第1話 プロローグ
世界が、たった四十五日でここまで変わるなんて、誰も思っていなかった。
始まりは、ただの寒波だった。
十二月としては異常なほどの冷え込みと、記録的な大雪。ニュースでは連日のように専門家たちが深刻そうな顔を並べ、不要不急の外出を控えるよう繰り返し呼びかけていたが、それでも最初の数日間、本気で恐れている人間はほとんどいなかった。
数日もすれば寒波は過ぎる。電車も動き出し、止まっていた物流も戻る。空っぽになり始めたスーパーの商品棚だって、しばらく待てばまた元通りになる。
誰もが、そう思っていた。
だが――雪は止まらなかった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎても空から降り続ける雪は弱まらず、それどころか気温は日に日に下がっていった。道路は厚い雪に覆われ、高速道路は次々と閉鎖され、やがて物流そのものが機能しなくなった。
最初にスーパーから生鮮食品が消え、その次に保存食や飲料水がなくなった。コンビニの商品棚も空になり、入荷予定を尋ねても店員には答えられない。いつしか店そのものが営業をやめ、街から明かりがひとつずつ消えていった。
さらに停電が始まり、水道が止まり、ガスまで使えなくなった。
行政から届いていた救援物資も、日が経つにつれて目に見えて減っていった。最初の頃こそ「こんな時だからこそ助け合おう」と声を掛け合っていた人々も、終わりの見えない寒さと空腹の中で少しずつ余裕を失い、いつしか自分たちの食料を他人に知られないよう隠すようになっていた。
そして――寒波到来から、四十五日目。
神崎蓮の部屋にも、ほとんど食料は残っていなかった。
「……寒いな」
呟いた口元から白い息が漏れ、すぐに冷え切った空気へ溶けていく。
厚手の服を何枚重ねても身体の芯に入り込む寒さまでは防げず、暖房はとっくに止まっていた。室内にいるはずなのに、指先は冷え、毛布から身体を出すことさえ億劫になる。
窓の向こうには、以前とはまるで別の街が広がっていた。
道路も、車も、街路樹も、何もかもが白い雪の中へ沈み、四十五日前まで人と車で溢れていた場所から生活の気配はほとんど消えている。かつて当たり前のように眺めていた景色が、今では人間の住む場所とは思えないほど静まり返っていた。
蓮は毛布にくるまったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
その時だった。
――ピコン。
静まり返った部屋の中に、スマートフォンの通知音が響いた。
蓮は反射的に手を伸ばし、枕元に置いていた端末を掴む。画面右上に表示されているバッテリー残量は二十三パーセント。停電が頻発するようになった今、次にいつ充電できるのかさえ分からないため、本来なら一度画面を点けることすら惜しい。
それでも、表示された名前を目にした瞬間、蓮の表情はわずかに緩んだ。
一ノ瀬美咲。
メッセージを開く。
『蓮、起きてる?』
少しして、続けてもう一件届いた。
『今日も寒いね……。もう嫌になっちゃうよ』
さらに、
『私、食べるものがほとんどなくなっちゃった』
『蓮は大丈夫?』
そこで少しだけ間が空いた。
蓮が返信しようと指を動かしかけたところで、最後のメッセージが届く。
『蓮なら、私のこと助けてくれるよね?』
蓮はしばらく画面を見つめたあと、ほんの少しだけ笑った。
「……もちろんだよ」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
一ノ瀬美咲は、蓮と同じ会社に勤める女性だった。
二人は付き合っているわけではない。それでも食事には何度も行ったし、美咲の誕生日にはそれなりに高価なプレゼントも贈った。休日に連絡が来れば買い物にも付き合い、帰りが遅くなれば家の近くまで送ったことも一度や二度ではない。
いつか。
もう少しすれば。
きっと、自分たちは今とは違う関係になれる。
