第13話 偶然の再会
翌朝。
氷河期まで、残り二日。
神崎蓮は暖炉の前のソファへ腰を下ろし、淹れたてのコーヒーをゆっくりと口へ運んだ。ほどよい苦味と香りが口いっぱいに広がる。
「……今日も平和だな」
窓の外には、昨日と何ひとつ変わらない街が広がっていた。道路には車が走り、歩道では人々が行き交っている。誰もがいつもの朝を迎え、いつものように仕事や学校へ向かい、今日の予定について考えている。
あと二日で、その日常が崩れ始めることなど、誰も知らない。
蓮はカップを手にしたまま、この一か月を静かに振り返った。
一度死に、過去へ戻った。
突然手に入れた収納能力の性質を調べ、資金を作り、高級レジデンスを購入した。屋上まで含めて要塞へ作り変え、食料や水、燃料、医薬品、生活用品、車両、予備部品まで、思いつく限りの物資を収納空間へ集めた。
黒崎にも警告した。
今できる準備は、ほとんど終わっている。
蓮は最後の一口を飲み終えると、静かに立ち上がった。
「今日は自分のために、普通に買い物でもするか」
今さら何かを求めて走り回る必要はない。不足している物を探す日ではなく、自分が欲しいと思った物を、自分のためだけに買う日。
前世では、ほとんど持てなかった時間だった。
蓮は車を走らせ、市内でも最大級の高級デパートへ向かった。
平日の午前ということもあり、店内はそれほど混雑していない。静かな音楽が流れ、広々としたフロアには高級ブランドの店舗が並んでいた。
蓮は急ぐことなく、その間をゆっくりと歩いていく。
洋服、革製品、万年筆、財布。以前なら少し気になっても、値札を確認した時点で「今使っている物で十分だ」と諦めていた品ばかりだった。
金がなかったわけではない。ただ、自分のために高価な物を買うことに慣れていなかった。
もっと貯めておこう。将来何があるか分からない。その金があれば、一ノ瀬に何かしてやれる。
そんな理由をつけて、自分の欲しい物はいつも後回しにしてきた。
やがて、一軒の時計店の前で足が止まった。
ショーケースの中には、職人が一本ずつ仕上げた高級腕時計が整然と並んでいる。普段使いの道具として考えるには高価すぎる物ばかりだ。
それでも今日は、値札を見て立ち去る必要はなかった。
蓮はガラス越しに時計を眺めながら、少しだけ笑った。
「今日は、自分へのご褒美だな」
店内へ入ると、すぐに店員が笑顔で近づいてきた。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
「普段使いできる物を一本探しています」
「かしこまりました」
店員は蓮の服装や雰囲気を確認しながら、いくつかの時計をショーケースから取り出した。デザインも、文字盤も、ベルトもそれぞれ違う。
説明を聞きながら何本か腕へ合わせてみる。
以前なら、価格と実用性を延々と比較していたかもしれない。だが今日は、単純に自分が一番気に入った物を選んだ。
蓮は一本の時計を指差す。
「これにします」
「ありがとうございます」
店員が嬉しそうに頭を下げ、購入手続きを始める。
蓮は特に迷うことなくカードを差し出した。
その様子を、店の外から立ち止まって見ている女性がいた。
「……え?」
一ノ瀬美咲だった。
別の買い物で偶然デパートを訪れていた彼女は、時計店の中にいる蓮の姿を見つけ、思わず足を止めていた。
見間違いかと思った。
だが、間違いなく神崎蓮だ。
美咲はショーウインドウ越しに店内を覗き込んだ。店員が時計を丁寧に箱へ収め、蓮へ説明している。
そのブランドには美咲も見覚えがあった。百万円を超える時計など珍しくない店だ。
しかも蓮は、悩みに悩んで買ったようには見えない。気に入った一本を選び、そのまま支払いを済ませている。
美咲の表情がわずかに変わった。
