↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
86/162

第84話 Day 59 非常用

翌朝、マンションの一室では、以前住民代表を務めていた男が、何度もトイレへ向かう妻の背中を不安そうに見つめていた。


妻が体調を崩したのは昨夜からだった。


最初は腹の調子が悪い程度だったものの、夜中になってから何度も便所へ立つようになり、朝になっても治まる気配はない。水洗設備はとうにまともに使えなくなっているため、便器に被せた処理袋を交換する回数ばかりが増え、ほとんど何も食べていないにもかかわらず、妻の顔色は時間が経つにつれて明らかに悪くなっていた。


「大丈夫か?」


「……うん」


そう答えながらも声にはほとんど力がなく、男がコップに水を入れて渡しても、妻は少し口をつけただけですぐにテーブルへ戻した。


4階の吉岡が病気で亡くなったことは男も知っていた。数日前から体調を崩し、そのまま急激に衰弱して死んだと聞いている。以前なら下痢程度でここまで心配することはなかったかもしれないが、まともな食事も取れず、室温も低く、病院へ行くことさえできない今では、どんな症状が命に関わるのか分からなかった。


男はしばらく迷った末、スマートフォンを手に取ると、一ノ瀬との個人チャットを開いた。


『すみません。下痢止めか胃腸薬って、まだ残ってませんか?』


しばらくして既読がついた。


『ないです』


男はすぐに返信した。


『本当に少しもないですか? 妻が昨日からずっと下痢をしていて』

『そういう薬はもう残ってないです』


それだけだった。


救援物資として運び込まれた薬の中には風邪薬や解熱鎮痛薬、胃腸薬なども含まれていたものの、寒波が始まってからすでに二か月近くが経っている。体調を崩す住民が増え続ける中で消費され、必要な薬がいつまでも残っているはずもなかった。


男は他に薬を持っていそうな住民を何人か思い浮かべたが、誰が何を持っているのかまでは分からなかった。その時、再びトイレの扉が開き、妻が壁へ手をつきながらゆっくりと出てきた。


「おい、大丈夫か?」


「ちょっと……ふらふらする」


男は慌てて立ち上がり、妻の身体を支えながらベッドまで連れていった。横になった妻の顔を見ていると、昨日一人が病気で死んだという事実がどうしても頭から離れず、このまま様子を見ているだけでいいのかという不安が次第に大きくなっていった。


しばらく迷った末、男は住民グループを開いた。


『誰か下痢止めか胃腸薬を持っていませんか?』


送信すると、すぐに既読が増えていった。


『妻が体調を崩しています。もし余っている方がいたら、食料と交換してもらえませんか』


数秒後、一件の返信が届いた。


『……食料?』


男の指が止まり、続けて別の住民からもメッセージが送られてきた。


『まだ食料持ってるんですか?』

『少しだけです』

『少しってどれくらい?』

『代表だった人たちも、今は俺たちと同じ配給量なんですよね?』


嫌な汗が背中を流れるのを感じながら、男は画面を見つめた。


『そうです。皆さんと同じ量です』


今度は少し間があり、そのあとすぐに新しいメッセージが送られてきた。


『じゃあ、なんで交換に出せる食料がまだあるんですか?』


男は慌てて文字を打った。


『以前から自分たちで持っていた分です』

『どれくらい?』

『そんなにありません』

『だったら見せられますよね?』


男の指が止まったが、それでもメッセージは次々と流れ始めた。


『そうだよ。見せれば済む話じゃん』

『前に俺たちの部屋を調べた時はそうしたよな?』

『あの時、食料隠してないかって部屋の中まで見ただろ』

『俺の家も見られた』

『何もないなら確認させてもらっても問題ないですよね?』


男はそこで立ち上がった。


「どうしたの……?」


ベッドで横になっている妻から弱々しい声が届く。


「いや……何でもない」


そう答えながら部屋の中を見回した男の視線は、やがてベッドへと向いた。その下には、寒波が始まってから一度も住民たちへ見せていない食料が残っていた。


まだ柴田たちがこのマンションへ来る前、代表たちは各部屋から回収した共同備蓄の一部を、自分たちの家へ持ち帰っていた。当時の基準でおよそ一週間分。それから日数は経っており、この家でもすでに一部には手をつけていたものの、今の極端に減らされた配給量しか受け取っていない住民たちから見れば、十分すぎるほどの量が残っている。


