第75話 Day 51 同じ一日でも
朝。
珍しく、雪は降っていなかった。
空は相変わらず厚い灰色の雲に覆われ、気温も人間が長時間外を歩き回れるようなものではなかったが、ここ数日のように視界を白く染める雪はなく、風も比較的穏やかだった。
それだけでも、住民たちにとっては十分だった。
朝からマンションを出ていく者の姿がいつもより多く、二人、三人とまとまってリュックや袋を持ち、近所の建物へ物資を探しに向かっている。
スーパーやコンビニは既に何度も荒らされ、まともな食料などほとんど残っていない。それでも個人商店や飲食店、事務所など、まだ誰も確認していない場所を探せば何か残っているかもしれなかった。
今では雪が止んだ日は、物資を探しに出る数少ない機会になっていた。
2501号室。
蓮は窓越しに、雪の上を歩いていく住民たちを眺めていた。
あれほど大勢の住民が押しかけ、柴田たちが玄関扉を壊そうとしていたのが嘘だったかのように、この四日間、2501号室を訪れる者はいなかった。
その間にもマンションでは田中夫婦が殺され、その翌日には一人暮らしの老人が病死しているのが見つかっている。それでも蓮の部屋だけは、外で起きている出来事から切り離されたかのように静かなままだった。
昼前になると、蓮は珍しく収納していた料理を取り出すのではなく、自分で昼食を作った。
時間はいくらでもある。たまには自分で作るのも悪くないと思ったのだが、出来上がった料理を一口食べたところで、蓮の箸が止まった。
「……」
もう一口食べてみる。
食べられないほどではないし、腹を満たすだけなら何の問題もない。それでも蓮はしばらく皿の上を眺めたあと、鼻で小さく笑った。
「こんな時にまずいなんて言ってたら、周りは何て言うんだろうな」
つい先日、このマンションでは食料を奪うために人が殺されている。今朝も住民たちは僅かな配給を受け取り、それだけでは足りないからこそ、雪が止んだ隙を狙って外へ物資を探しに出ていた。
それでも蓮は、無理に食べようとは思わなかった。自分の口に合わないからといって、食料そのものの価値がなくなるわけではない。この先、何が起こるか分からない世界では、こんな料理でもいつか別の使い道が生まれるかもしれなかった。
蓮は盛り付けたばかりの料理へ手を触れ、そのまま収納空間へ戻した。今は必要ないのなら、必要になる時まで取っておけばいい。
「さて」
代わりに収納していた寿司を取り出すと、一貫摘まんで口へ運んだ。
「うん、うま」
満足そうに頷き、そのまま二つ目へ箸を伸ばす。
食事を終えたあと、蓮はコーヒーを淹れてソファへ座り、何となくスマートフォンを手に取った。
連絡先を開き、一人の名前で指が止まる。
黒崎恒一。
佐藤愛の件があって以来、二人の連絡は途絶えていた。
別に喧嘩をしたわけではない。ただ、どちらからも連絡しなかった。
蓮は数秒だけその名前を見つめたあと、通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音が鳴り、やがて電話が繋がる。
『……蓮?』
「ああ」
『珍しいな。お前から電話してくるなんて』
聞こえてきた黒崎の声は、以前とほとんど変わらなかった。
「生きてるかと思って」
一瞬の沈黙のあと、電話の向こうから笑い声が聞こえた。
『はは。何だよ、それ。何とか生きてるよ。そっちは?』
「俺も」
『そりゃそうか。お前が俺より先に死ぬとは思えないしな』
「どういう意味だよ」
『そのままの意味だよ』
久しぶりに二人の間に小さな笑いが起きた。
それでも、佐藤愛の名前は出なかった。
本来ならどちらから話題に出てもおかしくないはずなのに、まるで最初からそこだけが存在しないかのように、二人とも綺麗に避けている。
忘れていたわけではない。
むしろ、互いに覚えているからこそ触れなかった。
『こっちはな、こんな時期になって逆に忙しくなったよ』
黒崎が話題を変えた。
「何かあったのか?」
『俺、こっちで住民代表になった』
「……お前が?」
『その反応やめろよ』
黒崎が笑う。
『俺だってやりたくてやってるわけじゃない。誰もやりたがらないし、近所の人たちからお前がやれって言われて、気づいたらこうなってた』
蓮には何となく理由が分かった。
寒波が始まる以前から、黒崎は近所との付き合いがあり、寒波が始まってからも自分の備蓄を周囲へ分けていた。困っている人間がいれば手を貸し、揉め事があれば間に入り、そうした小さな積み重ねによって、今では周囲からかなりの信頼を得ているのだろう。
