第74話 Day 50 100
朝。
一階の配給所には、決められた時間になると、今日も住民たちが階ごとに集まり始めていた。
ただ、以前のように同じ階の住民同士で雑談をする者はほとんどいない。名前と部屋番号を確認され、自分たちの人数に応じた食料を受け取ると、そのまま足早に来た道へ戻っていく。
昨日まで普通に挨拶をしていた相手でさえ、今は何を考えているのか分からない。
この日の配給にも三浦が立ち会っていた。
少し離れた場所に椅子を置き、代表が名簿を確認しながら食料を渡していく様子を眺めている。
田中夫婦の事件以来、三浦は住民たちの動きを以前より注意して見るようになっていた。
誰かに命令されたわけでもなければ、食料を奪えと柴田たちが命じたわけでもない。それでも、自分からそこまで踏み込んだ人間が現れた。
そして三浦は、以前住んでいた場所ですでに経験している。
そう、一人が壊れると、それで終わらない。
連鎖する。
三浦が警戒しているのは、その事実だった。
配給はいつも通り下の階から順番に進み、やがてほとんどの住民が食料を受け取った頃、名簿を確認していた代表の手が止まった。
「……あれ」
三浦が顔を上げる。
「どうした?」
代表は名簿を見直してから答えた。
「今日も一人、来ていません」
その言葉を聞いた瞬間、近くにいた住民たちの表情が変わった。
「……また?」
誰かが小さく呟き、別の住民も不安そうに代表を見る。
「誰ですか?」
「昨日は来てたんですか?」
次々と質問が飛んだ。
昨日も、田中は配給へ来なかった。そして部屋を確認した結果、夫婦二人が殺されているのが見つかった。
だから誰も、ただの欠席だとは思えなかった。
「また誰かに襲われたんじゃ……」
その一言で周囲がざわつき、代表が慌てて声を上げる。
「待ってください。まだ何も分かっていません」
「でも昨日だってそうだったじゃないですか」
「誰か同じ階の人はいないんですか?」
「昨日、その人を見た人は?」
ざわめきが大きくなり始めたところで、三浦が椅子から立ち上がった。
「うるせえな」
大声ではなかった。
それでも住民たちは口を閉じた。
三浦は代表のところまで歩いていき、手元の名簿を覗き込む。
「誰だ?」
「1504号室の小林さんです」
「一人?」
「はい。七十代の男性で、一人暮らしです」
「昨日は?」
代表が記録を確認する。
「来ています」
三浦が眉を寄せた。
昨日は来ていた。それが今日は来ていない。
「知ってる奴いる?」
集まっていた住民の中から、一人の女性がおそるおそる手を上げた。
「……私、隣です」
「その爺さん、昨日見た?」
「はい。配給から戻る時に少し話しました」
「何か変だった?」
女性は少し考えてから頷いた。
「前から咳はしていましたけど、昨日は特に顔色が悪かったです。大丈夫ですかって聞いたんですが……」
「何て?」
「大丈夫だからって。それだけです」
三浦は数秒黙った。
「見に行くぞ」
◇
十五階。
1504号室の前には三浦と住民代表、それから同じ階の住民が何人か集まっていた。
ただし、誰も玄関へ近づこうとはしない。昨日の田中宅を思い出しているのだろう。
代表がインターホンを押した。
ピンポーン。
返事はない。
もう一度押したが、やはり何も聞こえなかった。
「小林さん」
代表が扉越しに呼び掛ける。
「小林さん、いらっしゃいますか?」
返事はない。
三浦が前へ出て、今度は拳で何度か扉を叩いた。
「おい、爺さん!」
それでも何も聞こえなかった。
三浦が代表を見る。
「鍵は?」
「ありません」
「管理人は?」
「元管理人ならいますけど、各部屋の鍵までは……」
代表はそこまで言ってから、何かを思い出したように言葉を止めた。
「ただ、小林さんは以前、一度部屋の中で倒れたことがあったはずです」
「それが?」
「確かその時、緊急時のために管理室へ鍵を預けたと聞いたことがあります」
「じゃあ確認してこいよ」
代表はすぐに元管理人へ連絡した。
◇
しばらくして、元管理人が一本の鍵を持って十五階へ上がってきた。
「ありました」
「開けて」
三浦に言われ、元管理人は鍵を差し込んだ。
カチャ。
鍵は開いた。
だが、扉を押したところで途中で止まった。
元管理人が僅かに開いた隙間から中を確認する。
「……チェーンが掛かっています」
周囲の住民たちから小さな声が漏れた。
内側からチェーンが掛かっている。
昨日の田中宅とは明らかに状況が違う。
三浦は僅かな隙間から室内を覗き込んだが、薄暗い玄関が見えるだけで、人の姿はなかった。
「爺さん!」
呼び掛けても返事はない。
三浦は少し考えたあと、元管理人を見る。
「切るぞ」
「え?」
「チェーン」
元管理人は戸惑った。
「切るんですか?」
「中見ねえと分かんねえだろ」
「……」
「昨日のこともある。開けるしかねえよ」
元管理人はしばらく迷ったあと、小さく頷いた。
◇
道具を持ってこさせ、チェーンを切った。
扉が開く。
最初に中へ入った三浦は、玄関で一度足を止めた。
荒らされた様子はない。靴も揃っており、棚の上に置かれた物もそのままで、誰かが室内を探し回ったような形跡も見当たらなかった。
「おーい」
三浦が呼ぶ。
返事はない。
廊下を進んでリビングを確認したが、誰もいなかった。その奥にある寝室の扉だけが僅かに開いている。
三浦はゆっくり近づき、その扉を押した。
ベッドの上に人がいた。
