第4話 資金
翌朝。
神崎蓮はいつも通りスーツに着替え、部屋を出た。
収納能力がどれほど便利でも、現代社会で準備を進める以上、金がなければ何も始まらない。高級マンション、大量の食料と水、燃料、発電設備、医薬品、防寒用品、車両。そして、これから必要になるかもしれない数え切れないほどの物資も、金さえあれば今なら手に入れることができる。
逆に言えば、まだ社会が正常に動いている今だからこそ、金にはそれだけの価値がある。氷河期が始まり、物流が止まり、店から商品が消えてしまえば、どれほど現金を積んでも欲しい物は手に入らなくなる。
蓮に残されている時間は、わずかしかなかった。
「まずは資金だ」
最初に向かったのは銀行だった。
蓮の貯金は、およそ一千万円。会社員として働きながら無駄遣いを避け、地道に積み上げてきた金であり、普通に暮らしていくのであれば十分に大きな額だった。
だが、これから行おうとしている準備を考えれば到底足りない。マンション一つ取っても、耐寒設備や防犯設備まで含めれば相当な金がかかり、そこへ数か月、場合によってはそれ以上を生き延びるための物資を揃えるとなれば、一千万円など簡単に消えてしまう。
だから蓮は、今まで積み上げてきた信用そのものを金へ変えることにした。
住宅ローン、フリーローン、カードローン。利用できる制度はすべて確認し、使えるものは使う。
安定した会社に勤め、一定以上の年収があり、勤続年数も長い。これまで大きな延滞もなく、信用情報にも問題はない。それらは前世の蓮にとって、将来のために守るべき「信用」だった。
だが今は違う。
あと三十日もしないうちに、その信用を評価している社会そのものが崩れ始める。
普通なら、借金をする前に返済計画を考えるものだ。何年かけて返すのか、月々いくらなら生活を圧迫しないのか、金利はいくらになるのか。
だが蓮には、そのどれも意味がなかった。
「返済する社会が、もうすぐなくなる」
それだけだった。
手続きには時間がかかる。必要書類を揃えて申し込みを行い、確認を受ける。当然、一つの金融機関だけに頼るつもりもなく、使える信用枠はできる限り広く確保していった。
今の蓮にとって重要なのは、将来の健全な家計ではない。三十日後までに、どれだけ多くの生存資源を現物へ変えられるか。それだけだ。
銀行での手続きを終えると、その足で証券会社へ向かい、投資口座の準備も進めた。帰宅後も必要な申し込みや本人確認、資金移動の手続きを続け、その日の大半はほとんど事務作業だけで終わった。
以前なら退屈に感じたかもしれない。だが今は、一つ手続きを終えるたびに、生き残るための準備が一歩前へ進んでいることが分かっている。
焦る必要はない。
ただし、無駄にする時間もない。
二日後。
融資は、蓮が考えていた以上に順調に進んでいた。
一件、また一件と資金が振り込まれ、銀行口座の残高が増えていくたびに、蓮は画面を確認した。そこに驚きも興奮もなく、必要な資金を必要な場所へ移しているだけという感覚しかなかった。
「これで始められる」
手元で動かせる運用資金は、およそ一億円。
普通の人間なら、それだけあれば仕事を辞めても一生暮らしていけると考える金額かもしれない。だが蓮にとっては違った。
一億円あっても、世界が壊れた後には紙切れになる。だからこそ、その価値が残っている今のうちに、もっと大きな資金へ変える必要があった。
蓮はノートパソコンを開き、マーケット画面を表示する。
相場が動き始め、チャートを眺めた瞬間、前世の記憶が次々と蘇ってきた。
金融業界で働いていた蓮にとって、相場の大きな動きは単なるニュースではない。世界を騒がせた企業の決算、予想外の政策発表、市場を大きく揺らした事件。特定の銘柄が急騰し、別の銘柄が一気に崩れた日。当時は仕事として追い続けていた出来事だからこそ、強く記憶に残っているものがいくつもあった。
もちろん、すべての値動きを一円単位で覚えているわけではない。だが、大きな転換点だけなら十分だった。
いつ、何が起きて、どの銘柄が大きく動くのか。
蓮は知っている。
市場に参加している他の誰も知らない未来を、一度経験しているのだから。
蓮は注文画面へ数字を入力した。
「これは投資じゃない」
