第8話 人生最後の贅沢
工事が始まった日。
氷河期まで、残り十七日。
神崎蓮は車を走らせながら、窓の外を眺めていた。
平日の昼下がり。道路には車が行き交い、公園では子供たちが遊び、スーツ姿の会社員たちは忙しそうに歩いている。
いつもと変わらない街だった。
誰も知らない。
あと十数日で、この平和な日常が終わることを。
赤信号で車を止めた蓮は、横断歩道を渡っていく人々をぼんやりと眺めながら、ふと昔の自分を思い出した。
「……前世は、一度も贅沢なんてしなかったな」
社会人になってからは、ほとんど仕事ばかりだった。貯金をして、将来のことを考え、一ノ瀬に誘われれば食事へ行き、欲しがる物があればプレゼントも買った。
自分のために金を使った記憶は、驚くほど少ない。
高い店へ行こうと思っても「もったいない」と考え、欲しい物があっても「まだ使える」と諦める。いつか余裕ができたら、いつか時間ができたら。そう思い続けているうちに、その「いつか」は一度も来なかった。
そして最後は、食べる物すらほとんどないまま死んだ。
青信号に変わる。
蓮は静かにアクセルを踏みながら、わずかに笑った。
「最後くらい、自分のために生きてみるか」
そう呟くと、少し先の交差点でハンドルを切った。
向かったのは、以前から一度は行ってみたいと思っていた有名な寿司店だった。テレビや雑誌でも何度も取り上げられている店で、前世では価格を見ただけで諦めた場所でもある。
店内へ入り、カウンター席へ案内される。
「ご注文はいかがなさいますか?」
「おまかせでお願いします」
職人が静かに頷き、目の前で一貫ずつ握り始めた。
大トロ、ウニ、ノドグロ、車海老、季節の白身。どれも、今まで蓮が食べてきたものとは明らかに違った。
一貫口へ運ぶたび、自然と表情が緩む。
「……うまい」
思わず声が漏れた。
以前なら値段を気にして、こういう店に一人で入ることなどまずなかった。
『いつか来よう』
そう思ったまま、結局来ることはなかった店。
今、その「いつか」をようやく手に入れた。
最後の一貫を食べ終え、湯呑みを置く。
そこで蓮の手が止まった。
「……待てよ」
収納空間。
中に入れた物は、収納した瞬間の状態がそのまま維持される。氷は溶けなかった。水の温度も変わらなかった。高速で飛んでいたボールでさえ、その勢いを保ったまま保存されていた。
ならば――。
「出来立ての料理を収納したら……」
蓮の目が少し見開く。
出来立ての料理。握りたての寿司。焼きたての肉。揚げたての天ぷら。
すべて、一番うまい瞬間のまま保存できる。
賞味期限も関係ない。冷凍する必要も、解凍する必要もない。食べたい時に取り出せば、今この瞬間と同じ状態で食べられる。
蓮の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「……それなら、話が変わるな」
食料備蓄という言葉を聞けば、普通は米や缶詰、乾麺、レトルト食品などを想像する。もちろんそれらも必要だ。
だが、自分には無限に近い収納空間がある。
しかも時間が止まる。
ならば、わざわざ非常食だけで何年も暮らす必要はない。食べたい物を、食べたいだけ保存しておけばいい。
会計を済ませた蓮は、そのまま店員へ声を掛けた。
「少し相談があります」
「はい。何でしょうか?」
「こちらのお寿司を、五百人前お願いできますか?」
店員の動きが止まった。
「……五百人前、ですか?」
聞き間違いではないかと確認するような表情だった。
すぐに奥から店主らしき男が出てくる。
「失礼ですが、お客様。五百人前ということで間違いありませんか?」
「はい」
「何か大きなパーティーでも?」
蓮は軽く笑った。
「そんなところです」
店主はしばらく考え込んだ。さすがに今すぐ五百人前は用意できないらしい。
「申し訳ありません。本日はそこまでの食材がございません。職人を総動員しても、すぐに五百人前をご用意するのは難しいです」
「明日なら可能ですか?」
「明日以降でしたら、新たに仕入れを行いますので対応できます。多少お時間はいただきますが、品質を落とさずにご用意できると思います」
「問題ありません」
蓮は頷いた。
「できるだけ新鮮な状態でお願いします」
店主の表情が営業用のものへ変わる。
「ありがとうございます。お届け先はどちらでしょうか?」
「後ほど電話で連絡します」
蓮はカードを差し出した。
「代金は前払いで」
店主はカードと蓮の顔を交互に見た。
冗談ではない。本気で五百人前を注文している。
それが分かると、姿勢を正した。
「……かしこまりました。必ずご満足いただけるものをご用意いたします」
店を出た蓮は、その足で工場地帯へ向かった。
次に必要なのは、配送先だった。
大量の料理を自宅へ届けてもらうわけにはいかない。マンションの住民に不審がられるだけでなく、毎日のように何百人前もの料理が届けば、あまりにも目立ちすぎる。
そこで蓮が選んだのは、大型の物流倉庫だった。
