第82話 Day 58 鎖がなくとも
翌朝、住民グループチャットは昨日までとは別の場所になったかのように静まり返っていた。
昨夜、柴田たちへの対抗を話し合うために集まった六人が殺され、その直後には連帯責任として全員への食料供給をさらに減らすことまで宣告された。
あれほど怒りの言葉が飛び交っていたにもかかわらず、最後に『この中に裏切り者がいる』という一言が送られてからは、それまでの勢いが嘘だったかのように誰も発言しなくなっていた。
六人が集まる時間も部屋番号も、住民グループの中でしか共有されていない。それなのに柴田たちは、六人が集まった直後に正確な部屋へ押しかけてきた。
誰かが情報を流した。
それだけは、ほぼ間違いなかった。
しかし、それが誰なのかは分からない。
昨夜まで柴田たちを罵っていた者も、六人へ声援を送っていた者も、自分がこれまで書き込んだメッセージを見返しながら、今度はその内容が誰かに売られているのではないかと考えるようになっていた。普段からよく話していた相手でさえ、本当に信用していいのか分からない。住民グループだけではなく、個人同士のやり取りまで急激に減っていた。
朝になってから最初に送られたメッセージは、昨夜の事件とは直接関係のないものだった。
『今日、本当に配給減らされるのかな』
すぐに既読の数だけが増えていった。
十人、二十人、三十人と増えていくにもかかわらず、返事は一つもない。誰かが入力していることを示す表示が一度だけ現れたものの、しばらくするとそれも消えた。
数分後、ようやく一件だけ返信が届いた。
『……昨日のこともあるし、ここでは余計なこと書かない方がいいと思います』
それ以降、再びグループは静かになった。
誰が裏切り者なのか分からない以上、誰もが裏切り者になり得た。
◇
その日の午前中、朝霧は一人の住民に呼ばれて4階へ向かった。
部屋の中では四十代の男が布団の上に横たわっており、朝霧が到着した時にはすでに呼吸は止まっていた。男は数日前から調子悪く、昨日までは何とか水を飲むこともできていたというが、夜になってから急激に衰弱し、朝になって様子を見に来た同じ階の住民が声をかけても返事をしなかった。
朝霧は男のそばへしゃがみ込んで呼吸と脈を確認し、しばらく身体の状態を調べていたが、やがて静かに手を離した。
もうできることは何もなかった。
寒波が始まってから五十日以上が経ち、マンションの中では体調を崩す人間が明らかに増えていた。室温の低下だけではなく、長期間にわたる栄養不足や睡眠不足、衛生環境の悪化も重なり、以前なら数日休めば治っていたような症状でも長引くようになっている。朝霧のところへ相談に来る住民も日に日に増えていたが、診察することはできても、治療に使える薬は限られていた。
以前亡くなった老人に続き、これで病気による死者は二人目だった。
朝霧が部屋から出た頃には、廊下に数人の住民が集まっていた。
「……駄目だったんですか?」
朝霧が小さく頷くと、それ以上何かを尋ねる者はいなかった。以前なら誰かが亡くなれば同じ階だけでなく他の階からも人が集まり、住民グループでも長く話し合われていたが、昨夜だけで六人が死亡した今、一人の病死に大きく反応する者はほとんどいなかった。
住民たちはしばらく男の部屋を見つめたあと、一人、また一人と自分の部屋へ戻っていった。
朝霧だけがその場に残り、閉じられた扉をしばらく見つめていた。
◇
昼前になると、予定通り配給が始まった。
昨日の宣告が本当に実行されるのか確かめるように住民たちが集まってきたものの、列に並ぶ人はほとんど言葉を交わさず、以前ならあちこちから聞こえていた小さな会話さえ今日はほとんど聞こえなかった。
そんな中、今日は一ノ瀬も配給現場へ来ていた。
やがて自分の順番が来た住民の一人が、一ノ瀬から渡された袋の中を確認すると、思わず声を漏らした。
「……これだけ、ですか?」
昨日までより明らかに少なかった。
一ノ瀬は男の顔を見ると、特に表情を変えることもなく答えた。
