第73話 Day 49 連鎖
朝。
昨日、田中夫婦が自宅で殺されているのが見つかり、住民専用グループでは昼過ぎまで犯人を巡って激しい言い争いが続いていた。
証拠もないまま疑いだけが広がり、最後には「これ以上住民同士で争うのはやめよう」という言葉で表面上の騒ぎは収まったものの、誰かが誰かを疑うようになった空気だけは、そのままマンションの中へ残っていた。
それでも翌朝になり、配給開始の時間が近づくと、住民たちは昨日までと同じように一階へ降りてきた。
誰かが殺され、犯人は分からない。もしかすると、同じ列に並んでいる人間の中にその犯人がいるのかもしれない。
それでも腹は減る。
決められた時間に来なければ、食料は受け取れない。
だから住民たちは互いに距離を取り、ほとんど会話も交わさないまま、それぞれ自分の階が呼ばれるのを待っていた。
昨日あれほど騒いでいたことなど、まるで何もなかったかのようだった。
◇
この日の配給所には、柴田ではなく三浦がいた。
共同倉庫の見張りや配給の立ち会いは七人の中で交代するようになっており、柴田自身が毎日一階へ下りてくる必要もなかった。
三浦は壁際へ椅子を置き、住民代表たちが食料を渡していく様子をぼんやり眺めていた。
以前より配給量は明らかに減っていたが、それでも文句を言う人間はいない。十階で柴田に逆らった住民がどうなったのかを、全員が知っているからだ。
「次、十三階です」
代表の声に合わせ、待っていた住民たちが前へ進む。
一世帯ずつ名前を確認し、人数に応じて決められた食料を渡していく。受け取った者は、その場で中身を確認することもなく、すぐに配給所から離れていった。
ほとんど最後まで進んだところで、三浦が名簿へ目を向けた。
「なあ」
代表が顔を上げる。
「はい?」
「昨日も来てなかったよな」
代表の表情が僅かに固まった。
三浦は名簿を指差した。
「田中って奴」
「……はい」
「今日も来てねえじゃん」
代表はすぐに答えなかった。
それを見た三浦が眉を寄せる。
「何だよ」
「田中さんは……もう来ません」
「は?」
意味が分からず、三浦が代表を見る。
代表は周囲を一度確認したあと、少し声を落とした。
「昨日、田中さんの部屋で、ご夫婦二人が亡くなっているのが見つかりました」
「死んだ?」
「はい」
三浦は一瞬だけ黙った。
「病気か?」
「……いえ」
代表はさらに声を落とした。
「殺されていました」
その一言で三浦の表情が変わった。
それまで椅子へ深く座っていた身体を少し起こし、代表を見つめる。
「二人とも?」
「はい」
「誰に」
「分かっていません」
三浦は数秒黙ったあと、今度は別のことを聞いた。
「食いもんは?」
代表が答えに詰まる。
「……何ですか?」
「そいつらの部屋だよ。食いもん残ってたのか?」
代表は三浦が何を聞きたいのか理解したらしく、表情を曇らせた。
「全部なくなっていたそうです」
その一言を聞いた瞬間、三浦の顔から先ほどまでの気怠そうな様子が消えた。
「……そっか」
代表は何も答えない。
三浦は十三階の住民たちへ視線を向けた。
配給を受け取った者たちは、こちらの会話を聞いていないふりをしながら次々と立ち去っていく。
先日、自分たちは食料を完全に止めるべきではないと話した。全員を限界まで追い詰めれば恐怖など意味を失い、何十人もの住民が一斉に共同倉庫へ向かってくるかもしれない。
だから最低限だけは食わせ、死なない程度に与え、反抗する者だけを叩く。
それで住民を抑えられると考えた。
だが実際には、住民たちは柴田たちへ向かわず、もっと近くにいて、もっと簡単に奪えそうな相手へ向かった。
三浦はしばらく何も言わず、名簿の上に残された田中の名前を見つめていた。
やがて代表が尋ねる。
「あの……十三階はこれで終わりですが」
三浦は顔を上げた。
「ああ。次やれ」
そのまま十四階の配給が始まった。
◇
その日の配給がすべて終わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
