第5話 物件
翌朝。
神崎蓮は、不動産会社の前で足を止めた。
氷河期まで、残り二十一日。
もう迷っている時間はない。昨日までに、生き残るための資金は十分に確保した。次に必要なのは、その資金を使って、自分が最後まで生き延びられる場所を手に入れることだった。
大量の食料や水を揃えても、住む場所そのものが寒さに耐えられなければ意味がない。発電設備を用意したところで、簡単に侵入されるような部屋では安心して使うこともできない。
必要なのは、ただ高価なマンションではなかった。
外界から切り離されても生活を維持でき、なおかつ他人から簡単には侵入されない場所。
家ではなく、拠点。
蓮は自動ドアをくぐった。
受付を済ませると、しばらくして一人の営業担当が現れた。まだ三十代ほどの男で、営業用の柔らかな笑顔を浮かべながら名刺を差し出してくる。
「本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
蓮は軽く会釈すると、あらかじめ用意しておいた一枚の紙を差し出した。
営業は少し不思議そうな顔をしながらそれを受け取り、並んでいる条件へ順番に目を通していく。
「最上階……角部屋……鉄筋コンクリート造……百平方メートル以上……」
最初のうちは普通だった表情が、読み進めるにつれて少しずつ変わっていった。
「専用屋上、または屋上使用権付き……?」
蓮は黙って頷く。
営業はさらに紙へ目を落とした。
「リフォームの自由度が高い物件。管理組合の規約が厳しすぎるところは除外……」
そこまで読んだところで、営業は思わず苦笑した。
「かなり珍しい条件ですね」
「そうですか」
「普通は立地や眺望、設備を優先される方が多いので。屋上まで指定される方は、そうそういません」
営業は少し考えたあと、探るように尋ねた。
「別荘か何かをお考えですか?」
「そんなところです」
蓮はそれ以上説明しなかった。
本当の用途を話したところで、理解されるとは思っていない。あと二十一日で、この街全体が雪と寒さに飲み込まれるなどと言えば、ただの変人だと思われるだけだ。
営業が候補物件をいくつか選び、二人は車へ乗り込んだ。
最初に案内されたのは、築十年ほどの高層マンションだった。立地は悪くなく、建物そのものもしっかりしていて、最上階の部屋は十分な広さがある。
だが、蓮が最初に確認したのは室内ではなかった。
「屋上は?」
営業が少し驚いた顔をする。
「屋上ですか? 一応ありますが、共用部分ですね」
「専用利用は?」
「できません」
「分かりました」
それだけで、蓮の中では候補から外れた。
一件目、却下。
二件目は室内も広く、管理もしっかりしていた。しかし、最上階から屋上へ直接出ることができない。
これも却下。
三件目は駅前のタワーマンションだった。
設備だけを見れば、今日見た中では最も豪華だった。大型商業施設に直結し、交通の便も良く、共用施設も充実している。営業はかなり自信ありげに説明していたが、蓮は窓から下を見た瞬間に候補から外した。
駅前。
人が多すぎる。
普段なら最高の立地だろう。だが災害が起きれば、人が多いということは、そのまま危険の多さにつながる。
食料がなくなった時。電気が止まった時。救援が来なくなった時。
これだけの人口が、一斉に追い詰められる。
前世で人間がどう変わるのかを見てきた蓮にとって、それは大きすぎる欠点だった。
営業はさすがに困ったような笑みを浮かべた。
「神崎様は、お部屋より屋上ばかり見られますね」
「部屋は後でいいです」
蓮は即答した。
「まず屋上を見たい」
営業は一瞬だけ言葉を失ったあと、苦笑しながら頷いた。
普通の客なら、広いリビングを見て喜び、眺望を褒め、キッチンや浴室を確認する。だが蓮が最初に見るのは、屋上の広さ、出入りのしやすさ、周囲の建物との距離だった。その次に玄関や壁、窓を見る。
明らかに普通の客とは違っていた。
午後になった頃、いくつかの候補を回ったあとで、営業が車の中で少し申し訳なさそうに口を開いた。
「実は、一件だけ神崎様の条件にかなり近い物件があります」
蓮はすぐに営業へ視線を向けた。
「ただ、少し特殊でして」
「何がですか?」
「価格がかなり高いんです。一般のお客様には、あまり最初からご紹介しない物件でして……」
営業は少し言いにくそうに続けた。
「条件自体は、かなり近いと思います」
蓮は迷わなかった。
「行きましょう」
三十分後。
車は高台に建つ、高層の高級レジデンスへ到着した。
駅前のタワーマンションのような派手さはない。周辺も静かで、建物同士の間隔も広い。その代わり、敷地はかなり余裕を持って作られていた。
案内されたのは、二十五階の最上階にあるペントハウス。
