第3話 最初の一歩
翌朝。
神崎蓮は、目覚ましが鳴るよりも早く目を覚ました。
しばらく天井を見つめたまま動かず、昨日一日の出来事を頭の中で反芻する。
氷河期が始まる一か月前に戻ってきたこと。そして、自分に突然備わっていた不可思議な収納能力。
すべてがあまりにも現実離れしていた。
眠って目を覚ませば、全部夢だったという可能性を、心のどこかではまだ捨て切れていなかったのかもしれない。
「……夢じゃないよな」
蓮は身体を起こし、昨夜収納したままにしておいた椅子を思い浮かべた。
頭の中には、あの奇妙な空間と、そこに存在している椅子の感覚が確かに残っている。
「出ろ」
そう意識した瞬間、何もなかった床の上に椅子が現れた。
音も衝撃もない。昨夜とまったく同じだった。
蓮はしばらく椅子を見つめたあと、静かに頷いた。
「やっぱりか」
能力は消えていない。
過去へ戻ったことも、この収納能力を手に入れたことも、少なくとも夢ではなかった。
だが、喜ぶにはまだ早い。
昨日分かったのは、物を収納できること、収納した物の状態が維持されること、そして家具や家電程度なら大きさや重量に関係なく収納できるらしいということだけだ。
実際の生存準備に使うつもりなら、それだけでは足りない。
どれほど大きな物まで入るのか。長さは関係するのか。動いている物はどうなるのか。そして、収納した瞬間に物体が持っていた運動まで保存されるのか。
確認したいことはいくらでもあった。
蓮は簡単に身支度を済ませると、すぐに家を出た。
最初に向かったのは、郊外にある大型のホームセンターだった。
目的は買い物ではない。
自宅にある物だけでは確認できない、大きさや形の違う物を試すためだった。
店内へ入った蓮は、客や店員の視線を気にしながら、人の少ない売り場を探して歩いた。休日ではないため客はそれほど多くなく、資材売り場の奥まで行くと、周囲に人の姿がほとんどなくなる。
蓮は何気なく木材へ手を伸ばした。
周囲を一度確認する。
誰も見ていない。
「収納」
意識した瞬間、触れていた木材が跡形もなく消えた。
昨日と同じだ。
蓮はすぐに取り出し、元の場所へ戻す。位置こそ多少ずれたものの、木材そのものには何の変化もなかった。
続いて脚立を試す。
これも問題なく消えた。
さらに大型の工具箱。重量も形状も違うが、結果は同じだった。
蓮は売り場を移動しながら、周囲に人がいないことを確認しては、形や大きさの異なる物をいくつか試していった。
当然、店の商品を持ち帰るつもりはない。収納した物はすべてその場で戻した。
確認したかったのは、能力がどこまで通用するのか。それだけだった。
ホームセンターを出る頃には、一つの仮説がかなり濃くなっていた。
「少なくとも、この程度の大きさは関係ないな」
昨日は冷蔵庫やベッドまで収納できた。今日も形状や重量の異なる物を試したが、失敗は一度もない。
ならば次に確認するべきは、単純な大きさではなく、物体の長さだった。
蓮はホームセンターで長いロープを購入すると、その足で人の少ない河川敷へ向かった。
周囲に人がいない場所を選び、ロープを地面の上へ伸ばしていく。十メートル、二十メートルと距離を取り、十分な長さまで広げたところで、片端へ手を触れた。
「収納」
次の瞬間、地面に伸びていたロープ全体が一瞬で消えた。
蓮は目を細めた。
触れていたのは端だけだ。それでも、一本につながっているロープすべてが収納された。
すぐに取り出すと、ロープは元の状態で現れる。
今度はさらに長く伸ばしてから試してみたが、結果は変わらなかった。
蓮はロープを見つめながら腕を組む。
「距離というより……一つの物として認識できるかどうか、か?」
まだ断定はできない。
例えば百メートル先まで伸びた物でも同じなのか、建物のように地面へ固定された物はどうなるのか。そもそも能力が蓮自身の認識によって左右されているのかさえ分からない。
それでも、今の段階では十分だった。
少なくともこの能力は、自分が昨日想像していた以上に自由度が高い。
そして、もう一つ。
蓮にはどうしても確認しておきたいことがあった。
最後に向かったのは、バッティングセンターだった。
目的は単純だった。
動いている物体を収納できるのか。
そして、もし収納できるなら――その運動はどうなるのか。
蓮は周囲の様子を確認しながら打席へ入った。
選んだ球速は百四十キロ。
機械が低い唸りを上げ、少しして白球が勢いよく射出された。
一直線に自分へ向かってくる。
蓮はバットを構えなかった。
飛んでくる白球へ意識を集中する。
「収納」
次の瞬間、白球が空中から消えた。
蓮の目の前を通過するはずだった球だけが、何の音も残さず消失している。
機械は異常など認識するはずもなく、そのまま次の球を送り出す。
蓮はすぐに打席を離れた。
「動いていても入るのか……」
これは大きい。
だが、本当に知りたいのはここからだった。
収納された瞬間、あの白球はどうなったのか。
単純に停止しているのか。それとも、百四十キロで飛んでいた状態そのものが保存されているのか。
さすがに人のいる場所で取り出して確認するわけにはいかない。
蓮はそのまま自宅へ戻った。
部屋へ入ると、周囲に壊れやすい物がないことを確認し、収納空間へ意識を集中する。
そこには確かに、先ほどの白球が存在していた。
蓮は壁から少し距離を取り、取り出す位置を慎重に決める。
「出ろ」
次の瞬間だった。
収納空間から現れた白球が、猛烈な勢いで蓮の目の前を横切った。
ドンッ!
