第76話 Day 52 代償
翌朝。
白石莉奈はベッドの上でスマートフォンを握ったまま、昨夜から何度も開いては閉じていた住民専用グループの画面を、もう一度表示させていた。
柴田剛。
昨夜、その名前を見つけてから何度メッセージを送ろうとしたか分からない。それでも送信する直前になると指が止まり、結局何もできないまま、ほとんど眠れずに朝を迎えていた。
相手がどういう男なのかは知っている。外からこのマンションへやって来て、2501号室へ押しかけ、玄関を壊そうとした男。その後は共同倉庫を力ずくで占拠し、逆らった住民を殺し、今ではマンションの食料そのものを握っている。
危険な男だという程度のことは、莉奈にだって分かっていた。だが、何度数えても残っている食料は増えない。今日食べれば明日はさらに減り、明日食べればその次の日にはもっと減る。今の供給程度では、そう遠くないうちに本当に何もかもなくなる。
「……大丈夫」
莉奈は自分に言い聞かせるように呟くと、ベッドから起き上がってドレッサーの前へ座った。
鏡に映った自分の顔は、昨日泣いたせいで目元が少し腫れている。それを隠すように丁寧に化粧をし、髪を整えると、何度か角度を変えながらスマートフォンを構えた。
胸元が少しだけ見える角度、脚が綺麗に映る角度、そして部屋着姿で無防備に見える一枚。何枚も撮影した中から出来のいい写真だけを選び、今度は慣れた手つきで加工していく。肌を整え、目を少し大きくし、輪郭を細くして、本人だと分からなくなるほどではないギリギリのところまで修正する。
こういうことなら慣れていた。
寒波が来る前、何人もの男がこうした写真一枚で態度を変えた。少し甘えれば食事へ連れていってくれ、欲しい物を口にすれば買ってくれ、機嫌を悪くすれば向こうから謝ってきた。
男なんて、結局みんな同じ。
そう思うと、昨夜から感じていた恐怖が少しずつ薄れていった。莉奈はもう一度鏡の中の自分を確認すると、住民専用グループに表示された柴田剛の名前をタップした。
『柴田さん、突然ごめんなさい♡ 白石莉奈です』
少し考えてから、続けてメッセージを送る。
『ちょっとお願いがあるんですけど、食料少し分けてもらえませんか?』
さらに一件。
『ちゃんとお礼します♡ 莉奈、柴田さんの言うこと聞くいい子になりますよ?』
最後に先ほど撮った写真を何枚か続けて送ると、思っていたよりも早く既読が付いた。
◇
柴田剛はソファに寝転がったまま、送られてきた写真を一枚ずつ眺めていた。
「へえ……」
胸元を強調した写真から脚を見せた写真へ指を滑らせ、最後まで確認すると、口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
少し離れたところには一ノ瀬美咲がいた。柴田は一瞬だけそちらへ視線を向けたあと、莉奈への返信を打つ。
『いいぞ。食料分けてやるから、あとで一回来い』
すぐに返信が届いた。
『ほんとですか〜?』
『ありがとうございます♡』
柴田はもう一度一ノ瀬を見ると、今度は短く打ち込んだ。
『後でこっちから連絡する』
◇
自室でそのメッセージを読んだ莉奈は、思わず口元を緩めた。
「……ほら。ちょろ」
あれだけ昨夜は迷っていたのが馬鹿らしくなるほど簡単だった。結局、今までと何も変わらない。世界がどれだけ変わろうと男は男で、自分がどうすれば相手の気を引けるのかも分かっている。
そう思った瞬間、昨日までの不安が嘘だったかのように気持ちが軽くなった。
◇
「美咲」
柴田に呼ばれ、一ノ瀬が面倒そうに顔を上げた。
「何?」
「お前、ちょっと一階の貯蓄倉庫見てこい」
「はぁ? なんで私が?」
「下の奴らがちゃんとやってるか見てこい。あいつらサボってるかもしれねえからな」
「自分で行けばいいじゃん」
柴田は露骨に面倒そうな顔をした。
「俺が行く必要ねえだろ。それに、お前もたまには参加しとけよ。何もしねえで食ってるだけだって、そのうちあいつらから文句出るぞ」
「なんでよ。剛がいいって言ってるんだからいいでしょ」
「いいから行ってこい」
一ノ瀬はしばらく柴田を睨んでいたが、やがて大きくため息を吐いた。
「……分かったわよ」
不満を隠そうともせず立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。玄関扉が閉まり、廊下を歩いていく足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、柴田はスマートフォンを取り出した。
