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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第83話 Day 58 魔女狩り

午後になると、マンションの廊下は午前中よりもさらに静かになっていた。


配給はすでに終わっており、以前なら食料を受け取ったあとも、階段や廊下では自然と会話が生まれていた。


今日の配給は少なすぎる、雪はいつまで続くのか、次の電気はいつ来るのか。そんな話をしながら部屋へ戻る姿も珍しくなかったが、今日は誰も必要以上に口を開こうとしなかった。


午前中の配給で、一人の男が食料の少なさに声を上げた。その結果、三浦は次に同じことが起きれば、その本人だけではなく同じ階の住民全員の配給を減らすと宣言した。それからまだ数時間しか経っていないというのに、その言葉はすでにマンション全体へ重くのしかかっていた。


廊下の端では二人の男が小さな声で何かを話していたが、階段から別の住民が上がってくる姿が見えた途端、どちらからともなく会話を止めた。後から来た男も二人の前を通り過ぎる際に一度だけ視線を向けたものの、何も言わずにそのまま歩いていく。その姿が見えなくなってからも、二人が先ほどの会話を再開することはなかった。


同じマンションで暮らしているだけだった相手が、今は自分の言葉をどこかへ運ぶ人間かもしれない。誰かに告げ口されることを警戒する一方で、自分たちまで巻き込まれないよう、住民たちは周囲の言動にも目を光らせるようになっていた。


そう、誰もが連帯責任を恐れていた。


◇


午後二時を回った頃、柴田たちが拠点にしている部屋の扉が小さく叩かれた。


コン、コン。


三浦は手元のスマートフォンから顔を上げ、しばらく扉を見つめてから立ち上がった。外にいるのが一人だと確認してから警戒しながら扉を開けると、そこには一人の男が立っている。


「三浦さん、ちょっといいですか」


「何だ」


男はすぐには答えず、廊下の左右を確認した。誰もいないことを確かめてから、少し声を落とす。


「同じ階の人なんですけど……さっき、剛たちの悪口を言ってました」


「悪口?」


「はい。配給を減らしやがって、とか、ふざけんじゃねえ、とか……一応、伝えておいた方がいいと思って」


三浦は男の顔を数秒眺めていたが、やがて興味を失ったように視線を外した。


「くだらねえ。そんなことどうでもいい」


「……え?」


「それだけなら帰れ」


「あ、はい……」


男は期待していた反応と違ったのか、少し戸惑った表情を浮かべた。それでも何も言えず、三浦に頭を下げると、そのまま廊下を戻っていった。三浦はその背中を見送ることもなく扉を閉め、再び部屋の奥へ戻った。


◇


それから一時間ほど経った頃、再び扉が叩かれた。


コン、コン。


三浦が扉を開けると、今度は別の男が立っていた。


「三浦さん」


「……今度は何だ」


「さっき、ちょっと気になる話をしてた人がいて」


「どんな話だ」


「このまま言いなりになってたら駄目なんじゃないかって。それと、昨日の六人のことも……言ってることは間違ってなかったって」


三浦の目が僅かに細くなった。


「他には?」


「何人かで話してました。もう一度ちゃんと考えた方がいいんじゃないか、とか……人数を集めれば、まだ何とかなるんじゃないかって」


「誰だ」


男は少しだけ迷ったあと、数人の名前を口にした。三浦は途中で口を挟むこともなく最後まで聞き終えると、小さく頷いた。


「それはほっとけねえな」


「……はい」


三浦は何も言わず、一度部屋の中へ戻った。残された男が何をしているのか分からないまま廊下で待っていると、すぐに三浦が戻ってきた。その手には缶詰が一つ握られている。


「ほらよ」


突然放られた缶詰を、男は慌てて両手で受け取った。


「……え?」


「情報代だ」


男は手の中の缶詰を見つめた。午前中に受け取った配給よりも、それ一つの方が重く感じられた。今、このマンションで缶詰一つがどれほどの価値を持っているのか、知らない者はいない。


「ありがとうございます」


男が何度も頭を下げても、三浦はそれ以上何も言わなかった。用は済んだと言わんばかりに扉を閉めると、男はしばらくその場に立ったまま手の中の缶詰を見つめ、それから大事そうに服の中へしまった。


◇


男が自分の階へ戻るとき、廊下にいた住民の一人が、その手に握られている缶詰に気づいた。


「……それ、どうした?」


男の足が止まった。


「何が?」


「その缶詰。今日の配給にそんなの入ってなかっただろ」


男は一瞬だけ黙った。


「関係ないだろ」


「なにそれ?」


男は答えなかった。


だが、それで十分だった。今の状況で食料が増える手段なんて限られている。本人から直接聞いたわけじゃないが、自分の中では完全に納得していた。


◇


夕方になる頃には、柴田たちの拠点を訪れる者がもう一人現れた。


コン、コン。


「三浦さん、ちょっといいですか」


さらに少し経ってから、また別の住民が扉を叩いた。


「聞いておいた方がいいと思う話があるんですけど……」


三浦はそのたびに話を聞いた。くだらない内容なら追い返し、単なる悪口にも興味を示さなかったが、住民が集まろうとしている、柴田たちへの抵抗を話し合っている、物資を隠しているかもしれない。そんな情報だけは詳しく聞き、価値があると判断したものには僅かな食料を渡した。


