第80話 Day 56 追う者
14階では朝から、同じ階に住む宮本和也のことが話題になっていた。
きっかけは、松本奈緒が昨夜の出来事を同じ階の住民に相談したことだった。配給へ行くと宮本がいつも後ろをついてくること、最近は食料を持って何度も部屋までやって来ること、昨夜も玄関の前に立ち、メッセージを送ってきたことを話すと、それを聞いていた一人の女性が表情を曇らせた。
「それって……ストーカーじゃない?」
奈緒はその言葉に戸惑ったように視線を落とした。
「やっぱり、そうなのかな……。前からちょっと怖いとは思ってたんだけど、同じ階だし、たまたま帰る時間が一緒なのかなって思うこともあって……」
「絶対そうだよ。だって何回も部屋まで来てるんでしょ?」
「うん……。いらないって言ってるんだけど」
「しかも今こんな状態だよ? 警察だって来ないし、あの人がその気になったら何するか分かんないよ」
その言葉を聞いた奈緒の表情から、さらに血の気が引いた。
「……どうしよう」
話を聞いていた別の男が腕を組んだまましばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「柴田たちが相手なら俺たちだけじゃどうにもならない。でも、同じ階の住民トラブルくらい、自分たちで何とかするべきだろ」
「何とかするって、どうするんだ?」
「いきなり宮本を問い詰める必要はない。まず本当につきまとってるのか、俺たちで確認すればいい」
その提案に、一人暮らしのもう一人の男も頷き、カップルで暮らしている男性も「それなら俺も協力する」と加わった。
14階には全部で七戸の部屋があるものの、現在も人が暮らしているのは五戸だけだった。奈緒と宮本はいずれも一人暮らしで、それとは別に男性の一人暮らしが二戸、残る一戸には男女のカップルが暮らしている。
「やめときなよ。余計なトラブルになったらどうするの?」
カップルの女性が心配そうに彼氏を止めたが、男は首を横に振った。
「だから確認するだけだって。何かされてからじゃ遅いだろ」
普段使っている住民グループには宮本本人もいるため、そこでこの話をするわけにはいかなかった。そこで彼らは宮本だけを除いた14階の小さなグループチャットを作り、まずは今日の配給時に宮本の行動を確認することにした。
柴田たちに食料を奪われた時には誰一人として先頭に立とうとしなかった住民たちだったが、相手が自分たちでもどうにかなりそうな一人の男となれば、その行動は驚くほど早かった。
◇
昼前になるといつものように配給が始まり、自衛団の男たちは事前に話していた通り、宮本には何も言わず、それぞれ少し離れた場所から様子を見ることにした。噂だけで相手を決めつけるつもりはなく、少なくとも自分たちの目で確認してから判断するべきだと、三人はそう考えていた。
やがて奈緒が配給を受け取り、袋を抱えてその場を離れた。少し離れた場所にいた宮本も奈緒の姿を目で追い、少し遅れてその場を離れる。
奈緒が階段へ向かうと宮本も同じ階段へ向かい、そのまま一定の距離を空けながら後ろを歩いていった。奈緒が途中で一度立ち止まると宮本も足を緩め、再び歩き始めると、宮本も少し遅れてその後を追う。
離れた場所からその様子を見ていた男が、すぐにスマートフォンを取り出した。
『やっぱりついて行ってる』
『あぁ、そうだな』
『間違いないな』
三人はその後もしばらく宮本の様子を見ていたが、奈緒が14階へ戻るまで、宮本は一定の距離を保ったまま後ろを歩き続けていた。
それでも、この時は誰も宮本を止めようとはしなかった。宮本は奈緒へ話しかけることも身体に触れることもなく、そのまま同じ階まで上がっただけだったため、男たちはもう少し様子を見ることにした。
◇
夜になると、奈緒は部屋の中にいながら何度も玄関へ視線を向けていた。昨日のことが頭から離れず、昼間にも宮本が自分の後ろを歩いていたため、廊下で少し物音がするだけでも身体が強張り、そのたびに耳を澄ませるようになっていた。
そして、その不安は間もなく現実になった。
コン、コン。
玄関から聞こえたノックに奈緒の肩が大きく跳ね、その直後、手元に置いていたスマートフォンが震えた。
『奈緒さん、食べ物持ってきたよ。』
