐには力が入らなかった。


ほんの少しだけ。


十秒だけでもいい。


そう思った、その時だった。


下の階から、激しい足音が聞こえてきた。


朝霧の顔が上がる。


一段。


また一段。


誰かがこちらへ向かって走ってくる。


そして――。


「おい! 朝霧先生!」


朝霧の顔から、一気に血の気が引いた。


「待てって!」


三浦だった。


「……っ!」


朝霧は痛む膝を押さえ、手すりを掴んで無理やり立ち上がった。


再び走る。


「朝霧先生!」


三浦の声が追ってくる。


「何があったか大体想像はつく! 住民にやられたんだろ!」


朝霧は振り返らない。


「だったら、もうあんな連中のところにいる必要はねえ!」


足音が近づいてくる。


「こっちに来い! 飯も飲み物もやる! もう安全だから!」


その言葉に、朝霧の足が僅かに鈍った。


食べ物。水。安全。


今の自分が、喉から手が出るほど欲しいものだった。


柴田たちのところへ行けば、少なくとも医者として価値がある間は食料を与えられるかもしれない。もう空腹に耐えなくてもいいかもしれない。誰かに部屋を壊される心配もなくなるかもしれない。


けれど――。


朝霧は唇を噛み、そのまま走り続けた。


今度は、自分で選ぶ。


「待てって言ってんだろ!」


三浦の声を背中に受けながら、朝霧は最後の階段を上った。


◇


二十五階。


ようやく辿り着いた時には、もう走る力は残っていなかった。


朝霧は壁へ片手をつき、肩を大きく上下させながら廊下を進んだ。胸の奥では心臓が激しく脈打ち、呼吸をするたびに乾いた喉が焼けるように痛む。


足はもう、自分のものではないようだった。


まるで鉄の塊を両脚に括りつけられているように重い。


それでも前を見る。


廊下の先、あの扉がある。


2501号室。


前回訪れたあの、巨大な金庫扉。


もう少し、あと少しだけ。


朝霧はふらつきながら、一歩ずつ進んだ。


だが――。


「はぁ……はぁ……」


後ろから聞こえた荒い呼吸に、朝霧の足が止まった。


「やっと……追いついた」


ゆっくり振り返る。


廊下の向こうに三浦が立っていた。


さすがの三浦も階段を駆け上がってきたことで息を切らしていたが、それでも朝霧との距離を少しずつ詰めてくる。


「……何で逃げるんですか、朝霧先生」


「……」


「別にあんたに何かしようってわけじゃない」


三浦は呼吸を整えながら、両手を僅かに広げた。


「患者がいるんだ」


朝霧の瞳が揺れた。


「……患者?」


「ああ。腹を強く打って、どんどん具合が悪くなってる」


三浦は朝霧の反応を見逃さなかった。


「田村じゃ駄目だ。あんたが必要なんだよ」


患者。


その言葉だけで、身体が反応した。


どこを打ったのか、意識はあるのか、腹部は硬くなっていないか、内出血は、ショック症状は出ていないか。


考えるより先に、医者としての自分が次々と確認すべきことを思い浮かべる。


もし本当に重症なら、一刻を争うかもしれない。


自分が行かなければ――。


その瞬間、朝霧の脳裏に少し前の蓮の言葉が蘇った。


『その救う相手に、お前自身は含まれてるのか?』


朝霧は目を閉じた。


そして、もう一度開いた。


「……お断りします」


三浦の表情が止まった。


「……あ?」


「私は行きません」


「おい」


「他の人を当たって」


三浦の顔から、それまで浮かべていた表情が消えた。


「あんた……医者だろ?」


一歩、近づく。


朝霧は反射的に一歩下がった。


「人が死ぬかもしれねえんだぞ」


さらに一歩。


「それでも行かねえってのか?」


朝霧は喉の奥で息を飲んだ。


それでも、今度は目を逸らさなかった。


「……行かない」


三浦の顔が歪んだ。


「ふざけんなよ」


声から完全に柔らかさが消える。


「こっちは頼んでんだぞ」


朝霧は後退する。


しかし、もう足に力が入らない。


「それに神崎のところへ行ってどうする気だ? あいつがお前を助ける保証でもあんのか?」


三浦がさらに距離を詰める。


「俺たちなら飯も水も出せる。医者として扱ってやるって言ってんだ。悪い話じゃねえだろ」


「それでも……行かない」


「あぁん?」


三浦が朝霧の腕へ手を伸ばした。


逃げようとしても、足が動かなかった。


もう駄目――。


朝霧がそう思った、その時だった。


ガコン――。


重い金属音が廊下に響いた。


三浦の手が止まる。


朝霧も目を見開いた。


二人の視線が、同時に廊下の先へ向いた。


これまで一度も開くところを見たことがなかった巨大な金庫扉が、ゆっくりと動いていた。


僅かな隙間が生まれ、それが徐々に広がっていく。


朝霧も三浦も、言葉を失ったままその光景を見つめていた。


そして――。


扉の向こうから、一人の男が姿を現した。


年齢は三十前後だろうか。短く整えられた黒髪に、無駄のない引き締まった体つき。だが、朝霧が最初に目を奪われたのは、そんな外見ではなかった。


その目だった。


冷たい――そう感じた。


怒りも、焦りも、警戒もない。ただ目の前で起きていることを、どこか遠い場所から眺めているような目だった。そこに映る人間の生死さえ、彼にとっては大した意味を持たないのではないか。


そんな錯覚を覚え、朝霧は無意識に息を呑んだ。


もう何度もメッセージのやりとりはしていた。


電話越しに声も聞いた。


それでも朝霧が、その姿を直接見るのは初めてだった。


神崎蓮。


蓮は朝霧ではなく、その腕を掴もうとしている三浦へ視線を向けた。


「聞こえなかったのか?」


三浦の眉が動く。


「そいつは断っただろ」


「……」


「その医者は俺が雇う。手を離せ」


数秒間、誰も動かなかった。


やがて三浦の口元が歪む。


「……神崎」


蓮は答えない。


三浦は目の前に立つ男を上から下まで眺めると、その顔が一気に険しくなる。


「このカメ野郎が! やっと出てきやがったな!」


三浦が朝霧から手を離し、蓮へ身体を向ける。


「ずっと部屋ん中に引きこもりやがって。お前さえ出て――」


蓮が静かに右手を上げ、その手のひらを三浦へ向ける。


三浦は意味が分からないまま眉を寄せた。


だが、その動作の意味を考える暇もなかった。


次の瞬間。


パンッ――!


乾いた音が廊下に響いた。


「がっ――!」


三浦の頭が勢いよく弾かれ、その身体が横へ崩れ落ちる。


硬い音を立てながら床を転がった何かが、壁へぶつかって止まった。


「……え?」


朝霧は一瞬呆然としていたが、床に倒れた三浦を見た途端、すぐに医者の顔へ戻った。


「ちょっと……!」


反射的に駆け寄り、その場に膝をつく。三浦は意識を失っているものの呼吸はあり、脈も触れる。頭部に強い衝撃を受けている以上、詳しく診なければ断定はできないが、少なくとも今すぐ命が失われるような状態には見えなかった。