白石莉奈との画面を開く。
『今から1703来い』
それだけを送った。
◇
メッセージを受け取った莉奈は、慌てて鏡の前へ戻った。
化粧は崩れていない。それでもリップを塗り直し、髪を整え、服の胸元を少し直してから、鏡の前で何度か表情を作る。
「よし」
そこにいたのは、昨夜床に座り込んで泣いていた女ではなかった。いつもの白石莉奈だった。
男に会う時の顔。何を言えば喜ぶのか、どんな表情をすれば可愛く見えるのか、自分が一番よく分かっている。
莉奈はスマートフォンをバッグへ入れると、軽い足取りで部屋を出た。
◇
1703号室。
インターホンを押して間もなく、玄関扉が開いた。
「白石?」
「はぁい。お待たせ〜」
莉奈は少し首を傾けながら笑ったが、柴田は一瞬黙ったまま彼女の顔を見つめた。
写真と違う。
送られてきた画像より目は小さく、輪郭も少し違って見える。
――加工しすぎだろ。
僅かに苛立ったものの、改めて全身を見る。別に不細工というわけではない。
「入れよ」
「お邪魔しまぁす」
莉奈は何の警戒も見せず部屋へ入り、柴田に促されるままリビングへ向かった。
「こっち来い」
柴田が自分の座っているソファの隣を叩くと、莉奈は素直にそこへ座り、身体を少し柴田側へ寄せた。
「柴田さんって、思ってたより怖くないんだね」
「何だよ、それ」
「だってぇ、グループじゃすごい怖い人みたいに言われてるから」
「実物はどうなんだ?」
莉奈は柴田の顔を見上げ、悪戯っぽく笑った。
「どうだろ」
その答えに柴田も笑い、やがてその手が莉奈の太腿へ自然に置かれた。
莉奈は拒まなかった。むしろ少しだけ身体を寄せ、その手が腰へ移り、さらに身体を探るように動いても笑顔を崩さない。
ここまでは想定通りだった。
少しくらい触らせればいい。それで食料が手に入るのなら、安いものだ。
その時だった。
玄関扉が開いた。
「剛ー。下、暇すぎ。もう帰ってき――」
一ノ瀬の声が途中で止まった。
柴田の手も止まり、莉奈も振り返る。三人の視線が交わったまま数秒が過ぎたあと、一ノ瀬の口から先ほどまでとはまるで違う声が漏れた。
「……誰よ、そいつ」
柴田が咄嗟に莉奈から手を離す。
「あ、ああ。こいつは……」
「何?」
「俺らに加わりたいんだとよ」
一ノ瀬の視線が莉奈へ向く。
「ほら、この前人増やす話した時に、あいつら女欲しいって言ってただろ」
一ノ瀬は何も言わず、莉奈の顔から服、そして柴田との距離へと順番に視線を移していった。ほんの少し前まで二人がどんな状態だったのか、それだけで十分に分かった。
「……ふーん。そうなんだ」
やがて一ノ瀬の口元にゆっくりと笑みが浮かび、今度はとびきり明るい声で言った。
「じゃあ、大野たち喜ぶね」
「え?」
莉奈が一ノ瀬を見る。
一ノ瀬はもう玄関へ向かっていた。
「私、呼んでくるね」
柴田が慌てて呼び止める。
「おい、別に今じゃなくてもいいだろ」
「なんでー?」
一ノ瀬は笑顔のまま振り返った。
「せっかく来てくれたんでしょ?」
「いや、だから――」
「行ってくるねー」
柴田が何か言う前に、一ノ瀬は部屋を出ていった。
◇
数分もしないうちに、廊下から複数の足音が聞こえてきた。
「剛さん!」
玄関が開き、大野和也と松永亮介が入ってくる。前のマンションから柴田について来た仲間の二人であり、あの日、人を増やすなら女がいいと言った本人でもあった。
二人とも莉奈を見つけた瞬間、露骨に表情を変えた。
「おぉ、いるいる」
「こないだ言ったばっかなのに、さすが剛さん」
二人の視線が莉奈の顔から身体へ移る。莉奈はそこでようやく、自分が思っていたのとは違う方向へ話が進んでいることに気づいた。
「えっと……」
「なかなか可愛いじゃん」
「それな」
二人の後ろから入ってきた一ノ瀬が、呆れたように笑う。
「もう、何中学生みたいなこと言ってんの」
声は笑っている。だが、その目だけはまったく笑っていなかった。
「気に入ったなら早く連れてけば?」
大野と松永が顔を見合わせ、それから柴田を見る。
「剛さん、もういいっすか?」
柴田は一ノ瀬へ視線を向けた。一ノ瀬も笑顔のまま柴田を見つめ返している。
「……」
柴田は小さく舌打ちした。
「好きにしろ」
その瞬間、莉奈の顔から笑顔が消えた。
「え?」