専用階段付きの屋上、二十四時間管理、地下駐車場、築五年。
営業が鍵を開け、玄関を通る。
「まずはお部屋をご覧いただいて――」
「屋上を」
蓮はすぐに遮った。
営業は一瞬驚いた顔をしたものの、もう慣れてきたのか、すぐに専用階段の方へ案内した。
階段を上がり、扉を開ける。
屋上へ出た瞬間、柔らかな風が吹き抜けた。
蓮は何も言わず、ゆっくりと周囲を見渡した。
十分な広さがある。現在はおしゃれなテーブルや椅子が置かれ、開放的なテラスとして使われているらしい。日当たりも良く、周囲にはこの建物より極端に高い建物もほとんどない。
蓮は屋上を歩きながら、今見えている景色とはまったく別のものを頭の中に描いていた。
大型貯水タンク、太陽光パネル、蓄電池、非常用発電設備、外気を遮断するための断熱設備。必要なら、屋上全体を覆う構造物まで設置する。
ここを単なる屋上として使うつもりはなかった。
もう一つの生活空間にする。場合によっては、部屋そのものより重要な設備区画になる。
営業が不思議そうに蓮の様子を眺めていた。
「何か建てられる予定ですか?」
「少し改装するだけです」
蓮はそれだけ答えた。
本当の目的を説明する必要はない。今後、この場所をどこまで作り変えるのか、自分自身でもまだ正確には決めていなかった。
ただ一つ確かなのは、ここなら前世ではできなかった準備ができるということだった。
屋上を一周したあと、蓮はようやく室内へ戻った。
広いリビング、大きな窓、高い天井、開放感のある間取り。普通の人間なら、まずそこに目を奪われるだろう。
だが蓮が見ているものは違った。
玄関、壁の厚さ、窓の位置、ベランダ、避難経路、配管、換気口、隣室との位置関係。外部から侵入される可能性がある場所を、一つずつ頭の中で確認していく。
営業がとうとう笑った。
「神崎様、もしかして建築関係のお仕事ですか?」
「違います」
「では、防犯がお好きなんですね」
蓮は少しだけ考えた。
「……そうですね」
間違ってはいない。
前世で、食料が尽きた人間がどこまで変わるのかを知っている。
最初は頼むだけだった。次は怒鳴る。その次は脅す。そして最後には、奪う。
扉が閉まっているから諦めるほど、人間は簡単ではない。追い詰められれば、窓でも壁でも、壊せそうなところを探し始める。
蓮は静かに玄関へ手を置いた。
今はまだ、ごく普通の高級住宅用の扉だ。見た目は立派でも、これでは足りない。
前世の自分なら、鍵さえ閉めていれば安全だと思っていたかもしれない。
だが今回は違う。
普通に守るだけでは足りない。
もっと強く、もっと壊れにくく、誰かが食料を求めて押しかけてきても、数人程度ではどうにもできない場所へ。
簡単には突破されない要塞へ。
蓮はもう一度、部屋全体を見渡した。
立地、屋上、広さ、周囲の人口密度、改装の自由度、地下駐車場。今まで見た物件の中では、最も条件に近い。
問題があるなら、後から直せばいい。
金はある。
時間は少ない。
ならば、迷う必要はなかった。
蓮は営業へ向き直った。
「この部屋にします」
営業は一瞬、何を言われたのか分からないような顔をした。
「……もう決められるんですか?」
「はい」
「他の物件と比較されなくても?」
「必要ありません」
営業の表情が一気に明るくなった。
「ありがとうございます! すぐに契約の準備をいたします!」
そこから先の手続きは早かった。
必要書類を確認し、契約内容に目を通し、署名を済ませる。金額そのものは高く、普通なら何度も悩み、家族と相談し、数週間かけて決めるような買い物だろう。
だが蓮にとって重要なのは、価格ではなかった。
あと二十一日しかない。
その時間を一日でも多く改装へ使えることの方が、数千万や一億の差より遥かに価値がある。
すべての手続きを終え、鍵を受け取ったあと、蓮は一人でもう一度部屋へ戻った。
家具のない静かな室内へ、自分の足音だけが響く。
広いリビングと大きな窓。その向こうには、まだ何も知らない街が広がっている。
蓮はゆっくりと部屋の中央まで歩いた。
ここは、これから生活を楽しむために買った家ではない。友人を呼んで酒を飲むためでもなければ、恋人と暮らすためでもない。
すべてが止まったあと。
電気がなくなっても、水がなくなっても、物流が完全に途絶えても、外で人間同士が食料を奪い合うようになっても。
自分だけは生き残る。
そのための場所だ。
蓮は静かな部屋を見渡し、低く呟いた。
「ここが、俺の要塞だ」
窓の外では、今日も穏やかな街が広がっていた。車が走り、人々が歩き、店には商品が並んでいる。
あと二十一日。
誰も知らない。
この平和が終わることを。
そして、この部屋だけが、その終わりに備えて静かに動き始めようとしていることを。
――氷河期まで、残り二十一日。




