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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第86話 Day 60 因果

翌朝。


配給の時間が近づくと、マンションの各階から住民たちが少しずつ部屋を出始めた。


昨日、旧代表たちの部屋から隠されていた食料が見つかり、そのほとんどが住民たちの手へ渡ったとはいえ、柴田たちによる配給そのものがなくなったわけではない。


ただし、渡される量は以前よりさらに少なくなっており、今では一日に必要な食事を賄うというより、完全に餓死しない最低限のものを渡されているだけに近かった。


同じ階に住む二人の男も、それぞれ自分の部屋を出て配給所へ向かっていた。


二人とも昨日の騒ぎには出遅れている。


この階は旧代表たちの部屋から離れていたため、住民グループで騒ぎを知ってから向かった頃には、すでに大勢の住民が押しかけており、床に散らばっていた食料もほとんど奪われたあとだった。


缶詰を何個も抱えて帰る者や、大きな袋を膨らませている者を横目に見ながら、二人は結局、一つの食料さえ手に入れることができなかった。


「昨日、もうちょっと早く気づいてりゃな」


一人が小さく漏らすと、もう一人も苦い顔をした。


「しょうがねえよ。あんな急に始まると思わねえだろ」


「7階の奴なんか袋いっぱい持って帰ってたぞ」


「見たよ。あれだけありゃ、しばらく食えるだろうな」


そんな話をしながら廊下を歩いていると、少し先で一つの玄関扉が開いた。


高橋の部屋だった。


高橋が厚手の上着を着込み、スマートフォンをポケットへ入れながら廊下へ出てくる。そのまま扉を閉めようとした時、まだわずかに開いていた隙間から、子供の明るい声が聞こえてきた。


「お父さん、いってらっしゃい!」


「ああ、すぐ戻るからな」


高橋が答え、玄関扉を閉めた。


二人の男はそのまま歩き続けていたが、高橋が少し先を歩き始めたところで、一人がふと足を緩めた。


「……なあ」


「ん?」


「今の、高橋の息子だよな」


「そうだろ」


「なんか……元気じゃなかったか?」


もう一人も少し考えた。ただ子供が父親を送り出しただけなら、何もおかしなことではない。しかし同じ階に住んでいる二人は、高橋の息子が少し前までどんな状態だったのかを知っていた。まともに食事を取れなくなってから目に見えて衰弱し、以前廊下で見かけた時には顔色も悪く、母親に身体を支えられて歩いていたほどだった。


「……前、かなり弱ってたよな」


「ああ。でもまあ、少し良くなっただけかもしれねえだろ」


「そうだな」


この時は、それ以上深く考えなかった。


二人は高橋のあとを追うように階段へ向かった。


◇


配給所にはすでに住民たちが列を作っていた。


昨日、旧代表たちを取り囲んで怒鳴り、殴り、食料を奪い合っていた人間たちと同じ住民とは思えないほど、今日は静かだった。


誰も大きな声を出さず、自分の順番が来るまで黙って待ち、食料を受け取ればそのまま列から離れていく。


余計なことを言えばどうなるのかは、もう全員が理解していた。一人が問題を起こせば同じ階の住民まで配給を減らされる可能性があり、今では柴田たちに文句を言う前に、同じ階の住民から止められる。


やがて二人にも食料が渡された。


男は受け取った袋を開き、中を確認すると、思わず眉を寄せた。これを家族で分ければ、一人分など本当にわずかな量しかない。


隣にいた男も自分の袋を覗き込んだあと、一瞬だけ配給を担当している男たちへ視線を向けたものの、結局何も言わなかった。


二人は黙って配給所を離れ、階段を上がり始めた。


十分に離れたところで、一人がようやく口を開いた。


「……これだけかよ」


「昨日より少ねえな」


「昨日取った奴らはいいよな。何日分あるんだよ」


「俺らは何も取れてねえからな」


男は手に持った袋を見ながら舌打ちした。


昨日もっと早く騒ぎに気づいていれば、もう少し強引に前へ出ていれば、他の住民に遠慮せず食料へ手を伸ばしていれば。昨日までは仕方がなかったと諦めていたことが、今日渡されたわずかな食料を見た途端、急に大きな後悔へ変わっていた。