口に出して約束したことなど何ひとつなかったが、蓮はそんな曖昧な期待を抱き続けていた。そして美咲もそれを完全に否定することなく、近づきすぎず、離れすぎない距離にずっと居続けていた。
蓮は毛布をどけ、冷え切った床へ足を下ろした。
冷蔵庫を開ける。
中はほとんど空だった。
正確には使いかけの調味料がいくつか残されていたが、それだけでは腹を満たせない。続いて戸棚を開けると、残っていた食料が視界に入った。
カップ麺が一つ。
ツナ缶が二つ。
クラッカーが一袋。
レトルトのお粥が一つ。
そして、五百ミリリットルの水が二本。
蓮は黙ったまま、それらを見つめた。
食料という意味では、これが自分のほぼ全財産だった。いつまで寒波が続くのかも分からない今、この程度では自分一人でさえ数日持つかどうか怪しい。
それでも蓮の頭に最初に浮かんだのは、自分の空腹ではなかった。
「……美咲の方が大変だろうしな」
小さな手提げ袋を取り出し、カップ麺を入れる。続けてツナ缶を二つ、クラッカー、レトルトのお粥、そして水を一本。
ほとんどすべてを袋へ詰め終え、持ち上げてみる。
軽かった。
こんな状況で一人の人間を助けるには、あまりにも心細い重さだった。
「これだけじゃ……心許ないか」
袋を見つめながら眉を寄せる。
自分に残っているのは、水一本だけ。それでも蓮が気にしていたのは、自分が明日何を食べるかではなく、美咲へ渡す食料が足りないことだった。
少し迷った末に、蓮はスマートフォンを開き、別の名前を選んだ。
黒崎恒一。
学生時代から付き合いが続いている、蓮にとって数少ない友人だった。
『悪い』
そこまで入力したところで、指が止まる。
今がどんな状況なのかは、黒崎だって同じだ。自分だけが苦しいわけではない。食料を求めることが、どれだけ相手の負担になるのかも分かっている。
それでも蓮は、続きを入力した。
『何か食べ物、余ってないか?』
送信すると、返事は驚くほど早く届いた。
『少しある』
それに続いて、
『取りに来い』
蓮は小さく息を吐いた。
『助かる』
厚手のコートを羽織り、首元にマフラーを何重にも巻き、手袋をつける。最後に一ノ瀬へ渡すための手提げ袋を持ち、玄関を開けた。
その瞬間、凍りつくような冷気が容赦なく顔へ突き刺さった。
「っ……」
建物の中だというのに廊下ですら凍えるほど寒く、わずかに露出している頬が痛む。
蓮は肩をすくめながら階段を下り、建物の外へ出た。
そこには猛烈な吹雪が広がっていた。
視界は悪く、歩道と車道の境界すらほとんど分からない。四十五日前まで人で溢れていた街からは人影が消え、道路の途中には動かなくなった車が何台も放置されていた。
電柱には雪がまとわりつき、コンビニの看板から明かりは消え、自動販売機も完全に沈黙している。街は確かにそこにあるのに、生活だけが丸ごと消えてしまったようだった。
蓮は足元を確かめながら、一歩ずつ雪を踏みしめて進んだ。
黒崎のマンションまでは、普段なら徒歩で十分ほどしかかからない。それが今では、雪に足を取られないよう慎重に進むだけで倍近い時間がかかった。
何度も滑りそうになりながら、ようやく目的の建物へ辿り着く。
当然ながらエレベーターは止まっていたため、蓮は階段を使って四階まで上がった。凍えた身体にはそれだけでもかなり堪えたが、黒崎の部屋の前まで辿り着き、扉を二度ノックすると、ほとんど待つことなく扉が開いた。
「来たか」
現れた黒崎恒一は、以前より頬が少しこけ、無精ひげも伸びていた。
それでも蓮の顔を見るなり、特に何かを尋ねることもなく身体をずらした。
「悪いな」
蓮が言うと、黒崎は鼻を鳴らした。
「いいから入れ。寒い」
「ありがとう」
蓮は素直に頭を下げ、部屋の中へ入った。
室内もかなり冷えていた。どうやらこの部屋でも暖房は使えないらしく、リビングには毛布にくるまった女性が座っていた。
佐藤愛。
黒崎の同棲相手だ。
