番外編 某Tube――世界の五十日間
夜。
2501号室。
蓮は監視室の椅子へ腰を下ろし、十三階の廊下を映すモニターをしばらく眺めていた。
田中夫婦の事件が起きてから、マンションの空気は明らかに変わっている。廊下を歩く住民は減り、誰かとすれ違っても足を止めて話す者はほとんどいない。配給以外では部屋から出ようとせず、玄関の前に家具を置いたり、何度も鍵を確認したりする住民も増えており、監視カメラ越しに眺めているだけでも、住民たちの間に広がった恐怖と疑心暗鬼は十分に伝わってきた。
蓮はしばらく画面を切り替えながらマンションの様子を確認していたが、やがて背もたれへ身体を預けた。
「……こっちはもう大体分かったな」
マンションの中で何が起きているのか、人間が追い詰められればどうなるのか。それは前世でも、そして今世でも、嫌というほど見てきた。
ふと机の上に置かれたノートパソコンへ視線を向けた蓮は、日本がここまで壊れているのなら、海外は今どうなっているのだろうと思った。寒さに慣れた国、人口の多い国、もともと治安に問題を抱えていた国、そして寒さそのものをほとんど想定していなかった国。同じ寒波に襲われていても、国が違えば状況や崩れていく過程には多少の違いがあるかもしれない。
蓮はノートパソコンを開き、久しぶりに某Tubeへアクセスした。
通信速度は寒波が始まる以前とは比べものにならないほど遅く、トップページが完全に表示されるまでにもかなり時間が掛かった。サムネイルのいくつかは最後まで読み込まれず、動画によっては再生そのものに失敗している。それでも某Tube自体はまだ辛うじて動いており、ようやく表示された動画一覧を見て、蓮の目が僅かに細くなった。
『配給所で十二人死亡』
『家族を探しています。情報をください』
『この地区には絶対に来ないでください』
『三日間、水が出ていません』
『隣人が食料を奪いに来ました』
『避難所はもうありません』
以前なら投稿された直後に削除されていたであろう映像まで、今では普通に残っている。サムネイルの時点で見るに堪えないものまで混ざっていたが、それらが数時間どころか何日も公開されたままになっていた。
「……まだ残ってるのか」
運営方針が変わったわけではないのだろう。規約も通報機能も画面上には残っている。ただ、それを確認し、削除し、管理していた人間が今も通常通り働いているとは到底思えない。
蓮が画面をスクロールしていくと、表示される動画は日本のものだけではなかった。当然といえば当然だった。この寒波は、日本だけではなく世界中で起きている。
「……ちょっと見てみるか」
検索欄へ『Russia Moscow freeze Day50』と入力し、表示された動画の中から一つのアカウントを開く。その男は寒波が始まった日から、ほぼ途切れることなく記録を残していた。
投稿一覧を一番下まで遡り、蓮はDay1の動画をクリックした。
◇
【ロシア・モスクワ】
【Day 1】
画面に最初に映ったのは、雪の積もった赤の広場だった。遠くには色鮮やかな聖ワシリイ大聖堂が見え、広場にはまだ多くの人が歩いている。厚手のコートを着た観光客がスマートフォンを向け、雪を背景に写真を撮っている姿もあった。
やがてカメラが反転し、三十代半ばほどの男が映った。
『寒波一日目。ニュースでは異常寒波だとか言ってるけど、今のところは普通の冬だな』
画面下には某Tubeの自動翻訳による日本語字幕が表示されている。ところどころ不自然な訳になっていたが、意味を理解するには十分だった。
『パパ、雪!』
男の隣から十歳ほどの少女が顔を出す。
『毎年見てるだろ』
『でも今日はいっぱい!』
男が笑いながらカメラを娘へ向けると、少し離れたところには妻らしい女性も立っていた。娘が雪を投げれば、女性も笑いながらそれを避けている。
『日本とか南の国は大変かもしれないけど、こっちはロシアだからな。これくらいなら大丈夫だろ』
動画はそこで終わった。
蓮はそのままDay10を開く。
【Day 10】
