第11話 最後の買い出し
翌朝。
氷河期まで、残り六日。
神崎蓮は、窓の向こうに広がる街並みへ目を向けた。
今日も街は平和だった。
道路にはいつも通り車が走り、歩道には通勤途中の会社員や買い物へ向かう人々の姿がある。遠くでは子供たちの声も聞こえ、誰もが昨日と同じ一日が今日も続くと信じているようだった。
あと六日。
その数字を知っているのは、蓮だけだ。
蓮は静かにコーヒーを一口飲み、テーブルの上に広げたメモへ視線を落とした。
ここまでに必要だと思った項目のほとんどには、すでにチェックが付いている。
住居。
食料。
水。
電力。
燃料。
医薬品。
防寒設備。
移動手段。
生活用品。
要塞となる2501号室も完成し、収納空間の中には何年分あるのか分からないほどの物資が積み上がっている。
残っているのは、ごくわずかだった。
蓮は最後までチェックの付いていない項目を眺め、小さく呟いた。
「今しか手に入らないものだけ、か」
生きるために絶対必要というわけではない。
だが、世界が壊れたあとでは簡単には手に入らなくなる物。
あるいは、今のうちに揃えておけば、後々の生活を大きく楽にしてくれる物。
残された六日間でやるべきなのは、そうした最後の穴を埋めることだった。
蓮は飲み終えたカップを置き、車のキーを手に取った。
それからの三日間、蓮はほとんど休むことなく街中を走り回った。
最初に向かったのは、世界各国の豆を扱うコーヒー専門店だった。
店内には焙煎されたばかりの豆が並び、種類ごとに異なる香りが漂っている。
蓮は店員に勧められるまま何種類か試し、自分の好みに合った豆を選んでいった。
酸味の強いもの。
深い苦味のあるもの。
香りの華やかなもの。
普段なら一袋ずつ買って飲み比べるところだろう。
だが、蓮にはそんな時間はない。
「この豆と、この豆。それからこちらも」
店員が注文を書き留めていく。
蓮は少し考えたあと、付け加えた。
「在庫で出せる分を、かなり多めにお願いします」
「かなり多め、ですか?」
「はい。箱単位で構いません」
当然驚かれたが、代金を前払いし、配送先を伝えると話は早かった。
届け先は、いつもの物流倉庫。
コーヒー豆を確保すると、次は紅茶専門店へ向かった。
ダージリン。
アールグレイ。
アッサム。
香りや味の違うものを複数種類選び、こちらもまとめて注文する。
さらに日本茶専門店では、煎茶だけでなく玉露や抹茶まで揃えた。
水さえあれば飲める。
それだけで、長い生活の中にいくらでも変化をつけられる。
食事と同じだった。
生きるだけなら水で足りる。
だが、何年続くか分からない生活の中で、毎日同じものしか口にできないというのは、想像以上に大きな負担になる。
蓮は、そういう部分まで今のうちに潰しておくつもりだった。
飲み物の次は酒だった。
酒蔵では日本酒。
ワインショップでは世界各国のワイン。
老舗酒店ではウイスキーやブランデー。
高価な銘柄も、普段飲みできるものも区別せず揃えていく。
「できるだけ在庫をお願いします」
最初はどの店でも驚かれた。
個人で買う量ではないから当然だった。
だが、前払いであることが分かると、多くの店は喜んで対応してくれた。
蓮にとって酒は、生存に絶対必要な物ではない。
だが、長い年月を閉ざされた環境で過ごすことになれば、こういう物もまた生活の一部になる。
必要になってから欲しいと思っても遅い。
今ならまだ、金で買える。
それなら買っておけばいい。
配送先はすべて物流倉庫。
届いた荷物は、配送業者が帰ったあとに収納空間へ移す。
翌朝には、倉庫は何事もなかったかのように空になっている。
その繰り返しだった。
翌日。
蓮が向かったのは、雪上車両や除雪機器を専門に扱う店だった。
広い展示スペースには、普段の生活ではまず使うことのない機械が並んでいる。
スノーモービル。
小型のクローラー運搬車。
大型の除雪機。
交換用のキャタピラー。
予備エンジン。
各種消耗部品。
整備工具。
蓮は一つずつ説明を聞きながら、必要なものを確認していった。
前世では、大雪が続いたあと、普通の車はほとんど役に立たなくなった。
道路そのものが見えなくなり、雪に埋もれた車両が障害物になる。
歩いて移動するだけでも命がけだった。
今回、外へ出る必要がないよう準備しているとはいえ、絶対に外へ出ないと決めているわけではない。