「昨日言いましたよね。連帯責任って」
「いや、でも……」
男は何かを言いかけたものの、その視線が一ノ瀬の後ろへ向いた。
そこには金属バットを持った柴田が立っており、その周囲には昨日六人の部屋へ押しかけた男たちの姿もある。さらに少し離れたところには三浦が立ち、配給を受け取る住民たちの様子を黙って眺めていた。
男は袋の中へもう一度視線を落としたあと、それ以上何も言わなかった。
「……分かりました」
そのまま列から離れていく。
次の住民も、その次の住民も、渡された食料の少なさに表情を曇らせはしたものの、誰も声を上げなかった。
しばらくして、昨日の住民グループで六人を何度も称賛していた男の順番が回ってきた。
一ノ瀬はいつも通り袋を渡そうとしたが、男が受け取ろうと手を伸ばしたところで、不意にその手を止めた。
「昨日、ずいぶん盛り上がってましたね」
男の手が止まった。
「……え?」
「グループですよ。『こういう人たちが必要だ』って言ってたんでしょ?」
男の表情が目に見えて強張った。
「いや、あれは……別に柴田さんたちに逆らえって意味で言ったわけじゃなくて……」
「そうなんですか?」
「はい。俺はただ、みんながまとまるのはいいことだと思っただけで……」
一ノ瀬は数秒だけ男を見つめたあと、何事もなかったように袋を差し出した。
「ならいいです」
男は慌ててそれを受け取った。
「……ありがとうございます」
昨日まで柴田たちへ立ち向かおうとする六人を称えていた男は、一ノ瀬へ小さく頭を下げると、そのまま足早に列を離れていった。
それを見ていた住民たちから声が上がることはなかった。
配給はそのまま続いたが、列の中ほどまで進んだところで、小さな子供を連れた男が渡された袋を見て動かなかった。
「……待ってくれ」
一ノ瀬が次の住民へ視線を向けようとしていたが、男はその場を離れなかった。
「もう少しだけ増やしてくれないか。これじゃ足りない」
「皆さん同じ量です」
「分かってる。でも、うちは子供がいるんだ。これを食わせたら俺と妻の分がほとんど残らない」
「それは私に言われても困ります」
「昨日の六人とは関係ないだろ。俺たちは何もしてない」
一ノ瀬の表情から笑みが消えた。
周囲にいた住民たちも男へ視線を向けたが、誰も口を挟まなかった。
「連帯責任だって言いましたよね」
「だから、なんで俺たちまで責任取らされるんだよ!」
男の声が大きくなった瞬間、後ろにいた柴田が顔を上げた。
「お前、何だ?」
その声を聞いた男の表情が強張った。
柴田は持っていた金属バットを肩へ乗せると、ゆっくりと男へ近づいていく。
「剛」
三浦の声だった。
柴田が足を止める。
「いい」
「こいつ文句言ってんぞ」
「聞こえてる」
三浦はそれだけ言うと、男へ視線を向けた。
「今回は許す」
男は黙ったまま三浦を見た。
「ただ、次があったら、あんたと同じ階に住んでるやつらの配給も減らすからな」
「……は?」
「あんた一人の問題じゃねえってことだ」
男が何か言い返そうと口を開いたが、その前に列の後ろから声が飛んだ。
「もういいだろ」
男が振り返る。
同じ階に住む住民だった。
「やめろよ。これ以上減らされたら本当に困るんだよ」
「いや、俺は子供の分を――」
「子供がなんだって言うんだ!子供がいるのはお前だけじゃないだろ」
別の住民も口を挟んだ。
「みんな足りないんだよ。余計なこと言ってまた減らされたらどうするんだ」
「俺は少し増やしてくれって言っただけだろ!」
「だから、それで俺たちまで減らされるんだろ!」
三浦は何も言わなかった。
柴田も男へ近づくことはなく、一ノ瀬も黙ったままその光景を眺めていた。
男は自分を責める住民たちを見回したものの、味方する者は一人もいなかった。やがて唇を噛むようにして俯くと、渡された袋を握ったまま列から離れていった。
配給は何事もなかったように再開された。
◇
その日の午後、朝霧は自室へ戻るとスマートフォンを手に取った。
少し迷ったあと、神崎蓮とのチャットを開く。