同じ男が、今度は自宅の窓際から撮影していた。窓の外には集合住宅と道路が見え、Day1より雪は明らかに増えている。道路脇には除雪された雪が人の背丈ほどまで積み上げられていたものの、車はまだ普通に走っていた。
室内は暖かそうで、妻がキッチンで何かを作り、娘はテーブルで宿題をしている。
『十日目。学校は休みになった。会社も在宅勤務になったから、家族全員ずっと家にいる』
男はそう言いながらカメラをキッチンへ向けた。
『食料はまだある。暖房も水も問題なし。スーパーはかなり品薄だけど、政府が補給すると言ってる』
『パパ、また撮ってるの?』
娘が画面の向こうから手を振る。
『記録だよ。あとで笑って見られるようにな』
「……」
蓮は何も言わず、Day20を開いた。
【Day 20】
カメラは同じ窓際に置かれていたが、外の景色はかなり変わっていた。道路の雪はさらに深くなり、除雪されているのは中央の細い部分だけになっている。路肩に停められていた車の多くは雪に埋まり、以前は頻繁に行き来していた車も、今では数分に一台通る程度だった。
室内にいる男も厚手の服を着ている。
『二十日目。昨日から暖房が弱くなった。地域暖房の燃料が足りなくなってるらしい』
カメラがキッチンへ向けられると、Day10には食材が並んでいた棚が、ほとんど空になっていた。
『配給は始まったけど、一人当たりこれだけだ』
男が小さな袋を持ち上げる。娘も映っていたが、以前のようにはしゃいではいない。毛布を肩から掛け、母親の隣で黙って座っていた。
『まあ、まだ大丈夫だ。俺たちは寒さには慣れてる』
そう言って男は笑ったが、その笑顔はDay1ほど自然なものではなかった。
【Day 30】
動画が始まった瞬間、蓮は違和感を覚えた。
同じ部屋、同じ窓、同じ壁。しかしDay20まで窓の近くに置かれていたテーブルがなくなっており、代わりに部屋の隅には金属製の簡易ストーブが置かれている。そこから伸びた排気管は、板で塞いだ窓の一部を貫いて外へ伸びていた。
『三十日目。暖房は四日前に完全に止まった』
男はそう言うと、足元に積まれた木片を一つ持ち上げた。
『これ、覚えてる人いるかな。うちのテーブル』
Day10、娘が宿題をしていた、あのテーブルだった。
『昨日ばらした。今日は椅子を燃やす』
窓の外では雪が二階近くまで吹き溜まり、道路がどこにあったのかさえ分かりにくくなっていた。除雪車の姿はもうなく、雪面から車の屋根だけが僅かに見えている。
男がカメラを家族へ向けると、妻と娘が毛布に包まり、火の近くに座っていた。
もう、誰も笑っていなかった。
【Day 40】
動画はひどく暗かった。窓は毛布や板のようなもので塞がれ、外の光がほとんど入ってこない。以前あった椅子も棚もなくなり、壁には家具を動かした跡だけが残っている。
男は床に座って撮影していた。
『四十日目。昨日、隣の部屋の夫婦が死んだ。三日前から声がしなかったから、みんなで確認した』
そこで男は一度黙り、やがて床に積まれた木材へカメラを向けた。
『今日、その家から家具を運んだ。最初は嫌だった。でも、あの人たちにはもう必要ない。俺たちには必要だ』
男が再びカメラへ顔を向ける。その背後には、Day30まで妻と並んで座っていたはずの娘の姿がなかった。
蓮の指が止まった。
少しだけ動画を戻して確認するが、やはりいない。男も娘について何も説明していなかった。
蓮は無言のままDay50を開いた。
【Day 50】
数秒間、真っ暗な画面が続いたあと、小さな明かりが点き、男の顔が浮かび上がった。頬は痩せ、髭は伸びたままになっている。
同じ部屋のはずだったが、Day1から見てきた場所とは思えなかった。家具はほとんどなくなり、壁際には毛布とマットレスだけが残っている。窓は完全に塞がれ、部屋の中央では小さな火が燃えていた。
妻がその傍に座っている。
娘はいなかった。
『五十日目』
長い沈黙のあと、男が続ける。
『この付近には、寒波が始まった時、二百人以上いた。今朝の発表だと、三十七人だ』
男はそれ以上説明しなかった。
最後にカメラを持って廊下へ出ると、いくつもの玄関扉に白い文字で数字が書かれていた。それが日付だと分かるまでに、蓮にも少し時間が掛かった。