『いりません。もう来ないでください。』
『でもちゃんと食べないと、また痩せるよ。』
『帰ってください。』
『食べ物だけ置いてくから。』
奈緒はそれ以上返信しなかった。「また痩せる」という言葉が頭から離れず、自分がどれだけ痩せたのか、この男は毎日のように自分を見ているのだと思うと、昨日まで感じていた気味の悪さは明確な恐怖へ変わっていった。
しばらく玄関の向こうが静かになったため、もう帰ったのかもしれないと思ったものの、ドアスコープを確認する勇気までは出なかった。奈緒はスマートフォンを握ったまま耳を澄ませ、男の足音が遠ざかるのを待っていたが、一分ほど経った頃、再びスマートフォンが震えた。
『奈緒さん、大丈夫?』
奈緒は返信しなかった。
奈緒はそれ以上返信しなかった。「また痩せる」という言葉が頭から離れず、自分がどれだけ痩せたのか、この男は毎日のように見ているのだと思うと、昨日まで感じていた気味の悪さは明確な恐怖へ変わっていった。
しばらく玄関の向こうは静かだったが、一分ほど経った頃、再びスマートフォンが震えた。
『奈緒さん、大丈夫?』
奈緒は画面を見つめたまま返信せず、息を潜めるようにして玄関の様子を窺っていた。
コン、コン。
「奈緒さん?」
返事をしないでいると、再び宮本の声が聞こえた。
「奈緒さん?」
奈緒は答えなかった。
すると、それまで静かだった扉が突然大きく鳴った。
ドンドン!
「奈緒さん!? 大丈夫ですか!」
奈緒は驚いて玄関から後ずさり、咄嗟に口元を押さえた。静まり返った部屋の中では自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえ、扉が再び叩かれるのではないかと思うと、その場から目を離すことさえできなかった。
その瞬間、朝に聞いた言葉が頭をよぎった。
――しかも今こんな状態だよ? あの人がその気になったら何するか分かんないよ。
奈緒は震える指でスマートフォンを操作し、今日作られたばかりの自衛団のグループチャットを開いた。
『来てる』
『あいつ?』
『うん』
再び扉が強く叩かれた。
「奈緒さん! 返事してください!」
『助けて』
送信した奈緒はスマートフォンを握り締めたまま画面を見つめ、誰かが気づいてくれることを祈るように返信を待った。数秒もしないうちに既読がつき、立て続けにメッセージが返ってきた。
『今行く』
『待ってろ』
その直後、玄関の扉が再び大きく鳴った。
ドンドン!
「奈緒さん! 返事してください!」
『助けて助けて助けて』
奈緒は最後のメッセージを送ると、スマートフォンを両手で握り締めたまま玄関からできるだけ離れた。
◇
「おい!」
突然廊下に響いた怒鳴り声に、宮本は驚いて振り返った。
廊下の向こうから三人の男がこちらへ走ってきた。その手にはそれぞれ金属バットやハンマー、どこから持ち出してきたのか太い木の棒まで握られており、何が起きているのか分からない宮本は、食料の入った袋を片手に持ったままその場に立ち尽くした。
「何やってんだお前!」
「……え?」
「その人から離れろ!」
「いや、俺は――」
「夜中に女の部屋の前で何してんだよ!」
男たちは足を止めることなく近づいてきた。部屋の中にいた奈緒も廊下から聞こえてきた声に気づき、しばらくしてから玄関へ近づくと、ドアスコープ越しに自衛団の三人が来ていることを確認し、ようやく鍵を開けて廊下へ出た。
三人の姿を見た奈緒は宮本を指差した。
「こいつです! ずっと私につきまとってた人!」
その言葉を聞いた宮本は目を見開いた。
「……え?」
「やっぱりこいつか」
金属バットを持った男がさらに距離を詰めると、宮本はその手元へ視線を落とし、反射的に一歩後ろへ下がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。違いますって」
「何が違うんだよ! 部屋にまで入ろうとしてたんだろ!」
「違います! 俺はただ――」
「言い訳すんな!」
怒鳴り声とともに、ハンマーを握ったもう一人も前へ出た。金属バットを持った男も険しい表情のまま距離を詰め、三人は宮本を取り囲むようにじりじりと近づいてくる。
宮本は三人の手に握られた武器へ視線を向けると、顔を強張らせながら後ずさった。