「こんにちは」
蓮が軽く頭を下げる。
「……こんにちは」
愛も返事をしたものの、その声には元気がなく、目元には隠しきれない疲労が滲んでいた。
黒崎はそのまま部屋の奥へ行くと、しばらくして大きな登山用のリュックを抱えて戻ってきた。
「ほら」
そのまま床へ置かれたリュックを見て、蓮は思わず目を見開いた。
「え……これ全部?」
「ああ」
「でも、お前たちだって余裕ないだろ」
「まだある。もともと備蓄マニアだったの知ってるだろ」
黒崎はそれだけ言うと、リュックを蓮の方へ押した。
「持ってけ」
蓮は戸惑いながらファスナーを開けた。
中には缶詰、カップ麺、レトルト食品、乾パン、ビスケット、ペットボトルの水などがぎっしりと詰め込まれている。蓮が想像していた「少し」という量を、明らかに超えていた。
「……助かるよ」
思わず漏れたその言葉を聞き、愛がちらりとリュックへ視線を向けた。
ほんの一瞬だったが、そこには明らかな不満が浮かんでいた。
自分たちだって決して余裕があるわけではない。それだけの食料があれば、自分たちがあと何日食いつなげるのか。
何も言葉にはしなかったものの、そんな思いがその視線から伝わってくるようだった。
黒崎はその視線に気づいていないのか、それとも気づいた上で無視しているのか、愛には何も言わなかった。
代わりに蓮の手元を見て、眉を寄せる。
「ところで、その袋は何だ?」
「ああ、これ?」
蓮は右手に持っていた小さな手提げ袋へ目を落とし、少し照れくさそうに笑った。
「一ノ瀬さんに持っていく分」
その瞬間、黒崎の顔から表情が消えた。
「……は?」
「俺のところも、もうほとんど食料がなくてさ。これだけじゃ少ないと思って、お前に少し分けてもらえれば――」
「待て」
黒崎の低い声に遮られ、蓮は口を閉じた。
黒崎はしばらく蓮を見つめたあと、一歩近づいた。
「お前、こんな時にまだあの女に食料渡してんのか?」
「渡してるっていうか……困ってるみたいだから」
「馬鹿か、お前は!」
突然響いた怒鳴り声に、蓮の肩が大きく跳ねた。リビングにいた愛も驚き、目を見開いて黒崎を見る。
だが、黒崎はそんなことを気にする様子もなく、床に置かれたリュックを指差した。
「これはお前のための食料だ! 一ノ瀬に渡すためじゃねぇ!」
「でも――」
「でもじゃない!」
黒崎は本気で怒っていた。
いつもなら多少呆れながら忠告する程度だったが、今は違う。明日の食料すら保証されない世界で、蓮が自分の分まで他人へ差し出そうとしている。それが許せないのだと、その表情だけでも分かった。
「何回言えば分かるんだよ。あの女、お前のこと都合よく使ってるだけだろ!」
蓮の表情がわずかに曇った。
「そんなことないよ」
「ある! まだ気づかねぇのかよ!」
黒崎は歯を食いしばるようにして続けた。
「こんな状況でも食料寄こせって言ってくる女だぞ? お前が死んだらどうすんだ!」
そして、もう一度リュックを指差した。
「これはお前が食え。絶対にあの女には渡すな!」
蓮はすぐには答えなかった。
黒崎の言葉が理解できないわけではない。むしろ以前から、似たようなことは何度も言われてきた。美咲との関係を客観的に見れば、黒崎の言っていることの方が正しいのかもしれない。
それでも、蓮は美咲を信じたかった。
「……分かったよ」
しばらくして、渋々頷く。
黒崎はまだ疑うように蓮を睨んでいた。
「本当だな?」
「ああ。このリュックの中身は俺が食べる」
「絶対だぞ」
「分かったって」
蓮が少し笑うと、黒崎はようやく長く息を吐いた。
愛はその間、一度も口を挟まなかった。ただ、蓮が背負ったリュックを恨めしそうに見つめていたが、蓮は最後までその視線に気づかなかった。
「じゃあ、ありがとう」
「気をつけて帰れよ」
「ああ」
蓮は玄関を開け、再び吹雪の中へ出た。
背中には黒崎から渡された大きなリュック。右手には、自分で用意した小さな手提げ袋。
