第2話 もう、信じない
「……戻ってきたのか?」
神崎蓮は、スマートフォンの画面に表示された日付を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。何度見直しても、そこに表示されている数字は変わらない。
氷河期が始まる、一か月前。
ほんの少し前まで、自分は冷たい床に倒れ、頭から血を流しながら死んでいたはずだった。金属バットで殴られた衝撃も、一ノ瀬美咲の声も、意識が闇へ沈んでいく感覚も、今なお鮮明に覚えている。それなのに、自分は生きている。しかも、すべてが始まる前の世界で。
「夢……なのか?」
そう考えるのが一番自然だった。死の間際に見ている幻なのかもしれない。あるいは、すべてが悪夢だっただけなのかもしれない。
蓮は半信半疑のまま、自分の頬を強くつねった。
「……痛いな」
当然のように痛みが走った。指先に伝わる皮膚の感触も、素足で踏んでいる床の冷たさも、部屋を満たしている暖かな空気も、どれもあまりにも現実的だった。夢だと片づけるには、感覚のすべてが鮮明すぎる。
蓮はゆっくりとベッドから立ち上がると、窓へ向かった。カーテンを開いた瞬間、眩しい朝日が一気に差し込み、思わず目を細める。
窓の向こうでは、何事もなかったように街が動いていた。
道路には途切れることなく車が走り、駅へ向かう会社員たちは時計を気にしながら足早に歩いている。ランドセルを背負った子供たちが友達と並んで登校し、コンビニの前では制服姿の学生が笑いながら話していた。
ありふれた朝だった。
少し前までなら、蓮自身も特に意識することさえなかった景色。だが今は、そのすべてが信じられないほど眩しく見えた。
四十五日後には、道路も車も建物の入り口さえも雪に埋まり、人の姿がほとんど消える。コンビニの商品棚は空になり、街から明かりが消え、誰もが明日の食事を心配するようになる。
そんな未来を知っているのは、少なくとも今この瞬間、この街では蓮だけだった。
蓮は何も言わず、窓の外を眺め続けた。胸の奥から、いくつもの感情が込み上げてくる。
驚き。困惑。生きているという安堵。
そして、それらを押し退けるように蘇ってきたのは、強烈な怒りだった。
額へ金属バットが叩きつけられた瞬間の衝撃。力を失い、冷たい床へ倒れた自分。頬を伝って流れ落ちた血。
そして何より――。
『……それも、そっか』
一ノ瀬美咲が口にした、あの一言。
蓮の目から、ゆっくりと温度が消えていった。
「あの女……」
以前の自分なら、今すぐ美咲へ電話をしていたかもしれない。なぜあんなことをしたのかと問い詰め、何か事情があったのではないかと理由を聞き、それでも最後にはどこかで彼女を信じようとしただろう。
自分が勘違いしていたのかもしれない。柴田に逆らえなかっただけなのかもしれない。本当は助けたかったのかもしれない。
そうやって、相手に都合のいい理由を自分で作り続けたはずだ。
だが、もう違う。
蓮は窓際から離れると、ベッドの上に置いていたスマートフォンを手に取った。一ノ瀬美咲とのトーク画面を開く。
一番新しいメッセージは、昨日送られてきたものだった。
『今日空いてる?』
『新しく欲しいバッグあるんだけど、一緒に見に行かない?』
その最後には、可愛らしいスタンプまで添えられている。
以前の蓮なら、このメッセージを見た瞬間に予定を確認していた。仕事があっても調整できないか考え、時間を空けられそうなら『もちろんです。何時にしましょうか?』とすぐに返信していただろう。
美咲が欲しいと言ったバッグが高価な物だったとしても、誕生日が近いとか、何か理由をつけて買ってしまったかもしれない。
蓮はしばらく画面を見つめた。
だが、不思議なほど何も感じなかった。怒りも、悲しみも、未練さえも、死ぬ直前まで抱えていたはずなのに、今となってはすべてが遠い出来事のようだった。
蓮はスマートフォンを伏せた。
「どうでもいい」