食料を片づけ、共同倉庫の見張りを次の仲間へ引き継ぐと、三浦はそのまま十七階へ上がった。
柴田と一ノ瀬が使っている部屋には、柴田のほかに二人の仲間がいて、テーブルには菓子の袋と飲みかけの水が置かれていた。
三浦が入ってくると、柴田がソファから顔を上げた。
「終わった?」
「ああ」
三浦は空いている椅子へ座ったが、いつもならそのまま適当に何か食べ始めるところを、この日はしばらく何も手に取らなかった。
柴田がそれに気づく。
「何だよ」
「昨日、十三階で二人殺されたらしいぞ」
柴田の眉が僅かに動いた。
「誰?」
「田中って夫婦」
「知らねえ」
「俺も知らねえよ。昨日の配給に来なかった奴」
そこで柴田も思い出したらしく、軽く頷いた。
「ああ、来ねえなら飯浮くって言った奴か」
「それ」
柴田は特に驚いた様子もなく、菓子を口へ放り込んだ。
「で?」
「部屋で夫婦揃って殺されてたってよ」
「ふーん」
それだけだった。
三浦は柴田を見る。
「食いもんもなくなってたらしい」
その瞬間、柴田の手がほんの僅かに止まり、今度は明らかに反応が変わった。
「……犯人は?」
「分かってねえ」
少し離れたところで話を聞いていた仲間の一人が笑った。
「住民同士で殺し合っただけだろ?」
柴田は一瞬だけ黙ったあと、鼻で笑った。
「……だな」
「別にいいじゃん。勝手にやらせとけよ。食料も浮くし」
三浦は笑わなかった。
その表情を見て、柴田も少しずつ笑みを消した。
「何だよ」
「この前、俺が言っただろ」
「何を」
「食いもんなくなったら、あいつら何するか分かんねえって」
三浦はペットボトルの蓋を開け、一口飲んだ。
「もう始まってんだよ」
部屋が少し静かになった。
柴田は三浦を見る。
「でも俺らのとこには来てねえじゃん」
「今はな」
「だったらいいだろ」
「本当にそう思うか?」
三浦はそう言って椅子へ深く座り直すと、少し間を置いて続けた。
「今は、近くにもっと簡単に奪える奴がいる。だからそっち行ってるだけ」
柴田は何も言わない。
「田中って奴の家に食いもんが残ってるって、誰かが知ってたのかもしれねえ。夫婦二人ならやれると思ったのかもしれねえ。それで実際、殺して全部持ってった」
三浦は柴田たちを順番に見た。
「でも、そういう家がなくなったら?」
今度は仲間たちも笑わなかった。
「部屋に隠してる食いもんが減って、奪えそうな相手もいなくなって、それでも腹は減る。そん時に誰が一番食いもん持ってる?」
答える必要はなかった。
共同倉庫。
そこを押さえているのは柴田たちだ。
「だから昨日から配ってんだろ」
柴田が言うと、三浦は頷いた。
「ああ。それは正解だったと思う。でも思ったより早い」
「何が」
「壊れるのが」
三浦は短く答えた。
わずか数日前まで、住民たちは何かあればグループで話し合い、代表を通し、全員でルールを決めようとしていた。それが今では、食料のために同じマンションの夫婦を殺す人間まで出ている。
柴田たちが何かをしたからではない。
誰かに命令されたわけでもない。
自分から、そこまで踏み込んだ人間が現れた。
そして三浦は、以前住んでいたマンションですでに同じような光景を見ている。
一度壊れ始めれば、それは一人では終わらない。
壊れたものは、連鎖する。
三浦が警戒しているのは、その事実だった。
「俺ら七人しかいねえぞ」
「男は六人だけどな」
仲間の一人が口を挟んだ。
隣で菓子を食べていた一ノ瀬が顔を上げる。
「私を数に入れてないってこと?」
「殴り合いになった時にお前が何人倒せんだよ」
「は?」
一ノ瀬が露骨に不機嫌そうな顔をしたが、柴田はそれを無視した。
「で、どうすんだよ」
三浦は少し考えた。
「とりあえず見張り増やす。倉庫も一人だけになる時間は作らねえ方がいい」
「配給は?」
「今のままでいい。少なくても毎日何か出ると思わせといた方がいい」
柴田が鼻で笑う。
「犬の餌かよ」
その言葉に、一ノ瀬が笑った。
「前にも言ったじゃん。飼い殺しだって」
三浦はその冗談には乗らず、淡々と答えた。
「呼び方は何でもいい。暴れない程度に食わせとけってことだ」