黒崎との約束を破るつもりはなかった。
少なくとも、リュックの中身は一ノ瀬には渡さない。
自分がもともと持っていた手提げ袋だけなら、黒崎にもらった物ではないのだから約束を破ったことにはならない。これくらいなら構わないだろう。
蓮は、そう自分に言い聞かせた。
一ノ瀬の部屋までは、そこからさらに二十分ほどかかった。
吹雪の中を歩き続け、ようやく目的の建物へ辿り着く。凍えた手で扉をノックすると、しばらくして中から足音が聞こえた。
扉が開く。
「蓮!」
そこにいたのは、一ノ瀬美咲だった。
厚手の部屋着に身を包んだ彼女の顔を見た瞬間、蓮はほっと胸を撫で下ろした。
「よかった。無事だったんだね」
「うん。寒かったでしょ?」
「大丈夫」
蓮は笑って、右手の手提げ袋を差し出した。
「これ。少ないけど、持ってきたよ」
一ノ瀬の表情がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
すぐに袋を受け取り、中を覗いた。
「カップ麺ある! ツナ缶も! ありがとう、蓮!」
嬉しそうに中身を確認しながら、美咲は心底ほっとしたように息を吐いた。
「助かったぁ……」
その笑顔を見ただけで、蓮は救われたような気がした。
黒崎に怒鳴られたことも、吹雪の中を長い時間歩いてきたことも、その瞬間だけはどうでもよくなった。
自分がここまで来たことで、美咲を助けられた。
それだけでよかった。
「それじゃあ……」
蓮は少し名残惜しさを感じながらも、踵を返した。
「え?」
背後から、一ノ瀬の戸惑ったような声が聞こえる。
蓮は足を止めて振り返った。
ほんの一瞬、期待した。
外は猛吹雪で、帰ったところで自分の部屋にはほとんど食料もない。このまま一人で戻れば、また凍える部屋で夜を迎えることになる。
もしかしたら今日は、部屋に入っていかないかと言ってくれるのではないか。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
だが、一ノ瀬は少し困ったように笑った。
「部屋に入れてあげなくてごめんね。まだ、そういう関係じゃないから」
蓮の胸が、小さく痛んだ。
自分が勝手に期待しただけだと分かっている。それでも、命がけでここまで食料を届けた直後だったからこそ、その言葉は思っていた以上に胸へ刺さった。
それでも蓮は、表情には出さず笑った。
「……そうだよね」
一ノ瀬は悪びれる様子もなく、いつもと変わらない口調で続ける。
「寒いし、気をつけて帰ってね」
「うん」
蓮がもう一度背を向けようとした、その時だった。
部屋の奥から、聞き覚えのない男の声がした。
「何だよ。まだいたのか?」
蓮の足が止まった。
一瞬、自分が聞き間違えたのかと思った。
だが、ゆっくり振り返ると、一ノ瀬の背後から一人の男が歩いてくるのが見えた。
大柄で、蓮よりも明らかに体格がいい。厚手の部屋着を着た姿は、まるで少し前からこの部屋で生活していたかのように自然だった。
蓮は男を見る。
そして、一ノ瀬を見る。
目の前の光景をどう理解すればいいのか分からず、思考だけが空回りした。
「……一ノ瀬さん」
ようやく絞り出した声は、自分でも分かるほど震えていた。
「その人は……誰?」
一ノ瀬は答えず、気まずそうに目を逸らした。
「それは……」
その態度だけで、蓮の胸の奥に嫌な予感が広がっていく。
だが、男はそんな蓮の動揺など気にも留めず、面倒くさそうに顔をしかめた。
「ごちゃごちゃうるせぇな」
柴田剛。
蓮はその時、その名前すら知らなかった。
柴田の視線が、蓮の背中へ向く。
「それより、そのリュック何だ?」
指を差され、蓮は反射的に肩紐を握った。
「……これは俺の物です」
「食い物入ってんだろ」
柴田が当然のように距離を詰めてくる。
「置いてけよ」
蓮の表情が変わった。
脳裏に、つい先ほど黒崎から言われた言葉が蘇る。
――これはお前のための食料だ。
