第6話 設計図
翌日。
神崎蓮は朝から、新しく購入した高級レジデンスの最上階――2501号室で人を待っていた。
氷河期まで、残り二十日。
昨日この部屋を購入したばかりだが、家具を揃えて新生活を楽しむつもりなどない。蓮にとってここは、これから二十日かけて作り上げる生存拠点だった。
そして今日、そのための最初の打ち合わせが始まる。
約束の時間になると、室内にインターホンの音が響いた。
蓮がモニターを確認すると、エントランスにはスーツ姿の男と、その後ろに作業着姿の男が二人立っている。昨日のうちに連絡を入れておいた建築設計会社の人間だった。
蓮は三人を中へ通した。
簡単な挨拶を済ませると、設計士を名乗った男が室内を見渡した。
「昨日ご購入されたばかりと伺いましたが、もう全面的なリフォームをご検討なんですね」
「はい」
蓮はそれだけ答えると、三人をリビングへ案内した。
テーブルの上には、すでにマンションの図面が広げられている。設計士と二人の技術担当者が席に着いたところで、蓮も向かい側へ腰を下ろした。
時間を無駄にするつもりはない。
「最初に言っておきます。普通のリフォームを頼むつもりはありません」
いきなりそう告げられ、設計士が顔を上げた。
「と、言いますと?」
蓮は目の前の図面へ視線を落とした。
「この部屋を、外部の環境から可能な限り切り離して生活できる場所にしたい」
設計士の表情がわずかに止まった。
「外部から……完全に、ですか?」
「そのつもりです。まず断熱。壁、床、天井、窓。可能な範囲ですべて最高クラスまで引き上げてください」
設計士はすぐに手元のノートへ書き込み始めたが、その表情にはまだ戸惑いが残っていた。
「かなり大掛かりな工事になります。室内側から断熱層を追加するだけでも相当な範囲になりますし、床や天井までとなれば、ほぼ全面改装になりますよ」
「構いません」
「窓も交換されますか?」
「全部です。断熱性能だけではなく、防犯性能も可能な限り高いものにしてください」
蓮は図面上の窓を指でなぞり、そのまま壁や床へ視線を移した。
「それと、壁と床も補強してください。隣の部屋や下の階から壁や天井を壊そうとしても、簡単には侵入できない程度まで」
今度こそ、設計士のペンが止まった。
「そこまで、ですか?」
「そこまでです」
蓮の声には冗談の気配がなかった。
設計士は蓮の顔を確認すると、再び図面へ視線を落とした。
「……分かりました。壁や床については既存構造を確認した上で、内側から補強層を追加する方法を検討します。窓は防犯合わせガラスですね。サッシや固定方法まで含めて変更すれば、相当な強度にはできます」
「ベランダ側も同じ仕様で」
「もちろん可能です」
蓮は今度は図面のベランダ部分を指した。
「隣のベランダから人が来ることも想定してください」
「隣から?」
設計士だけでなく、後ろの技術担当者まで蓮を見る。
「隣の住戸からこちらのベランダへ移動してきた人間が、そのまま室内へ侵入できないようにしたい」
通常の防犯リフォームであれば、玄関や窓からの侵入対策を考える。だが蓮が想定しているのは、それだけではない。
玄関が突破できなければ窓へ回る。窓が駄目ならベランダへ。それでも駄目なら、壁そのものを壊そうとする。
前世で追い詰められた人間がどこまでやるのかを知っている蓮にとって、それは決して考えすぎではなかった。
設計士はしばらく蓮を見たあと、静かに頷いた。
「……分かりました。ベランダ側にも侵入防止を含めた補強を考えます」
「換気設備もお願いします」
「換気ですか?」
「外と繋がっている場所は全部です。外部から簡単に触れたり、破壊されたりしないようにしてください」
「換気口まで対策するとなると、かなり特殊な仕様になりますね」
設計士が小さく息を吐いた。
「相当徹底した防犯がお望みのようで」
「そのために呼びました」
蓮は淡々と答えた。
設計士は苦笑したものの、もう蓮の要求を普通の住宅リフォームとして考えることはやめたようだった。
◇
2501号室を一通り確認したあと、蓮は三人を専用階段へ案内した。
最上階のさらに上。扉を開けると、広い屋上へ風が吹き抜ける。