「ま、待ってください……」
「待つかよ! お前、松本さんに何するつもりだったんだ!」
「俺は何も――」
「逃げられると思うなよ!」
その声とともに金属バットを持った男がさらに一歩踏み出した瞬間、宮本は大きく肩を震わせ、咄嗟に身を翻して走り出した。
「おい! 待て!」
「逃げんな!」
三人の男たちもすぐにその後を追い、静かだった14階の廊下に怒鳴り声といくつもの足音が響き渡った。
背後から迫ってくる罵声と足音に追い立てられるように、宮本は階段を駆け下りていった。すぐ後ろからは「待て!」「逃げんな!」という怒鳴り声が響き、階段を踏み鳴らす複数の足音も次第に近づいてくる。
「待てって言ってんだろ!」
ひときわ大きな怒鳴り声が階段に響いた瞬間、宮本は走りながら反射的に後ろを振り返った。
その一瞬、足元から視線が外れた。
次の段に置くはずだった足が空を踏み、身体が大きく傾いた宮本は咄嗟に手すりへ手を伸ばしたものの、その指は僅かに届かなかった。そのまま体勢を立て直すこともできず、身体は階段を転げ落ち、最後には踊り場へ激しく叩きつけられた。
追いかけていた三人は、その光景を目の前にして一斉に足を止めた。
「……おい」
つい数秒前まで怒鳴りながら追いかけていた男たちは、階段の下で動かなくなった宮本を見つめたまま顔色を変え、誰もすぐには近づこうとしなかった。
やがて一人が、掠れた声で口を開いた。
「俺たち……何もしてないよな?」
「触ってない。俺たちは何もしてない。あいつが勝手に足を踏み外したんだ」
別の男もすぐにそう答えたが、その声はどこか自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
少し遅れて奈緒も廊下を進み、階段のところまでやってきた。さすがに下まで降りる勇気はなく、階段の一番上から恐る恐る覗き込むと、踊り場に倒れたまま動かない宮本の姿が見えた。
その奈緒に気づいた自衛団の一人は、何かを振り払うように口を開いた。
「でも……こいつ、松本さんを襲うつもりだったんだろ。部屋にまで入ろうとしてたんだ。俺たちが来なかったら何してたか分かんねえよ」
「……そうだよ。俺たちは助けに来ただけだ」
「自業自得だろ」
「……ああ、そうだ。自業自得だ」
男たちは互いに顔を見合わせながら何度も同じような言葉を繰り返し、次第にそれを事実だったかのように受け入れていった。
その声は、階段の下に倒れている宮本の耳にも微かに届いていた。
視界はほとんど霞み、身体のどこが痛いのかさえもうよく分からなかったが、宮本にはただ一つ、どうしてこんなことになったのかだけが分からなかった。
本当に、奈緒が心配だった。
日に日に痩せていく姿を見て、自分の食料だってもうほとんど残っていなかったけれど、それでも少しくらいなら渡せると思った。さっきだって急に返事がなくなったから、ろくに食べていないせいで低血糖でも起こして倒れたのではないかと心配になり、ただ無事なのか確認したかっただけだった。
ぼやけた視界の中で僅かに目を動かすと、階段の一番上に奈緒が立っているのが見えた。こちらを見下ろしながら青ざめた顔で口元を押さえていたが、少なくとも倒れてはいない。
……よかった。奈緒さん、無事で。
それだけを確認すると、宮本の意識はゆっくりと遠のいていった。
最後まで耳に残っていたのは、自分が心配していた奈緒の声ではなく、自分を悪人だと信じて疑わない男たちの怒鳴り声だった。
◇
それから間もなく、騒ぎを聞きつけた住民によって朝霧が呼ばれた。
階段の周囲にはすでに何人もの住民が集まっており、自衛団の三人は朝霧が到着するまでの間も、「自分たちは触っていない」「宮本が勝手に階段から落ちた」と何度も説明していた。奈緒も青ざめた顔のまま階段から少し離れた場所に立ち、何も言わず朝霧が宮本のそばへしゃがみ込む姿を見つめていた。
朝霧は呼吸や脈を確認し、身体の状態も調べたが、やがて静かに手を離した。
もう手遅れだった。
◇
自室へ戻った朝霧は、しばらく考えたあとで蓮との約束を思い出し、スマートフォンを手に取った。
『一人亡くなったわ。』
『誰だ。』
『14階の宮本和也さん。階段から転落したみたい。』
