第10話 要塞
翌朝。
氷河期まで、残り七日。
神崎蓮の車がマンション前へ到着した。
十日間にわたって建物を覆っていた足場はすでにすべて撤去され、外観だけを見れば、工事前と大きく変わったようには見えない。朝日に照らされた高級レジデンスは、以前と同じように静かに高台へ建っていた。
だが、蓮は知っている。
見た目が変わっていないだけで、中身はまったく別物になっている。
車を降りてエントランスへ向かうと、入口では工事責任者と設計士が待っていた。
「神崎様、お待たせいたしました」
設計士が頭を下げる。
「すべての工事が完了しております」
蓮は二人の顔を見て、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
工事責任者は少し疲れた様子で笑った。
「正直に言いますと、十日で終わらせるような工事ではありませんでした。人員も通常の倍以上入れましたし、昼夜交代で動いてもらった職人もかなりいます」
その声には苦労が滲んでいたが、同時にどこか誇らしさもあった。
「それでも、ご要望いただいた内容はすべて形になっています。中をご案内します」
三人はそのまま最上階へ上がった。
2501号室の玄関前まで来ると、工事責任者が扉を開ける。
蓮は一歩、中へ足を踏み入れた。
そして、思わず立ち止まった。
「……」
十日前まで、ほとんど何もなかった部屋とは思えなかった。
天然木を基調にした落ち着いた内装。広々としたリビングには大型ソファが置かれ、その正面では暖炉の火が静かに揺れている。壁一面には造り付けの本棚が設けられ、天井の間接照明が室内を柔らかく照らしていた。
高級ホテルのラウンジを、そのまま自宅へ移したような空間だった。
設計士が蓮の反応を確認しながら説明する。
「長期間こちらで生活されるとのことでしたので、防御や設備だけでなく、居住性もかなり重視しました。閉塞感が強い空間だと、長期間過ごすだけでもかなりの負担になりますから」
蓮は何も言わず、リビング中央のソファへ腰を下ろした。
沈み込みすぎず、硬すぎもしない。
自然と身体の力が抜ける。
前世の四十五日目、蓮は暖房も止まった部屋で毛布にくるまり、寒さに耐えていた。
その記憶があるからこそ、目の前の空間がどれほど贅沢なのかがよく分かった。
「……いい」
短い言葉だった。
だが工事責任者には十分伝わったらしく、少し嬉しそうに笑った。
次に案内されたのはキッチンだった。
広い調理スペースには高級な調理器具が一式揃えられ、大型の冷蔵設備と冷凍庫も設置されている。通常の家庭用キッチンというより、ちょっとした業務用厨房に近い。
「料理もされると伺っていましたので、長期間使っても不便が出ないようにしています」
蓮は設備を一通り確認した。
収納能力がある以上、食材の保存に冷蔵庫そのものは必須ではない。それでも、日常生活を送るうえでは普通に使える設備があった方がいい。
「十分です」
そのまま寝室へ移動する。
最高級のマットレスと羽毛布団。
壁には高性能な断熱材が何層も入り、窓は通常の住宅ではまず使わない特殊な多層ガラスへ交換されている。
蓮が窓へ手を当てても、外気の冷たさはほとんど感じない。
今はまだ穏やかな気温だ。
だが七日後、外が急激に冷え込んだ時にこそ、この性能の意味が分かるだろう。
さらに奥へ進む。
「こちらが作業室です」
扉の先には大型デスクが置かれ、高性能パソコンと複数のモニターが並んでいた。書類棚、プリンター、予備機器まで揃っている。
仕事をするためではない。
今後、外部の情報を集め、状況を分析し、生存計画を立てるための場所だ。
その隣には、もう一つ扉があった。
「監視室はこちらです」
設計士が扉を開ける。
蓮は中へ入り、壁一面を見た。
大型モニターが複数並び、そこにはマンション周辺や屋上、各フロアの映像が映し出されている。