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
自分を利用し、最後には殺される原因となった女。もう、その人間について考える時間すら惜しい。
蓮はそのまま洗面所へ向かった。鏡の前に立つ。
映っているのは、これまで毎日見てきた自分の顔だった。同じ目、同じ髪、同じ身体。外見だけなら何ひとつ変わっていない。
だが、鏡の中に映る男を見つめながら、蓮は自分が以前と同じ人間ではないことをはっきりと理解していた。
一度死んだ。信じた相手に裏切られ、自分の愚かさを思い知らされたうえで死んだ。その記憶だけは、今も消えていない。
「……もう二度と、人なんて信用しない」
死ぬ直前、最後の力を振り絞って誓った言葉。今度は意識のはっきりした状態で、その言葉を自分自身に刻み込む。
誰かが優しくしたから。好意を向けてきたから。困っているから。
そんな理由だけで、人を信用することはもうしない。
蓮はしばらく鏡の中の自分を見つめたあと、何事もなかったように視線を外した。それで終わりだった。
一ノ瀬への復讐を考えるより先に、やらなければならないことがある。
蓮はリビングへ戻ると、テーブルの上にノートパソコンを置き、電源を入れた。起動を待ちながら、頭の中で優先順位を整理する。
感傷に浸っている暇などない。
あの寒波が始まるまで、残り三十日。そして前世で自分が死んだ日までは、およそ七十五日。
「三十日……」
長いとは言えない。
だが、何が起きるのかを知らなかった前世と比べれば、途方もなく大きな時間だった。
「十分だ」
いや――十分にするしかない。
前世の自分は、何も知らなかった。
十二月に雪が降り始めた時も、季節外れの大寒波が来ただけだと思っていた。数日すれば止むと考え、ニュースで物流の混乱が報じられても、少し待てば正常に戻ると信じていた。
スーパーの商品棚から食料が消えても来週には補充されるだろうと思い、停電が起きてもすぐ復旧すると考えた。水道が止まった時も行政が何とかしてくれると信じ、救援物資が届かなくなり始めても、どこかでまだ国や自治体を当てにしていた。
だから何も準備しなかった。
そして最後には、自分の食料すらほとんど残らなかった。
だから死んだ。
今回は違う。
蓮は新しいファイルを開いた。
必要なものを、思いつくままではなく、生き残るために必要な要素として一つずつ整理していく。
金、食料、水、電気、暖房、安全な住居。
どれか一つでも欠ければ、長期間の生存は難しい。
蓮はファイルの一番上に、大きく文字を打ち込んだ。
【生存準備】
その下へ、さらに具体的な項目を並べていく。
住居、食料、水、電力、燃料、医薬品、防寒用品、通信手段、工具、移動手段。
ひとつ入力するたびに、前世で不足したものが頭に浮かぶ。
食料だけ集めても駄目だ。水がなければ人間は生きられない。電気がなければ通信も暖房も止まる。燃料がなければ、発電機があっても意味がない。薬がなければ、ちょっとした病気や怪我さえ命取りになる。
蓮の指が、そこで止まった。
少し考えたあと、新しい項目を入力する。
武器。
「……武器か」
日本で簡単に拳銃など手に入るはずがない。クロスボウなども自由に入手できる物ではなく、現実的に考えれば選択肢はかなり限られる。
それでも、前世の最後に何が起きたのかを考えれば、食料と物資を持っているだけでは安全とは言えない。
持っていると知られた瞬間、それを奪おうとする人間は必ず現れる。
蓮は「武器」の文字を消さなかった。ただし、優先順位だけを下げる。
今すぐ考えるべきことではない。
その後も必要と思われる項目を追加し、前世で経験した出来事を思い出しながら細かく整理していった。
気がつけば一時間が過ぎ、さらに二時間。時計を見ると、いつの間にか昼を過ぎている。
蓮はようやく手を止め、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「問題は……量か」
三十日あれば、金さえ用意できればかなりの物を買い集められる。
