第9話 本当の備え
翌朝。
氷河期まで、残り十日。
神崎蓮は、意識を収納空間へ向けていた。
そこには、ここ数日の間に日本中の名店から集めた料理が、まるで巨大な食品庫のように並んでいる。
寿司、うなぎ、フレンチ、中華、懐石、焼肉、高級ホテルのビュッフェ料理。どれも店から届いた直後の状態を保ったまま、静かに時間を止めていた。
湯気の立っていた料理は、その熱を失っていない。冷たい料理は冷たいまま。寿司のネタには艶があり、焼き物も煮物も、出来上がった瞬間の状態からまったく変化していなかった。
蓮はしばらくそれらを眺め、わずかに口元を緩めた。
「これだけあれば、一生贅沢できるな」
前世の自分なら、見ることさえなかった量だった。
食べたいと思っても値段を見て諦めた料理。
いつか食べようと思いながら、その「いつか」が来なかった料理。
今では、それらが何年分あるのか分からないほど収納されている。
だが、蓮の表情はすぐに引き締まった。
「……でも、これは贅沢品だ」
どれだけ美味しい料理を集めても、それだけで長期間生きられるわけではない。
何年続くか分からない氷河期を生き抜くなら、必要なのはもっと基本的な食材だった。
野菜。
果物。
肉。
魚。
卵。
米。
調味料。
毎日食べても飽きず、自由に料理でき、栄養を維持できるもの。
高級料理は生活を豊かにする。
だが、基礎になる食料がなければ意味がない。
「ここからが本番だな」
蓮はそう呟くと、すぐに車を走らせた。
最初に向かったのは、郊外にある大規模農園だった。
市街地を離れ、しばらく走ると視界が一気に開ける。広大な畑には収穫期を迎えた野菜が一面に並び、作業員たちが忙しそうに収穫や選別を進めていた。
事前に連絡を入れていたため、農園の代表者が入口まで迎えに来る。
「神崎様ですね。本日はありがとうございます。どのくらいご入用でしょうか?」
蓮は答える前に畑全体を見渡した。
葉物野菜。
根菜。
トマトやピーマンなどの果菜類。
箱詰めを待つ収穫済みの商品も大量に積まれている。
今は、どこへ行っても簡単に買える物だ。
だが十日後には、こんな光景そのものが消える。
道路が雪に閉ざされれば収穫したところで運べない。
気温が下がり続ければ、畑そのものも維持できなくなる。
蓮は代表者へ視線を戻した。
「今日出荷できるものを、全部お願いします」
代表者は一瞬、聞き間違えたような顔をした。
「……全部、ですか?」
「はい。今日収穫できるものと、すでに出荷準備が終わっているもの。売っていただける分は全部です」
代表者は蓮の表情を確認した。
冗談を言っているようには見えない。
「かなりの量になりますよ?」
「問題ありません」
「配送先は?」
「後ほど指定する物流倉庫へお願いします。代金は前払いします」
そこまで聞くと、代表者の顔に一気に笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます! すぐに出荷できるよう手配します」
農園を後にした蓮が次に向かったのは、果樹園だった。
こちらでもやることは同じだった。
収穫されたばかりのリンゴ。
ブドウ。
桃。
梨。
シャインマスカット。
保存性など考える必要はない。
収納すれば、収穫された瞬間に近い状態のまま何年でも保管できる。
「収穫済みのものを、売れるだけお願いします」
ここでも最初は驚かれた。
だが、数量に制限はつけず、前払いでまとめて購入すると伝えると話は早かった。
蓮自身が直接足を運べる場所には限界がある。
それ以外は、移動しながら全国へ電話をかけ続けた。
牧場。
食肉加工会社。
養鶏場。
乳業会社。
必要なのは牛肉、豚肉、鶏肉だけではない。
卵。
牛乳。
チーズ。
バター。
日常的に使う食品を、可能な限り大量に確保していく。
「在庫分をまとめて購入したいんですが」
電話の向こうでは、たいてい最初に沈黙があった。
個人から入る注文としては、量がおかしい。
当然だった。
だが、蓮が現金前払いであることを伝えると、多くの相手は最終的に喜んで応じた。
誰にとっても、在庫が一度に売れる話は悪いものではない。
水産物会社には、その日に入荷した鮮魚や冷凍水産物をできるだけまとめて注文した。
米農家や精米業者には、精米したばかりの米を大量に発注する。
酒蔵や醸造所からは、日本酒だけではなく、味噌や醤油などの調味料までまとめて確保した。