――絶対にあの女には渡すな。
黒崎が、自分たちにも余裕がない中で分けてくれた食料だ。それだけは絶対に渡してはいけない。
「これは渡せません」
柴田が眉を吊り上げた。
「は?」
「これは俺のです」
「だから置いてけって言ってんだよ!」
次の瞬間、胸ぐらを乱暴に掴まれた。
「やめてください!」
蓮は咄嗟に柴田の腕を振り払った。
攻撃するつもりなどなかった。ただ掴まれた手を外したかっただけだった。
だが、その拍子に柴田の足が滑った。
「うおっ――」
大柄な身体が後ろへ傾き、そのまま床へ倒れる。
ゴッ、と鈍い音が響いた。
後頭部ではなく、額の辺りをどこかへぶつけたらしい。
「……っ!」
数秒間、その場にいる誰も動かなかった。
蓮自身も何が起きたのか理解できず、呆然と倒れた柴田を見つめている。
やがて柴田が、ゆっくりと身体を起こした。
額から細い血が流れていた。
「……いてぇ」
低い声が漏れる。
蓮は嫌な予感を覚え、一歩後ろへ下がった。
「す、すみません。そんなつもりじゃ――」
謝ろうとした蓮を、柴田が無言で睨みつける。
「いてぇな……この野郎」
その声には、先ほどまでとは明らかに違うものが混じっていた。
柴田はそれ以上何も言わず、部屋の奥へ消えていく。
「……?」
蓮は戸惑い、一ノ瀬へ視線を向けた。
一ノ瀬も状況が理解できていないらしく、不安そうに柴田が消えた方向を見ている。
数秒後。
再び足音が聞こえた。
柴田が戻ってきた。
その手に握られていたものを見た瞬間、蓮の顔から血の気が引いた。
金属バット。
「え……」
柴田は何の迷いもなく、それを振りかぶった。
何をされるのか理解した時には、もう遅かった。
「待って――」
ゴッ。
頭の中で何かが弾けた。
強烈な衝撃と同時に視界が真っ白に飛び、身体から一気に力が抜ける。膝が床へ落ち、自分が何をされたのかさえすぐには理解できなかった。
遅れて、頬を何か温かいものが伝っていく。
蓮はぼんやりと手を伸ばした。
指先についたのは、血だった。
「ちょ、ちょっと……」
一ノ瀬の声が聞こえる。
「頭、血が出てるよ……」
その言葉には確かに驚きがあった。
だが、それだけだった。
柴田は荒い息を吐きながら、床へ崩れ落ちた蓮を見下ろしていた。
「何ビビってんだよ。こんな時勢だぞ?」
手にしていた金属バットを無造作に床へ落とす。
硬い音が、妙に大きく響いた。
「一人死んだくらい、誰も気にしねぇよ」
一ノ瀬は何も言わなかった。
蓮を見る。
柴田を見る。
ほんの数秒。
その短い沈黙の間、蓮はどこかで期待していたのかもしれない。
やめて。
救急車を呼ばなきゃ。
蓮を助けないと。
せめて、そんな言葉のひとつくらいは口にしてくれるのではないかと。
だが、一ノ瀬が最後に口にしたのは、まったく違う言葉だった。
「……それも、そっか」
蓮の耳に、その一言だけが妙にはっきりと届いた。
柴田が蓮の背中から乱暴にリュックを引き剥がす。
「おい、こいつまだ持ってんじゃねぇか」
蓮にはもう止める力がなかった。
目の前でファスナーが開けられ、黒崎が自分のために渡してくれた食料が晒される。
「うわ、結構あるぞ」
その声を聞いた一ノ瀬が、すぐに柴田の側へ駆け寄った。
「ほんと?」
二人でリュックを覗き込む。
「カップ麺もある!」
「缶詰も!」
一ノ瀬の声が、一気に明るくなった。
「やった! 早く食べよう!」
つい先ほどまで頭から血を流す蓮を見ていたはずなのに、その声にはもう心配も恐怖も残っていなかった。
二人の声が、少しずつ遠ざかっていく。
蓮は冷たい床に倒れたまま、指一本まともに動かせなかった。視界は端から暗くなり始め、呼吸も浅くなる。身体から何かが少しずつ失われていく感覚だけが、妙にはっきりと分かった。
そんな中で頭に浮かんだのは、一ノ瀬ではなかった。
黒崎だった。
『これはお前のための食料だ!』
『絶対にあの女には渡すな!』
あれほど本気で怒ってくれた。
