第12話 久々の休日
翌朝。
その日、神崎蓮は目覚ましをかけなかった。
いつもなら起きる時間を決め、やるべきことを確認し、朝からすぐに動き始めている。だが今日は違った。
目が覚めてからもしばらくベッドの上で身体を休め、ゆっくりと起き上がる。リビングへ向かい、暖炉へ火を入れると、しばらくして部屋の中に柔らかな暖かさが広がっていった。
蓮は淹れたてのコーヒーを持ってソファへ腰を下ろし、大きく伸びをした。
窓から差し込む朝日が室内を優しく照らしている。監視室の大型モニターにも、いつもと変わらない日常が映っていた。
マンションのエントランスを出入りする住民、通勤へ向かう人、ゴミを出しに来た人、道路を走る車。
何も起きていない。
世界は、今日も平和だった。
蓮はコーヒーを一口飲み、静かに息を吐いた。
「今日くらいは、何もしないか」
口に出してみると、不思議とその言葉がしっくりきた。
ここまでの数週間、蓮はほとんど休むことなく動き続けてきた。資金を集め、マンションを買い、設計を頼み、要塞を造り、食料、水、燃料、医薬品、車両、嗜好品、生活用品を大量に確保した。
収納空間へ意識を向ける。
そこには、すでに数え切れないほどの物資が収められている。出来立ての料理、野菜や果物、肉や魚、米、飲料、酒、コーヒー、防寒装備、雪上車両、予備部品。
今の自分が必要だと思うものは、ほとんど揃っていた。
蓮はテーブルの上に置いていたチェックリストを手に取り、上から下まで、もう一度確認する。
どの項目にもチェックが付いていた。
追加で思いつくものがないか考え、少し間を置いてからもう一度見直す。それでも何も浮かばなかった。
「……今できることは、全部やったな」
完璧だとは思っていない。
災害が始まれば、必ず想定外のことは起きる。
前世では四十五日目までしか生きられなかった。その先に何が待っているのか、蓮自身にも分からない。
だからこそ、今の時点で準備できるものは準備した。
あとは、実際に何か起きた時に考えるしかない。
蓮は車のキーをテーブルの上へ置いた。
今日は遠くへ行く必要もない。
財布だけを持ち、部屋を出る。
久しぶりに、何の目的もなく街を歩いた。
駅前へ向かい、ショッピングモールの前を通り、公園の横を歩く。途中、カフェから漂ってくるコーヒーの香りに気づき、ふと足を緩めた。
どこも、いつも通りだった。
休日を楽しむ家族連れ。ベンチに座って談笑している高校生。手を繋いで歩く老夫婦。買い物袋を抱えた主婦。仕事の電話をしながら足早に歩いていく会社員。
その中で、小さな子供が走りながら転んだ。
すぐに母親が駆け寄り、泣きそうになった子供を抱き起こす。服についた汚れを払いながら、安心させるように笑っていた。
蓮は少し離れた場所で足を止め、その光景を見つめた。
何でもない日常だった。
だからこそ、胸に残った。
今日を入れて、あと三日。
この景色は変わる。
公園から子供の声は消え、駅前から人影が消え、道路は雪に埋もれる。
今ここを歩いている人間の中にも、数週間後には生きていない者がいるかもしれない。
誰も、それを知らない。
蓮だけが知っている。
だからといって、声を上げて全員に知らせようとは思わなかった。
信じてもらえるはずもない。
それに、たとえ信じてもらえたとしても、自分一人で世界中の人間を救えるわけではない。
蓮はしばらくその場に立っていたが、やがて何事もなかったように歩き始めた。
昼を少し過ぎた頃。
映画館の前で足が止まった。
大型モニターには、公開されたばかりの映画の予告が流れている。前世でも気になっていた作品だったが、当時は仕事が忙しく、結局観に行くことはできなかった。
公開期間が終わる頃には、「そのうち配信で見ればいい」と思っていた。
結局、その「そのうち」すら来なかった。
蓮は予告映像を見上げ、少しだけ笑う。
「せっかくだ」
予定はない。
急ぐ必要もない。
今日は何もしないと決めた。
なら、観ればいい。
蓮はチケットを一枚買い、館内へ入った。
薄暗い劇場の中には、ポップコーンを持った客や、楽しそうに話すカップルの姿がある。やがて照明が落ち、巨大なスクリーンに映像が映し出された。
蓮は何も考えず、最後まで映画を楽しんだ。
時間を気にしない。
仕事の連絡を確認しない。
途中でスマートフォンを見ることもしない。
ただ、一本の映画を最初から最後まで観る。
それだけのことが、妙に贅沢に感じられた。
映画館を出ると、街は夕焼けに染まっていた。建物のガラスへ赤い光が反射し、行き交う人々の影が長く伸びている。
蓮は立ち止まり、空を見上げた。
「……いい映画だったな」
自然と笑みが浮かんだ。
それでいい。
今日は、それでいい。
何かを集める必要もない。
誰かに会う必要もない。
世界が終わる前の一日くらい、こういう時間があってもいい。
夕暮れの街を少し歩いたあと、蓮は要塞となった2501号室へ戻った。
玄関を閉めた瞬間、外の音がほとんど聞こえなくなる。
暖炉へ火を入れ、ソファへ腰を下ろす。
今日はコーヒーではなく、ウイスキーを選んだ。
グラスへ少量を注ぎ、ゆっくり口へ運ぶ。
喉の奥へ熱が落ちていく。
蓮はそのまま、テーブルの上に置かれたチェックリストを最後にもう一度開いた。
何度確認しても、すべてにチェックが付いている。
不足しているものは、今のところ思いつかない。
蓮はペンを置いた。
「……これで、本当に今できることは全部やった」
そう口にすると、ようやく長い準備が終わった実感が湧いてきた。
暖炉の炎が静かに揺れている。
外では夜風が窓を撫でていた。
今はまだ、穏やかな風だ。
蓮はソファへ深く身体を預け、しばらく炎を眺めた。
「明日ものんびり過ごすか」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
窓の外には、いつもと変わらない夜景が広がっていた。高層ビルの明かり、道路を流れる車のライト、遠くに見える街の光。
どれも、七日前までなら特別に意識することのなかった景色だった。
だが今は違う。
あと二日。
もうすぐ、この光景は見られなくなる。
蓮はその美しさを胸に刻み込むように、長い間窓の外を眺め続けた。
――氷河期まで、残り二日。