男は扉の前を黙って通り過ぎ、最後に窓を覆っていた板を僅かにずらした。外には白い世界しかなく、道路も車も見えない。Day10まで向かいに見えていた低い建物も、今では屋根の一部だけを雪面から出していた。
『俺たちは寒さを知っていた。でも、こんな冬は知らない』
その言葉を最後に、動画は終わった。
蓮は数秒ほど停止した画面を見つめ、それから次の検索を始めた。
◇
【中国・北京】
蓮が選んだのは、二十代後半ほどの女性だった。投稿一覧には寒波以前の動画も多く、旅行、料理、買い物、友人との日常など、ごく普通の内容が並んでいる。その中に『北京が白くなった!』という動画を見つけ、蓮は再生した。
【Day 1】
高層マンションの窓から、雪に覆われ始めた街並みが映っている。遠くまで建物が広がり、道路には大量の車と自転車が走っていた。
『見て! すごくない? こんなに降ると思わなかった』
女性は笑いながらカメラを反転させ、再び窓の外を映す。下の広場では子供たちが雪を投げ合い、大人たちもスマートフォンを取り出して写真を撮っていた。
【Day 10】
同じ窓から見える広場には、もう子供たちの姿はなかった。代わりに大きなテントが設置され、その前には住民たちが列を作っている。
『今日から社区で食料の配給が始まりました』
女性が米、野菜、保存食品の入った袋を見せる。
『ネットでは食料がないとか色々言われてるけど、うちの地区はちゃんと届いてます。だから今のところ大丈夫』
窓の下では係員が一人ずつ確認しながら食料を渡しており、住民たちもまだ整然と順番を待っていた。
【Day 20】
同じ広場だったが、雪はさらに高くなっていた。除雪された通路だけが深い溝のように残り、その両側には大きな雪壁ができている。配給を待つ列もDay10の倍以上になっていた。
『今日はこれだけ。ちょっと少なくなったけど、仕方ないよね』
女性が見せた袋は、十日前より明らかに小さい。本人は笑おうとしていたが、その表情にも以前ほどの明るさはなかった。
【Day 30】
広場には鉄製の柵が設置され、係員の数も増えていた。列は柵に沿って何度も折れ曲がり、Day1に見えていた植え込みやベンチは積雪の下へ完全に消えている。
『昨日来る予定だったトラックが、今日の午後になってやっと来ました』
女性はカメラへ顔を近づけ、声を落とした。
『昨日、隣の地区ではトラックが来なかったらしい。でも、政府がきっとなんとかしてくれるから大丈夫よ』
誰かに言い聞かせているというより、自分自身へ言い聞かせているように聞こえた。
【Day 40】
女性の顔には疲労がはっきりと浮かび、窓の外には以前よりさらに高い柵が見えていた。配給所の周囲には軍服姿の人間が立ち、列を作る住民との間を隔てている。
『昨日、配給所で喧嘩がありました。一人が二回受け取ったって誰かが言い出して、それで……』
女性は窓の下へカメラを向けた。雪の上には壊れた柵が一本だけ残されている。
『殴られてた人、動かなくなったけど、救急車は来ませんでした』
画面が室内へ戻る。
Day1に笑っていた女性は、もう笑わなかった。
【Day 50】
最初に映った女性の頬には、大きな傷があった。
『五十日目です。二日前、配給に行きました』
女性が窓へ近づき、カメラを外へ向ける。そこはDay1に子供たちが雪遊びをしていた広場のはずだったが、もう広場には見えない。雪面は大きく盛り上がり、かつてのベンチも植え込みも完全に消え、配給所を囲んでいた柵の一部は倒れ、テントの屋根も片側が潰れていた。
『予定の三割しか来なかったそうです。誰かが食料を取って走って、それから列が全部崩れました。人が倒れました。たくさん』
カメラが僅かに震える。
『私の前でも、一人倒れました。でも……私、止まりませんでした』
蓮の目が僅かに細くなった。
『後ろからずっと押されてたし、止まったら私も倒れると思った。それに……家に母がいるから。食べ物を持って帰らなきゃって、それしか考えてなかった』
女性はカメラから目を逸らした。
最後にもう一度広場が映されると、雪の上には片方だけの靴や破れた袋がいくつも残されていた。
◇
【アメリカ・ニューヨーク】