その時、一人が今朝のことを思い出した。


「……なあ、さっきの高橋の息子だけどさ」


「まだ気にしてんのか?」


「いや……昨日のことがあったからな。代表たちだって、俺らと同じように食ってないと思ってたのに、実際はあれだけ隠してただろ」


もう一人は返事をせず、手に持った袋へ視線を落とした。


「高橋も何か持ってんじゃねえのか?」


「声が元気だっただけだろ」


「分かってるよ。でも前は相当弱ってたぞ」


二人が自分たちの階へ戻ると、ちょうど別の住民が部屋から出てきた。顔見知りだったため軽く挨拶を交わし、そのまますれ違おうとしたところで、一人が何気ない口調で尋ねた。


「そういや、高橋のところの子供、最近見た?」


「高橋の息子?」


「ああ。前かなり弱ってただろ」


「そういや昨日見たな。母親と一緒に玄関のところにいたけど、前より顔色よくなってたぞ」


その言葉で、二人の表情が変わった。


「やっぱりか」


「何が?」


「今朝も声聞いたんだよ。かなり元気そうだった」


三人の間に短い沈黙が生まれた。


まだ何の証拠もない。ただ、高橋の息子が以前より元気になっている。それだけだった。


しかし、昨日の出来事を経験したばかりの住民たちには、それだけでも十分に疑う理由になっていた。


最初に口を開いた男が、手に持ったわずかな配給を見た。


「……確認するだけなら、いいんじゃねえか?」


「高橋の部屋を?」


「何もなきゃ、それで終わりだろ」


誰もすぐには答えなかったが、反対する者もいなかった。


◇


それから一時間もしないうちに、高橋の部屋の前には同じ階の住民が五人集まっていた。


最初から何かを奪うつもりだったわけではない。少なくとも彼ら自身はそう思っていた。昨日、旧代表たちの部屋から本当に食料が出てきたから、高橋も同じなのか確かめるだけで、何もなければ自分たちの勘違いだったと謝れば済む。


一人が玄関をノックした。


コン、コン、コン。


しばらくして、扉の向こうから高橋の声が聞こえた。


「誰ですか?」


「同じ階の者です。ちょっと話いいですか?」


「……何ですか?」


高橋は扉を開けなかった。昨日、旧代表たちの部屋へ住民が押しかけ、食料を探し出したことは当然知っている。まして自分の部屋には、他人に見られては困るものが残っていた。


「高橋さん、食料持ってませんか?」


扉の向こうが一瞬静かになった。


「……何の話ですか?」


「息子さん、元気になってるみたいですね」


「それが何か?」


「前はかなり弱ってたじゃないですか」


「少し体調が戻ってきただけです」


「何食わせてるんです?」


「配給されたものですよ」


「俺たちと同じ量ですよね?」


「そうですよ」


外にいた住民たちは顔を見合わせた。


「だったら、ちょっと中を見せてもらえませんか?」


今度の沈黙は少し長かった。


「……嫌です」


「何もないならいいでしょう」


「妻と子供がいるんです。帰ってください」


「確認するだけですよ」


「昨日あんなことがあったのに、開けるわけないでしょう。帰ってください」


高橋の声が明らかに警戒したものへ変わったが、住民たちは誰もその場から動かなかった。


「高橋さん、何もないなら見せれば済む話でしょう」


「帰れ!」


扉越しに怒鳴り声が響いた。


その拒絶を聞いた住民たちは互いに顔を見合わせた。


何も持っていないのなら、ここまで頑なに拒む必要があるのか。昨日の旧代表たちも最初は何もないと言っていたのに、実際に調べれば食料が出てきた。


疑い始めた人間にとって、高橋の拒絶は身を守るための当然の行動ではなく、何かを隠している証拠に見えた。


住民たちはもう引けなかった。


高橋がどれだけ拒絶しても、昨日一度越えてしまった線を、今日もう一度越えることへの抵抗はすでに薄れていた。


男は扉から一歩下がると、隣にいる住民と顔を見合わせ、次の瞬間、二人が勢いをつけて玄関扉へ身体をぶつける。


ドンッ!