男は慌ててベッドの下へしゃがみ込んだ。


その時、玄関からノックの音が響いた。


コン、コン、コン。


男の動きが止まり、少し間を置いてもう一度、同じ音が響いた。


コン、コン、コン。


「……誰ですか?」


「同じ階の者です」


一人ではなかった。扉の向こうから複数の声が聞こえてくる。


「さっきの話、確認させてもらっていいですか?」


男はすぐには返事をせず、再びベッドの下へ手を伸ばしたものの、今さらこれだけの食料を隠せる場所などなかった。


「何してるんですか?」


「今開けます!」


男は慌てて立ち上がり、玄関へ向かった。


扉を開けると、そこには同じ階の住民が五人ほど立っており、その後ろからもグループチャットを見たらしい住民が階段を上がってきていた。


「確認するだけです」


「いや、本当に少ししかありませんから」


「だったら見せてくださいよ」


「妻が体調を崩してるんです。今はちょっと――」


「俺たちの部屋を調べた時、そんなこと気にしました?」


男は言葉を失った。


住民の一人がそのまま室内へ入り、男が止めようとする間もなく、さらに二人が続いた。棚や収納、キッチン周辺を確認していくうちに、数分も経たないうちに一人の男がベッドの前でしゃがみ込んだ。


「……おい」


その声で全員が振り返る。


男がベッドの下から段ボール箱を引き出すと、中には缶詰やレトルト食品、保存食が詰められていた。


誰もすぐには声を出さなかった。箱の中を覗き込んでいた男が、やがてゆっくりと旧代表を見る。


「……何だよ、これ」


「いや、それは……」


「少し?」


別の住民が箱の中から缶詰を一つ取り出した。


「これが少しなのか?」


「これは非常用に残していたもので――」


「非常用?」


男の声が低くなり、次の瞬間、怒鳴り声が室内へ響いた。


「今が非常事態だろうが! 俺たち、毎日あれだけしか食ってねえんだぞ!」


「違う! これは管理する側として、何かあった時のために――」


「何が管理する側だよ! 今は代表でも何でもねえだろ!」


「俺たちの部屋から食料集めたよな!?」


「その時に抜いてたのか!?」


「違う、そういうわけじゃ――」


旧代表が言い終える前に胸倉を掴まれ、そのまま背中を壁へ叩きつけられた。


「じゃあどういうわけだよ!」


ベッドでは妻が身体を起こし、「やめてください!」と声を上げたが、住民たちの視線は床に置かれた食料と旧代表だけに向けられていた。


その時、誰かが低い声で呟いた。


「……他の代表は?」


室内が静かになった。


「え?」


「こいつだけなのか?」


誰かがスマートフォンを取り出した。


「他の代表も同じことしてるんじゃないか?」


その一言で、住民たちの空気が一気に変わった。


◇


情報が住民グループへ流れるまで、ほとんど時間はかからなかった。


『食料見つかった』


写真と一緒に投稿されたのは、旧代表の部屋から見つかった段ボール箱だった。


『これ、前に俺たちから集めたやつじゃないの?』

『他の代表の部屋も確認した方がいい』

『全員だ』


それまで互いの言葉を警戒し、余計なことを言わないようにしていた住民たちは、その写真を見た途端、一斉に部屋を出始めた。


昨日までなら、誰かが先頭に立つのを待っていたかもしれない。余計なことをすれば同じ階の住民まで連帯責任を負わされる以上、自分から動こうとする者はほとんどいなくなっていた。


しかし今回は違った。


自分たちが少ない配給で飢えている間、かつて食料を管理していた代表たちは、自分たちから集めた食料を隠していた。その事実は、住民たちの中に溜まっていた恐怖よりも強い怒りを引き出すには十分だった。