次に蓮が選んだのは、郊外の住宅街で妻と二人の子供と暮らす四十代の男だった。Day1のサムネイルには、家族四人と巨大な雪だるまが映っている。
【Day 1】
『ニューヨークが雪国になりました!』
男が笑いながら庭を映していた。二人の子供は巨大な雪だるまを作り、妻が玄関ポーチからその様子を眺めている。道路では車が普通に走り、向かいの家の男性も雪かきをしながら、カメラに気づくと笑って手を振った。
撮影者も手を振り返す。
どこにでもある、平凡な住宅街だった。
【Day 10】
同じ玄関ポーチから撮影されており、雪だるまもまだ残っていた。道路脇の雪は増えていたものの、除雪車が通った跡も見える。
『スーパー見てきたけど、ほとんど空だった。水と缶詰を少し確保した。数日で物流も戻るだろ』
向かいの家では、Day1に手を振っていた男性が今日も雪かきをしていた。
【Day 20】
雪だるまはほぼ埋まり、顔に使われていた石だけが雪面から覗いている。家の窓には板が打ちつけられていた。
『昨日、二ブロック先の店が襲われた。警察は来たけど、三時間後だった』
その後、カメラが男の腰へ下がる。
拳銃があった。
『念のためだ』
Day1にはなかったものだった。
【Day 30】
道路の入口には車や家具が横向きに並べられ、簡易的なバリケードが作られていた。近所の男たちが交代で見張っているらしく、撮影者自身も厚手の防寒着の上から銃を下げている。
『警察はもうほとんど来ない。だから自分たちで守ることにした』
カメラが向かいの家へ向く。Day1に笑って手を振っていた男性が、今度はライフルを持って玄関前に立っていた。
二人は遠くから手を上げる。
以前と同じ挨拶だった。ただし、その手には武器があった。
【Day 40】
夜の映像だった。
『FOOD!』
『WE HAVE CHILDREN!』
怒鳴り声とともに、自動翻訳された【食べ物をくれ!】【子供がいる!】という字幕が表示される。
撮影者が二階の窓から道路を映すと、バリケードの向こうには十人以上の人影があり、こちら側にも武装した住民たちが立っていた。
【子供がいるんだ!】
外から再び声が飛ぶ。
それに対して、バリケード側から男の声が返った。
【こっちにもいる!】
その夜の動画は、そこで終わっていた。
【Day 50】
同じ玄関ポーチだったが、Day1の面影はほとんど残っていなかった。巨大な雪だるまは完全に消え、道路も見えない。積み上がった雪によって地面そのものが高くなり、バリケードに使われていた車まで完全に雪へ埋まっている。
向かいの家の窓は割れ、玄関も半分開いていた。
『あそこに住んでたマイクを覚えてる人いるか?』
Day1に笑って手を振っていた男だった。
『三日前に死んだ』
それだけだった。
撮影者自身も髭が伸び、頬が痩せている。
『昨夜も来た。六人だった』
男は少し黙ったあと、何の感情も見せずに続けた。
『何人撃ったかは、もう数えてない』
カメラが道路へ向けられる。
かつて普通の住宅街だった場所には、人影が一つもなかった。
◇
【インド・ニューデリー】
次に蓮が選んだアカウントは、二十代前半の青年のものだった。寒波以前の投稿には妹らしい少女と一緒に写っている動画が多く、蓮はそのままDay1を開いた。
【Day 1】
雪の向こうにインド門が見える。
『雪だ! 本当に雪だぞ!』
青年は興奮した様子でカメラを回し、その隣では幼い妹が両手で雪を掬って笑っていた。両親らしい男女も後ろから歩いてくる。
家族四人。
このときはまだ、誰もこれから起こることを想像していなかった。
【Day 10】
自宅で撮影された映像では、家族全員が厚着をしていた。
『停電が増えました。暖房器具を買おうとしたけど、どこにもありません』
家の窓には布が詰められ、母親が妹へ何枚もの毛布を掛けている。
【Day 20】
撮影場所は巨大な駅構内へ変わっていた。何百、何千という人々が床へ毛布を敷き、少しでも暖を取ろうと身体を寄せ合っている。
『家よりここが安全だと言われて、避難してきました』
青年がカメラを回すと、奥では炊き出しが行われ、長い列ができていた。