大きな音が廊下へ響いた。


「おい! 何してんだ!」


高橋の怒鳴り声が中から聞こえる。


ドンッ!


もう一度。


高橋が内側から必死に扉を押さえているのか、扉はすぐには開かなかった。しかし外にいるのは一人ではない。最初は二人だったところへ、さらに別の住民が加わった。


「やめろ! 妻と子供がいるんだぞ!」


「だったら開けろよ!」


「何もないんだろ!」


「帰れって言ってるだろ!」


住民たちはもう聞かなかった。


何度も扉へ身体をぶつけ、やがて大きな衝撃とともに扉が開くと、内側で押さえていた高橋がその勢いで床へ倒れた。


「何すんだよ! 出ていけ!」


高橋はすぐに起き上がろうとしたが、住民たちはその横を押し退けるようにして次々と室内へ入っていった。騒ぎを聞きつけた妻が奥から慌てて出てきて、その後ろには、不安そうな顔をした息子の姿もあった。


「何なんですか!? 出ていってください!」


「確認するだけだよ」


「何を確認するんですか!」


「食料だよ」


やがて玄関を突破した住民たちが室内へ押し入り、高橋が止めようとするのも構わず、棚や収納、キッチン周辺を次々と調べ始めた。


「やめろ! 勝手に触るな!」


「何もないんじゃなかったのかよ!」


「出ていけ!」


「だったら見せりゃ済んだだろ!」


妻も必死にやめるよう訴え、その後ろでは息子が怯えた顔で両親を見ていたが、誰も部屋から出ようとはしなかった。


やがて、一人の男が部屋の奥で足を止めた。


「……おい」


その声で全員が振り返った。


収納の奥から引き出された袋の中には、米、缶詰やレトルト食品、保存の利く食品が残されていた。昨日の旧代表たちほど大量ではなかったものの、今の極端に少ない配給しか受け取っていない住民たちからすれば、十分すぎる量だった。


