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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第85話 Day 59 持つ者、持たざる者

昼過ぎになっても、旧代表たちの隠し食料を巡る騒ぎの余波は、マンションの中に残っていた。


旧代表たちの部屋から食料を持ち帰った住民はすでに自室へ戻り、荒れていた廊下にもほとんど人影はなくなっていたが、今度は住民グループの中で別の揉め事が始まっていた。


最初に書き込んだのは、昼間の騒ぎに出遅れ、ほとんど食料を手に入れられなかった住民だった。


『さっき代表たちの部屋から出てきた食料なんですけど、一度集め直して、みんなで分けませんか?』


しばらくして、別の住民もそれに続いた。


『私もその方がいいと思います。元々みんなから集めた食料ですよね?』

『うちは騒ぎを知った時には、もうほとんど残ってませんでした』

『病人がいて部屋を離れられなかった人もいます』


旧代表たちが隠していたのは、かつて住民全員から共同備蓄として集めた食料だった。


それなら改めて全員で分け直すべきだという主張には筋が通っていたが、昼間に多くの食料を手に入れた住民たちからすれば、一度自分の部屋まで持ち帰ったものを再び差し出す理由などなかった。


『なんで今さら集め直すんですか?』

『あの場にいた人たちで取り返したんですよ』

『俺だって危ない思いして代表の部屋まで行ったんだけど』

『危ないって、みんなで押しかけただけだろ』

『だったら自分も来ればよかったじゃん』


そこからグループ内の空気は少しずつ険しくなっていった。


『でも元々みんなの食料ですよね?』

『だからって、もう誰がどれを持っていったか分からないだろ』

『分かりますよ。かなり持って帰ってた人いましたから』

『誰?』

『7階の人、袋いっぱいに入れてましたよね』

『は? 人が何個持って帰ったか見てたのかよ』

『見てたとかじゃなくて、あれだけ持ってたら普通に分かるでしょ』

『下田さんも缶詰かなり持っていってたよ』

『お前ら、人の食料数えてんのか?』


その言葉を最後に、しばらく誰からも新しいメッセージは送られなかった。


昼間、住民たちは目の前にある食料を手に入れることだけに必死だったが、全員が周囲を見ていなかったわけではない。


誰が大きな袋を抱えていたのか、誰が何を取ったのか、誰がほとんど何も手に入れられなかったのか。その光景を覚えている者は確かにいた。


昨日まで、多くの住民は柴田たちから渡されるわずかな配給を頼りに生活しており、多少の個人備蓄に差はあっても、少なくとも表面上は同じように飢えていた。


しかし、今日の騒ぎを境にその状況は大きく変わっている。


同じマンションの中に、数日分の食料を新たに手に入れた者と、何も手に入れられなかった者が生まれていた。


そして、その差を住民たちはすでに見始めていた。


◇


その頃、柴田たちが使っている部屋では、柴田が昼間の出来事について三浦へ不満をぶつけていた。


「なあ、今日出てきた食料、結構あっただろ。なんでこっちで取らなかったんだよ」


三浦はテーブルの上に置かれた食料の在庫表から顔を上げた。


「剛、お前いま俺らにどれくらい食料が残ってるか分かってんのか?」


「まだかなりあるだろ」


「俺らだけで見ればな」


三浦はそう言うと、手元の在庫表を指先で軽く叩いた。


「まだ九十人以上いるんだぞ。あれを全員に毎日配るんだ。今の量まで減らしても、もうかなりきつい」


少し離れたところでスマートフォンを見ていた一ノ瀬が、そこで顔を上げた。


「だから理由つけて、配る量をさらに減らしてるでしょ?」


柴田は眉を寄せた。


「だったら余計に今日の分も取っときゃよかっただろ」


「それじゃ意味ねえんだよ」


三浦が答えると、柴田は怪訝そうな顔を向けた。


「配給を減らせば、当然あいつらの腹はもっと減る。腹が減ればイラつくし、こっちへの鬱憤も溜まる。連帯責任で黙らせることはできても、腹が膨れるわけじゃねえからな」