大野が莉奈の腕を掴む。
「じゃ、行こうぜ」
「え? ちょっと待って」
「ここじゃあ流石にな」
「いや、私、柴田さんと話が――」
もう片方の腕を松永に掴まれ、莉奈はようやく本気で身体を引いた。
「ここまで来て何言ってんだよ」
「ちょっと!」
莉奈は助けを求めるように柴田を見る。
「柴田さん?」
だが、柴田は目を合わせなかった。
「待って。私、そういうつもりで来たんじゃ――」
「なるべく優しくすっから」
「いや! ちょっと待ってって!」
莉奈の声は次第に大きくなっていったが、二人は腕を離さず、そのまま玄関へ向かっていく。
「柴田さん!」
最後にもう一度名前を呼んだ。
柴田は答えなかった。
そのまま莉奈の姿は玄関の向こうへ消え、扉が閉まると、部屋の中には不自然なほどの静けさが戻ってきた。
◇
一ノ瀬は何事もなかったかのようにソファへ座り、柴田は面倒そうに煙草を取り出した。
「……お前、わざとだろ」
「何が?」
「大野たち呼んだの」
一ノ瀬はきょとんとした顔をする。
「だって剛が言ったんじゃん。あいつら女欲しがってるって」
「そうだけどよ」
「それに、あの子も仲間になりたいんでしょ?」
「……」
「よかったじゃん」
一ノ瀬は楽しそうに笑った。
「みんな喜ぶよ」
柴田は何も言わず、煙草に火をつけた。
◇
しばらくして玄関扉が開き、大野と松永が戻ってきた。その後ろから、白石莉奈がゆっくりと部屋へ入ってくる。
入ってきた時とは、まるで別人のようだった。
頬の一部は赤く腫れ、首元と手首には離れた場所からでも分かる痣が残っている。丁寧に整えていた髪は乱れ、朝あれほど時間を掛けた化粧も涙で崩れ、黒く滲んだ目元と歪んだ口紅は、まるで出来の悪いピエロのようだった。
男に会うため、鏡の前で何度も角度を確かめながら作り上げた顔は、もう見る影もない。莉奈は俯いたまま、誰とも目を合わせようとはしなかった。
大野が満足そうに笑う。
「いやぁ、剛さん、ありがとうございます」
松永も笑いながら続けた。
「またこういうのあったらお願いしますよ」
「うるせえよ」
柴田は面倒そうに答えると、あらかじめ用意していた袋を掴んだ。中には缶詰やインスタントラーメン、水などが入っている。
それを莉奈の足元へ放り投げた。
「ほらよ」
床へ落ちた袋を、莉奈はしばらく黙って見つめていた。
これが欲しかった。
昨日の夜からずっと欲しかった食料であり、そのために自分はここへ来た。だから目的そのものは達成したはずだった。
莉奈は何も言わずしゃがみ込むと、両手で袋を持ち上げ、そのまま玄関へ向かって歩き始めた。
その背中へ、一ノ瀬が明るい声を掛ける。
「莉奈ちゃん」
莉奈の足が止まった。
「食料欲しくなったら、また来てね」
莉奈は振り返らなかった。
一ノ瀬は笑顔のまま続ける。
「下にまだ三人いるから」
莉奈の肩が僅かに震えた。それでも何も言わず、玄関扉を開けてそのまま廊下へ出る。
扉が閉まる直前、背後から柴田の声が聞こえた。
「美咲、お前性格悪すぎだろ」
「だって本当じゃん!」
一ノ瀬の楽しそうな声に続き、大野と松永の下品な笑い声が重なった。
扉が閉まった。
白石莉奈は食料の入った袋を両手で抱え、誰もいない廊下をゆっくりと自分の部屋へ向かって歩いていった。
昔なら、缶詰やインスタントラーメン、水など、お金を払えばいくらでも買えた。だが今は違う。欲しいものを手に入れるためには、それに見合う何かを差し出さなければならない。
ただ一つ、白石莉奈が間違えていたことがある。
何を差し出すのかまで、自分で決められると思っていたことだった。
背後の部屋から聞こえてくる男たちの下品な笑い声だけが、静かな廊下にいつまでも響いていた。
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Day 52
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
生存確認者 100人
【今日のメモ】
「何を差し出すかは、自分で決められるとは限らない。」
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本編では基本的に絵文字や記号は使わないと決めていたんですが、白石莉奈のあざとさを表現するためにつけさせていただきました。
もし違和感がつよければコメントにてお願いします。