最初に高橋を疑った男が、ゆっくりと食料へ近づく。


「……やっぱり持ってんじゃねえか」


「違う!」


「何が違うんだよ!」


「これは……前から持ってた分だ!」


「前から?」


男が缶詰を一つ手に取り、しばらく眺めているうちに、その表情が変わった。


「……これ、配給のやつじゃねえよな」


別の住民もレトルト食品を拾い上げる。


「こっちも違うぞ。こんなの最近配られてねえ」


高橋は答えなかった。


「どこから持ってきたんだよ」


「……」


「おい、聞いてんだよ」


「前から持ってたんだよ」


「前から?」


男はそう繰り返したところで、何かが引っかかったように高橋を見た。


少し前まで、高橋の家には本当に食料がなかったはずだった。


「……待てよ」


床に並べられた食料を見つめながら、男がゆっくりと口を開く。


「お前……田中さんのところに行ってたよな」


空気が変わった。


「そうだ。二回も行ってただろ」


「最後の方なんか、食料分けろってドアまで蹴ってなかったか?」


「……」


「それで、そのあと……」


男の言葉が止まった。


誰もすぐには続きを言わなかった。


しかし、そこまで思い出せば嫌でも一つの出来事へ行き着く。


そう、田中夫婦は、その後、自宅で死亡しているのが見つかったことを。


その名前が出た瞬間、高橋の顔から明らかに血の気が引いた。


住民たちはそれを見逃さなかった。


「おい……」


一人が高橋へ近づく。


「これ、田中さんのところにあった食料じゃねえだろうな?」


「違う!」


高橋はすぐに否定したが、その声は震えていた。


「じゃあどこから持ってきた?」


「……」


「答えろよ」


「……」


「田中さんたちが死んだあと、お前が持ってきたんじゃないのか?」


高橋は答えなかった。


男がさらに一歩近づく。


「まさか……田中さん夫婦、お前が殺したんじゃないだろうな?」


高橋は俯いたまま、何も言わなかった。


否定もしなかった。


その沈黙だけで、住民たちには十分だった。


「……この腐れ外道が!」


拳が高橋の顔へ飛んだ。


高橋の身体が床へ倒れると、それまで黙っていた住民たちも一斉に詰め寄った。


食料を隠していたことへの怒りだけではない。


田中夫婦の死の裏に、今目の前にいる男が関わっていたと分かったことで、住民たちの怒りは一気に膨れ上がった。


「食い物のために殺したのか!」


「ふざけんな!」


「人殺して、自分たちだけ食ってたのかよ!」


「違う……俺は……」


高橋が何かを言おうとしたが、その前に腹へ蹴りが入った。


身体を丸めた高橋へ別の住民がさらに蹴りを入れ、一人が手を出したことで他の住民も止まらなくなった。


妻が慌てて高橋へ駆け寄り、その身体へ覆いかぶさるようにして「やめてください!」と何度も叫ぶと、ようやく何人かが手を止めた。


しかし、床に出された食料をそのままにする者はいなかった。


一人が缶詰を袋へ入れると、別の住民もレトルト食品へ手を伸ばし、それを見た妻が慌てて男の腕を掴んだ。


「待って! それは持っていかないでください!」


「離せよ」


「お願いします! 全部持っていかないで!」


妻は必死に男の腕へしがみついた。


「息子もいるんです! まだ完全に回復したわけじゃないの! 少しだけでも残してください!」


男は妻の手を振り払った。


「知るかよ。自分がしたこと考えてみろ」


「お願いします……本当に少しだけでいいんです……」


「田中さんたちには、それすら残さなかったんだろ」


誰も食料を戻さなかった。


見つかった米も缶詰もレトルト食品も、住民たちはそれぞれ自分たちの袋へ入れ、やがて高橋一家を残して部屋を出ていった。


玄関扉の向こうから足音が遠ざかっていくと、部屋には息子の泣き声だけが残った。高橋は床に倒れたまま動かず、そのそばでは妻が座り込み、何度も夫の名前を呼びながら泣いている。