死角をできるだけ減らすように配置された監視カメラ。
誰かが建物へ入ってくる。
廊下を移動する。
階段を上がる。
屋上へ近づく。
その動きが、ここからほぼすべて確認できる。
工事責任者が説明した。
「監視設備は独立電源へ接続しています。停電時でも、蓄電池側から電力を供給できます。映像は自動で録画され、一定期間保存される設定です」
蓮は無言でモニターを眺めた。
前世では、自分の部屋の外で何が起きているのかさえ分からなかった。
ドアの向こうに誰がいるのか。
どれほど人が集まっているのか。
何をしようとしているのか。
今回は違う。
相手が動く前に、自分が知る。
「……完璧だ」
蓮は静かに呟いた。
最後に案内されたのは屋上だった。
専用階段を上がり、扉を開ける。
そこにあったのは、もはや以前の屋上ではなかった。
開放的なテラスだった場所は巨大な断熱シェルターで覆われ、外壁は何重にも補強されている。内部には太陽光発電設備、大容量蓄電池、大型の貯水設備、非常用発電機、それらを繋ぐ配管や制御設備が整然と配置されていた。
設備区画と作業区画は分離され、万が一どこか一つに異常が出ても、すぐに他へ影響が広がらないよう設計されている。
屋根には融雪設備。
壁と天井の一部には、自然光を取り入れるための高強度ガラス。
断熱。
気密。
発電。
蓄電。
給水。
換気。
必要なものが、一つのシステムとして組み上げられていた。
工事責任者は、さすがにここでは少し誇らしそうに胸を張った。
「ご要望通り、可能な限り耐久性を持たせています。住宅としてここまで施工したのは、私自身も初めてです」
蓮は屋上の端まで歩き、街を見下ろした。
青空。
道路を走る車の列。
買い物へ向かう人々。
駅へ急ぐ会社員。
何も知らずに過ぎていく、いつもの日常。
あと七日。
この景色は、まるで別物になる。
道路は雪に埋もれ、車は動けなくなり、人影は消えていく。
だが、この場所だけは生き残る。
少なくとも、そうするためにここまで準備した。
蓮はしばらく無言で街を眺めたあと、ゆっくり振り返った。
「本当に、ありがとうございました」
設計士と工事責任者は顔を見合わせたあと、満足そうに笑った。
「こちらこそ、貴重な仕事をさせていただきました」
「何に使われるのかは最後までよく分かりませんでしたけどね」
工事責任者が冗談めかして言う。
蓮も少しだけ笑った。
「そのうち分かるかもしれません」
二人は首を傾げたが、それ以上聞かなかった。
すべての説明を終え、引き渡しの確認も済ませる。
やがて設計士と工事責任者が帰り、2501号室には蓮一人だけが残った。
急に、部屋が静かになった。
蓮はリビングへ戻ると、暖炉の前に置かれたソファへ腰を下ろした。
目の前では、本物の炎がゆっくりと揺れている。
テーブルの上には、淹れたばかりのコーヒー。
蓮はカップを手に取り、一口飲んだ。
「……うまい」
香りと苦味が口の中に広がる。
こんなふうに何もせず、暖かな部屋で火を眺めながらコーヒーを飲む。
前世では、そんな時間さえ惜しんで仕事をしていた。
将来のため。
会社のため。
誰かのため。
いつも何かに追われ、自分のために立ち止まった記憶はほとんどない。
今になって初めて、何もしない時間がこんなに心地いいものなのかと分かった。
蓮はもう一口飲み、暖炉の炎を眺めた。
その時だった。
「あ」
小さく声が漏れた。
蓮は手元のカップを見る。
「コーヒーも買わないとな」
収納空間には、高級料理も生鮮食品も大量にある。
だが、コーヒー豆はまだ十分に確保していない。
今飲んでいる一杯がなくなれば、それで終わりというわけではないが、氷河期が何年続くか分からない以上、好きな物ほど多めに持っておいた方がいい。
蓮は思わず苦笑した。
「危ない危ない。毎朝これが飲めなくなるところだった」
スマートフォンを取り出し、調達メモを開く。
【追加調達】
コーヒー豆。
紅茶。