住民たちは手分けするように残っている旧代表たちの部屋へ向かい、扉を開けるよう要求した。拒否されればすぐに声を荒らげ、「何もないなら見せられるだろ」「俺たちの部屋には勝手に入ったよな」「同じことしてるだけだ」と詰め寄った。


最初の一軒で食料が見つかり、二軒目でも見つかった。


それだけで、残る代表たちの言葉を信じる者はいなくなった。


結局、残る旧代表たちの部屋からも食料は見つかった。


残っている量はそれぞれ違っていた。ほとんど手をつけずに残していた家もあれば、すでにかなり消費している家もある。柴田たちがマンションを支配してからも旧代表たちは住民管理や配給に協力していたが、それぞれが自室へ持ち帰っていた食料まで同じように管理されていたわけではなく、残量には大きな差が出ていた。


それでも、どの家にも今の住民たちから見れば無視できない量の食料が残されていた。


一軒だけではなかった。


全員だった。


その事実が広がった瞬間、それまで抑え込まれていた住民たちの怒りは完全に爆発した。


「ふざけんな!」


「俺たちが腹減らしてる間、ずっと隠してたのか!」


「子供に一日一食しか食わせられなかったんだぞ!」


「返せよ!」


「全部返せ!」


旧代表の一人が必死に声を張り上げた。


「違う! これは管理要員用の非常備蓄として――」


「何が管理要員用の非常備蓄だ! 今、全員飢えてんだよ!」


男の身体が壁へ押しつけられ、そのまま拳が飛んだ。それをきっかけに別の住民も旧代表へ掴みかかり、「俺の家から持ってった食料だろ!」「俺たちには平等だって言ってたよな!」と、それまで溜まり続けていた怒りを一気にぶつけ始めた。


代表たちは殴られ、床へ倒され、身体を丸めながら頭を守った。殺そうとしている者はいなかったが、ここ数日、住民たちは配給を減らされても文句を言えず、誰かが不満を口にすれば自分たちまで連帯責任を負わされるため、互いに口を塞ぎ合うようになっていた。


