第7話 工期
翌朝。
氷河期まで、残り十八日。
朝九時を少し回った頃、数台の工事車両がマンション前へ次々と到着した。
施工責任者をはじめ、電気設備、内装、鉄骨、防犯設備など、それぞれの分野を担当する職人や技術者たちが資材や測定器具を手に建物へ入ってくる。昨日まで蓮と打ち合わせを続けていた設計士も、その中に混じっていた。
まだ工事が始まっていない2501号室は、家具もほとんどないため妙に広く感じられる。そのリビングへ関係者が集まり、テーブルの上に何枚もの図面が広げられた。
「それでは、図面を確認しながら工事内容をご説明します」
設計士がそう切り出し、施工責任者へ図面を渡した。
責任者は真剣な表情で一枚ずつページをめくっていく。
壁や床の補強。
窓の交換。
屋上全体を覆う鉄骨構造。
断熱設備。
大型の貯水設備。
太陽光発電と蓄電池。
非常用発電機。
通常の住宅リフォームではまず扱わない内容が並んでいたが、施工責任者は時折担当者へ確認しながら、一つずつ内容を確認していった。
しばらくして、責任者が図面から顔を上げる。
「かなり特殊な工事ではありますが、施工自体は可能です」
その言葉を聞き、蓮は小さく頷いた。
昨日の設計段階で技術的な確認はしている。それでも、実際に施工を担当する側から改めて「できる」と言われたことで、ようやく計画が現実のものとして動き始めた感覚があった。
だが、確認作業が玄関部分まで進んだところで、それまで順調に図面をめくっていた施工責任者の手が突然止まった。
責任者はしばらく図面を見つめたあと、少し言いにくそうに口を開いた。
「……申し訳ありません。一点、問題があります」
リビングの空気がわずかに変わった。
蓮が責任者を見る。
「どうしました?」
施工責任者は玄関部分の図面を指差した。
「この玄関ドアですが、この仕様のものへ交換することはできません」
「交換できない?」
「はい。マンションの場合、玄関ドアは室内設備ではなく共用部分として扱われることが多いんです。この物件もそうで、管理規約を確認したところ、外観や共用部分に関わる仕様を住戸所有者の判断だけで変更することは認められていません」
蓮は図面へ視線を落とした。
屋上や室内については改装の自由度が高い物件を選んだ。それでも、マンションである以上、すべてを自由に変更できるわけではない。
設計士も無言で該当箇所を確認していた。
数秒後、申し訳なさそうに小さく息を吐く。
「……私の確認不足でした。申し訳ありません」
蓮は怒らなかった。
責任を追及したところで時間が戻るわけではない。
重要なのは、今からどう解決するかだった。
「別の方法はありますか?」
設計士はすぐには答えなかった。
図面を見つめ、玄関周辺の寸法や構造を確認する。施工責任者とも短く言葉を交わしたあと、もう一度図面へ目を落とした。
やがて顔を上げる。
「一度、事務所へ戻らせてください。玄関ドアそのものを交換せずに、同程度の防犯性能を確保できる方法がないか検討します」
「今日中にできますか?」
「やります」
設計士ははっきり答えた。
「今日中に別案をまとめます」
「お願いします」
蓮が頷くと、設計士は必要な図面をまとめ、足早に部屋を出ていった。
工事そのものは、設計変更の影響を受けない箇所から準備を進めることになった。
残された時間は少ない。
玄関一つの問題で、全体の工程まで止めるつもりはなかった。
◇
その日の午後。
蓮のスマートフォンに、設計士から電話が入った。
「神崎様」
声には、朝より明らかに明るさが戻っていた。
「玄関の件ですが、解決できそうです」
蓮の表情がわずかに緩む。
「本当ですか?」
「はい。玄関ドアそのものを規約違反になる形で変更するのではなく、周辺構造を含めて設計を一部変更します。それなら管理規約に抵触せず、ご要望にかなり近い防犯性能を確保できます」
「施工できますか?」
「施工会社とも確認しました。問題ありません」
蓮は小さく息を吐いた。
「それでお願いします」
夕方には修正された図面が再び2501号室へ届けられた。
施工責任者は新しい図面を受け取ると、玄関部分を何度も確認した。
朝とは違い、今度は途中で手が止まることはない。
「……なるほど」
図面を別の角度から見直し、施工方法まで確認したあと、責任者は納得したように頷いた。
「これなら問題ありません。玄関部分も施工できます」
設計士もようやく安心したような笑みを浮かべる。
「設計変更は以上です。その他の部分については、昨日お渡しした図面から変更ありません」
施工責任者はもう一度、全体図を確認した。
補強される壁と床。
高強度の窓。
完全に別空間へ作り変えられる屋上。
そして、新しい方法で防御性能を確保する玄関。
図面全体を見渡した責任者が、やがて苦笑を浮かべた。
「しかし……ここまで頑丈にする必要、本当にあるんですか?」
蓮は何も答えず責任者を見る。
責任者は図面を指で軽く叩いた。
「防災目的の住宅はいくつも施工してきましたが、普通の住宅でここまでやることはまずありません。壁や床だけでなく、ベランダや換気設備まで侵入を想定して補強するとなると……正直、住宅というより本当にシェルターですよ」