乾いた衝撃音が部屋中に響く。
白球は壁へ激突し、そのまま床へ転がった。
蓮はしばらく何も言わず、壁と床に転がった白球を交互に見つめた。
取り出した瞬間に加速したわけではない。
百四十キロで飛んでいた白球を収納し、時間を置いて取り出した。
それなのに、速度は失われていなかった。
「止まってたわけじゃない……」
蓮は床に落ちた白球を拾い上げる。
「収納した瞬間の状態が、そのまま保存されていたのか」
昨日の氷と同じだった。
温度も変わらない。
形も変わらない。
そして今回の実験で、速度や運動の勢いまで維持されることが分かった。
蓮は白球を手の中で転がしながら、しばらく考え込んだ。
この能力は、単なる便利な倉庫ではない。
使い方次第では、もっと多くのことができる。
例えば高速で飛んでくる物体を収納できるのなら、それを避ける必要そのものがなくなる可能性がある。そして収納した運動エネルギーまで維持されるなら、取り出す方向や位置を自由に指定できるかどうかによっては――。
そこまで考えたところで、蓮は思考を止めた。
まだ早い。
今分かっていることだけで、能力のすべてを理解したつもりになるのは危険だった。
「面白いな」
蓮の口元が、わずかに緩んだ。
能力の正体は分からない。
容量の限界も、大きさの限界も、収納できない物が存在するのかさえまだ知らない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
この能力があれば、生き残れる可能性は前世とは比べものにならないほど高くなる。
いや――正しく使えば、生存するだけで終わらないかもしれない。
蓮はその考えを胸の奥へしまい、ノートパソコンを開いた。
昨日作成した【生存準備】のファイルを開く。
画面には、昨日考えた項目が並んでいる。
住居、食料、水、衣類、燃料、医薬品、娯楽、移動手段。
蓮は一通り眺めたあと、その一番上に新しい項目を書き加えた。
資金。
どれほど便利な能力を持っていても、今の社会で必要な物を集めるには金がいる。
収納能力があるからといって、店から盗めばいいという話ではない。氷河期が始まるまでの三十日間、社会はまだ正常に機能している。
その間に大量の食料や水、燃料、発電設備、防寒用品、医薬品を合法的に集めようとすれば、必要になる金額は数百万円程度では済まない可能性が高い。
問題は、どうやって短期間でそれだけの資金を用意するか。
だが蓮には、普通の人間にはないものがあった。
未来の記憶。
株価の動き。
企業に関する情報。
土地の変化。
そして、この一か月の間に起こる大きな出来事。
すべてを正確に覚えているわけではない。それでも、自分が金融業界で働いていたからこそ記憶に残っている情報はいくつもある。
当時はただの過去だった情報が、今では誰も知らない未来になっている。
そして市場において、未来を知っているということがどれほど大きな意味を持つのか、金融の世界で働いてきた蓮には誰よりもよく分かっていた。
蓮は検索画面を開いた。
証券会社、口座、現在の保有資産、利用できる資金。
一つずつ確認していく。
能力を手に入れたからといって、無計画に動くつもりはない。
必要な資金を算出し、期限を決め、そのために使える手段を選ぶ。
まずはそこからだ。
画面を見つめながら、蓮は小さく笑った。
「まずは金だ。話は、それからだ」
氷河期まで、残り二十九日。
神崎蓮の生存準備は、ここから本格的に始まる。




