第88話 Day 60 走れ
朝霧は壁際に座り込み、両膝を抱えたまま、どれほどの時間が経ったのかも分からずにいた。
壊された玄関扉は完全には閉まらず、わずかに開いた隙間から冷たい空気が入り続けている。床には収納から引っ張り出された衣類や私物が散乱し、薬を入れていた箱も、自分のために残していたわずかな食料も、もうどこにもなかった。
片付けなければならない。
せめて玄関だけでも何とかしなければ、部屋の温度は下がり続ける。
頭では分かっているのに、身体を動かす気にはなれなかった。
ぼんやりと荒らされた部屋を眺めているうちに、朝霧はふと、以前のことを思い出した。
まだ住民たちが今ほど疑い合うようになる前、薬が足りなくなり、蓮の部屋を訪ねた時のことだった。
閉ざされた金庫扉の前で、スピーカーの向こうから蓮に聞かれた。
『まだ住民たちのために動くのか?』
あの時、自分はほとんど迷わなかった。
『いいえ。彼らのためだけじゃないわ』
そして、薬箱を抱えながら、確かにこう答えた。
『私が医者として、医者でいるためよ』
あの時は、本気でそう思っていた。
誰かに感謝してほしかったわけではない。見返りが欲しかったわけでもない。ただ、自分には人を助けるための知識があり、目の前には助けを必要としている人間がいる。それなら、自分にできることをするのは当然だと思っていた。
医者になる前から、朝霧はそういう人間だった。
誰かが困っていれば放っておけず、自分が少し我慢することでその人が助かるなら、それでいいと思っていた。医者になってからは、それがもっと当たり前になり、他人が嫌がることを押しつけられても、最後には引き受けてきた。
自分が少し疲れるだけならいい。
自分が少し我慢するだけならいい。
その分、誰かの役に立てるのなら、それでいい。
ずっとそう思って生きてきた。
そして――その結果が、これだった。
朝霧はゆっくりと顔を上げ、荒らされた部屋を見渡した。
自分が助けた人間に玄関を壊され、勝手に部屋へ押し入られ、自分のために残していた食料を奪われた。病人が出た時のために少しずつ使ってきた薬まで、当然のように持っていかれた。
「……馬鹿みたい」
自分でも驚くほど乾いた声だった。
人を助けたことが間違っていたのだろうか。
薬を渡したことが間違っていたのだろうか。
夜中でも呼ばれれば診察へ向かい、自分も腹を空かせながら、それでも体調を崩した人間を優先してきたことが間違っていたのだろうか。
分からなかった。
何が正しかったのか。
どこで間違えたのか。
それとも、最初から全部間違っていたのか。
今の朝霧には、もう何も分からなかった。
誰かと話したい。
ふと、そんなことを思った。
慰めてほしいのか、自分が間違っていなかったと言ってほしいのか、それすら朝霧自身にも分からない。
ただ、このまま一人で考えていたくなかった。
けれど、そこで朝霧は気づいた。
話せる相手がいない。
同じマンションの住民たちは、もう信用できなかった。
少し前までなら、そんなことを考えた自分自身を嫌悪していただろう。
全員が悪い人間ではない。
今日、自分の部屋へ押しかけてきた人間がすべてではない。
それくらい分かっている。
それでも今は、誰かの顔を思い浮かべるたびに、その人間までいつか自分の部屋へ押しかけてくるのではないかと思ってしまう。
朝霧は膝へ額を押しつけた。
そんな時、なぜか一人の男のことが頭に浮かんだ。
神崎蓮。
会ったこともないし、理解しているわけでもない。
それでも自分とは、何もかもが真逆の人間だというのは分かる。
寒波が始まってからも、蓮は一貫して一人で生きることを選んでいた。住民が飢えていても、病人が出ても、子供が苦しんでいても、自分から手を差し伸べることはなかった。
以前の朝霧には、それが理解できなかった。
冷たい人だと思った。どうしてそこまで他人を切り捨てられるのかと、腹が立ったことさえあった。
それでも蓮は、自分で決めた線を一度も曲げず、今もあの扉の向こうで生きている。
朝霧はしばらく床を見つめていた。
なぜだろう。
こんな時なのに、あの男と話してみたいと思った。
食料が欲しいわけではない。
薬をもらいたいわけでもない。
