第79話 Day 55 執着
朝。
蓮はリビングのソファに腰を下ろし、淹れたばかりのコーヒーを口へ運びながら、昨夜の朝霧とのやり取りを思い返していた。
朝霧に薬を渡してから数時間後、蓮は約束していた対価を受け取るため、初めて自分から彼女へメッセージを送った。
『今いいか』
返事はすぐには来なかった。おそらくまだ患者のところにいるのだろうと思いながら待っていると、数分後に既読がつき、それから間もなく短い返信が届いた。
『はい』
『今、マンションに何人残ってる』
朝霧からの返事は少し遅れて届いた。
『確か昨日までの生存確認者が100人だったと聞いてます。白石さんが亡くなったので、現在は99人だと思います』
「……99か」
蓮は小さく呟き、続けて住民たちの現在の状況を尋ねた。
朝霧の話によれば、柴田たちに対する反発は今もかなり強いらしい。しかし昨日から始まった公開での人員募集をきっかけに、状況は少し変わり始めていた。
食料を得るため柴田たちの側へ行こうとする者、それを裏切りだと非難する者、生きるためなら仕方がないと擁護する者。それまで柴田たちへ向けられていた怒りの一部が、今では同じ住民同士へ向かい始めているという。
さらに蓮が予想していた通り、柴田たちや自分が参加していない住民だけのグループも存在していた。全体グループがあまりにも静かなため、別の場所でやり取りしているだろうとは思っていたが、朝霧の話でそれが確信に変わった。
必要なことを一通り聞き終えた蓮は、最後にもう一つだけメッセージを送った。
『今後、そっちのグループで大きな動きがあったら教えろ』
しばらく既読だけが表示されていたが、やがて朝霧から返信が来た。
『情報提供は今回だけじゃなかったの?』
蓮はその文章を見ると、少しだけ口元を緩めて文字を打った。
『今のご時世じゃ薬は高くつくんでな』
自分で「今回限り」と言っておきながら随分勝手な言い分だ、と朝霧も思ったのだろう。だが、スマートフォンの画面に表示されたその一文を見ているうちに、なぜか小さな笑いが漏れた。
自分でもどうして笑ったのかよく分からないまま、朝霧は少しだけ柔らかくなった表情で返信した。
『分かったわ』
その返信を最後に、昨夜のやり取りは終わっていた。
現在へ意識を戻した蓮は、残っていたコーヒーを飲み干してカップをテーブルへ置いた。
共同倉庫を奪われ、自分たちの食料だったものを毎日少しずつ配られ、それでも住民たちは柴田たちとの決定的な衝突には至っていない。それどころか今では、食料を得るために自ら向こう側へ行こうとする者まで現れ、そのことで住民同士が争い始めている。
「もっと早く住民と柴田たちが衝突すると思ってたんだがな……」
蓮は昨日の全体グループでのやり取りを思い返し、僅かに目を細めた。
「……多分、あの三浦とかいうやつだな」
誰が何をできるのかを全員の前で名乗らせ、食料を欲しがる人間には働かせる。そうして支配する側とされる側だけではなく、同じ住民の中にも立場の違いを作り出す。
腹を空かせた人間に最低限の餌を見せ、その餌を手に入れるため互いに競わせれば、怒りは必ずしも上だけには向かわない。
蓮は小さく鼻で笑った。
「奴隷制度を、よく分かってるじゃないか」
◇
昼前になると、一階の配給場所にはいつものように住民たちが集まり始めた。ただ、寒波が始まったばかりの頃と比べれば、その光景は明らかに変わっていた。
以前なら配給される量が少なければ不満の声が上がり、いつ救援が来るのか、次の物資はいつ届くのかと誰かが必ず騒いでいた。しかし五十日以上が経過した今では、そうした声さえ以前ほど聞こえない。
頬が痩けた者、厚手の服を着ていても身体が一回り小さくなったことが分かる者、階段を下りてきただけで壁に手をつき、呼吸を整えている者も珍しくなくなっていた。
誰もが自分の順番を静かに待ち、渡された食料を確認すると、それを大切そうに抱えて部屋へ戻っていく。
不満が消えたわけでも、柴田たちを許したわけでもない。ただ、腹を空かせた身体で毎日怒鳴り続けることにも体力が必要であり、何を言ったところで配給が一口分すら増えないことを、住民たちは嫌というほど覚えてしまっていた。
その列の中に、一人の若い女性がいた。
彼女も自分の番になると、今日の分として渡された僅かな食料を袋へ入れ、それ以上何も言わずに配給場所を離れた。以前なら量を確認して何か言ったかもしれないが、今では文句を言ったところで何も変わらないことくらい分かっている。
階段へ向かおうとしたところで、背後から男の声が聞こえた。
「今日も少なかったですね」