怒りがなくなったわけではない。


吐き出す場所がなかっただけだった。


その目の前に、自分たちから食料を取り上げながら裏では大量に隠していた人間が現れた。


旧代表たちは、あまりにも都合のいい吐け口になった。


騒ぎを聞きつけ、しばらくして柴田たちもやってきた。


「おい!」


剛の声が廊下へ響くと、住民たちの動きが一瞬止まった。


剛は床に倒れている旧代表と、その周囲に散らばった食料を交互に見た。


「何やってんだ、お前ら」


旧代表の一人が顔を上げ、助けを求めるように声を張った。


「柴田さん! 助けてください! こいつら急に部屋に入ってきて――」


剛が住民たちへ向かおうとしたところで、後ろから三浦の声が飛んだ。


「剛、待て」


剛が振り返る。


「何だよ」


「ほっとけ」


「は?」


三浦は床に散らばった缶詰や保存食を見たあと、旧代表たちを取り囲む住民へ視線を移した。


「もう俺らにそいつらの協力はいらねえだろ」


「だからって、好きにさせんのか?」


「いいんだよ」


剛が眉を寄せる。


三浦は、旧代表たちへ罵声を浴びせている住民を眺めながら、淡々と続けた。


「あいつらも溜まってんだ。吐かせとけ」


剛は住民たちを見た。


つい昨日まで、配給が減らされてもまともに文句を言えなかった人間たちが、今は旧代表を取り囲み、怒鳴り、殴り、隠されていた食料を次々と引っ張り出している。


しばらくその光景を見たあと、剛は小さく鼻を鳴らした。


「……好きにしろ」


それを聞いた旧代表の顔から血の気が引いた。


「待ってください、柴田さん! 三浦さん! 俺たちは今までそっちに協力してきたじゃないですか!」


三浦が旧代表へ視線を戻す。


「だから何だ?」


「俺たちは配給も手伝ったし、住民たちの管理だって――」


「もういらねえって言ってんだよ」


旧代表は何も言えなくなった。


これまで自分たちは柴田たちの側にいると思っていた。住民を管理し、配給を手伝い、指示にも従ってきたのだから、少なくとも自分たちは守られる側だと考えていた。


その関係は、三浦の一言だけであっけなく終わった。


三浦はそれ以上旧代表を見ることもなく、住民たちへ顎をしゃくった。


「元々お前らの食料なんだろ。好きにしろ」


一瞬の沈黙のあと、誰かが床に落ちていた缶詰を拾い上げた。


それを見た別の住民も食料へ手を伸ばした。


最初は、自分たちから奪われた食料を取り戻しているだけだった。


しかし、誰がどれだけ持ち帰るのかを決める人間はいない。


「待て、それ俺が見つけたやつだ!」


「何言ってんだよ、みんなのだろ!」


「うちは四人家族なんだ! これくらいいいだろ!」


「こっちだって三人いる!」


「一人一個にしろよ!」


「誰が決めたんだよ!」


先ほどまで旧代表へ向いていた怒鳴り声が、今度は住民同士へ向き始めた。一人が缶詰を二つ抱えれば隣にいた男がその腕を掴み、別の場所では袋を巡って二人が引っ張り合いになった。


「取りすぎだろ!」


「離せよ!」


「俺たちの分もあるんだぞ!」


「早い者勝ちだろ!」


「ふざけんな!」


肩がぶつかり、一人が床へ倒れた。それでも食料を拾う手は止まらず、別の場所では自分の袋へ入れた缶詰を奪われまいと、胸に抱え込む住民まで現れた。


ほんの少し前まで、住民たちは同じ相手を囲み、同じ怒りをぶつけていた。それなのに目の前に食料が置かれた途端、そのまとまりはあっけなく崩れ、誰がどれだけ取るのかという話だけで互いに怒鳴り合い始めていた。


剛がその光景を見ながら顔をしかめた。


「おい、これ止めなくていいのか?」


三浦は動かなかった。


「ほっとけ」


「でもよ、あれ全部持ってかれるぞ」


「いいんだよ。元々あいつらの食料なんだろ」


「そうじゃなくて、このままじゃこいつら――」


三浦はそこで初めて剛を見た。


「だからいいんだよ」


剛が黙る。


三浦は再び、食料を奪い合う住民たちへ視線を戻した。


「腹がちょっと膨れた方が都合いい」


住民たちはもう柴田たちを見ていなかった。配給を減らされたことへの怒りも、六人が殺されたことへの恐怖も、その瞬間だけは頭から消え、目の前にある食料を誰がどれだけ取るのか、それだけに意識を奪われていた。


三浦は何も命令していない。代表を殴れとも、食料を奪えとも、住民同士で争えとも言っていなかった。


ただ、止めなかった。


住民たちの中に溜まっていた怒りは旧代表へ向かい、旧代表という共通の敵が倒れた途端、今度は食料を巡って隣にいる住民へ向かい始めた。


三浦は、それを黙って見ていた。


◇


しばらくして騒ぎが収まった頃には、旧代表たちの部屋に残されていた食料のほとんどがなくなっていた。


廊下には潰れた段ボール箱や空になった袋が散らばり、旧代表たちは壁際や部屋の中で身体を丸めていた。顔を腫らしている者もいれば口元から血を流している者もいたが、全員生きていた。


食料を手に入れた住民たちは、それぞれ自分の部屋へ戻っていった。しかし、誰がどれだけ持っていったのかなど誰も覚えていなかった。


昨日までなら、住民たちが気にしていたのは誰が自分の言葉を柴田たちへ売るのかということだった。


今日は、それにもう一つ加わった。


誰が、自分より多く食料を持っているのか。


代表たちが隠していた食料は住民の手へ戻った。それでも住民たちの間にあったものは、何一つ解決していなかった。


ただ、怒りの向きが変わっただけだった。


────────────────


Day 59


電力 ▲

ガス △

水道 △

通信 ▲

降雪 弱


生存確認者 91人


【今日のメモ】


「同じ敵がいる間だけ、人は仲間でいられる。」


────────────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
食糧ポッケナイナイしてたのがバレちゃったねぇ(ニチャァ)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。