受付で短期利用について確認し、その場で三週間の契約を済ませる。
案内された倉庫は、個人が使うには異常なほど広かった。高い天井があり、大型車両がそのまま出入りできるシャッターも備わっている。大量の荷物を一時保管するには十分すぎるほどの広さだった。
蓮は中を一周し、小さく頷いた。
「これで受け取り場所は完成だ」
ここへ届いた荷物を、配送員が帰った後にすべて収納する。
そうすれば翌日には、また空の倉庫として使える。誰にも不自然に思われず、大量の物資を毎日受け取り続けられる。
翌日。
寿司店から連絡が入った。
「ご注文の品ですが、すべてご用意できました」
蓮は配送先を倉庫へ指定した。
夕方になると数台の保冷車が順番に到着し、大量の寿司が次々と運び込まれた。
五百人前。
見た目だけでも圧倒される量だった。
配送員たちはすべての荷物を降ろし終えると、受領確認を済ませて帰っていく。
最後の車が敷地を出たのを確認し、蓮は大きなシャッターを閉めた。
静かになった倉庫の中に、五百人前の寿司だけが整然と並んでいる。
蓮はゆっくり手を伸ばした。
「収納」
次の瞬間、大量の寿司が一斉に姿を消した。
広かった倉庫は、再び何もない空間へ戻る。
蓮は意識を収納空間へ向けた。
そこには、今届いたばかりの寿司がそのままの状態で並んでいた。ネタには艶があり、シャリも握られた直後の形を保っている。
一つだけ取り出して確認する。
香りも温度も変わっていない。
蓮は静かに頷いた。
「……完璧だ」
五百人前。
普通に考えれば、とんでもない量だった。一日三食をすべて寿司にしたとしても、一人ではなかなか食べ切れない。
だが蓮は、収納空間に並ぶ寿司を眺めながら、すぐに別の計算を始めていた。
「週に一回食べても、数年でなくなるな」
一人で食べ続ける前提なら十分かもしれない。
だが、本当にこの先ずっと一人で生きるとは限らない。
黒崎がいる。今後、必要な人間が増える可能性だってある。
そして何より、氷河期が何年続くのか分からない。
前世では四十五日目で死んだ。その先がどうなっているのか、蓮は知らない。
一年なのか。数年なのか。もっと長いのか。
分からない以上、余裕を持って準備するしかない。
「足りないな」
蓮はあっさり結論を出した。
その日から、蓮の食料確保の考え方は大きく変わった。
一軒だけではない。有名な店を片っ端から回る。
老舗寿司店、高級ホテルの寿司、江戸前寿司。それぞれ五百人前。
寿司だけでは終わらない。老舗のうなぎ店、高級懐石、五つ星ホテルのフレンチ、高級中華、北京ダック、フカヒレ。
さらに、イタリアン、鉄板焼き、神戸牛、松阪牛、伊勢海老、タラバガニ、有名洋菓子店のケーキ、高級果物専門店の果物まで、自分が前世で「いつか食べてみたい」と思ったものを思い出すたび、蓮は店を探した。
気に入った料理は迷わず注文し、ネットで買えるものはネットで購入する。
配送先は、すべて物流倉庫。
荷物が届く。受け取る。配送員が帰る。そして収納する。
それを毎日繰り返した。
前日に大量の商品が運び込まれたはずなのに、翌日には倉庫が完全に空になっている。
当然、配送員たちも不思議そうに首を傾げた。
「毎日すごい量ですね。何か大きなイベントでもあるんですか?」
蓮は毎回、曖昧に笑うだけだった。
「そんなところです」
詳しく説明する必要はない。
どうせ、あと十数日もすれば、今の常識そのものが意味を失う。
その一週間、蓮は一度も同じ店へ行かなかった。
昨日は寿司。今日はうなぎ。明日はフレンチ。その次は中華。
街中にある「うまいもの」を、一つずつ回収していくように、収納空間には出来立ての料理が少しずつ、しかし確実に積み上がっていった。
非常食だけではない。缶詰だけでもない。
生き延びるためだけに食べるのではなく、何年後であっても、好きな時に今と同じ味を食べられる。
蓮にとって、それは単なる食料備蓄ではなかった。
前世では一度も満足に使えなかった金を、今度こそ自分の人生のために使っているという実感でもあった。
その頃、マンションでは昼夜を問わず要塞化工事が進められていた。
屋上では巨大な鉄骨が次々と組み上がり、数日前まで開放的なテラスだった場所が、少しずつ別の建物へ姿を変えていく。
2501号室でも壁や床の補強が進み、窓や設備の交換準備が始まっていた。
昼は職人たちが動き、夜になれば別の班へ交代する。現場の明かりが消えることはほとんどない。
一方で蓮は、街の名店を回りながら大量の料理を収納していく。
一見すれば、まったく別のことをしているように見えた。
だが蓮にとっては、どちらも同じだった。
一つは、生き延びるための砦を作る準備。
もう一つは、その中で生き続けるための準備。
そして同時に――前世では一度もできなかった、自分のための贅沢でもあった。
蓮の「人生最後の贅沢」と、「未来を生き抜くための準備」は、同じ速度で静かに進んでいた。