現在はテラスとして整備され、おしゃれなテーブルや椅子が並んでいるが、蓮にとってそんなものに価値はなかった。
蓮は屋上の中央まで歩くと、ゆっくり周囲を見渡した。
「ここも使います」
設計士も後ろから屋上全体を眺める。
「太陽光パネルでも設置されますか?」
「それだけじゃありません」
蓮は屋上を指した。
「ここ全体を、一つの部屋にしてください」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
設計士だけでなく、二人の技術担当者まで互いに顔を見合わせる。
「……屋上全体を、ですか?」
「はい。鉄骨で骨組みを作り、壁と天井ですべて覆う。断熱と気密性能は下の2501号室以上にしてください。外が極端な低温になっても、内部では普通に生活できる程度まで」
設計士は思わず屋上全体を見渡した。
「いや……これはかなり大掛かりになりますよ」
「不可能ですか?」
「技術的に不可能という意味ではありません。ただ、この広さをすべて覆えば相当な重量になります。既存の屋上へそのまま載せられるか、まず建物自体の構造と耐荷重を確認しなければなりません。場合によっては屋上床から補強が必要になります」
「なら補強してください」
あまりにも即答だったため、設計士が苦笑する。
「簡単に言いますね……」
「費用は気にしなくていいです」
蓮にとっては、本当にそれだけの話だった。
金はある。
問題なのは時間だけだ。
設計士も蓮が冗談を言っていないことを察したのか、表情を切り替えて図面へ視線を落とした。
「分かりました。構造担当にも確認させます」
「壁と天井も頑丈にしてください」
「積雪対策ですね?」
「それもあります」
設計士は少し考えながら答える。
「構造そのものは、想定される積雪荷重をかなり大きく取ることになります。ただ、屋上全面を覆うとなると雪が積もる面積も増えますので、それなりの対策は必要ですね」
「融雪設備も入れてください」
「屋根全体に?」
「いいえ。屋根だけでなく、建物自体とその周囲です」
設計士はそれもメモへ書き加えた。
「承知しました。全体に融雪設備を組み込む方向で検討します」
蓮は少し間を置いてから、さらに続けた。
「それと、外から破壊されることも想定してください」
設計士の手が止まった。
「……破壊?」
「壁も天井もです。簡単に壊せないようにしてください」
さすがに設計士の表情から笑みが消えた。
防寒、積雪、非常設備。そこまでは、極端ではあっても住宅設備として理解できる。
だが、外部からの意図的な破壊まで想定しているとなれば、話は変わる。
設計士は蓮を見た。
「つまり……屋上にシェルターを造りたい、という認識でよろしいですか?」
「そう考えてもらって構いません」
設計士はもう一度、広い屋上を見渡した。
ようやく完全に理解したらしい。
これは普通のリフォームではない。
蓮は、住宅の上にもう一つの防災シェルターを造ろうとしている。
◇
だが、屋上に必要なのは頑丈な箱だけではなかった。
むしろ蓮にとって重要なのは、その内部で何を維持できるかだった。
蓮は設計士と一緒に屋上を歩きながら、必要な設備を一つずつ説明していく。
「内部はいくつかの区画に分けてください。設備を置く場所と、作業や生活に使える場所は分離したい」
「分かりました。設備区画については防音や排熱も含めて設計します」
「それから、大型の貯水設備を置きます」
設計士がすぐに反応した。
「容量はどの程度をお考えですか?」
「構造上問題がない範囲で、できるだけ大きく」
「水は非常に重いですよ。一立方メートルで約一トンです。タンクそのものの重量もありますし、満水時の荷重を考えると、設置場所はかなり慎重に決める必要があります」
「分かっています。構造計算をした上で、最大容量を決めてください」
「それなら可能です」
蓮は頷いた。
「普段の給水設備と接続して、常に満水に近い状態を維持できるようにしたい。それと、2501号室から直接使えるようにしてください」
設計士は意図を理解したらしい。
「断水時の非常用水ですね」
「はい」