ただ、自分とは正反対の生き方を選んだあの男に、聞いてみたかった。
朝霧は床に落ちていたスマートフォンへ手を伸ばし、連絡先から蓮の名前を探すと、しばらくその文字を見つめたあと、通話ボタンを押した。
呼び出し音が何度か続いた。
出ないのかと思い始めた頃、ようやく音が途切れた。
『……なんだ』
朝霧は何も言わなかった。
自分から電話をかけたというのに、蓮の声を聞いた途端、何から話せばいいのか分からなくなった。
蓮も急かさなかった。
何があったのか尋ねることもなく、ただ黙って朝霧が口を開くのを待っている。
やがて朝霧は、膝を抱えたまま小さく口を開いた。
「……私、間違ってたのかな」
少しの間があった。
『何があった』
朝霧はすぐには答えなかった。
荒らされた部屋へ視線を向ける。
「……今日、部屋に人が来たの」
『誰だ』
「住民。何人かで来た」
朝霧はそこで一度言葉を止めた。
「その中に……前に旦那さんが高熱を出した時、私が診た人がいた」
蓮は何も言わない。
「覚えてる? 薬が足りなくなって、私があなたのところへ行った時」
短い沈黙のあと、蓮が答えた。
『ああ』
「あの時の人よ」
朝霧は床に散らばった私物をぼんやりと見つめた。
「あの時、私のところにはもう使える薬がほとんどなかった。だからあなたのところまで行って、薬を分けてもらった」
『……』
「旦那さんはそれで少し良くなった。だから……よかったって思ってた」
朝霧の口元に、ほんの僅かに自嘲するような笑みが浮かんだ。
「でも今日、その家の人が他の住民を連れてきた」
『何をしに』
「私が薬と食料を隠してるんじゃないかって」
蓮の返事はなかった。
「何もないって言った。でも信じてもらえなかった。何もないなら中を見せろって言われて……断ったら、扉を壊された」
朝霧は壊れた玄関へ目を向けた。
「勝手に入ってきて、棚も収納も全部開けて……部屋中を探された」
声は不思議なくらい静かだった。
「結局、何も出てこなかった」
『……』
「それでも終わらなかった」
朝霧の指が、スマートフォンを強く握る。
「残してた薬を見つけられた。病人が出た時のために必要だから返してって言ったけど……持っていかれた」
『食料もか?』
「……ええ」
「私が食べるために残してた分まで、全部」
しばらく沈黙が続いた。
朝霧は目を伏せた。
「最後にね……言われたの」
蓮は黙って耳を傾ける。
「先生なら何とかなるって」
朝霧は小さく笑った。
けれど、その声は震えていた。
「……何とかなるわけないじゃない」
目から涙が一粒落ちた。
「私だってお腹は空く。寒いし、怖いし……薬だって無限に出せるわけじゃない」
もう一粒、涙が落ちる。
「私だって……ただの人間なのに」
蓮は慰めなかった。
何も言わず、ただ聞いていた。
その沈黙の中で、朝霧は再び口を開いた。
「私……あの人の旦那さんを助けたかったの」
『……』
「薬がなくて、あなたのところまで行った。それなのに、その人が今日、私の部屋に来た」
朝霧は涙を拭った。
「……私、間違ってたのかな」
今度の問いは、最初よりもずっと弱かった。
少しの間があった。
『それはお前が決めることだ』
朝霧は僅かに顔を上げた。
「……あなたは、私が間違ってると思ってるんでしょ?」
『正しいか間違ってるかなんて、俺が決めることじゃない。それを選んだのはお前だ』
「……」
『ただ――甘い』
その言葉に、朝霧の眉が僅かに動いた。
「目の前に病人がいて、それを助けることが甘いの? 医者として患者を診ることまで間違いだっていうの?」
『間違いとは言ってない』
「でも――」
『勝手に話を変えるな。正しいかなんて俺が決めることじゃない』
朝霧は口を閉じた。
自分でも、蓮の言葉に必要以上に反応していることは分かっていた。
「……ごめんなさい」
『お前は立派なんだろう。それは否定しない』
予想していなかった言葉に、朝霧が僅かに目を見開いた。
『ただ、現実が見えてない。今のままなら、お前の未来は一つだ』
「……何?」
『死だ』
朝霧は何も言えなかった。
『お前がそれでいいなら、俺は否定しないし、興味もない』
「じゃあ……他の人を見捨てろっていうの?」
『だから、それはお前が決めることだ』