「だから?」


「今日、ちょうどいいのが出てきたろ」


剛は少し考えたあと、昼間殴られていた旧代表たちを思い出したように目を細めた。


「……あいつらか」


「ああ。俺らに向いてた怒りを、あいつらが全部引き受けてくれた。自分たちから食料を集めておいて、裏じゃ隠してたって分かりゃ、そりゃ腹も立つ」


「だから止めなかったのか」


「それだけじゃねえよ」


三浦は在庫表から視線を外すと、剛を見た。


「あの食料を俺らが取れば、こっちの備蓄が少し増えるだけだ。でも住民に持たせりゃ、少しは腹の足しになる。こっちの備蓄を減らさずに済むし、そのうえ溜まってた鬱憤まで代表どもに吐き出してくれる。最高じゃねぇか」


柴田はしばらく黙っていたが、やがて昼間の最後に住民同士で食料を奪い合っていた光景を思い出したのか、小さく鼻を鳴らした。


「しかも最後は、あいつら同士で揉めてたしな」


「そういうことだ。誰が多く取っただの、自分の分が少ないだのって、もう始まってる」


三浦はそう言いながらタバコに火をつけて話を続ける。


「こっちの備蓄は減らさず、少しは腹も膨れる。怒りの矛先まで勝手に変わってくれるんだから、止める理由なんてねえよ」


柴田は少し考え、呆れたように三浦を見た。


「相変わらず性格悪いな、お前」


「褒め言葉として受け取っとくよ」


三浦はそう答えると、再び在庫表へ視線を落とした。


テーブルの上に書かれた数字だけを見れば、食料はまだ残っている。倉庫にも箱は積まれており、今日明日に尽きるような量ではない。


しかし、それを九十人以上へ毎日配り続けるとなれば話はまるで違った。


一ノ瀬が配給量を減らしているのは、住民への罰だけが理由ではない。


このマンションに残された食料そのものが、すでに終わりの見える量まで減り始めていた。


◇


夕方になる頃には、昼間に多くの食料を持ち帰った住民のもとへ、個人的に連絡を取る者まで現れ始めていた。


7階に住む男のスマートフォンにも、これまでほとんど話したことのない住民からメッセージが届いていた。


『すみません。今日の食料、少し分けてもらえませんか?』


男はしばらく画面を見たあと、短く返信した。


『無理です』


数分後、また返事が来た。


『缶詰一つだけでもいいんです。うちはほとんど取れなかったので』

『こっちも家族がいるので余裕ありません』


それでやり取りは終わったが、一時間もしないうちに、今度は別の住民から似たようなメッセージが届いた。


『今日かなり食料持って帰ってましたよね? 少し交換できませんか?』


男はその文章を見た瞬間、眉を寄せた。食料を分けてほしいという内容よりも、「かなり持って帰っていた」という部分が気になった。


昼間、誰が自分を見ていたのかなど覚えていない。食料を抱えて部屋へ戻る途中では何人もの住民とすれ違ったし、旧代表の部屋にはさらに多くの人間が集まっていた。


男は返事をせず、スマートフォンを伏せた。


部屋の隅には、昼間持ち帰った食料が置かれていた。あの時は一つでも多く確保しようと夢中で袋へ詰め込んだが、こうして改めて見ると、確かに今の配給量と比べればかなりの量だった。


これだけあれば、家族だけならしばらく持つ。


だが、それを他の住民たちも知っている。


その事実が、男には食料そのものよりも気になり始めていた。


夜になり、男が妻とわずかな食事を取っていると、不意に玄関からノックの音が響いた。


コン、コン、コン。


二人が同時に顔を上げた。


男はすぐには立ち上がらず、玄関を見つめたまま声を出した。


「……誰ですか?」


返事はなかった。


少し待ってから男は玄関へ近づき、できるだけ音を立てないようにドアスコープを覗いたが、廊下には誰も立っていなかった。


「誰だったの?」


妻が尋ねる。


「分からない。誰もいない」


男は念のため鍵が掛かっていることを確認してからテーブルへ戻ったが、夕方に届いた二件のメッセージが頭から離れなかった。誰かが部屋を間違えただけかもしれない。それでも、今の状況ではそう簡単に考えることができなかった。