妹はまだ笑っていた。
【Day 30】
青年たちは同じ柱の横を家族の場所にしているらしく、今回もほぼ同じ角度から撮影されていた。ただ、炊き出しの列は以前より遥かに長く、人々の間隔も狭くなり、駅の床は毛布と人間でほとんど埋まっている。
『今日は四時間並びました。四人分です』
青年が見せた食料袋は、とても四人分とは思えないほど小さかった。
【Day 40】
同じ柱の横。
だが、映っている家族は三人だった。
父親がいない。
青年はそのことには触れなかった。それ以上に蓮の目を引いたのは、Day30より駅構内の人間が明らかに減っていることだった。床に空いている場所が増え、以前は毛布で埋まっていた場所がいくつも露出している。
「……減ってるな」
避難所から帰宅できるような状況ではない。
それでも、人が減っていた。
【Day 45】
今度は母親が映らなくなっていた。
コメント欄には『お母さんは?』という質問がいくつも並び、投稿者はその中の一つにだけ返信していた。
『もう寒くないところへ行きました』
【Day 50】
同じ柱の横に残っていたのは、青年と妹だけだった。周囲にはさらに大きな空間ができ、Day20には人で埋め尽くされていた床が、今ではところどころ見えている。
妹は毛布の中で横になり、ほとんど動かなかった。
『妹が昨日から熱を出しています』
青年の声が震えていた。
『薬を持っている人がいたら、お願いします。食料と交換します』
青年は自分たちがいる場所を説明し、もう一度カメラへ顔を近づけた。
『何でもいいです。薬がある人、お願いします』
そこで動画は終わった。
蓮は投稿一覧へ戻り、画面に表示された時刻を確認した。Day50、投稿されたのは七時間前。その後の動画は、まだなかった。
数秒ほど画面を見つめたあと、蓮はそのアカウントを閉じた。
◇
【ノルウェー・オスロ】
次に選んだのは、オスロに暮らす三十代の女性だった。寒波以前の投稿には料理や旅行、街を散歩する動画が多く、寒波が始まってからも彼女はほぼ十日おきに、自宅の窓から見える同じ通りを撮影し続けていた。
【Day 1】
『寒波一日目です。ニュースではかなり騒いでいますが、今のところ特に変わったことはありません』
窓の外では雪が降っており、気温はマイナス十度前後。道路には除雪車が走り、その後ろをバスや乗用車が普段とほとんど変わらない様子で走っている。歩道にも人の姿があり、向かいのスーパーには客が出入りしていた。
『少し早い冬が来た、という感じですね』
女性はそう言って笑った。
暖房も電気も水道も正常に動いており、室内では薄手のセーター一枚で過ごしている。
「まあ、そうなるか」
蓮は小さく息を吐いた。マイナス十度なら日本では十分異常だが、この国にとっては、それだけで社会が止まるような気温ではない。
少なくとも、この時点では。
【Day 10】
同じ窓から見える道路にはDay1より明らかに雪が増え、道路脇には高い雪壁ができていた。それでも除雪車はまだ走っており、バスも本数を減らしながら運行を続けている。
『海外の動画を見ると大変なことになっていますね。こちらは今のところ大丈夫です。ただ、寒波がいつ終わるのか誰にも分からないそうです』
スーパーの商品も以前より少なくなったらしいが、棚が空になったわけではない。電気もある、水も出る、暖房も動いている。
「やっぱ北欧は寒さに強いな」
他国のDay10を思い出しながら画面を眺めた蓮から、素直な感想が漏れた。寒さへの備えが最初から違う。同じ寒波でも、スタート地点が違えば被害の出方もここまで変わる。
【Day 20】
三本目の動画を開いた瞬間、蓮にも変化が分かった。
同じ道路なのに、明らかに狭くなっている。除雪された雪が両側へ積み上げられ、人の背丈を遥かに超える壁になっていた。歩道の一部はすでに使えず、車も中央に残された狭い部分をゆっくり通っている。
『雪をどかす場所がなくなってきたそうです』
物流にも遅れが出始め、スーパーでは購入数の制限が始まっていた。それでも住民が商品を奪い合う様子はなく、映像の中では人々が静かに列へ並んでいる。