緑茶。
各種調味料。
書き終えたあと、蓮は画面を眺めた。
生きるために最低限必要な物は、かなり揃った。
だが、生活を続けるために必要な物はまだいくらでもある。
「……まだまだ集めるものはあるな」
そこで蓮は、テーブルの上へスマートフォンを置いた。
画面に表示された連絡先一覧。
その中の一つの名前に、指が止まる。
黒崎恒一。
蓮はしばらくその名前を見つめた。
前世の最後。
自分たちだって余裕などなかったのに、黒崎は大量の食料を分けてくれた。
一ノ瀬へ渡すなと本気で怒り、自分の命を心配してくれた。
あの時、最後まで自分を守ろうとしてくれた数少ない人間。
蓮はゆっくりと名前を押した。
数回の呼び出し音。
やがて聞き慣れた声が返ってくる。
『おう、蓮』
いつも通りの黒崎だった。
蓮は少しだけ間を置いてから口を開いた。
「黒崎。少し大事な話がある」
『何だよ、急に』
「信じられない話かもしれない。でも、最後まで聞いてくれ」
電話の向こうの空気が変わった。
黒崎も、蓮が冗談を言っているわけではないと察したらしい。
『……分かった。聞く』
蓮は一度息を整えた。
本当のことは言えない。
自分が一度死んで、過去へ戻ってきたなどと話しても、さすがの黒崎でも簡単には信じないだろう。
だから、別の理由を作る。
「確かな情報筋から連絡が入った。近いうちに、日本を襲う異常な寒波が来るらしい」
電話の向こうで、黒崎が少し笑った。
『寒波? そんなニュース聞いてないぞ』
「当然だ。まだ公表されていない情報だからな」
『本当かよ?』
「俺も最初は疑った」
蓮は声の調子を変えなかった。
「でも、この情報源だけは信用できる。だからお前にも伝えている」
黒崎は黙った。
蓮は続ける。
「普通の寒波じゃない。交通も物流も、場合によっては電気や水道まで止まる。そのくらいの規模を想定した方がいい」
『……そこまで?』
「ああ」
「今日から食料、水、日用品をできるだけ買い溜めしておけ。一か月や二か月じゃ足りない。最低でも半年分。できるなら、それ以上だ」
今度は、電話の向こうからすぐに返事がなかった。
普段の黒崎なら、冗談だろと笑い飛ばしてもおかしくない。
だが蓮の声があまりにも真剣だったためか、しばらく考えているようだった。
『理由は?』
「今は聞くな」
蓮は静かに答えた。
「全部話せる時が来たら話す。でも今は、とにかく俺を信じて動いてくれ」
その言葉を口にしながら、蓮は少しだけ皮肉を感じた。
もう誰も信用しないと決めた自分が、黒崎には「俺を信じろ」と言っている。
だが、それでいい。
黒崎は別だった。
前世で、行動で示してくれた。
だからこそ、蓮も同じように返す。
長い沈黙のあと。
黒崎が静かに答えた。
『……分かった』
蓮の表情がわずかに緩む。
『お前がそこまで言うなら動く。愛にも話して、今日から買い始める』
「頼む」
『でもよ』
黒崎の声が少しだけ明るくなる。
『あとで何もなかったら、高い焼肉十回は奢れよ』
蓮は思わず笑った。
「ああ。その時は好きなだけ奢る」
『言ったな?』
「言った」
短いやり取りのあと、電話が切れた。
蓮はスマートフォンを静かにテーブルへ置いた。
救える命は、多くない。
世界中で何が起きるか分かっているからといって、全員を救えるわけではない。
警告したところで、信じる人間ばかりでもない。
そして何より、蓮には他人全員を救う責任などない。
だが、黒崎だけは違う。
あの日。
自分を最後まで心配し、食料まで差し出してくれた。
その恩だけは返す。
蓮は暖炉の炎を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……これでいい」
炎は静かに揺れている。
窓の外では、爽やかな風が木々を揺らしていた。
誰も知らない。
あと七日で、その穏やかな風景が世界から消えることを。
――氷河期まで、残り七日。