少し間を置いてから、柴田が聞いた。
「人数増やすか?」
三浦が顔を上げる。
「誰を」
「前のマンションの奴ら誰か呼ぶか?」
三浦はしばらく考えてから首を振った。
「いや、それはやめとけ。向こうに残ってるやつらはもう信用できねえ」
「確かにな。勝手なことやりそうだし」
「ならどうする」
「知らねえよ。このマンション結構な数いんだろ? 使えそうなの何人かいるんじゃねえの」
「誰でも入れりゃいいってもんじゃねえぞ」
「何で」
「食いもん目当てで寄ってきた奴ばっか集めたって、こっちの食いもん減るだけだろ」
それは柴田にも分かったらしい。
「じゃあ使える奴だけ?」
「ああ」
三浦は頷いた。
「腕っぷしでもいいし、何かできる奴でもいい。こっちが食わせる意味のある奴ならな」
その言葉を聞いて、仲間の一人が笑った。
「どうせ増やすなら、男ばっかじゃなくてもよくね?」
三浦がそちらを見る。
「何だよ」
男はソファへ身体を預けながら、少しふざけた調子で続けた。
「いや、俺ら六人も男いるじゃん。剛は美咲いるからいいけどさ」
その瞬間、一ノ瀬の表情が変わった。
「……何それ」
男は笑う。
「別に無理やり連れてこいって言ってねえよ。食いもん多めにやるって言えば、自分から来る女だっているんじゃねえの?」
「女入れて何の役に立つの?」
一ノ瀬が即座に返した。
男が一ノ瀬を見る。
数秒。
「お前がそれ言う?」
「は?」
別の男が吹き出し、柴田まで僅かに笑った。
「やめろって」
「何よ」
一ノ瀬は明らかに機嫌を悪くしていたが、三浦はそんなやり取りを面倒そうに眺めたあと、ため息をついた。
「男でも女でもどうでもいい。別に今からすぐ募集するわけでもねえ」
そして、テーブルを指で軽く叩いた。
「ただ、使える奴がいたら覚えとけ」
柴田はその言葉を聞きながら、しばらく何かを考えていた。
今までなら、力があればそれでよかった。扉を壊し、食料を奪い、逆らう人間を黙らせるだけなら、六人も男がいれば十分だった。
だが、これから何十人もの住民を相手に食料を管理し、共同倉庫を守り、配給まで続けていくのであれば、話は少し変わってくる。
柴田はソファへ深く身体を沈めた。
「まあ、使える奴がいたらな」
今は、それだけだった。
◇
同じ頃。
十四階では、配給を受け取った一人の女性が廊下を歩いていた。
年齢は三十代前半で、一人暮らしだった。手には今日受け取ったばかりの食料が入った小さな袋があり、廊下ですれ違う住民に軽く頭を下げながら、自分の部屋へ向かっている。
やがて一つの玄関前で足を止め、鍵を開けると、そのまま中へ入り、すぐに扉を閉めた。
ガチャ。
施錠する音が廊下へ響く。
その少し離れた場所に、一人の男が立っていた。
男も同じ十四階に住んでおり、彼女の隣人だった。
以前なら、互いに顔を合わせれば挨拶をする程度の関係だった。
男は閉じた玄関扉を見つめたまま、しばらく動かなかった。
昨日、田中夫婦が殺された。
犯人はまだ分かっていない。
警察は来ない。
誰も捜査をしない。
住民たちは一日中犯人探しをしていたが、結局何一つ分からないまま、それぞれ自分の部屋へ戻った。
男は女性の玄関を見つめながら、そんなことを考えていた。
以前なら、頭の中で考えるだけでも、どこかで自分自身に止められていたことがある。
だが今、このマンションで何かが起きても、いったい誰が助けに来るのだろう。
男は数秒だけ玄関を見つめたあと、自分の部屋へ戻った。
まだ何もしなかった。
ただ、閉じた扉の向こうにいる女性のことを、以前とは違う意味で意識し始めていた。
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Day 48
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
【今日のメモ】
「ルールが消えた時、自由になるとは限らない。」
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