「そっちは、揉めてないのか?」
『揉めてるよ。食料が少ないとか、もっと配れとか、外へ探しに行くべきだとか、危ないからやめろとか。何回か結構な言い争いにもなった』
「まだ、暴力沙汰にはなってないのか?」
『掴み合いになったことはあるけど、周りが止めてる。少なくとも、こっちじゃそれで死人が出るようなことにはなってないよ』
黒崎のマンションでも、何も起きていないわけではなかったが、それでもまだ秩序が保たれているようだ。
『前に話した婆さん、覚えてるか?』
「ああ」
『三日前に亡くなったよ。ずっと体調悪かったからな。近所の人が交代で様子見てたんだけど、朝に見に行った時にはもう亡くなってた。病院にもまともに連れていけないし、薬だって足りない。どうにもならないこともあるよ』
蓮の表情から、僅かに笑みが消えた。
「……そうか」
『ただ、俺たちのところはかなりマシだぞ。少し離れたところじゃ、食料を巡って集団同士で揉めたり、家に押し入ったりするのも珍しくなくなってるらしい。死人が出たって話も、もう一つや二つじゃない』
蓮は僅かに眉を動かした。
「なんでお前がそんなこと知ってるんだ?」
『最近、たまに雪が弱くなる日とか、ほとんど止んでる時があるだろ?』
「ああ」
『そういう時は、みんな必死になって外へ探しに行くんだよ。食料でも燃料でも、使えそうな物が残ってないかってな。俺も何度か出たし、うちのマンションからも何人か行ってる』
黒崎はそこで一度言葉を切った。
『当然、外に出てるのは俺たちだけじゃない。途中で他のマンションや地区の連中と会うこともある。そこでお互い、どこが危ないとか、どこはもう何も残ってないとか、最近何があったとか、そういう話をするんだよ』
「揉めたりしないのか?」
『する時もある。でも毎回奪い合ってたら、こっちも命がいくつあっても足りないし、向こうだって同じだろ。何も知らずに危ない場所へ入るより、その方がマシだからな』
「……そうだな」
蓮はソファへ背中を預けたまま、しばらく黙って考えていた。
自分には食料も水も燃料も十分にあり、生きるために外部と接触する必要はほとんどない。だからこそ、これまであまり意識していなかった。
監視モニターで分かるのは、あくまで目に見える出来事だけだ。だが、人から伝わる情報なら、その裏で何が起きているのか、もっと深いところまで知ることができる。
「……情報か」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
少しして黒崎が、過去に救援物資も何度か届いていることを話した。
量は回を増すごとに減っているものの、届いた物資は全て住民に公開し、人数に合わせて平等に分配している。ただし、一度に全てを渡せば早々に食べ切ってしまう人間も出るため、住民同士で話し合い、今は一日分ずつ配ることにしているらしい。
『だから毎日配給だよ。人数確認して、食料分けて、何か揉めたら話聞いて。寒波が来る前より忙しいんじゃないかってくらいだ』
「似合ってるじゃん」
『絶対思ってないだろ』
「思ってる」
『嘘つけ』
黒崎は笑った。
近所の捜索にも何度か出ているらしく、スーパーやコンビニ、小さな商店など、人が入れそうな場所は一通り確認したという。
『もう大したもの残ってないよ。スーパーなんかほぼ空だし、コンビニも同じだ。ただ、探せばたまに残ってるものもあるから、そういうのは遠慮なく持って帰ってる』
「泥棒だな」
『今さら言うなよ』
二人とも少しだけ笑った。
『厳しいけどな。今のところ、まだ何とかみんなで生きてるよ』
蓮はしばらく黙ったあと、小さく答えた。
「……そっか。気をつけろよ」
『お前もな』
少し間が空いてから、黒崎が尋ねた。
『蓮のところはどうなんだ?』
蓮の視線が、テーブルの上に置かれた端末へ向いた。
この数日だけでも、人が殺され、食料が奪われ、住民たちは互いを疑い始めている。
「こっちは大丈夫だ」
それだけだった。
黒崎もすぐには答えなかったが、やがて短く返した。
『……そっか』
何があったのかとは聞かなかった。
蓮がそれ以上話したくないことを、黒崎は声だけで察していた。
少しだけ他愛のない話をしたあと、そろそろ電話を切ろうかという空気になった時だった。
『なあ、蓮』
「ん?」
『お前……』