以前の蓮は、彼女に対して極端に金を惜しむ男ではなかった。食事代を出すことも多かったし、誕生日にはプレゼントもくれた。
だが本人の身なりはどちらかといえば質素で、腕につけていたのも実用的なスマートウォッチだった。
そんな男が今、百万円を超える腕時計を何でもないように購入している。
美咲の中で、それまで固定されていた蓮への評価が静かに揺らぎ始めた。
思っていたより、金を持っているのではないか。いや、もしかすると今まで自分に見せていなかっただけなのかもしれない。
そこまで考えたところで、美咲の頭に別の思考が浮かぶ。
蓮の価値を、少し上に修正してもいいかもしれない。
ちょうどその時、購入手続きを終えた蓮が店から出てきた。
美咲はすぐに表情を作った。
「あれ?」
わざと今気づいたように目を丸くする。
「蓮?」
蓮も足を止めた。
「一ノ瀬」
「偶然だな」
その呼び方に、美咲は一瞬だけ違和感を覚えた。
以前なら「一ノ瀬さん」と呼んでいた。口調も、どこか違う。
自分を見つけた時の嬉しそうな反応もない。
だが、今はそこを追及しなかった。
「びっくりした。蓮も買い物?」
「ああ。今日は久しぶりに、自分のための買い物」
「へぇ、珍しいね」
美咲は笑顔のまま、その隣へ並んだ。
二人はそのままデパート内を歩き始める。
時計を買って終わりかと思っていたが、蓮は次に食品売り場へ向かった。
高級和牛、世界各国のチーズ、ワイン、高級コーヒー豆。気になった物があれば値段を確認することもなく、次々と選んでいく。
量そのものは、これまで蓮が大量に備蓄してきたものと比べれば大したことはない。今日は純粋に、自分が目について欲しくなった物を買っているだけだった。
「料理するの?」
美咲が尋ねる。
「ああ。少し買い足しておこうと思って」
「そうなんだ」
笑顔で答えながら、美咲は蓮の横顔を見た。
今日だけで一体いくら使っているのか。時計だけでも百万円を超えている。食品も、値段をまったく気にしていないように見える。
それだけ余裕があるなら、自分が以前欲しいと言っていたブランドバッグくらい簡単に買えるのではないか。
そんな考えが自然と頭をよぎった。
だが、美咲はすぐに自分を止めた。
ここで欲しがるのは早い。
今までと様子が違う以上、まずは蓮との距離を戻す方が先だった。
せっかく自分への評価が高かった男なのだから、少し優しくして期待を持たせればいい。焦って欲しい物をねだるより、その方が後からもっと大きなものを引き出せる。
そう考えると、美咲の笑顔はより自然なものになった。
会計を終える頃には、大きな紙袋がいくつも並んでいた。
美咲がそれを見て口を開く。
「結構あるね。持つの手伝うよ」
蓮は一瞬だけ美咲を見た。
以前なら、そんな一言だけでも嬉しく感じていたかもしれない。
今は何も思わなかった。
「悪いな」
短く答える。
二人で荷物を駐車場まで運び、車のトランクへ積み込んだ。
そのまま蓮が車を出す。
美咲も自然な流れで助手席へ乗った。
しばらく街中を走ったあと、車は高級住宅の並ぶ一角へ入っていく。
窓の外を眺めていた美咲が、少しずつ首を傾げ始めた。
「あれ?」
見覚えのある道ではない。
「前に住んでた所、この辺じゃなかったよね?」
「ああ」
蓮は前を向いたまま、何気なく答えた。
「最近引っ越したんだ」
「引っ越した?」
美咲が聞き返した時には、車はすでに高台に建つ高級レジデンスの敷地へ入っていた。
地下駐車場へ続くゲートが開く。
厳重なセキュリティに、広い車寄せ。共用部分はホテルのように整えられている。
美咲は窓の外を見たまま、しばらく言葉を失った。
まさか、ここに住んでいるのか。
一時的に借りているという雰囲気ではない。
蓮は何事もないように専用の駐車スペースへ車を停めた。
美咲の中で、蓮への評価がさらに大きく書き換えられていく。