前世では、水道が止まってから人々の生活は急速に崩れていった。
飲み水だけではない。食事、洗濯、トイレ、身体を清潔に保つことさえ難しくなる。
今回は、同じ状況に陥るつもりはない。
「次に太陽光発電。それと、大容量の蓄電池を入れてください」
「必要電力はどの程度を想定されていますか?」
蓮は頭の中で必要な設備を思い浮かべる。
「暖房、調理用の加熱設備、照明、冷蔵庫、通信機器、換気設備。それ以外の家電も、基本的には通常通り使える程度を想定してください」
設計士は少し考えた。
「そうなると、一般家庭の非常用電源とは比較にならない容量になります」
「構いません」
そして蓮は、さらにもう一つ付け加えた。
「非常用発電機も設置してください」
設計士が顔を上げる。
「太陽光と大容量蓄電池があるのに、発電機までですか?」
「天候が悪ければ太陽光の発電量は落ちます。蓄電池も残量がなくなれば終わりです」
蓮は淡々と答えた。
「一つが駄目になっただけで、全部止まるような設備にはしたくない」
設計士は少し考え、納得したように頷いた。
「冗長化ですね。分かりました。ただ、発電機を設置する場合は排気と燃料の保管を考える必要があります。特に密閉された空間では排気処理が重要です」
「排気は安全に外へ出せるようにしてください。燃料は別に用意します」
「では、燃料を安全に保管できる専用区画も設けましょう。設備室とは隔離した方がいいでしょうね」
「お願いします」
水、電気、熱。そして、それらを維持するための複数の設備。
どれか一つに依存するつもりはなかった。太陽光が駄目なら蓄電池。蓄電池が尽きれば発電機。水道が止まれば貯水設備。
一つの設備が故障しただけで、生活そのものが終わるような構成にはしない。
前世では、停電した瞬間から生活水準が一気に崩れ始めた。
同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。
◇
蓮は屋上の中央へ戻り、周囲を見回した。
全面を壁と天井で覆えば、当然ながら自然光はほとんど入らなくなる。停電に備えて照明設備を充実させるとはいえ、日中まで完全に人工照明だけに頼る必要はない。
「採光も必要ですね」
設計士が頷いた。
「太陽光パネルとの位置関係もありますし、窓を設けますか?」
「普通の窓はいりません」
蓮は屋上の壁と天井になる場所を指した。
「壁と天井の一部だけ、強化ガラスにしてください」
「防御性能を維持したまま、ですか?」
「はい」
設計士はしばらく考える。
「かなり特殊な仕様になります。特に天井側は積雪荷重まで考えなければなりません」
「全面をガラスにする必要はありません。昼間に最低限の自然光が入れば十分です」
「それなら現実的ですね。構造フレームで細かく支えれば可能だと思います」
「強度は落とさないでください。雪だけではなく、強風で飛来物が当たったり、外部から衝撃を受けたりしても簡単には割れないものを」
設計士は蓮の顔を見たあと、今度は少し呆れたように笑った。
「本当にシェルターですね」
「そう言ったでしょう」
蓮は平然と答えた。
設計士は「確かに」と苦笑しながら、再びメモを取り始めた。
◇
それから約一時間。
設計士と二人の技術担当者は、2501号室と屋上を何度も行き来しながら寸法を測り、建物の構造や既存設備の位置を確認していった。
断熱、気密、防犯、耐衝撃、給水、発電、蓄電、換気、融雪、そして設備の冗長化。
普通の住宅なら必要とされない要求が次々と並んでいるが、蓮にとっては、そのどれも削ることのできない生存設備だった。
一通りの確認を終えたところで、設計士がようやくノートを閉じた。
「一度、会社へ持ち帰ります」
「設計にはどれくらいかかります?」
設計士は少し考えた。
「通常なら、この規模ですと最低でも三日はいただきたいですね。構造担当や設備担当にも確認が必要ですし」
三日。
蓮の目がわずかに細くなった。
氷河期まで二十日。三日という時間そのものは短いが、残された二十日のうち三日と考えれば、決して小さくない。
しかも設計が終わってから施工が始まり、資材を手配する時間も必要になる。