黒崎の声がそこで止まった。
蓮は続きを待ったが、数秒経っても何も聞こえてこない。
「何だよ」
『……いや、何でもない』
「そうか」
『じゃあな』
「ああ」
通話が切れた。
蓮はしばらくスマートフォンを手に持ったまま、暗くなった画面を見つめていた。
黒崎が最後に何を聞こうとしたのか、おそらく分かっていた。
――お前、こうなることを知っていたのか。
そう聞きたかったのだろう。
だが黒崎は聞かなかったし、蓮も答えるつもりはなかった。
それよりも蓮の頭に残っていたのは、黒崎のマンションの話だった。
同じ五十一日目を迎え、同じ寒波に閉じ込められ、同じように食料が減り、向こうでも既に死者は出ている。住民同士の言い争いだって起きている。
それでも向こうでは、まだ住民同士で食料を分け合い、誰かが揉めれば周囲が止め、外へ出る時には協力して物資を探している。
一方、このマンションでは既に人が人を殺し、その食料を奪った。
もちろん、条件が全く同じではない。
それでも、ここまで違う。
「……まとめる人間が違うだけで、こうも変わるもんだな」
蓮はそう呟くと、テーブルに残っていたコーヒーへ手を伸ばした。
◇
その日の午後。
六階の廊下に、突然男の怒鳴り声が響いた。
「お前、うち狙ってただろ!」
声を聞いた住民たちが次々と玄関扉を僅かに開け、隙間から廊下の様子を窺う。
すぐに外へ出ようとする者はおらず、何が起きているのかを確認してから、ようやく何人かが廊下へ姿を現した。
二人の男が向かい合っていた。
「はあ? 通りかかっただけだろ!」
「嘘つけ! うちの食料狙ってんだろ!」
「知らねえよ!」
周囲の住民たちの表情が変わったが、興奮している男は自分が何を口にしたのか気づいていない。
「うちにまだ食料あるって知ってんだろ!」
「だから違うっつってんだろ!」
男が相手の胸ぐらを掴むと、相手もその腕を乱暴に振り払った。
「離せ!」
「てめえ!」
次の瞬間、拳が飛んだ。
「きゃあ!」
すぐ後ろで見ていた女性が悲鳴を上げる。
殴られた男もすぐに殴り返し、二人はそのまま廊下で揉み合いになった。
しかし、見ていた住民たちは慌てる素振りこそ見せても、止めに入る者はいなかった。
その少し離れた場所では、一人の女性住民がスマートフォンを操作していた。
そして、住民専用グループへ書き込む。
『今、602号室の佐藤さんと605号室の林さんが廊下で喧嘩してます』
すぐに返信が来た。
『何で?』
女性は目の前でまだ怒鳴り合っている二人を見ながら、そのまま聞いたことを書き込んだ。
『佐藤さんが、林さんに「うちの食料狙ってんだろ」って怒ってます』
すぐに別の返信が付いた。
『え? 食料あるの?』
女性は何の悪気もなく答えた。
『うちにまだ食料あるっぽいこと言ってました』
そこで、グループへの書き込みが不自然なほど止まった。
既読だけが増えていく。
少しして、一件だけ新しいメッセージが届いた。
『どれくらいあるんですか?』
女性は首を傾げながら返信した。
『そこまでは分かりません』
再び、誰も何も書かなくなった。
◇
しばらくして自室へ戻った佐藤は、殴られた頬を押さえながらスマートフォンを確認し、住民専用グループに自分の名前と部屋番号が出ていることに気づいた。
そして、その下に並んでいる文章を読んだ瞬間、顔色が変わった。
――うちにまだ食料あるって知ってんだろ。
「……は?」
すぐにグループを開き、指を動かす。
『おい! 余計なこと書くんじゃねえよ!』
続けて、
『うちに食料なんかないぞ!』
さらに、
『さっきのは喧嘩の勢いで言っただけだ!』
送信した。
既読が一つ付き、また一つ増える。
十、二十、三十。
それでも、誰からも返事はなかった。
佐藤がスマートフォンを握ったまま玄関へ視線を向けると、廊下から誰かの足音が聞こえてきた。
ただ住民の誰かが歩いているだけのはずなのに、近づいてくる音を聞いているうちに身体が僅かに強張る。
やがて足音は玄関の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかっていった。
佐藤はしばらく動かずに耳を澄ませていたが、完全に聞こえなくなったところでようやく立ち上がり、玄関まで歩いて鍵が掛かっていることをもう一度確認した。
◇
六階の騒ぎが収まり、廊下へ出ていた住民たちもそれぞれの部屋へ戻ろうとしていた。
その中で、誰かが小さく呟いた。