「脳震盪……?」


朝霧は三浦の状態を確かめながら、先ほど床を転がっていったものへ視線を向ける。


壁際には、一個の白い野球ボールが転がっていた。


「……ボール?」


朝霧はボールと三浦を見比べ、それから蓮を見上げた。


「今の……あなたが投げたの?」


口にしてから、自分でも違うと思った。


投げていない。


蓮は確かに右手を上げた。だが、腕を振ったわけでも、何かを投げるような動きをしたわけでもない。それなのに次の瞬間、あのボールが凄まじい勢いで三浦の頭へ直撃した。


「でも、どうやって……」


蓮はその疑問には答えず、朝霧へ視線を向けた。


「立てるか」


「え? ……ええ。でも今の――」


「なら来い」


「ちょっと、神崎さん?」


蓮はそれ以上何も説明せず、倒れている三浦の身体を掴むと、そのまま引きずり始めた。


朝霧はしばらく呆気に取られていたが、床を引きずられていく三浦を見て、慌てて立ち上がる。


「ちょっと待って! 頭を打ってるんだから、そんな乱暴に――」


蓮は止まらない。


朝霧は壁際に転がった野球ボールを一度だけ振り返ったあと、仕方なくその背中を追った。


◇


蓮は三浦を引きずったまま非常階段へ出た。


扉を越えた途端、朝霧は思わず身体を縮こまらせた。廊下よりもさらに冷え込んでおり、吐き出した息がすぐに白く染まる。


蓮は三浦を階段の踊り場まで引きずると、そのまま床へ横たえた。


「ちょっと、こんなところに――」


朝霧が言いかけたところで、蓮はさらに踊り場にある窓へ歩み寄った。


そして、何の躊躇もなく窓を開ける。


隙間ができた瞬間、凍りつくような外気が一気に吹き込んできた。


「……ちょっと! 何してるの!」


朝霧が思わず声を上げる。


蓮は答えない。


窓をさらに開けると、冷気が容赦なく流れ込み、ただでさえ冷えていた階段の空気が急速に入れ替わっていく。


朝霧は自分の身体を抱くように腕を回した。


「閉めて! そんなことしたら、この人――」


そこまで言って、言葉が止まった。


蓮が振り返る。


「死ぬだろうな」


「……え?」


あまりにも淡々とした返事だった。


朝霧は息を呑む。


蓮は窓から手を離すと、踊り場に倒れている三浦へ一度だけ視線を落とした。


そして再び朝霧を見る。


あの目だった。


目の前の人間がこれから死ぬかもしれないという事実さえ、何の感情もなく受け入れているような冷たい目。


「このまま放っておけば、こいつは死ぬ」


「……」


「でも、お前なら助けられる」


朝霧の視線が三浦へ向かう。


意識を失ったまま、三浦は動かない。


医者としてなら、答えは決まっている。


安全な場所へ運び、身体を冷やさないようにして、頭部の状態を確認しながら経過を見る。できることは限られている。それでも、ここへ放置するより生存する可能性は遥かに高い。