それから十分ほど経った頃、再び玄関から音が響いた。


コン、コン、コン。


今度は先ほどよりも少し強かった。


妻が不安そうに玄関を見る。


「また……?」


男は返事をせず、その場から動かなかった。


「私、見てくる?」


妻が立ち上がろうとした瞬間、男はすぐに止めた。


「開けるな」


「でも、誰か困ってるのかもしれないし……」


「絶対にドア開けるなよ。今は住民だって柴田たちと何も変わらない。田中夫婦のこともあっただろ」


妻はその言葉を聞くと、何も言わずに座り直した。


ほんの少し前までなら、同じマンションに住んでいる人間が訪ねてくれば、少なくとも相手を確認し、顔見知りなら扉を開けていただろう。しかし今は、玄関の向こうにいるのが誰なのか分からないというだけで、鍵を開ける気にはなれなかった。


男自身、昼間の光景を見ている。大勢で旧代表の部屋へ押しかけ、相手が拒否しているにもかかわらず中へ入り、食料を探し出し、最後には殴って奪った。その時は食料を隠していた旧代表たちが悪いと思っていたし、今でもその考えは変わっていない。


しかし、自分が食料を持つ側になった途端、同じことをされる可能性が頭に浮かぶようになっていた。


しばらく待っても、それ以上ノックされることはなかった。


男はようやく玄関から視線を外すと、部屋の隅に置いてある食料へ目を向けた。昼間までは、なんとか取り戻した食料だと思っていたものが、今では持っていることを知られてはいけないものに変わっていた。


男は立ち上がって段ボール箱を持ち上げると、部屋の奥へ運び、見えない場所へ押し込んだ。


「そこに置くの?」


「ああ。見えない方がいい」


「でも、みんなもう知ってるんじゃ……」


男の手が一瞬止まった。


「……それでもだ」


箱の上から別の荷物を置き、完全に見えなくする。


同じ夜、似たようなことをしているのはこの部屋だけではなかった。昼間に多くの食料を手に入れた住民たちは、それまで置いていた場所から食料を移し、収納の奥やベッドの下、クローゼットの中へ隠し始めていた。誰かに部屋を訪ねられても簡単には扉を開けず、廊下で人とすれ違えば、その相手が自分の部屋を見ていなかったかまで気にするようになっている。


昼間、食料を隠していた旧代表たちを取り囲み、「全部出せ」と怒鳴っていた住民たちが、その日の夜には自分たちの食料を隠していた。


理由は違う。


それでも、やっていることは同じだった。


◇


深夜、蓮はリビングのソファに座り、壁に並べた監視モニターを眺めていた。


画面に映っているのは、いつもと変わらないマンションの廊下だった。ほとんど人影はなく、時折誰かが部屋から出てきても、周囲を気にするように左右を確認してから足早に歩いていく。


別の画面には、昼間旧代表たちが襲われた階が映っていた。廊下には潰れた段ボール箱や散らばったゴミが残り、そこで何が起きたのかを物語っている。


住民同士の監視と告げ口、連帯責任による抑圧、旧代表への集団暴行、食料を巡る奪い合い、そして新たに生まれた住民同士の格差。そこへ、マンションに残された食料そのものの減少まで重なり始めている。


蓮はしばらく無言でモニターを眺めていたが、やがて小さく呟いた。


「……このままじゃ、このマンションは終わるな」


住民が何人死のうと、それだけなら蓮にとって大きな問題ではなかった。しかし、このまま住民同士の争いが制御できないところまで広がれば、話は別だった。


「台無しだな」


蓮は画面をいくつか切り替えていき、その途中で指を止めた。


モニターの中に映っていたのは、三浦だった。


蓮は背もたれに身体を預けたまま、しばらく画面の中の男を見つめていた。


「……やっぱ、あの男か」


────────────────


Day 59


電力 ▲

ガス △

水道 △

通信 ▲

降雪 弱


生存確認者 91人


【今日のメモ】


「奪ったものは、今度は奪われる理由になる。」


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三浦が厄介
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