何かあれば移動手段は必要になる。
普通の車が使えないなら、雪の上を走れるものを用意しておけばいい。
「これと、こちら。それから予備部品も一式お願いします」
店長が注文内容を確認しながら目を丸くする。
蓮は展示されている別の車両へ視線を向けた。
少し考えたあと、淡々と付け加えた。
「在庫にあるものは、まとめてお願いします」
「……全部ですか?」
「使えるものは全部です」
店長は一瞬言葉を失ったものの、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。すぐに手配いたします」
もちろん配送先は物流倉庫だった。
さらに次の日。
蓮は複数のアウトドア用品専門店を回った。
冬山用のジャケットやパンツ。
極寒地向けの防寒ブーツ。
アイゼン。
スノーシュー。
ゴーグル。
手袋。
防寒用のフェイスマスク。
雪上で移動や作業をするために必要な装備を、サイズ違いも含めて揃えていく。
自分一人分だけではない。
今後、誰かと一緒に行動する可能性もある。
体格が違えば、自分用の装備をそのまま渡すことはできない。
ならば、最初から複数サイズを揃えておけばいい。
蓮は必要だと思った物を見つけるたび、迷わず注文した。
「こちらもお願いします」
その三日間。
物流倉庫には、朝から夕方まで大型トラックが途切れることなく出入りした。
午前中には飲料や酒類。
午後には雪上車両や予備部品。
別の日には大量の防寒用品。
荷物が届き、蓮が受領確認を行い、配送業者が帰ったあとに収納する。
やっていることはそれだけだった。
だが、その単純な作業を繰り返すたび、収納空間の中身は確実に増えていく。
配送業者たちも、さすがに蓮の顔を覚えていた。
「今日もかなりの量ですね」
何度も顔を合わせている配送員が、荷下ろしを終えながら笑う。
蓮も軽く笑った。
「少し大きなイベントがありまして」
「相当大きそうですね」
「まあ、そんなところです」
誰も深く疑わなかった。
大量の金が動き、正式な注文書があり、指定された倉庫へ商品を届ける。
配送業者にとって、それ以上の事情を知る必要はない。
三日目の夕方。
最後の配送車両を見送ったあと、蓮は物流倉庫の中央に一人で立っていた。
シャッターの向こうから差し込んでいた夕日の光も、ゆっくりと弱くなっている。
倉庫の中には、もう何も残っていなかった。
昼間まで大量の商品や車両で埋め尽くされていたとは思えないほど、広い床が静かに広がっている。
蓮は目を閉じ、収納空間へ意識を向けた。
世界中から集めたコーヒー豆。
紅茶や日本茶。
日本酒、ワイン、ウイスキー、ブランデー。
雪上を移動するための車両。
除雪機。
予備エンジン。
交換部品。
整備工具。
冬山用の防寒装備。
今まで集めてきた食料や生活用品と合わせれば、日常生活で必要になる物の大半はすでに収納空間の中に揃っている。
少なくとも、現時点で思いつく大きな穴はほとんど残っていなかった。
蓮はゆっくり目を開ける。
「……これでいい」
完璧だとは思わない。
どれだけ準備しても、実際に災害が始まれば想定外のことは起きる。
前世で四十五日しか生きられなかった蓮には、その先に何が待っているのか分からない。
だからこそ、今できることはすべてやった。
あとは、その時々で考えればいい。
蓮は倉庫の照明を落とし、大きなシャッターを閉めた。
外へ出る。
空は夕焼けに染まり、街全体が柔らかな橙色の光に包まれている。
人々は仕事を終えて家へ帰り、スーパーには夕食を買い求める客が入り、道路には帰宅途中の車が並んでいた。
いつも通りの夕方だった。
蓮は車へ乗り込み、エンジンをかける。
向かう先は、完成したばかりの2501号室。
今ではもう、高級マンションの一室という感覚はなかった。
あそこが自分の帰る場所であり、この先の世界を生き抜くための拠点だった。
ゆっくり車を走らせながら、蓮は窓の外を流れていく街を眺めた。
あと三日。
たった三日で、今見えている景色は大きく変わり始める。
そのことを考えても、以前のような恐怖はなかった。
必要な準備はした。
できることはやった。
蓮は前方へ視線を戻し、小さく呟いた。
「あと少しだ」
車は夕暮れの街を抜け、静かに高台のマンションへ向かっていった。
――氷河期まで、残り三日。