そして、自分ならそれができる。


「どうするかは、お前が選べ」


朝霧は黙ったまま三浦を見つめた。


呼吸はある。脈もある。


けれど、この寒さの中に放置すればどうなるか。医者である朝霧には分かっていた。


ほんの少し前までの自分なら、迷うことなく助けていただろう。


相手が誰であろうと、患者なら助ける。


それが医者だと思っていた。


「…………」


朝霧は三浦から蓮へ視線を移した。


蓮は何も言わず、ただ自分を見ている。


その目を見て、朝霧はようやく気づいた。


三浦をどうするかだけを聞いているのではない。


自分を試しているのだ。


甘さを捨てられない人間を、神崎蓮は受け入れない。


「……そういうことね」


朝霧が小さく呟く。


だが、蓮が望む答えを出すつもりはなかった。


決めるのは自分だ。


今日、自分が何をされ、何を思ったのか。


そして、これからどう生きるのか。


朝霧はもう一度三浦を見た。


助けようと思えば、まだ助けられる。


その迷いは、確かに残っていた。


けれど――もう、甘いままでいるつもりはなかった。


朝霧は三浦から視線を外す。


そして蓮を見た。


「……やめとくわ」


蓮の表情は変わらない。


「いいのか」


「ええ」


今度は迷わなかった。


「だって――世界は変わったんでしょ?」


蓮が僅かに目を細める。


それは、つい先ほど電話越しに蓮自身が朝霧へ告げた言葉だった。


『ただ、世界が変わった。それだけだ』


朝霧は白い息を吐きながら、静かに続けた。


「私も、自分のために生きてみたい」


しばらく、蓮は何も言わなかった。


やがて三浦から完全に視線を外す。


「……そうか」


それだけだった。


蓮は数秒だけ朝霧を見たあと、廊下へ戻るための扉を開いた。


「先に戻ってろ」


「……え?」


「部屋の前で待ってろ」


朝霧は蓮を見る。


「あなたは?」


「あとで行く」


「でも――」


朝霧は一度、踊り場に倒れている三浦へ視線を向けた。


蓮はそれ以上説明するつもりがないのか、開いた扉を顎で示す。


「行け」


「……分かったわ」


朝霧はまだ何か言いたそうにしていたが、結局それ以上は聞かなかった。


蓮の横を通り抜け、非常階段から廊下へ戻る。


蓮はその姿が見えなくなるまで見送ると、踊り場に倒れている三浦へ視線を戻した。


非常階段には、蓮と三浦だけが残された。


そして、蓮は倒れている三浦を見下ろしながら片手を伸ばす。


何もなかった空間から大量の水が現れ、そのまま三浦の顔へ勢いよく降りかかった。


「っ……!」


三浦の身体が大きく震えた。


「ごほっ……! がはっ……!」


激しく咳き込みながら身体を動かし、ゆっくりと目を開く。


焦点の合わない目が周囲を彷徨い、やがて自分を見下ろしている蓮の姿を捉える。


「……お前……」


蓮は何も言わない。


三浦はしばらく蓮を見上げていた。


そして、苦しそうに息を吐きながらも、三浦は小さく笑った。


「は……何だったんだよ、あれ」


蓮は答えない。


三浦は僅かに眉を寄せた。


神崎が手を向けた直後、突然頭に凄まじい衝撃を受けた。何をされたかさえ見えなかった。それなのに、気づいた時には意識をなくしていた。


何が起きたのか、まるで分からない。


だが、三浦はそれ以上聞かなかった。


ゆっくりと周囲へ目を向ける。


開け放たれた窓、そこから絶え間なく流れ込んでくる、凍りつくような外気。


そして濡れた自分の身体。


朝霧の姿はなく、目の前には、何も言わず自分を見下ろしている神崎がいる。


三浦の視線が止まり、数秒前まで浮かんでいた困惑が、その顔から消えていく。


「……なるほどな」


蓮は何も言わない。


三浦はもう一度、開け放たれた窓を見た。


神崎が何を考えているのか、聞くまでもなかった。


三浦は壁に手をつき、ふらつく身体を僅かに起こす。


そして、先ほどまでとはまるで違う目で蓮を見た。


「……なあ、神崎」


「なんだ」