蓮は静かに図面を閉じた。
「設計図通りに工事を進めてください」
それだけだった。
理由を説明するつもりはない。
あと十八日で、この街がどうなるのかを話したところで信じてもらえるはずもない。それに、理解してもらう必要もなかった。
施工責任者は小さく肩をすくめた。
「承知しました。依頼主がそこまで希望されるなら、こちらは作るだけです」
そして手元の別の資料を開いた。
「では工期についてですが……」
責任者の視線が工程表を追う。
屋内の全面改装だけではない。鉄骨を組み、屋上全体を覆う構造物を新設し、太陽光、蓄電池、貯水設備、発電機まで設置する。
通常の工事とは規模が違う。
「この内容ですと、通常なら最低でも一か月は必要です」
蓮は間を置かず答えた。
「十日で終わらせてください」
部屋にいた全員の視線が、一斉に蓮へ向いた。
施工責任者は、冗談を言われたのかと思ったような顔をした。
「……十日ですか?」
「はい」
「いや、さすがに十日は……。通常の住宅リフォームとは作業量が違います。資材の搬入だけでも相当な時間がかかりますし、鉄骨、設備、内装を同時並行で進める必要があります」
「人員を増やしてください」
蓮は淡々と答えた。
「今の人数で足りないなら、倍にしてください。昼夜二交代でも三交代でも構いません。追加費用はすべてこちらで負担します」
責任者は言葉を失った。
蓮はさらに続ける。
「必要なら、別の現場からでも職人を集めてください。資材も通常の発注ルートで時間がかかるなら、すぐに納品できるところから高く買えばいい」
「ですが、それをやれば費用はかなり――」
「金額は問題ではありません」
即答だった。
今の蓮にとって、一日という時間には金額をつけられない。
一億円を節約して工事が一週間遅れるくらいなら、その一億円を払って一週間早く完成させる方がいい。
氷河期が始まれば、五十億円を持っていても暖房一台すら買えなくなる。
ならば今使う。
価値があるうちに、すべて生存のための設備へ変える。
部屋はしばらく静まり返っていた。
施工責任者は設計士と顔を見合わせる。
二人で工程表を見ながら、小声で何かを確認し始めた。
鉄骨班を増やす。
設備工事を並行させる。
内装は夜間にも進める。
資材の搬入時間をずらす。
いくつもの工程を組み替えていく。
数分後。
施工責任者が顔を上げた。
「……分かりました」
蓮は黙って続きを待つ。
「通常の倍以上の人員を投入します。作業内容によっては昼夜交代制にして、同時に進められる工程はすべて並行して進めます」
責任者は工程表へもう一度視線を落とした。
「かなり無茶なスケジュールですが、資材が予定通り入れば……十日で完成まで持っていけると思います」
「お願いします」
蓮はそれだけ言った。
施工責任者は小さく息を吐き、改めて図面を閉じる。
「では、明日から本格的に入ります」
◇
翌朝。
まだ朝の早い時間から、マンション周辺には昨日以上の数の工事車両が集まり始めた。
トラックから大量の資材が降ろされ、職人たちが次々と建物の中へ運び込んでいく。
屋上では足場の設置が始まり、クレーン車も配置についた。電気設備、内装、鉄骨、防犯設備。それぞれの班が担当箇所へ散り、施工責任者の指示のもとで同時に作業を開始する。
静かだった2501号室にも、電動工具の音が響き始めた。
壁が剥がされ、床が確認され、既存設備が次々と取り外されていく。
屋上では、これから巨大なシェルターの骨組みとなる鉄骨を設置するための準備が進んでいた。
昨日までそこにあった高級住宅としての姿が、少しずつ壊されていく。
だが蓮にとって、それは破壊ではない。
必要のないものを削り、生き残るために必要なものへ作り替えているだけだった。
蓮は少し離れた場所から、慌ただしく動き始めた現場を静かに見上げた。
金は用意した。
設計も終わった。
必要な人間も集めた。
あとは、この十日間で完成させるだけだ。
「ここからは、時間との勝負だな」
蓮の視線の先で、クレーンがゆっくりと動き始めた。
空はまだ青い。
街では今日も、多くの人間がいつも通りの日常を過ごしている。
誰も知らない。
その日常が終わるまで、もう三週間すら残されていないことを。
そして、このマンションの最上階だけで、その終わりを迎えるための要塞が造られ始めていることを。
――氷河期まで、残り十七日。
要塞化の工期について、「さすがに短期間では難しいのでは?」と感じられた方もいらっしゃると思います。
現実の建築工程や資材の搬入、施工人数などまで細かく考えれば、かなり無理のある描写になっている部分は作者自身も認識しています。
本作では、要塞そのものを作る工程よりも、その後に訪れる極寒の世界で人々の生活や価値観がどう変わっていくのか、追い詰められた人間がどんな選択をしていくのかを重視して描きたいと考えています。
そのため序盤は物語のテンポを優先し、建築工程についてはかなり圧縮して描いています。
この辺りは空間収納スキルも含めて、ひとつのファンタジー要素としてご愛嬌と思っていただければ嬉しいです。
ご指摘いただいた皆様、ありがとうございます!