「お父さん……お父さん……!」


息子も母親へしがみつき、大きな声を上げて泣いていた。


少し前までこの部屋には、ようやく息子の身体を回復させ始めた食料があった。


今はもう、何も残っていなかった。


「……もう、いや…………」


◇


それから間もなく、住民グループに一件のメッセージが流れた。


『田中夫婦を殺した犯人が分かった』


それまで静かだったグループに、一気に既読がついた。


『え?』

『誰?』

『どういうこと?』


最初の投稿者が続けた。


『高橋だ』

『高橋さん?』

『まじで!?』

『高橋の部屋から田中さんたちのものと思われる食料が見つかった。配給されてるものとは違う』


さらに投稿者は続けた。


『高橋は前、食料がなくて田中さんの部屋に行ってた。ドアまで蹴って食料分けろって言ってたの覚えてる人いるだろ』


すぐに反応が返ってくる。


『覚えてる』

『俺も見たことある』

『じゃあやっぱり……』

『田中さんたちが殺したあとに奪ったってこと?』

『殺したのかって聞いたけど、否定しなかった』


そこから高橋への罵倒が一気に増えた。


『クズだな!』

『食料のために二人殺したのかよ』

『あの夫婦かわいそうすぎる……』

『子供のためなら何してもいいのかよ』

『人殺し』


しかし、その流れの中で一人の住民が別のことに気づいた。


『で、その食料は?』


それまで続いていた書き込みが少し止まった。


別の住民も続いた。


『そういえば、その食料どうしたんだよ?』


さらにもう一人。


『高橋の部屋にまだあるの?』


最初に報告した住民から返事はなかった。


既読だけが増えていく。


『おい、答えろよ』

『まさか持って帰ったの?』

『今度はお前たちが奪ったのか!』

『昨日代表のところから取れなかった奴もいるんだぞ』

『それなら田中さんの食料なんだから、お前らのものでもないだろ』


それでも、高橋の部屋へ押しかけた住民たちから返事が来ることはなかった。


少し前まで高橋を罵倒していた住民グループには、今度は食料がどこへ消えたのかを問い詰めるメッセージが次々と流れ始めていた。


◇


そのやり取りを、自室でじっと見ている女がいた。


少し前、夫が高熱を出して倒れた時に朝霧へ診てもらった家族だった。


夫は一時よりは回復していたものの、長く続いた栄養不足と体調不良の影響でまだほとんど部屋から出ることができず、今も布団の中で横になっている。


女は住民グループに流れている高橋の話を読みながら、昨日の旧代表たちのことを思い出していた。


何も持っていないと思われていた人間が、実際には大量の食料を隠していた。


そして高橋もそうだった。


女は何気なく、少し前のことを思い返した。


あの時、朝霧は自分たちの部屋へ来て夫を診てくれた。


薬が必要だった。


だが、朝霧は手元にはないと言っていたはずだった。


それなのに――。


女の表情が少しずつ変わった。


「……あれ?」


布団に横になっていた夫が、ゆっくりと目を開ける。


「……どうした?」


「あなたが熱出した時のことなんだけど」


「……それがどうした?」


「朝霧先生、最初は薬ないって言ってなかった?」


夫はしばらく考えた。


「言ってた……かな」


「言ってたわよ。だから私、どうすればいいんですかって聞いたもの」


女は記憶を辿るように続けた。


「でも、そのあと一回自分の部屋に戻って……薬持ってきたわよね?」


夫もそこで思い出したようだった。


「ああ……そうだったな」


「おかしくない?」


「何が?」


「薬がないって言ってたのに、自分の部屋にはあったってことでしょ?」


夫は少し眉を寄せた。


「あの時は、たまたま自分用の薬を持ってたとかじゃないのか?」


「でも……」


女はスマートフォンへ視線を落とした。


画面にはまだ、高橋の部屋から見つかった食料についてのやり取りが続いている。


「代表たちも、何もないと思ってた。でも持ってた。高橋さんだってそうだった」


「朝霧先生まで疑うのか?」


「だって、薬を持ってたのよ」


「医者なんだから薬くらい持っててもおかしくないだろ」


「じゃあ食料は?」


夫が黙った。


女は声を少し落とした。


「朝霧先生、最初の頃ずっと代表の人たちと一緒に動いてたじゃない。代表たちがあれだけ食料を持ってたなら……朝霧先生だけ何も知らなかったのかな」


「……分からない」


「もしかしたら、朝霧先生も何か持ってるかもしれない」


夫は身体を起こそうとしたが、すぐに顔をしかめて布団へ戻った。熱そのものは下がっていても、まだ身体にはほとんど力が戻っていない。


「やめとけ」


「でも、もし本当に食料があったら?」


「だからってどうするんだよ」


女は答えなかった。


しばらくして立ち上がると、上着を羽織った。


「おい」