「私は……」
朝霧の声が震え、ずっと堪えていたものが崩れたように、目から涙がこぼれた。
「私はただ……誰かの役に立ちたいと思っただけなのに……」
蓮は何も言わなかった。
慰めることも、続きを促すこともせず、ただ黙っている。
その沈黙に耐えきれなくなったのか、朝霧はぽつりと続けた。
「馬鹿みたいよね。ずっと人の役に立てればそれでいいって思ってたのに……いざ自分がこんな目に遭ったら、急に分からなくなった」
『何がだ』
「何が正しかったのか」
朝霧は荒らされた部屋を見つめた。
「私がしてきたこと、本当に正しかったのかなって。助けたことが間違いだったのか、それとも……助け方を間違えたのか」
しばらく間をおいて。
「分からないの」
朝霧は小さく息を吐いた。
「だから……あなたに電話した」
少しの沈黙があった。
『俺なら答えを持ってると思ったのか?』
「分からない。ただ……あなたは私と正反対だから」
朝霧は目を伏せた。
「だから、聞いてみたかった」
蓮はしばらく何も言わなかった。
やがて、いつもの冷たい声が返ってきた。
『以前なら、別にそれでよかったのかもしれん』
朝霧は黙って聞いた。
『ただ、世界が変わった。それだけだ』
朝霧は頬を伝う涙を拭うこともせず、しばらく何も言わなかった。
「……あなたは、どうしてそこまで冷徹になれるの?」
『……』
「病人だっていた。子供だっている。あなたなら、たくさん助けられたでしょ」
少しの沈黙のあと、蓮は答えた。
『だからなんだ』
「え?」
『俺は生きたい』
「……」
『今度は誰かのためじゃない。自分のためにな』
朝霧の表情が僅かに変わった。
「……今度?」
蓮はその問いには答えなかった。
『他人なんて俺には関係ない。足手まといでしかない。そんな奴らのために手を差し出す気なんて毛頭ない』
朝霧はその言葉を黙って聞いていたが、やがて一つだけ引っかかった。
「でも……今の状況は、あなたにも関係してるでしょ?」
『何がだ』
「あの一ノ瀬が来たから柴田たちが来た。そこから全部始まったんじゃない」
朝霧は少し間を置いた。
「あなたは、まったく責任を感じてないの?」
『ないな』
あまりにも迷いのない返事だった。
「……ひどい」
『俺は最初から、いい人になろうなんて思ってない』
「……」
『きっかけは確かに俺かもしれない。だが、この結果を選んだのは俺じゃない』
「どういうこと?」
『一ノ瀬を受け入れたのは住民だ。柴田たちを受け入れたのも住民だ。柴田たちと一緒に俺の部屋を襲ったのも住民だ。柴田たちに支配されて、それに従ってるのも住民だ』
朝霧は何も言わなかった。
『あいつらは何度も止めるチャンスはあった。今はその結果でしかない』
しばらく間を置いて、蓮は続けた。
『自分たちで選んだ結果まで俺のせいにするな』
「……それは」
『それに、柴田たちが来なかったところで大して変わない』
「……どうして?」
『結局、住民の誰かが第二の柴田になってただけだ』
その言葉を聞いた瞬間、朝霧の脳裏に今日の光景が蘇った。
自分の玄関を壊したのは柴田ではなかった。部屋へ押し入ったのも、薬を奪ったのも、食料を持っていったのも、すべて同じマンションで暮らしてきた住民たちだった。
「……そう……かもしれないわね」
しばらく沈黙が続いたあと、蓮が再び口を開いた。
『お前さ』
「……何?」
『前、俺に言ったこと、覚えてるか?』
朝霧は目を閉じた。
閉ざされた金庫扉の前で、自分が言った言葉が蘇る。
「……私が医者として、医者でいるためよ」
『ああ』
「覚えてるわ」
『なら、一つだけ聞く』
朝霧は黙って次の言葉を待った。
『その救う相手に、お前自身は含まれてるのか?』
朝霧の目がゆっくりと開いた。
「……」
答えられなかった。
これまで何人もの人間を診てきた。
病人を優先した。
怪我人を優先した。
自分より苦しんでいる人間がいれば、自分は後でいいと思ってきた。
けれど、その中に自分自身を入れたことがあっただろうか。
『お前がそれでいいなら、俺はこれ以上何も言わない』
「……」
『ただ、その甘さを捨てきれないなら、いつか死ぬ。それだけだ』