『神崎さん、今日また一人亡くなったわ』
返事はすぐに届いた。
『誰だ』
『4階の吉岡さん。四十六歳。数日前から体調を崩して、今朝呼ばれた時にはもう亡くなってたわ』
『そうか』
朝霧は少し間を置いてから、もう一通送った。
『最近マンションの中で体調を崩してる人がかなり増えてる。私が把握してるだけでも十人近くいるわ。発熱や咳、下痢、強い倦怠感……症状はいろいろだけど、この寒さと食事が足りていないこと、それにやっぱり薬が足りないのが大きいと思う。』
送信したあと、朝霧はしばらくスマートフォンを見つめていた。
蓮から返事は来なかった。
朝霧もそれ以上何かを送るつもりはなかったが、画面を閉じることができず、しばらく迷った末にもう一度指を動かした。
『神崎さん。もう少しだけ、薬を分けてもらうことはできない?』
今度の返事は早かった。
『無理だ。一回きりと言ったろ』
朝霧は短い文字をしばらく見つめていた。
『……分かったわ』
それ以上頼むことはしなかった。
少し時間を置いてから、朝霧は今日の配給で起きた出来事も伝えた。
『それと、今日の配給で少し揉めたわ。食料が減らされて、一人が耐えきれずに文句を言ったの。柴田が手を出しそうになったけど、三浦が止めた』
少しして返事が届く。
『三浦が?』
『ええ。暴力はやめさせたわ。ただ、次に同じことをしたら、その人と同じ階の配給を減らすって』
朝霧は昼間の光景を思い出しながら、もう一通送った。
『柴田さんを止めたから、少しは話が分かる人なのかもしれない』
返事が来るまで、少しだけ間があった。
『逆だ』
朝霧は眉を寄せた。
『え?』
『殴るより、その方が効く』
『どういうこと?』
今度はすぐに返事が届いた。
『次に誰かが文句を言おうとしたら、誰が止める?』
朝霧の指が止まった。
配給所で男を責めていた住民たちの姿が頭に浮かんだ。柴田も三浦も何も言っていないのに、「余計なことを言うな」「また減らされたらどうする」と男を責めていたのは、同じマンションで暮らしている住民たちだった。
『……住民たち』
『そういうことだ。』
続けてもう一通。
『住民自身に監視させてる』
朝霧はその言葉を見つめたまま、しばらく返信することができなかった。
◇
夕方、住民グループに一つのメッセージが流れた。
『4階の吉岡さん、亡くなったそうです』
以前ならすぐに何があったのかを尋ねる言葉や、朝霧に診てもらえなかったのかという質問が続いていたかもしれない。
しかし、この日送られてきたのは数件の短い言葉だけだった。
『そうですか』
『残念です』
『最近ほんとに亡くなる人増えたな……』
それだけで会話は途切れた。
しばらくして、別の住民が書き込んだ。
『今日の配給、さすがに少なすぎない?』
数秒後。
『そういうこと書くの、やめませんか』
さらに別の住民が続いた。
『また連帯責任になったら困ります』
『でも、この量じゃ本当に――』
そこまで書き込まれたところで会話は止まり、それ以上続ける者はいなかった。
柴田も、一ノ瀬も、三浦も、そのグループには何一つ書き込んでいなかった。
それでも住民たちは、自分たちで不満を抑え始めていた。
昨夜まで柴田たちへの怒りで埋め尽くされていたグループには、もう誰も彼らを罵る言葉を書かなかった。
誰が見ているのか分からない。
誰が売るのか分からない。
そして、自分一人の言葉で、同じ階の人間まで食料を減らされるかもしれない。
その夜、マンションはいつも以上に静かだった。
誰もが自分の部屋の中で、残された食料を数えていた。
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Day 58
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
生存確認者 91人
【今日のメモ】
「鎖がなくても、人は互いを縛れる。」
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