女性は足を止めて振り返り、そこに立っている男を見て一瞬だけ表情を硬くしたものの、「……そうですね」とだけ答えてすぐに前を向いた。
「それ、持ちましょうか?」
「大丈夫です」
「遠慮しなくてもいいですよ」
「本当に大丈夫ですから」
二度目は少し強い口調になった。
男はそれ以上何も言わなかったが、女性が階段を上り始めると、その少し後ろから同じように階段を上り始めた。
最初は気にしないようにしていたものの、自分が歩けば男も歩き、自分が少し速度を落とせば、後ろから聞こえてくる足音も同じように遅くなる。
女性は途中で足を止めて振り返った。すると数段下を歩いていた男も、まるでそれに合わせるように足を止めた。
「……何か?」
「ああ、いや。同じ方向なんで」
男は少し困ったような顔をしたあと、何でもないことのように笑った。
「……そうですか」
女性はそれ以上何も言わず、再び階段を上り始めた。
実際、この男に話しかけられたのは今日が初めてではなかった。
寒波が始まる以前にもエレベーターで何度か一緒になったことがあり、その頃から男は妙に馴れ馴れしく、「今日は帰り遅かったですね」と言ったり、「よくその色の服着てますよね」と笑いながら話しかけてきたりした。
当時も少し気持ち悪いとは思っていたが、それ以上深く考えることはなかった。嫌なら無視すればいいし、本当に何かあれば管理会社へ連絡すればいい。防犯設備の整った高級マンションで、必要なら警察だって電話一本で呼ぶことができたのだから、同じ建物に少し気味の悪い男が住んでいるというだけの話だった。
だが、今は違う。
管理会社はもう機能しておらず、警察へ電話をしても助けには来られない。外へ逃げようにも、マンションの扉の向こうには人間がまともに生きられない寒さが広がっている。
かつてなら距離を取るだけで済んだ相手と、今は逃げ場のない同じ建物の中に閉じ込められている。
自分の階へ着いた女性は足早に廊下を進み、自室へ入るとすぐに鍵を掛けた。カチャリと鍵の掛かる音を確認してようやく小さく息を吐いたものの、それでも妙な胸騒ぎは消えなかった。
しばらく玄関の前で耳を澄ませたあと、女性は静かにドアスコープへ顔を近づけた。
廊下の向こうに、男が立っていた。
何をするでもなく、こちらへ近づいてくるわけでもない。ただ少し離れた場所に立ったまま、女性の部屋がある方向をじっと見ている。
その姿を認識した瞬間、女性は反射的にドアから離れ、声を出さないよう息を潜めた。
やがて廊下から足音が聞こえ始め、それは少しずつ遠ざかっていった。十分に時間を置いてからもう一度ドアスコープを覗くと、今度は誰もいない。
「……気持ち悪い」
女性は小さく呟き、ようやく玄関から離れた。
◇
午後になり、女性がソファでスマートフォンを眺めていると、突然玄関からノックの音が聞こえた。
コン、コン。
女性の身体が僅かに強張った。
誰かが訪ねてくる予定などない。スマートフォンを握ったまま玄関を見つめていたが、二度目のノックはなく、その後はいくら待っても何の音もしなかった。
女性はすぐには動かなかった。数分ほどそのまま待ち、もう誰もいないだろうと思ってから、できるだけ足音を立てないよう玄関へ近づいてドアスコープを覗いた。
廊下に人影はない。
それでもすぐに扉を開ける気にはなれず、しばらく外の様子を窺ったあと、チェーンを掛けたまま恐る恐る扉を僅かに開いた。
そこで初めて、足元に小さな袋が置かれていることに気づいた。袋の上には一枚の紙が載せられており、女性は周囲を警戒しながら扉の隙間から手を伸ばし、まずその紙だけを取った。
『ちゃんと食べてください。痩せましたよね』
その文字を読んだ瞬間、背中を冷たいものが走った。
名前など書かれていなかったが、誰が置いたのか考える必要すらなかった。女性は反射的に廊下の左右へ視線を走らせたものの、そこにはもう誰もおらず、静まり返った廊下が続いているだけだった。
やがて女性の視線が、まだ足元に残されている袋へ落ちた。
中には缶詰が二つと、小さな菓子が一つ入っている。今ではどれも簡単には手に入らない食料だった。
気持ち悪い。こんなもの、欲しくない。
そう思った瞬間、空っぽに近い腹の奥から小さな音が鳴った。
女性の手が止まった。
寒波が始まってから五十日以上、満腹になるまで食べたのがいつだったのか、もう思い出せない。毎日の配給で最低限の食事は取っているものの、空腹が完全に消えることなどなく、最近では鏡を見るたびに頬が細くなっていることを自分でも感じていた。
目の前にあるのは、今なら何より価値のある食料だった。