朝霧は長い間、何も答えなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうね」
そして、何かを言おうとした。
「それなら――」
『おしゃべりは終わりだ』
「……え?」
突然話を切られ、朝霧が顔を上げた。
蓮は監視室の椅子に座ったまま、目の前に並ぶ監視モニターへ視線を向けている。
電話する前から柴田たちのいる階では慌ただしく人が動いていた。
その原因も、蓮はおおよそ把握していた。
廊下で荷物を運んでいた柴田の仲間の一人が階段付近で転倒し、腹部を強く打っている。その場面は監視カメラにも映っていた。
最初は自力で歩いていた男も、時間が経つにつれて明らかに様子がおかしくなり、やがて仲間に支えられながら柴田たちの部屋へ運び込まれた。
その少しあとには、田村も同じ部屋へ入っている。
そして今――。
一つのモニターに、柴田たちの部屋から出てくる三浦の姿が映った。
三浦は廊下を進み、そのまま階段へ向かう。
蓮は黙って画面を切り替えた。
次のモニターには、階段を上がっていく三浦の姿が映る。
下では怪我人が出た。
田村が呼ばれた。
その田村がいるにもかかわらず、今度は三浦が一人で上へ向かっている。
この状況で、わざわざ三浦が上の階へ向かう理由。
蓮には一つしか思い当たらなかった。
このマンションには、田村とは別にもう一人、医者がいる。
蓮の目が僅かに細くなった。
『今、三浦がそっちに向かってる』
「……え?」
朝霧の身体が強張った。
反射的に、壊れたままの玄関扉へ視線を向ける。
『下で柴田の仲間が怪我した。田村も呼ばれてる』
「……」
『それでも三浦が一人で上がってきた。多分、田村じゃどうにもならなかったんだろうな』
朝霧はスマートフォンを握る手に力を込めた。
『このままなら、次に必要になる医者はお前だ』
「……そんな」
『お前の腕は確かなんだろ? なら連れていかれても、ある程度は優遇されるだろう』
朝霧はスマートフォンを握る手に力を込めた。
『好きにしたらいい』
朝霧の頭の中に、いくつもの考えが浮かんだ。
もし本当に患者がいるのなら。
怪我人がいるのなら。
自分が行かなければ、その人が死ぬかもしれないのなら。
医者として行くべきなのではないか。
けれど――その先にいるのは柴田たちだった。
人を殴り、脅し、食料を支配し、そして迷わず殺す。このマンションを力で従わせている人間たちのところへ、自分から行くことになる。
田村の代わりとして連れていかれれば、簡単には戻してもらえないかもしれない。
一度向こう側へ入れば――いくつもの可能性が頭に浮かんだ。
それでも患者がいたら。
助けられる命があったら。
今までの自分なら、迷わなかったかもしれない。
だが、朝霧の視線の先には、壊された玄関扉があった。
今日、自分の部屋へ押し入ってきた人間たちの顔が浮かぶ。
――先生なら何とかなる。
そして、少し前に蓮から言われた言葉が重なった。
――その救う相手に、お前自身は含まれてるのか?
朝霧は目を閉じた。
何が正しいのかは、まだ分からない。
医者として何をするべきなのかも、答えは出ていない。
その時、電話の向こうから蓮の声が聞こえた。
『朝霧』
「……」
『どうする』
朝霧は唇を噛んだ。
『もう時間はないぞ』
向かってくる足音は、まだ聞こえない。
それでも、三浦が近づいている。
誰かを助けるべきなのか。
医者として行くべきなのか。
何が正しいのかまだ分からない。
けれど――。
今、自分がどうしたいのか。
それだけなら、分かった。
朝霧は震える唇をゆっくりと開いた。
「……助けて」
数秒間、蓮から返事はなかった。
朝霧はスマートフォンを握ったまま、ただ待った。
やがて、短い言葉が返ってきた。
『2501へ来い』
朝霧は一瞬蓮がなにを言ってるのか理解できなかった。
一拍置いて、蓮の声が鋭くなる。
『走れ!』
────────────────
Day 60
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 △
降雪 微弱
生存確認者 88人
【今日のメモ】
「今日、一人の医者が初めて自分を患者にした。」
────────────────