蓮にとって、今もっとも不足しているものは金ではなかった。
時間だった。
「明日までにお願いします」
設計士が驚いた顔をする。
「明日ですか?」
「はい」
「人員を増やして徹夜で進めれば、形にはできるかもしれません。ただ当然、その分費用も――」
「払います」
即答だった。
設計士が思わず苦笑する。
「まだ金額も言ってませんよ」
「いくらでも出します」
蓮は静かに答えた。
「金は後からでも増やせる。でも、時間は戻ってこない」
その言葉を口にした瞬間、蓮自身だけが、その意味を誰よりも深く理解していた。
時間は戻らない。
本来なら。
自分がここにいることそのものが、あり得ない例外なのだ。
だからこそ、この二度目の時間を一日たりとも無駄にしたくなかった。
設計士は数秒だけ蓮を見つめたあと、静かに頷いた。
「……分かりました。会社へ戻ったらすぐに人員を集めます。明日の夕方までには、最初の設計案を完成させます」
「お願いします」
三人が帰ったあと、蓮は一人で広い屋上に立った。
今はまだ、何もない。
だが数週間後には、この場所の姿は完全に変わっている。そのための時間は、もう動き始めていた。
◇
翌日の夕方。
蓮の前に、最初の設計図が置かれた。
昨日とは違い、設計士だけではなく構造担当と設備担当まで同席している。テーブルの上には、何枚もの図面が広げられていた。
まず、2501号室。
既存の壁、床、天井には高性能な断熱材と補強層を追加し、断熱性能と防犯強度を大幅に引き上げる。窓はすべて高強度の防犯仕様へ交換され、ガラスだけでなくサッシや固定部まで含めて強化される。
ベランダ側にも侵入防止対策が施され、隣室から簡単に移動してこられない構造になっていた。換気口や、その他の外部と繋がる設備にも保護措置が追加されている。
そして、その上にある屋上。
蓮が昨日まで見ていた開放的なテラスの面影は、図面の上から完全に消えていた。
屋上全体を覆う鉄骨構造に高強度の外壁。積雪荷重を大きく見込んだ頑丈な天井には融雪設備が組み込まれ、壁と天井の一部には自然光を取り込むための高強度ガラスが配置されている。
内部はいくつかの区画へ分けられていた。
大型貯水設備、太陽光発電設備、大容量蓄電池、非常用発電機、燃料保管区画、設備管理区画、そして日常的に作業へ使えるスペース。
それらすべてを、2501号室から専用階段で直接行き来できる構造になっている。
蓮は一枚ずつ、時間をかけて確認していった。
水道が止まっても、すぐには困らない。電気が止まっても、太陽光と蓄電池がある。悪天候で太陽光が使えず、蓄電池まで尽きたとしても発電機がある。
外が極端な寒さになっても、高い断熱性能と気密性能によって内部の熱を逃がさない。積雪は融雪設備で処理する。
そして、誰かが外から侵入しようとしても、玄関や窓だけでなく、壁、床、ベランダ、換気設備まで含めて簡単には突破できない。
前世では、想像することさえできなかった環境だった。
設計士が、少し緊張した様子で尋ねる。
「これでいかがでしょう?」
蓮は最後の図面まで確認した。
少なくとも、今の自分が要求した条件はすべて入っている。
大きな修正点はなかった。
「これでお願いします」
設計士の表情がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます。それでは、この図面をベースに施工会社へ回します。資材の手配も同時に始めます」
蓮はもう一度、屋上部分の図面へ目を落とした。
紙の上には、自分が求めていた生存拠点の形がほぼ完成している。
「あとは予定通り進めるだけだな」
その時の蓮は、本気でそう思っていた。
設計士も同じだった。
だが、二人ともまだ気づいていなかった。
工事が本格的に始まる直前、この設計図にはたった一つだけ――どうしても見過ごせない大きな問題が見つかることを。
窓の外では、今日もいつもと変わらない街並みが広がっていた。道路には車が走り、人々は仕事や買い物へ向かい、誰も間近に迫っている異変を知らない。
終わりまで、あとわずかしか残されていない。
――氷河期まで、残り十九日。