それを置いた男への嫌悪感と、食べ物を欲しがる身体の感覚が頭の中でせめぎ合い、女性はしばらくその場から動けなかった。
だが最後には、周囲に誰もいないことをもう一度確認してから袋へ手を伸ばし、素早くそれを部屋の中へ引き入れると、すぐに扉を閉めて鍵を掛けた。
◇
夕方になり、女性のスマートフォンが震えた。
画面に表示されていたのは、昼間の男の名前だった。
『食べました?』
女性の表情が固まった。
返信はせず、そのままスマートフォンを伏せたものの、数分後には再び通知音が鳴った。
『もっとありますよ』
さらに少しして、
『必要ならあげます』
女性は画面を見つめたまま、指を止めた。
頭の中に、昨日からマンション中で飛び交っている言葉が浮かぶ。
交換。
食料を持つ者が、持たない者へ何かを要求する。昨日、白石が何を差し出し、その結果どうなったのかもマンション中の人間が知っている。
自分も同じことを要求されるのではないか。
そう考えたところで、また新しいメッセージが表示された。
『何もしなくていいです』
何も要求していない。何もしなくていいと言っている。
それなのに、女性はそれまでのどのメッセージより、その一文に強い気味の悪さを覚えた。
◇
男は自分の部屋でスマートフォンを眺めていた。
返信は来ていない。
それでも怒っている様子はなく、男はしばらくメッセージ画面を眺めたあと、写真フォルダを開いた。
そこには同じ女性を写した写真が何枚も保存されており、寒波が始まる前のものだけでも、マンションのエントランスから出ていく姿、夜遅くにタクシーから降りる姿、エレベーターを待っている後ろ姿などが残されていた。
寒波が始まってから、その枚数はさらに増えている。
配給の列に並んでいる姿、階段を上っている姿、廊下を歩いている姿、他の住民と話している姿。どれも本人が撮られていることに気づいていない写真ばかりだった。
男は今日撮った一枚を開き、二本の指でゆっくりと拡大した。
以前より細くなった頬と僅かに窪んだ目元を見つめているうちに、その表情には本気で心配しているかのような色が浮かんだ。
「……痩せたな」
嘲りも悪意もなかった。
男は写真の中の女性の顔を指先でなぞりながら、むしろ大切な誰かを心配するように小さく笑った。
◇
夜。
女性は部屋の照明を落とし、ベッドの上で毛布に包まっていた。眠れる気はせず、何度も玄関の方へ視線を向けてしまう。
昼間にもらった缶詰は、まだ開けていなかった。
捨てることもできず、かといって食べることもできないまま、袋ごとテーブルの上に置かれている。空腹を感じるたびに視線がそちらへ向かい、そのたびに袋の上に置かれていた『痩せましたよね』という文字を思い出して目を逸らした。
その時、枕元のスマートフォンが震えた。
『まだ起きてます?』
女性は返信せず、画面を消した。
それから数分も経たないうちに、もう一度スマートフォンが震えた。
『明日の分も持ってきました』
その文章を読んだ瞬間、女性の視線がゆっくりと玄関へ向いた。
コン、コン。
静まり返った部屋の中に、小さなノックの音が響いた。
女性は毛布を握り締めたまま動かなかった。昼間と同じように無視していれば、そのうち帰るかもしれない。そう自分に言い聞かせていたが、今度はすぐにスマートフォンが震えた。
『開けてください』
コン、コン。
再びノックが響く。
『大丈夫ですよ』
女性は息を殺したまま玄関を見つめていた。すると、またスマートフォンの画面が明るくなる。
『何もしないから』
しばらく玄関を見つめていた女性は、意を決したようにベッドから降りた。
できるだけ足音を立てないよう、一歩ずつゆっくりと玄関へ近づいていく。男に聞こえないよう呼吸まで抑えながら、ようやくドアスコープへ顔を近づけた。
いた。
男が扉の前に立っている。
片手には、食料が入っているらしい袋を持っていた。
女性は息を止めた。
廊下側からドアスコープ越しに自分の目が見えるはずはない。それでも男は閉ざされた扉をじっと見つめたまま、まるでそこに女性がいることを最初から知っていたかのように、ゆっくりと笑った。
「……いるの、分かってますよ」
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Day 53
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
生存確認者 99人
【今日のメモ】
「人は、見えているものだけで他人を決める。」
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