第14話 最後の備え
翌朝。
氷河期まで、残り最後の一日。
神崎蓮は、いつもより少し早く目を覚ました。
しばらく天井を見つめたまま動かず、やがて静かに身体を起こす。寝室のカーテンへ手を掛け、ゆっくりと開いた。
窓の外には、昨日までと何ひとつ変わらない朝の景色が広がっていた。澄んだ青空に眩しいほどの陽射しが差し込み、遠くからは鳥のさえずりが聞こえる。道路には車が走り、人々はいつも通り仕事や学校へ向かっていた。
誰も知らない。
この景色が、今日で最後になることを。
蓮はしばらく窓の外を眺めたあと、キッチンへ向かった。
コーヒーを淹れると、部屋の中に香りが広がり、湯気がゆっくりと立ち上る。蓮はカップを手に窓際へ戻り、一口飲んだ。
「……今日で終わりか」
声に出してみても、不思議と実感は薄かった。
この一か月、ずっとその日を目指して準備してきた。資金を作り、住居を確保し、要塞化し、食料も燃料も医薬品も車両も集めた。
思いつく限りのものは揃えた。
部屋を見渡しても、不足しているものはほとんどない。
ただ一つ、まだ最後に確保しておきたいものがあった。
「水だな」
蓮はカップを置き、車のキーを手に取った。
◇
向かったのは、市内へ飲料水を供給している巨大な浄水施設の近くだった。
もちろん、中へ侵入するつもりはない。そんな必要もなかった。
蓮は施設から少し離れた道路脇へ車を停めると、周囲の様子を確認した。
平日の昼前。人通りは少なく、周辺を歩いている者もほとんどいない。フェンスの向こうには巨大な浄水設備が広がり、その下には市内各地へ水を送るための送水管が通っている。
蓮は車から降りると、フェンスから数メートル離れた場所で立ち止まった。
「ここなら届くか」
右手をゆっくり前へ伸ばす。
収納能力の範囲は、これまでの検証ですでにかなり把握している。対象にできるのは物体だけではなく、容器の中にある液体も収納できる。
ならば、送水管の中を流れている水も対象にできるはずだった。
蓮は意識を集中した。
収納。
次の瞬間。
収納空間へ、凄まじい勢いで水が流れ込み始めた。
まるで巨大な川そのものが、どこか別の世界へ吸い込まれていくようだった。
蓮の意識の中で、収納空間の景色が変わっていく。これまで集めた食料や生活用品、高級料理、車両や設備。そのさらに奥に、透明な水が次々と蓄えられていった。
止まらない。
流れ込み続ける。
収納空間の中で、見渡す限りの水が広がっていく。
蓮は腕時計へ視線を落とした。
まだ十分も経っていない。
それでも、すでに個人が一生で使い切れるのか分からないほどの量になっていた。
「……すごい量だな」
思わず苦笑が漏れた。
だが、それでも収納空間には圧迫感がない。限界に近づいている感覚もなく、どれだけ水を入れても、まだ先があるように感じられる。
蓮はしばらくそのまま収納を続けたが、やがてふと考えた。
収納空間の限界は、まだ分かっていない。今のところ容量不足を感じたことはないが、本当に無限なのかは確認できていない。
この先も食料だけでなく、設備や車両、燃料、さらには災害後に回収することになる物資まで入れる可能性がある。
ここで水だけに容量を使いすぎる必要はない。
「欲張る必要はないか」
蓮は静かに能力を止めた。
収納空間をもう一度確認する。
そこには、果てしなく広がる水があった。
正確な量を測る方法はない。だが、自分一人が生活用水として使う程度なら、何年どころか何十年分になる可能性すらある。
「……これぐらいで十分だろ」
蓮はそう呟くと、車へ戻った。
施設の方を振り返ることはなかった。
何事もなかったようにエンジンをかけ、そのまま街へ戻っていく。
◇
夕方。
要塞へ戻った蓮は、暖炉の前のソファへ腰を下ろした。
グラスへウイスキーを注ぎ、テレビの電源を入れる。
特に見たい番組があったわけではない。ただ、今日という一日がどんな形で終わるのか、少しだけ見ておきたかった。
しばらくすると、画面の上部に速報のテロップが流れた。
『速報です。市内の送水系統で、大規模な水量の消失が確認されたことが分かりました』
蓮の視線がテレビへ向く。
画面が切り替わった。
映し出されたのは、昼間に訪れた浄水施設だった。敷地内では職員たちが慌ただしく動き回り、関係車両が何台も出入りしている。
アナウンサーの声が続く。
『水道局によりますと、送水系統から一万トンを超える規模の浄水が短時間のうちに消失したとみられています』
蓮はグラスを口へ運んだ。
やはり、これだけの量が一気になくなれば、異常として検知される。
画面では、配管図を前に説明を行う職員の姿が映っている。
『現在、送水管の破損や大規模な漏水、計測設備の異常など、あらゆる可能性を視野に調査が進められています。しかし、現時点では大規模な漏水箇所は確認されていません』
さらに別の地域では、水圧の低下も確認されているらしい。
水道局は復旧と原因究明を急いでいる。専門家たちは、配管の損傷、地下漏水、計測機器の故障、地盤の異常など、それぞれの可能性を口にしていた。
どれも見当違いだった。
蓮はウイスキーを一口飲み、少しだけ笑った。
「やっぱりニュースになったか」
これだけ減れば当然だった。
もっと少量ずつ取れば、気づかれなかったかもしれない。だが、今さら隠すことに大きな意味はない。
明日になれば、もっと大きな異常が始まる。
蓮はグラスをテーブルへ置いた。
「悪く思うな」
テレビの向こうでは、職員たちが必死に原因を探している。
「しばらくしたら、どうせ全部凍る」
誰かに言い訳するような言葉ではなかった。
ただ、事実を確認するような声だった。
自分が取らなくても、この水が未来まで正常に供給され続けるわけではない。
蓮はそう考えていた。
テレビでは、なおも原因究明が続いている。
だが、その答えを知っている人間は、この世界に一人しかいない。
蓮はリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。
部屋に静寂が戻る。
暖炉の火だけが、柔らかな音を立てながら揺れていた。
蓮はソファへ深く身体を預ける。
この一か月、できることはほとんどすべてやった。もう買い物へ走る必要もなければ、工事の進捗を気にする必要もない。食料の量を数える必要もない。
明日から先は、準備ではなく本番になる。
蓮はゆっくり目を閉じた。
「……いよいよ明日か」
不思議と恐怖はなかった。
一度経験しているからなのか。
それとも、今度は準備ができているからなのか。
自分でも分からない。
ただ、以前とは違う。
それだけは確かだった。
窓の外には、いつもと変わらない夜景が広がっている。道路を走る車の光、ビルの窓から漏れる明かり、遅い時間まで営業している店の看板。
誰もが、明日も同じ朝が来ると信じている。
静かな夜だった。
そしてそれは――人類に残された、最後の平和な夜だった。
――翌朝、運命の日が訪れる。