『何があった。』
『寒波前から同じ階の松本奈緒さんにつきまとっていたらしいの。今夜も奈緒さんの部屋の前にいて、彼女を襲おうとしていたところを他の住民に見つかって、逃げる途中で階段から落ちたって聞いてる。』
少しして、蓮からもう一つメッセージが届いた。
『実際に襲ったのか?』
その質問を見て、朝霧の指が止まった。自分が呼ばれた時には宮本はすでに階段の下に倒れており、それまでに何があったのかは、すべてその場にいた住民たちから聞いた話でしかない。
少し迷ったあと、朝霧は画面に指を滑らせた。
『分からない。14階の人たちはそう言ってるわ。』
それきり蓮から返信はなかった。
◇
2501号室では、蓮が朝霧とのやり取りを終えると、壁に並んだモニターの一つへ視線を向けていた。
監視カメラの記録を呼び出して今日の映像を確認すると、確かに宮本は配給を受け取った奈緒の後ろを歩いており、夜になれば食料の入った袋を手に彼女の部屋の前へ立ち、何度も扉を叩いている。それだけを見れば、14階の住民たちが宮本を危険視したことも理解できなくはなかった。
しかし蓮はそこで映像を閉じず、日付を一日前へ戻した。
映像の中で、宮本は配給を受け取ると袋を手に自分の部屋へ向かっており、そのまま帰るように見えたが、廊下の途中で不意に足を止めた。しばらくその場に立ち尽くしたあと、宮本は手にしていた袋へ視線を落とし、中から食料を一つだけ取り出してポケットへ入れると、来た道をゆっくりと引き返していった。
向かった先は、奈緒の部屋だった。
宮本は残った食料が入った袋を扉の前へ置いて二度ノックすると、その場で数秒だけ待った。扉が開くことはなかったが、もう一度ノックすることも、奈緒が出てくるまで待ち続けることもなく、そのまま踵を返して自分の部屋へ戻っていく。
その足取りは、どこか弱々しかった。
蓮は無言のまま日付をさらに一日前へ戻したが、そこにも似たような光景が残っていた。配給を受け取った宮本が一度自分の部屋へ帰ろうとし、足を止めて、一つだけ食料を残して残りの袋を奈緒の部屋の前へ置く。
宮本が奈緒に何を求めていたのかまでは分からない。寒波以前からつきまとっていたことも、奈緒を怖がらせていたことも、おそらく事実なのだろう。
ただ、少なくとも余った食料を気まぐれに渡してるようには見えなかった。
「どうでもいい。」
そう吐き捨てたものの、蓮はすぐに映像を閉じようとはせず、停止した画面に映る宮本の姿をしばらく眺めたあと、やがて小さく息を吐いた。
「……馬鹿な奴だ。」
そう呟いた時、なぜか前世の自分が頭をよぎった。
吹雪の中、小さな食料袋を抱え、一ノ瀬のもとへ向かっていた自分。
蓮はしばらく黙っていたが、やがて何も言わずにモニターから視線を外した。
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Day 56
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
生存確認者 98人
【今日のメモ】
「善意も、相手を見失えば凶器になる。」
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【あとがき】
今回の話について、少しだけ補足させてください。
本話は、ストーカー行為や、相手が拒絶しているにもかかわらず接触を続ける行為を肯定・擁護する意図で書いたものではありません。
奈緒が宮本を怖いと感じたことも、宮本の行動に問題があったことも事実です。
ただ今回描きたかったのは、極限状態の中で、人の善意が必ずしも正しい形で相手へ届くとは限らない、ということでした。
社会が正常なら奈緒は警察や管理会社などに相談できたかもしれない。宮本にも注意や警告を与える段階があったかもしれない。でも今は警察も来ない。住民たちは自分たちで判断し、自分たちで守り、自分たちで裁き始めている。
つまり、この回は誰かの悲劇だけじゃなく、
「このマンションでは、事実を確認してくれる第三者がもういない」
善意や恐怖、思い込みが噛み合わなくなった時、人間はどこまでも間違った方向へ進んでしまう。
今回は、そんな話として書いています。