「もう廊下歩いてるだけで疑われるのかよ……」
別の住民が答える。
「田中さんを殺した人が、まだこのマンションにいるんですよ」
「だからって何でも疑っていいわけじゃないでしょう」
「じゃあ、あなたは誰かが自分の玄関の前を何度も通ってても気にしないんですか?」
誰も答えなかった。
少し前なら、同じ階の住民が玄関の前を歩いていることなど気にも留めなかった。挨拶をして通り過ぎ、それで終わっていた。
だが今は違う。
なぜここを通ったのか。
何を見ていたのか。
自分の部屋に何が残っているのか知っているのではないか。
以前なら何でもなかった行動にさえ、今では一つずつ別の意味を探すようになっていた。
住民たちは互いに何も言わないままそれぞれの部屋へ戻り、扉を閉めると、当たり前のように鍵を掛けた。
◇
同じ頃。
別の階の一室では、一人の女が派手な内装のリビングで床に座り込み、目の前に並べた食料を何度も数えていた。
部屋の中には今でも高価な物が溢れている。
壁際にはブランド物のバッグがいくつも並び、クローゼットには一度しか袖を通していない服が何十着も掛かっていた。ドレッサーには高価な化粧品や香水が所狭しと並び、テーブルには腕時計やアクセサリーが無造作に置かれ、その周囲には既に飲み干した空の酒瓶が何本も転がっている。
寒波が来る前なら、部屋にある物だけでもかなりの金になっただろう。
だが今、女が見つめているのはバッグでも時計でもなかった。
残り僅かな食料だった。
カップ麺、缶詰、レトルト、それに水。
何度数えても増えない。
「……なんで?」
もう一度数える。
「なんでぇ……?」
当然、数は変わらない。
女は苛立ったように髪を掻き上げると、床に並べた食料を睨みつけた。
「どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの……?」
誰も答えない。
「おかしいじゃん……なんで?」
次第に声が高くなっていき、いつしか涙が頬を伝っていた。
「なんで私なの? 私、別に何も悪くないんだけどぉ?」
寒波が来る前、彼女は欲しい物を手に入れることにほとんど苦労したことがなかった。
高級レストランへ行きたいと言えば連れていってくれる男がいた。バッグが欲しいと言えば買ってくれる男がいて、旅行へ行きたいと言えば費用を出してくれる男もいた。
一人ではない。
何人もの男と同時に付き合い、それぞれに自分だけが特別だと思わせながら、欲しい物を手に入れてきた。この部屋の家賃もそうだった。
笑えば喜ぶ。
甘えれば金を出す。
少し機嫌を悪くすれば、向こうから慌てて謝ってくる。
男なんて、自分がその気になればどうにでもなる。
彼女は本気でそう思っていたし、そんな生活がこれからも続くのだと思っていた。
だが、今は違う。
金があっても食べ物は買えない。ブランド物のバッグをいくつ持っていても腹は膨れず、高価な服やアクセサリーを並べたところで、明日の配給が増えるわけでもない。
女は苛立ったままスマートフォンを手に取り、住民専用グループを開いた。
先ほどの六階の騒ぎについて、いくつか新しい書き込みが増えている。
女は大して興味もなさそうに画面を流していたが、ある名前で指が止まった。
一ノ瀬美咲。
「……ああ、この女」
確か、2501号室の騒ぎのきっかけになった女だ。
大量の食料を持っていると写真を晒し、その後、外から男たちまで呼び寄せた。
そこまで思い出したところで、女の指が止まる。
「そういえば……」
画面を少し戻した。
グループの参加者リスト。
そして、目的の名前を見つけた。
柴田剛。
女はその名前をじっと見つめた。
今、このマンションの食料を握っている男。
床に並べられた残り僅かな食料へ視線を落とし、それからもう一度、柴田剛の名前を見る。
そして、いつの間にか先ほどまで流れていた涙が止まっていた。
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Day 51
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 なし
生存確認者 100人
【今日のメモ】
「同じ寒さでも、結果が同じとは限らない。」
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大変失礼いたしました!