百万円を超える腕時計を迷わず買う。高級食品を値段も見ずに選ぶ。そして、こんな場所に住んでいる。
自分が思っていたより、はるかに金を持っている。
以前はわざと質素に暮らしていたのか。それとも、この短期間で何かがあったのか。
理由は分からない。
だが、美咲にとって重要なのは理由ではなかった。
蓮には、自分が想像していた以上の価値がある。
もっと早く気づいていれば――。
一瞬だけ、そんな後悔が浮かぶ。
だが、すぐに考え直した。
まだ遅くない。
むしろ今気づけたのなら、これから距離を縮めればいい。
以前の蓮なら、自分が少し優しくするだけで簡単に期待した。
ならば、今からでも十分間に合う。
ただし焦らない。
露骨に態度を変えれば警戒される。
時間をかけて、もう一度自分へ気持ちを向けさせればいい。その方が、最終的にはもっと大きなものを得られる。
美咲はそんなことを考えながら、蓮と一緒に荷物を持ってエレベーターへ乗った。
最上階へ到着する。
廊下を進み、2501号室の前まで来たところで、美咲はまた足を止めた。
目の前にある玄関が、普通の高級マンションのものとは明らかに違って見えたからだ。
「すごいドアだね」
蓮は鍵を開けながら軽く笑った。
「引っ越したばかりで、中がまだ散らかってるんだ。今日はここまでにしておくよ」
美咲の視線が、わずかに開いた扉の奥へ向く。
「落ち着いたら、改めて招待する」
「……そっか」
本当は中を見たかった。
どんな部屋なのか。どれほど金をかけているのか。
もっと知りたかった。
だが、美咲はそこで食い下がらなかった。
今はまだ、その時ではない。
すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「うん。楽しみにしてる」
蓮へ荷物を渡し、美咲は一人でエレベーターへ向かった。
扉が閉まる。
蓮の姿が見えなくなった瞬間、美咲の笑顔も消えた。
腕や肩が重い。想像以上の量を運ばされた。
結局、今日は何も買ってもらっていない。ただ一緒に歩き、荷物を持っただけ。
完全なタダ働きだ。
そう思うと少し腹が立った。
だが、それ以上に大きな収穫があった。
蓮は、自分が思っていたよりずっと価値の高い男だった。
金、住居、そして、おそらく自分がまだ知らない何か。
これまでのように、便利な男として適当に繋いでおくだけではもったいない。
美咲の口元に、ゆっくりと笑みが戻る。
逃がさない。
そのためなら、少しくらい手間をかけてもいい。
一方。
2501号室へ戻った蓮は、買ってきた荷物を片づけたあと、監視室へ向かった。
大型モニターの一つには、エレベーターへ向かう一ノ瀬美咲の姿が映っていた。
廊下では笑顔だった。エレベーターの扉が閉まる直前まで、いつもの愛想のいい顔をしていた。
蓮は何も言わず、その映像を見つめていた。
前世では、その笑顔の意味を自分に都合よく解釈していた。
美咲が笑ってくれれば、自分に好意があると思った。頼られれば、必要とされていると思った。何かを欲しがれば、それを叶えてあげることが愛情だと勘違いした。
その先に何が待っていたのかを、今の蓮は知っている。
だからもう、目の前の笑顔だけで相手を判断することはない。
蓮はモニターの中から一ノ瀬の姿が消えるまで見届けた。
そして、わずかに口元を歪める。
「……やっぱり、何も変わってないな」
怒りはなかった。
失望さえ、ほとんどない。
ただ、確認できただけだった。
前世で自分を利用し続けた一ノ瀬美咲は、まだ何も知らないこの時点でも、結局同じ人間だった。
蓮は静かにモニターの電源を落とした。
あと一日。
明日が終われば、世界は蓮の知っている時間へ入っていく。
そして一ノ瀬もまだ知らない。
今、自分が「価値がある」と判断した男が、これから始まる世界でどれほど遠い存在になるのかを。
――氷河期まで、残り一日。