「まだ回ってるのか」
蓮は少しだけ眉を上げた。
異常な寒さと降雪が二十日も続いている。それでも社会そのものはまだ機能していたが、最初の動画にあった余裕は確実になくなっていた。
【Day 30】
道路が消えかけていた。
除雪されているのは中央の僅かな部分だけで、住宅街へ入る脇道は完全に雪へ埋もれている。
『市から連絡がありました。主要道路と病院、避難施設へ続く道路を優先するため、この地域の除雪回数を減らすそうです』
カメラが室内へ戻ると、女性はDay1とは違い厚手の服を着ていた。計画停電が始まり、使っていない部屋の暖房は切っているという。スーパーも毎日は開かなくなっていた。
『食料はまだあります。でも、いつ次の商品が届くのか分かりません』
蓮はそこで動画を一度止めた。
「寒さじゃないな」
本当に厄介なのは、気温がマイナス何度まで下がったかだけではない。三十日間、一度も終わらなかったことだ。除雪車にも燃料が必要で、発電にも燃料がいる。食料を運ぶ人間も必要になる。どれだけ寒さへの備えがあったとしても、消費するものが補充されなければ、いずれ限界は来る。
蓮は再生ボタンを押した。
【Day 40】
投稿場所は自宅から学校の体育館らしき場所へ変わっていた。簡易ベッドが並び、何十人もの住民が毛布や防寒着に包まれて生活している。
『四日前に、ここへ移りました。各家庭の暖房を維持するより、住民をいくつかの施設へ集めた方が燃料を節約できるそうです』
映像の奥では大人たちが食事を配り、別の場所では数人の住民が濡れた衣類を乾かしている。子供たちは体育館の一角へ集められ、何人かの大人が面倒を見ていた。
暴動もなければ怒鳴り声もなく、食事を受け取る人々は今でも順番に並んでいる。
「……まだ持ってるのか」
四十日。自宅を失い、物流も崩れ始め、それでも共同生活のルールは維持されている。
少なくとも、この投稿者がいる地域では。
【Day 50】
最後の動画は屋外から始まった。女性は厚い防寒着に身を包み、顔の大半まで覆っている。
『五十日目です』
カメラがゆっくりと周囲へ向けられた瞬間、蓮は一度、そこがどこなのか分からなかった。やがて遠くに見える建物の形から、Day1から撮影され続けていた、あの通りだと気づく。
道路は完全に消えていた。一階部分は大量の雪に埋まり、場所によっては二階の窓近くまで雪面が迫っている。バス停も道路標識もほとんど見えず、かつて車が走っていた場所の数メートル上を、人々が歩いていた。
雪の上には住民たちが毎日踏み固めた細い道があり、避難施設同士を繋いでいるらしい。
女性はしばらくその道を歩いたあと、一つの雪山を指した。
『あそこが、最初の動画を撮った私の家です。もう中には入れません』
家は完全に雪の下だった。
それでも女性は歩き続ける。背後では橇に物資を載せて運ぶ人々が通り、反対側からは雪かき道具を持った住民たちが歩いてきた。
『今日から食事が一日二回になりました。燃料も、あとどれくらいあるのか分かりません』
女性はそこで立ち止まり、自分たちが暮らしていた街を映した。
『でも、五十日目です。まだ、ここにいます』
動画はそこで終わった。
蓮はしばらく停止した画面を眺めていた。家は雪に埋まり、道路も物流もほとんど失われ、食事は一日二回まで減っている。それでも人々は同じ施設で暮らし、食料を分け、雪を掘り、互いに助けながら五十日目まで耐えていた。
「……すげえな」
素直にそんな言葉が漏れた。
しかし、その直後には画面に表示された一日二回の配給と、雪に埋まった街をもう一度見る。
「でも、これ以上続いたら……」
最後までは言わなかった。
五十日間耐えたことと、明日も耐えられることは、まったく別の話だった。
蓮は次の国の動画へカーソルを動かした。
◇
【ブラジル・リオデジャネイロ】
Day1の動画には大勢の人が映っていた。遠くにはコルコバードの丘とキリスト像が見え、その周囲をあり得ないほど白い雪が覆い始めている。
【Day 1】
『リオで雪だぞ!』
投稿者の青年が笑いながらカメラを回すと、周囲からも歓声が上がった。雪を初めて見るらしい人々がスマートフォンを構え、道路で写真を撮っている。