あれほど何度も忠告してくれた。
それなのに、自分は最後まで聞かなかった。
蓮の指がわずかに震える。
「……くそ」
声にならないほど小さな音が、喉の奥から漏れた。
何をしていたんだ、俺は。
黒崎が自分たちの食料を削ってまで渡してくれたものを背負いながら、それでも美咲を信じて、こんな場所まで来た。
その結果が、これだった。
目の前では、自分から奪った食料を柴田と一ノ瀬が嬉しそうに漁っている。一ノ瀬はもう、床に倒れている蓮の方を見てすらいなかった。
悔しかった。
腹が立った。
裏切られたことが、どうしようもなく苦しかった。
だが、それ以上に蓮が許せなかったのは――最後の最後まで都合のいい希望を捨てきれなかった、自分自身だった。
「最後まで……」
唇が震える。
かすれた声しか出ない。
「最後まで信じた俺が……馬鹿だった……」
意識が少しずつ遠のいていく。
視界の端から闇が滲み、さっきまで耳に届いていた二人の声も、まるで遠い場所の出来事のようにぼやけていった。身体にはもう力が入らず、冷たい床に倒れたまま、蓮は自分の命が静かに消えていくのを感じていた。
それでも最後まで胸に残ったのは、一ノ瀬に裏切られた怒り以上に、黒崎の忠告を聞きながら、それでも彼女を信じ続けた自分自身への悔しさだった。
もし、もう一度やり直せるのなら。
もし来世なんてものが本当にあるのなら、今度こそ――。
蓮は最後の力を振り絞るように、歯を食いしばった。
「もう……人のために死ぬのは、ごめんだ……」
美咲を信じた。
食料を分けた。
吹雪の中を歩き、ここまで届けに来た。
その結果が、これだった。
「次があるなら……今度は……」
薄れていく意識の中で、蓮は最後に一つだけ願った。
「自分のために……生きる……」
その言葉を最後に、神崎蓮の意識は完全に闇へ沈んだ。
◇ ◇ ◇
最初に感じたのは、暖かさだった。
それがあまりにも懐かしく、そして今の蓮にとってはあり得ない感覚だったからこそ、意識が戻った直後には自分が何を感じているのかすら理解できなかった。
蓮はゆっくりと目を開けた。
視界に映ったのは、白い天井だった。
見覚えがある。
いや――見覚えがあるどころではない。
毎日、何度も見ていた天井だった。
「……?」
蓮は戸惑いながら身体を起こした。
その瞬間、先ほどまで頭を割るように襲っていた痛みがないことに気づく。恐る恐る手を伸ばし、金属バットで殴られたはずの場所へ触れてみるが、血も傷もなければ、痛みさえ残っていなかった。
何が起きたのか分からないまま、部屋を見渡す。
テレビ。
机。
冷蔵庫。
エアコン。
どれも見慣れた自分の物だった。
しかも――すべて動いている。
エアコンからは暖かな風が流れ、部屋には電気がついている。冷蔵庫からは正常に稼働する機械音が聞こえ、窓の外にも、あのすべてを覆い尽くしていた雪景色は存在しなかった。
何より、暖かい。
四十五日間、当たり前ではなくなっていたその感覚が、今は当たり前のように部屋を満たしている。
「どうなって……」
蓮は震える手でスマートフォンを掴んだ。
画面を点ける。
そこに表示された日付を見た瞬間、呼吸が止まった。
一度、瞬きをする。
見間違いだと思い、もう一度画面を見る。
それでも数字は変わらない。
間違いなかった。
表示されているのは――氷河期が始まる、一か月前の日付だった。
蓮はスマートフォンを握りしめたまま、長いあいだ動けなかった。
死ぬ直前の光景が、次々と脳裏へ蘇る。
金属バット。
頭を流れる血。
嬉しそうにリュックの中身を漁る柴田と一ノ瀬。
そして最後に、自分が絞り出した言葉。
すべて、夢だったとは思えないほど鮮明に覚えている。
それなのに今、自分は生きていた。
世界が壊れる前の、暖かな部屋の中で。
蓮はもう一度、スマートフォンの日付を確かめた。
何度見ても同じだった。
やがて、乾いた唇がわずかに動く。
「……戻ってきたのか?」