だが、問題はそこではない。
置く場所がない。
水だけでも、一人が数か月生き延びようとすれば途方もない量になる。食料も同じだ。燃料、日用品、防寒用品、医薬品、工具、そして今後必要になるかもしれない設備まで考えれば、普通のマンションの一室などすぐに埋まってしまう。
仮に大きな倉庫を借りたとしても、そこから必要な物を運ぶ手段まで考えなければならない。しかも大災害が始まったあと、離れた倉庫まで取りに行ける保証などどこにもない。
「倉庫を借りるか……」
蓮が独り言のように呟いた、その時だった。
頭の奥に、奇妙な感覚が生まれた。
――収納。
「……?」
蓮は眉をひそめた。
今、確かに何かを感じた。
誰かの声が聞こえたわけではない。耳から入ってきた音でもない。もっと不思議な感覚だった。
まるで、自分が昔から知っていたことを突然思い出したような、説明できない確信だけが頭の中に浮かんでいる。
収納。
蓮は自分の右手へ視線を落とした。
「収納……?」
何を意味しているのか、自分でも分からない。
だが、不思議なことに「どうすればいいのか」だけは理解できる気がした。
目の前のテーブルには、先ほどまで飲み物を入れていたマグカップが置かれている。
蓮は何となく手を伸ばし、指先でマグカップに触れた。そして頭の中で、ただ一言を思い浮かべる。
収納。
次の瞬間、マグカップが消えた。
「……」
蓮の手だけが、何もない空間に残された。
数秒間、思考が完全に止まる。
今まで確かに目の前にあったはずのマグカップが、跡形もなく消えている。
蓮はゆっくり手を引いた。
「……は?」
テーブルを見る。ない。
床へ落ちたのかと思い、下を覗き込む。だが、そこにもない。椅子の周囲にも、部屋のどこにも見当たらなかった。
「何だ……?」
蓮は立ち上がり、念のためテーブルの下まで確認した。当然ながら何もない。
夢でも見ているのかと疑ったが、その瞬間、頭の中に奇妙な感覚があることに気づいた。
ある。
目には見えない。手でも触れられない。
だが、確かにそこに存在している。
蓮は目を閉じ、意識を集中させた。
すると、頭の中にぼんやりとした空間が浮かび上がった。光も壁もない、どこまでも続いているような暗い場所。その中に、一つだけマグカップが浮かんでいる。
先ほど消えた物と、間違いなく同じものだった。
蓮は息を呑んだ。
「……出ろ」
そう思った瞬間、何もなかったテーブルの上にマグカップが現れた。
音も衝撃もない。
最初からそこにあったかのように、元の位置へ戻っている。
蓮は長い間マグカップを見つめたあと、もう一度手を触れた。
「収納」
マグカップは再び消えた。
続けて「出ろ」と意識すると、今度は何事もなかったようにテーブルの上へ戻ってくる。
蓮は同じ動作を何度も繰り返した。三回、四回、五回。何度試しても結果は変わらない。
「……本当に、消えてるのか」
蓮はゆっくりと椅子へ座り込んだ。
前世にはなかった。少なくとも、こんな能力を使った記憶など一度もない。
もし前世でも最初から持っていたのなら、あんな死に方をする前に気づいていたはずだ。
つまり、過去へ戻ったことと同時に、何らかの能力まで手に入れた可能性が高い。
蓮はマグカップを手に取った。
驚いている場合ではない。
まず確認する。
中へ水を入れ、量を目で確かめてから再び収納した。数分待って戻してみる。
水は、収納した時とまったく同じ状態だった。
蓮は指先を浸してみる。
温度も変わっていない。
「時間が……止まってる?」
確証を得るため、蓮は冷蔵庫を開けた。
製氷機から氷を二つ取り出し、一つは皿の上に置き、もう一つを収納する。
そのまま三十分待った。
テーブルの上に残した氷は当然ながら少しずつ形を失い、最後にはほとんど水になっていた。
そこで収納していた氷を戻す。
現れた氷を見て、蓮の目が細くなった。
形はまったく変わっていない。表面に水滴すらついていなかった。
収納した瞬間の状態が、そのまま維持されている。