塩。
砂糖。
酢。
油。
出汁。
香辛料。
料理そのものを大量に収納しているとはいえ、自分で食事を作る日も当然ある。
長い生活になれば、味の変化も必要になる。
蓮は行ける場所には直接足を運び、距離的に難しい場所には電話やネットで発注を続けた。
判断基準は簡単だった。
必要だと思えば買う。
品質が良ければ多めに買う。
少ないと感じれば、さらに追加する。
配送先はすべて、あの物流倉庫だった。
昼になると野菜が届く。
午後には果物。
夕方には肉や乳製品。
別の日には米や魚、調味料が大量に運び込まれる。
蓮は荷物を確認し、配送業者が帰るのを待ってから、すべて収納空間へ移していった。
大量の商品で一度は埋まった倉庫が、その日の終わりには再び空になる。
そして翌朝には、また別の荷物が届く。
その繰り返しだった。
数日もすると、倉庫へ出入りする配送業者の中には蓮の顔を覚える者も出てきた。
「今日もすごい量ですね」
荷下ろしを終えた配送員が、半分感心したように笑う。
「ええ」
「例のイベント、もうすぐなんですか?」
蓮は一瞬だけ相手を見る。
どうやら以前話した適当な説明が、配送業者の間でそれなりに定着しているらしい。
「そうですね。もうすぐです」
蓮は曖昧に笑った。
もちろん、そんなイベントなど存在しない。
だが、あと数日もすれば、誰もこの倉庫へ荷物を届けられなくなる。
その時になれば、今日の大量注文を不思議に思う人間がいたとしても、そんなことを気にしている余裕はなくなるだろう。
配送員を見送り、シャッターを閉める。
蓮は倉庫の中へ戻った。
床には大量の野菜や果物、肉、魚、乳製品が並んでいる。
「収納」
意識した瞬間、それらが一斉に姿を消した。
蓮は収納空間の中を確認する。
収穫されたばかりの野菜は瑞々しいまま。
果物も鮮度を失っていない。
肉や魚も、受け取った時の状態そのまま。
時間は完全に止まっている。
腐敗しない。
乾燥しない。
冷凍焼けもしない。
賞味期限という概念そのものが、この空間には存在しなかった。
蓮は静かに息を吐いた。
「……これなら、一生分でも余裕があるな」
正確に何年分あるのかは、もう計算することさえ難しくなっていた。
一人で食べるなら、明らかに多すぎる。
数人になったとしても、簡単には尽きない。
だが蓮は減らそうとは思わなかった。
多すぎて困ることはない。
収納空間に限界が見えない以上、余裕はそのまま安全になる。
前世では、カップ麺一つを残すかどうかで悩んだ。
今度は違う。
食料の心配だけは、二度としない。
その時だった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、工事責任者の名前が表示されている。
蓮はすぐに通話へ出た。
「はい」
『神崎様。工事の進捗についてご連絡です』
電話の向こうからは、作業音らしきものがわずかに聞こえていた。
『予定通り進んでおります。細かい調整は残っていますが、明日にはすべての工事が完了する見込みです』
蓮の目がわずかに細くなった。
ついに完成する。
あの何もなかったペントハウスと屋上が、自分の求めていた生存拠点へ変わる。
「予定通りですね」
『はい。最終確認も含め、明日の夕方にはお引き渡しできます』
「分かりました。お願いします」
『承知しました』
通話を切る。
蓮はしばらくスマートフォンを手にしたまま、その場に立っていた。
長かったわけではない。
物件を決めてから、ほんの十日ほどしか経っていない。
だが、その間に五十億を用意し、設計を作り、工事を始め、食料や設備を集め続けた。
一日たりとも無駄にしていない。
ようやく、自分が安心して戻れる場所が形になる。
蓮は小さく息を吐いた。
「ようやく帰る場所ができるな」
前世の最後に戻った部屋は、食料も暖房もなく、ただ寒さに耐えるだけの場所だった。
今度は違う。
水もある。
電気もある。
食料もある。
防御もある。
そして何より、誰かに頼らなくても生きていける。
蓮はスマートフォンをポケットへ戻すと、再び車へ向かった。
まだ準備は終わっていない。
要塞が完成したとしても、氷河期が来るまで残された時間はあとわずかだった。
一つでも足りないものがあるなら、今のうちに揃えておく。
蓮は車のエンジンをかけ、次の目的地へ向かって走り出した。
――氷河期まで、残り八日。