布団を胸元まで掛けたまま、横になっている。
「……おい」
反応はなかった。
三浦はそれ以上近づかず、後ろから入ってきた代表へ顔を向けた。
「医者呼べ」
◇
田村と朝霧が到着するまで、それほど時間は掛からなかった。
二人が寝室へ入り、三浦たちはリビングで待つ。
しばらくして、田村が寝室から出てきた。
「亡くなっています」
代表が俯いた。
三浦は壁へ背中を預けたまま尋ねる。
「殺されたのか?」
「いえ」
田村は首を横に振った。
「少なくとも目立った外傷はありません。室内にも争ったような形跡は見当たりませんし、玄関には内側からチェーンが掛かっていたんですよね?」
元管理人が頷いた。
「はい」
少し遅れて朝霧も寝室から出てくる。
「以前から何か病気を持っていたか分かりますか?」
元管理人が記憶を辿るように考えた。
「心臓が悪かったとは聞いています。以前この部屋で倒れた時も、それが原因だったと思います」
田村は小さく頷いた。
「正確な死因までは分かりませんが、今の状況を見る限り、それが原因でしょう」
その話が廊下で待っていた住民たちへ伝わると、何人かが明らかに安堵した。
「殺されたんじゃないんだ……」
誰かが小さく呟いた。
一人の人間が死んでいる。
それなのに、殺人ではなかったことに安心している。
三浦は何も言わず、その住民たちを眺めていた。
以前なら、老人が一人亡くなったというだけで十分大きな出来事だったはずだ。
だが今は違う。
殺されていなかった。
そのことに、皆がほっとしている。
三浦は小さく息を吐いた。
◇
1504号室を出たあと、三浦は廊下に並ぶ玄関を眺めながら、隣を歩いていた代表へ何気なく尋ねた。
「そういや、このマンションって全部で何部屋あんの?」
「全部ですか?」
「ああ」
代表は少し考えてから答えた。
「二十五階だけ三戸で、それ以外の住居階は七戸です。ただ、一階はエントランスや管理室などの共用部で、八階と十二階にも住居はありません」
「八階と十二階は?」
「八階はフィットネスジムとラウンジです。十二階には屋内プールとスパがあります」
三浦が少し意外そうに眉を上げた。
「へえ。プールまであんのかよ。さすが高級マンションだな」
「もちろん、今は閉鎖していますけど」
「そりゃそうだ」
三浦は小さく笑った。
それから少しだけ考え、再び代表を見る。
「で、今このマンションに何人残ってんだ?」
代表はすぐには答えず、手にしていた名簿へ目を落とした。
「正確な人数なら、名簿を確認すれば分かります」
「じゃあ確認しといてくれ」
「分かりました」
「終わったら連絡して」
三浦はそれだけ言うと、エレベーターへ向かった。
◇
十七階へ戻ると、柴田はリビングのソファに座っていた。
三浦が部屋へ入ってくるなり、柴田が顔を向ける。
「どうだった?」
「死んでた」
柴田の眉が僅かに動いた。
「また?」
「今度は殺しじゃねえよ。爺さんが一人、ベッドで死んでた。医者の話じゃ、たぶん心臓病だと」
「なんだ」
柴田は興味を失ったように、ソファの背もたれへ身体を預けた。
三浦は空いている椅子へ腰を下ろす。
「ついでに、今このマンションに何人残ってるか調べてもらってる」
柴田が再び三浦を見る。
「何でそんなことしてんだ?」
「知っといて損ねえだろ」
「何人いようが、別に変わんねえだろ」
「変わるよ」
三浦はテーブルの上にあった水を手に取り、一口飲んだ。
「何人いるのかが分かるだけで全然違う。どの階に何人いて、どれだけ食料が必要なのかも分かるし、何かあった時に動きやすい」
柴田は黙って聞いている。
三浦はペットボトルをテーブルへ戻した。
「情報は多い方がいい。俺らがここを仕切ってんだから、何も知らねえより把握してた方が楽だろ」
「……まあな」
柴田はそれ以上何も言わなかった。
三浦も話を続けず、椅子へ深く身体を預ける。
部屋にはしばらく、男たちの話し声と、時折聞こえる食器の音だけが流れていた。
それから三十分ほど経った頃だった。
テーブルの上に置いていた三浦のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
住民代表からだった。
『確認できました。小林さんを除いて、現在このマンションに居住している住民は100人です』
三浦は画面を見たまま、僅かに眉を上げた。
「剛」
「ん?」
「来たぞ」
柴田が面倒そうに顔を向ける。
「何が?」
「人数」
三浦はスマートフォンを見ながら答えた。
「今このマンションに残ってんの、ちょうど百人だってよ」
「百?」
「ああ」
柴田は一瞬だけ考えたあと、何がおかしいのか小さく笑った。
「ちょうど百か」
三浦が顔を上げる。
柴田はソファへ身体を預けたまま、何でもないことのように続けた。
「キリがいいじゃねえか」
三浦は何も答えなかった。
寒波が始まって、今日で五十日目だった。
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Day 50
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
生存確認者 100人
【今日のメモ】
「今日、このマンションに残っている人間の数を知った。」
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すみません!更新が遅れました!