自分に言い聞かせるように、静かに呟く。
「未来の回収だ」
最初の注文を入れると、しばらくして想定通りにチャートが動いた。蓮は迷わず利益を確定し、すぐに次へ移る。
前世で強く記憶に残っている動きだけを狙い、余計な勝負はしない。利益が出たからといって興奮することもなければ、さらに欲張って引っ張ることもしなかった。
知っている未来だけを拾う。
それだけだった。
翌日。
市場は大きく動いた。
ニュースサイトには速報が並び、専門家たちは予想外の動きだと騒いでいる。掲示板やSNSでは歓喜と悲鳴が入り混じり、多くの投資家が突然の相場変動に振り回されていた。
だが蓮だけは、画面を静かに見つめていた。
この動きを知っている。前世で一度、見ている。
買う。売る。利益を確定する。
必要なところだけを淡々と拾っていった。
三日目。
市場の混乱はさらに大きくなり、ネットニュースには「歴史的相場」という文字まで並び始めた。短時間で巨額の利益を得た人間がいる一方、それまで築いてきた資産を一気に失った人間もいる。
普通なら、そんな相場の中で冷静さを保つのは難しい。値動きが激しければ激しいほど、人間は欲と恐怖に引きずられる。
もっと上がるかもしれない。今売ったら損をするかもしれない。ここで買わなければ、一生に一度の機会を逃すかもしれない。
だが蓮には、そのどれもなかった。
未来を知っているからだ。
今どこにいるのか、次に何が起きるのか、そしてどこで終わるのか。それが分かっている以上、感情を挟む必要はなかった。
そして四日目。
蓮は、この数日間の中で最も強く記憶していた時間を迎えた。
前世でも市場全体が大きく騒いだ、異常な一時間。何が起きるのかを知っている。どこまで動くのかも、おおよそ分かっている。
ここが最後だった。
蓮は保有している資金を確認し、迷うことなく全資金を投入する。
普通なら手が震える額だった。一つ値動きを読み違えれば、これまで増やしてきた資金の大半を失う。それでも蓮の表情は変わらず、ただ画面の数字だけを見つめていた。
数分後。
チャートが大きく跳ね上がった。
前世で見た通りだった。
蓮はしばらく動きを確認したあと、静かに息を吐いた。
「……終わりだ」
決済ボタンを押す。
ポジションが閉じられ、数字が確定する。
蓮は画面に表示された残高を見つめた。
五十億三千六百万円。
何度確認しても、表示は変わらない。
数日前まで約一億円だった資金は、普通なら一生かかっても手にすることのない額へ膨れ上がっていた。
蓮はその数字を数秒眺めた。
もっと増やすことはできる。この先にも強く覚えている相場の動きはいくつかあり、未来の記憶を使い続ければ、さらに大きな額を作ることも不可能ではない。
百億、二百億、あるいはそれ以上。
だが蓮は、それ以上考えることをやめ、静かにノートパソコンを閉じた。
「十分だ」
金を増やすことが目的ではない。五十億という数字を見て満足するために過去へ戻ってきたわけでもない。
金は、生き残るために必要な物を手に入れるための手段にすぎない。
そして今の蓮にとって、金以上に価値があるものが一つだけある。
時間。
あと二十二日。
氷河期が始まれば、この五十億円の価値は急速に失われる。その前に、安全な場所、食料、水、電力、燃料、そして自分の命を守るための設備へと金を変えなければならない。
蓮は机の上に置いていたノートを開き、新しいページをめくった。ペンを取り、その中央へ大きく書く。
【高級マンション】
しばらくその文字を見つめた。
前世で住んでいたような普通の部屋では駄目だ。どれほど大量の物資を持っていても、自分自身が寒さや人間から守られなければ意味がない。
必要なのは、長期間外へ出なくても生きられる場所。
停電しても、断水しても、物流が完全に止まっても。そして、他人が物資を奪いに来ても簡単には突破されない場所。
「次は、お前だ」
蓮は低く呟き、ノートを閉じた。
窓の外では、今日も昨日と変わらない日常が流れている。車が走り、人々が仕事へ向かい、店には商品が並んでいる。
誰も、自分たちが暮らしている社会の価値があとわずかで大きく崩れることなど知らない。
その中で蓮だけが、一人静かに次の準備へ進もうとしていた。
――氷河期まで、残り二十二日。