「俺と、組まねえか?」


蓮の表情は変わらない。


「剛より、お前の方が面白そうだ」


「……」


「俺は役に立つぞ。あいつらのことも全部知ってる。人数も、食料も、誰が何考えてるかも大体分かる」


三浦は口元を歪めた。


「中から剛を潰すことだってできる」


「そうか」


「ああ」


蓮の反応が薄いことに、三浦は僅かに眉をひそめたが、それでも言葉を続ける。


「それに、お前、剛と一ノ瀬に何かあるだろ?」


その名前が出た瞬間だった。


それまで何の感情も映していなかった蓮の目が、僅かに細くなる。


ほんの一瞬。


だが、そこに滲んだものを三浦は見逃さなかった。


怒り。


いや、それだけではない。


もっと冷たく、深く沈んだ何かが、一瞬だけ蓮の目の奥を過ぎった。


三浦の口元が僅かに吊り上がる。


「……やっぱりな」


蓮は何も答えなかった。


ただ、先ほどまでより僅かに冷えた目で三浦を見下ろす。


「俺も、お前は頭が切れると思ってる」


三浦の目が僅かに細くなった。


「だろ?」


「だから要らない」


三浦の笑みが止まった。


「……は?」


「お前は頭が切れすぎる」


「何言って――」


「だから、いつかまた裏切る」


三浦の表情が固まった。


「そんなこと――」


「する」


蓮は即答した。


「お前はそういう人間だ」


「待てよ」


三浦は蓮の顔を見上げ、ようやく、その目に本当の焦りが浮かび始めた。


「俺らなら! このマンションを支配できるぞ?」


「興味ない」


「だったら――」


「お前は俺の計画に邪魔だ」


蓮は三浦から視線を外し、静かに右手を伸ばした。


「何のことだ!? 待てって!」


先ほど自分を襲った衝撃を思い出し、三浦が身体を起こそうとする。


だが、頭を打った直後の身体は思うように動かない。


「神崎! 俺は使える! 本当に役に立つ! 剛を裏切ってもいい! お前のスパイでも何でも――!」


蓮は静かに三浦を見下ろした。


「悪いな」


「……」


「俺の甘さは、前世に捨ててきた」


三浦の動きが止まった。


「……前世?」


その瞬間だった。


三浦の頭上に、巨大な影が生まれた。


「――は?」


次の瞬間。


非常階段そのものを揺らすほどの轟音が響いた。


ドォン――!


床が震え、冷え切った空気が揺れ、細かな埃が舞う。


そこに現れたのは、巨大な工業用プレスだった。


三浦が最後に何を見て何を思ったのか、蓮には分からない。


蓮はしばらく無言で目の前の巨大な鉄塊を見つめると、片手を向けた。


巨大なプレスが消える。


その下に残ったものへ、一度だけ視線を落とす。


そして、再び手を向ける。


次の瞬間――。


三浦の身体も、まるで最初からそこに存在しなかったかのように消えた。


「立場が違っていたら、お前とは気が合ったかもしれんな」


蓮はそれだけ言い残し、非常階段を後にした。



────────────────


Day 60


電力 ▲

ガス ▲

水道 ▲

通信 △

降雪 微弱


生存確認者 88人


【今日のメモ】


「選ぶということは、何かを捨てるということだ。」


────────────────

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― 新着の感想 ―
ゾンビやモンスターが出て来るタイプの現代ファンタジーでも充分通用しそうな攻撃だし、悪党とはいえ一般人の三浦じゃひとたまりもないか 死体を回収したのは、何が狙いだろう……?というか血痕も回収出来る収納便…
三浦「何処へ行こうとゆうのかね?」神埼「バルス(物理)」
憎んでいない相手でも平気で殺せるのか。蓮さん、おぬしも悪よのう。マンションの支配には興味がないが、お前は俺の計画に邪魔だ。か、いよいよ最後のざまあが炸裂するな。 この作品、すごく面白い割にはいいねも少…
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