三浦が自分から誰かを呼びつけることはなかった。それでも住民の方から扉を叩きに来た。


誰かに告げ口をすることに、食料という値段がついた。


◇


夕方、住民グループに珍しく三浦からメッセージが送られてきた。


『さっき、ある階で例の密会について何人かで話してたって聞いた』


すぐに既読が増えていくが、誰からも返信はない。


『前回の件が起きたばかりだ。今回は注意だけにしとく。ただし次はねえからな』


そして少し間を置いて、最後のメッセージが送られた。


『次同じような話が出たら、その階のやつら全員連帯責任だ。配給も減らす』


それだけだった。誰が三浦へ話したのか、誰の名前が伝わっているのか、どこまで聞かれているのか。何一つ書かれていなかったが、その階に住む者たちにはそれで十分だった。


数分後、三浦へ名前を伝えられた男のスマートフォンに、一件の個人メッセージが届いた。同じ階に住む住民からだった。


『悪いけど、もうやめてくれないか』


男は眉を寄せた。


『何が?』


返事はすぐに届いた。


『対抗とか、そういう話するの』


『別に何かするなんて言ってないだろ。このままでいいのかって話してただけだ』


『分かってる。でも三浦たちには伝わってるだろ』


男の指が止まった。


『次やったら俺たちの配給まで減らされるんだぞ。こっちにも家族がいるんだ。頼むから巻き込まないでくれ』


男はしばらく画面を見つめ、返事を打とうとしては指を止めた。その直後、再び通知が鳴った。今度は別の住民だった。


『もう余計なこと言わないでくれ』


さらに数分後には、三人目からも似たようなメッセージが届いた。


住民たちは、自分たちの食料を守るために、一人の口を塞ごうとしていた。


◇


日が暮れる少し前、体調を崩した住民の診察を終えた朝霧は、自分の部屋へ戻るために階段を下りていた。


ここ数日、朝霧のもとへ体調不良を訴える住民は増えている。食事の量が減っていることに加え、寒さと疲労、薬の不足も重なっており、今日も朝から何人かの部屋を訪れ、午後にも別の住民を診察していた。その帰り道、顔見知りの住民とすれ違っても、以前のように立ち止まって話しかけられることはほとんどなく、軽く会釈を交わすだけで、そのまますれ違っていく。


階段を下りている途中、下の踊り場から二人の住民が話す声が聞こえてきた。


「でも、さすがにこのままじゃ――」


朝霧が階段に姿を見せた瞬間、声が止まった。そこにいた二人が同時に朝霧を見る。


「あ……朝霧先生」


「こんにちは」


「……こんにちは」


二人はそれだけ言うと、先ほどまで何を話していたのかを隠すように、それぞれ別の方向へ歩いていった。朝霧は階段の途中で足を止め、離れていく二人の背中を見つめた。


自分は柴田たちの仲間ではない。それでも今は、自分にさえ話を聞かれることを警戒している。誰が誰と繋がっているのか分からない。誰が聞いた言葉をどこへ持っていくのかも分からない。そして今日、実際に情報を伝えた人間が食料を受け取っているかもしれないということは、すでに住民の間に広がっていた。


朝霧は何も言わず、再び階段を下り始めた。


自室へ戻ると、しばらくベッドに腰を下ろしていた。やがてスマートフォンを取り出し、神崎蓮とのチャットを開く。


『神崎さん』


しばらくして既読がついた。


『何だ』


朝霧は今日見てきた光景を思い返しながら、文字を打った。


『あなたの言った通りね』


『何がだ』


『住民同士が監視して、告げ口をしているわ』


少し間を置いて、蓮から返信が届いた。


『まるで魔女狩りだな』


『ええ。今日、告げ口をした人間に食料が渡されたらしいという話も広がってるわ』


朝霧はさらに続けた。


『これが、狙いだったのね』


『ああ。だから三浦が一番厄介だ』


朝霧はその言葉をしばらく見つめていた。暴力を振るうのは柴田だった。ハンマーを持って住民を脅すのも、実際に人を傷つけるのも柴田やその仲間たちだった。三浦自身が誰かを殴っているところを、朝霧はほとんど見たことがない。


それでも今、マンションの住民たちは三浦が作った一つのルールによって、互いの言葉に耳を澄ませ、互いの行動を警戒し始めている。しかも今日、その情報に食料という価値までついた。


朝霧は少し迷ってから、もう一度メッセージを送った。


『この先、どうなるの?』


少しして返事が届いた。


『住民が今のままじゃ、何も変わらないだろうな』


朝霧は画面を見つめ、やがてゆっくりと指を動かした。


『……そうですか』


既読はついた。しかし、それ以降、蓮から返事が届くことはなかった。朝霧も、それ以上何も送らなかった。


スマートフォンの画面を閉じると、部屋の外からは何の物音も聞こえてこなかった。怒鳴り声もなければ、争う音もなく、誰かが助けを求める声もない。柴田たちがマンション中を見張っているわけでもないのに、住民たちは自分の言葉が誰かに聞かれていないかを気にしながら、一日を過ごすようになっている。


誰かに疑われないために黙り、自分が巻き込まれないために他人を黙らせる。そして、自分を守るために誰かの言葉を売る。


三浦が自分の手で住民を縛る必要は、もうなかった。


────────────────


Day 58


電力 ▲

ガス △

水道 △

通信 ▲

降雪 弱


生存確認者 91人


【今日のメモ】


「疑われたくなければ、先に誰かを疑わせればいい。」


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