「ちょっと聞いてくるだけ」


「誰に?」


「近くの人」


夫は止めようとしたが、起き上がることさえ満足にできない。


女は部屋を出た。


◇


女が最初に訪ねたのは、同じ階に住む顔見知りの夫婦だった。


玄関越しに名前を告げると、しばらくして扉がわずかに開き、中から男が顔を覗かせた。


「どうしました?」


「ちょっと……お話があるんです」


女は周囲を確認してから、声を落とした。


「朝霧先生のことなんですけど」


男の表情が少し変わった。


「先生が何か?」


「前に主人が倒れた時、朝霧先生に診てもらったんです。その時、薬がないって言われたんですけど……そのあと先生、自分の部屋に戻って薬を持ってきたんです」


「薬?」


「はい。今まで気にしてなかったんですけど、高橋さんのことを見てたら、急に気になって……」


男はすぐには答えなかった。


女はさらに声を小さくした。


「もし薬を隠してたなら、食料だって持ってるかもしれないと思って」


「でも朝霧先生ですよ?」


「分かってます。主人が助けてもらったのも事実です。でも、昨日の代表たちだって、みんなのために食料を管理してるって言ってたんですよ」


その言葉に、男は黙った。


昨日、旧代表たちの部屋から食料が見つかったことは、このマンションのほぼ全員が知っている。そして今日、高橋の部屋からも食料が見つかった。


女は続けた。


「別に奪おうって言ってるんじゃありません。ただ、本当に何も持ってないのか確かめるだけです」


その言葉は、昨日からマンションの中で何度も使われていた。


確認するだけ。


最初は代表たちだった。


次は高橋だった。


そして、その言葉を口にする人間は、自分が間違ったことをしようとしているとは思っていなかった。


男はしばらく迷っていたが、やがて扉をもう少し開いた。


「……他にも声かけます?」


女はしばらく考えて小さく頷いた。


それから二人は、グループチャットには何も書き込まず、近くに住む顔見知りへ個別に声をかけていく。


高橋の部屋から食料が見つかったこと、代表たちも食料を隠していたこと。


そして朝霧も、以前「ない」と言っていた薬を自分の部屋から持ってきたこと。


最初は疑いすぎだと言う者もいた。


「朝霧先生は違うんじゃないか?」


「ずっと俺たち診てくれてた人だぞ」


そう言われるたびに、女は同じことを答えた。


「だから確認するんです。疑いが早く晴れた方が先生のためにもなります」


その言葉を聞くと、強く反対する者はいなくなった。


そして、話を聞いた住民の中には、昨日の代表たちの食料も、今日の高橋の食料も手に入れられなかった者がいた。


彼らにとって、朝霧の部屋に本当に何かがあるかもしれないという可能性は、簡単に無視できるものではなかった。


一人、また一人。


女の周りに人が増えていった。


誰も住民グループには書き込まなかった。


高橋の件を報告した住民が、その直後に「食料はどこへやった」と追及されたのを見たばかりだった。もし朝霧の部屋に何かあったとして、それを全員へ知らせればどうなるのかは想像できる。


そして何より、昨日代表たちから食料を手に入れた住民たちも、自分たちの部屋にそれを隠している。


今さら「食料を持っている人間の部屋を調べよう」などと全体へ呼びかければ、次に自分の玄関を叩かれるのが誰なのか分からない。


だから誰も書かなかった。


個人的に声をかけ、知っている者だけを誘う。


やがて女を含めた数人の住民が、朝霧の部屋がある階へ向かった。


その頃、朝霧は自分の部屋で一人、ベッドの端に腰掛けていた。


ここ数日、体調を崩した住民のところへ呼ばれることが増え、昨夜もまともに眠れていない。住民同士の争いも増え続けており、医師として診察すること以外にも、怪我人の手当てや相談を受ける時間が以前より長くなっていた。


ようやく少し休める。


そう思ってスマートフォンをテーブルへ置き、目を閉じた時だった。


コン、コン、コン。


玄関からノックの音が響いた。


朝霧はゆっくりと目を開ける。


また誰か、体調を崩したのだと思った。


「はい」


疲れた身体を起こし、玄関へ向かう。


扉の向こうにいる人間たちが、自分に診察を頼みに来たのではないことを、朝霧はまだ知らなかった。


────────────────


Day 60


電力 ▲

ガス △

水道 △

通信 ▲

降雪 弱


生存確認者 88人


【今日のメモ】


「差し出した手は、いつか掴まれる」


────────────────

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― 新着の感想 ―
アクセス解析見る限り読んでる人は結構おるみたいだよ!
因果オホー
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