「なるほど……」
普通なら、ここで理解不能な現象に混乱したかもしれない。
だが蓮の頭は、驚くより先に動き始めていた。
食料を入れれば腐らない。冷凍食品も溶けない。水も劣化しない。燃料を大量に確保しても、保管場所を必要としない。日用品も設備も、同じように入れられるのなら――。
「……使える」
蓮はそう呟いたあと、すぐに首を振った。
違う。
使えるどころの話ではない。
もし容量に十分な余裕があり、大きさや重量にも制限がないのなら、この能力一つで生存準備そのものが根本から変わる。
大量の備蓄を置く倉庫が必要なくなる。運搬車両も最小限で済む。食料の賞味期限を考える必要もない。燃料の保管方法も気にしなくていい。
必要な時に、必要な物を取り出せる。
蓮はゆっくりと部屋の中を見回した。
まず椅子に手を触れる。
「収納」
次の瞬間、椅子が消えた。
すぐに戻す。
問題ない。
次はテレビ。
「収納」
テレビが消える。
「これもか……」
蓮の視線が冷蔵庫へ向く。
これまで試した物とは、大きさも重量もまるで違う。
冷蔵庫へ手を触れ、意識を集中する。
「収納」
一瞬だった。
大型の冷蔵庫が、音もなく消えた。
蓮は思わず目を見開く。
「……サイズも関係ない?」
すぐに戻す。
冷蔵庫は元通りの場所に現れ、何事もなかったかのように稼働を続けていた。
そこから蓮は、ベッド、棚、机、ソファと次々に試していった。
物が一つ消えるたびに、部屋の中には空間が広がっていく。
それでも、頭の中にある奇妙な収納空間には圧迫感も、満杯になった感覚もない。どれだけ入れても、まだ余裕があるように感じられた。
やがて部屋の大半の家具が消え、広くなった室内の中央に蓮だけが立っていた。
蓮は静かに周囲を見回した。
そして、口元をわずかに緩める。
過去へ戻ってきてから初めて浮かべる、純粋な笑みだった。
「面白い」
蓮はスマートフォンを手に取り、すぐに検索画面を開いた。
大型倉庫、大量の水、車両、発電設備、工場設備。
思いつくものを次々と検索していく。
だが、途中で指が止まった。
「いや……違うな」
興奮して買い物を始めるのは簡単だ。
だが、まだ何も分かっていない。
今やるべきなのは、物を集めることではない。
まず、この能力の限界を知ること。
容量、重量、大きさ、収納できる距離、何を対象にできるのか、何が入り、何が入らないのか。
生き物はどうなのか。液体は容器なしでも入るのか。建物のように地面へ固定された物はどうなるのか。
確認しなければならないことはいくらでもある。
もしこの能力を前提に三十日間の準備計画を組むなら、仕様を勘違いしたまま進めることだけは避けなければならない。
蓮はスマートフォンを置き、立ち上がった。
「時間は三十日」
以前なら、その短さに焦って焦っていたかもしれない。
何から始めればいいのか分からず、誰かに相談し、迷っている間に時間を浪費していただろう。
だが、一度すべてを失った今の蓮には、迷っている時間の方が惜しかった。
問題があるなら、一つずつ潰す。足りないなら必要なだけ集める。邪魔になるものがあるなら、先に対策する。
そのために、誰かの顔色を窺うつもりもない。まして、誰かに褒めてもらう必要などなかった。
蓮は窓辺へ向かい、カーテンを少しだけ開いた。
外には、穏やかな日常が広がっている。
買い物袋を提げた主婦が歩き、学生たちが笑いながら通り過ぎていく。車は信号に従って行き交い、コンビニには商品が溢れ、誰も明日の食事を心配していない。
誰も知らない。
あと三十日で、この日常が終わる。
今目の前にある暖かな街が、雪と寒さに飲み込まれていく。人々が食料を奪い合い、助け合いという言葉が意味を失い、金さえ役に立たなくなる日が来る。
前世の蓮も、その一人だった。
だが、今回は違う。
蓮は静かにカーテンを閉めた。
外の光が遮られ、室内に薄い影が落ちる。
その中で、蓮は低い声で呟いた。
「今度は――俺が生き残る」