『こんなの一生に一度だろ!』
青年は楽しそうに笑っていた。
その言葉通りなら、どれほど良かっただろう。
【Day 10】
同じ窓から街を撮影していたが、雪は大幅に増えていた。
『昨日からほとんど停電してる』
青年が室内を映すと、家族は毛布に包まり、テーブルの上には蝋燭が置かれている。
『暖房? そんなもの、うちにはないよ』
青年は笑った。
まだ、その程度の冗談を言う余裕はあった。
【Day 20】
街の一角から黒い煙が上がっていた。
『また火事だ』
寒さに耐えるため、屋内外で無理に火を使う人間が増え、火災が頻発しているらしい。
『消防車は来れない』
カメラが道路へ向けられたが、そこに走っている車は一台もなかった。
【Day 30】
夜。
遠くから銃声が聞こえ、青年は窓から少し離れた場所で撮影していた。
『下のスーパーが襲われた。もう何も残ってないのに』
さらに銃声が響くと、青年は反射的に身を低くした。
『警察も今はいない』
Day1にあった笑顔は、完全に消えていた。
【Day 40】
マンションの入口は家具と鉄板で塞がれ、住民たちが交代で見張っているらしい。
『昨日、三人入ろうとした』
青年はそれだけ言った。
窓の外ではさらに雪が積もり、低い住宅の多くが下層階まで埋まっていた。道路があった場所も白い斜面のようになり、かつて走っていた車は一台も見えない。
遠くでは火が燃えていた。
【Day 50】
青年はDay1と同じ窓の前に立っていた。
同じ場所だった。
だが、同じ都市には見えなかった。
街は暗く、低い建物は雪に飲み込まれ、高層建築だけが白い世界から突き出している。遠くにはコルコバードのキリスト像が辛うじて見え、その下では複数の場所から黒い煙が上がっていた。
どこかで銃声が響く。
さらに数発。
青年はもう窓から離れず、銃声にも表情を変えなかった。
『五十日前、俺たちは雪を見て笑ってた』
カメラがゆっくりと窓の外へ向く。
『今は、誰も笑わない』
そこで動画は終わった。
◇
蓮は某Tubeのトップページへ戻った。
関連動画には今も世界各地から新しい投稿が増え続けており、フランス、ドイツ、イギリス、韓国、スペイン、カナダと、国名も言葉も違っている。それでも自動翻訳された動画タイトルへ目を通していくと、そこに並んでいる言葉は驚くほど似通っていた。
『食料がありません』
『母を探しています』
『この地区には来ないでください』
『薬を持っている人はいませんか』
『避難所が閉鎖されました』
『今日、兄が死にました』
『まだ生きています』
蓮はしばらく画面をスクロールした。
寒さへの備えも、国の対応も、崩壊していく過程もそれぞれ違った。ロシアは寒さに慣れており、中国は巨大な仕組みで人々を管理しようとした。アメリカでは住民たちが自ら武器を持ち、インドでは寒さそのものへの備えが足りず、ノルウェーでは最後まで秩序を守ろうとしていた。ブラジルでは都市そのものが寒さへの備えをほとんど持っていなかった。
壊れ始める時期も違えば、壊れ方も違う。
それでも五十日という時間が経てば、人々が求めているものはほとんど同じだった。食料、水、燃料、薬、安全な場所。そして、自分と家族が明日まで生きること。
蓮が最後にもう一度トップページを眺めていると、数秒後、新しい動画が一つ増えた。
また別の国だった。
蓮はそれをクリックせず、ノートパソコンを閉じてソファへ身体を預けた。
「……結局、どの国も大して変わらんな」
部屋に静けさが戻る。
窓の向こうでは今日も雪が降り続けており、世界中で降り続いているその雪が、今夜もまた少しずつ街を埋めていた。
蓮はしばらく窓の外を眺めていたが、やがてテーブルの上へ手を伸ばした。動画を見始める前に淹れたコーヒーは、もうすっかり冷めている。
それでも何も言わずにカップを持ち上げ、冷め切ったコーヒーを一口飲んだ。
今回描いた各国の状況は、あくまで本作の世界観をもとに「もしこの寒波が50日間続いたら」と作者なりに想像したフィクションです。実際の国や地域、人々に対する偏見や批判の意図は一切ありません。




