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氷河期ストレージ ~裏切られて死んだ俺は、30日前に戻り無限収納で世界を生き抜く~  作者: 宵白レン


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第72話 Day48 疑心暗鬼

朝。


一階の配給所には、決められた時間になると住民たちが階ごとに集まり始めていた。


昨日までとは、明らかに空気が違っている。共同倉庫を占拠した柴田たちは配給を再開すると宣言したものの、配られる量は以前より大幅に減らされ、そのうえ文句を言えば食料を渡さないという一方的なルールまで押しつけられていた。


それでも列を乱す者はおらず、少なすぎると声を上げる者も、どうしてこれだけなのかと問い詰める者もいない。


昨日、十階の住民がどうなったのかを全員が知っていたからだ。


住民たちは名前と部屋番号を確認されると、決められた量の食料を受け取り、袋の中身をその場で確かめることさえせずに離れていく。


やがて十三階の番になり、住民代表の一人が名簿を確認しながら部屋番号を順番に読み上げ、集まった住民へ食料を渡していった。


柴田は少し離れた場所に椅子を置いて座っており、すぐ手の届く壁際には、あの大型ハンマーが立て掛けられている。


もう、自分から何かをする必要すらなかった。


そこに置かれているだけで、住民たちは何も言わなくなった。


十三階の住民への配給がほぼ終わったところで、名簿を確認していた代表が小さく眉を寄せた。


「……あれ?」


柴田が顔を上げる。


「何だよ」


「一世帯、まだ来ていません」


「誰?」


代表は名簿へ視線を落とした。


「1307号室の田中です」


柴田は少し考えるような素振りを見せたが、名前に覚えがなかったのか、すぐに興味を失った。


「知らねえよ。来ねえなら放っとけ」


「でも、配給を受け取らないと……」


「いいじゃねえか」


柴田はテーブルに残っている食料へ目を向け、何でもないことのように笑った。


「来ねえなら、その分食いもん減らねえんだから」


代表は何も言えなかった。


柴田は顎で名簿を示す。


「次」


それだけで田中の名前は飛ばされ、そのまま十四階の配給が始まった。



十三階。


配給を受け取った住民たちは、それぞれの部屋へ戻っていた。


以前なら同じ階の住民同士で足を止め、今日の量は少なかった、明日はどうなるのか、次の救援物資はいつ来るのかと話すこともあった。だが今は、誰も余計な話をしようとはせず、受け取った食料を抱えて自分の部屋へ戻っていく。


その中の一人が、田中宅の前を通り過ぎようとした時だった。


何気なく玄関へ向けた視線が止まる。


「……ん?」


玄関扉が、僅かに開いていた。


ほんの数センチだったため、最初は閉め忘れかと思ったものの、すぐに違和感を覚えた。


今のマンションで玄関の鍵を掛け忘れる人間など、ほとんどいない。食料を巡って住民同士が争い、昨日だけでも人が死んでいるため、誰もが自分の部屋へ戻れば真っ先に鍵を掛け、寝る前には何度も確認するような状況になっている。


その中で、玄関扉そのものが開いている。


男はしばらく足を止めたまま隙間を見つめていたが、ふと、さっきの配給に田中がいなかったことを思い出した。


「……田中さん?」


返事はなかった。


「田中さん、いますか?」


もう一度声を掛けても何も聞こえず、嫌な予感が胸の奥に広がっていく。それでもそのまま立ち去ることはできず、男は抱えていた配給袋を片手に持ち替えると、空いた手を玄関扉へ伸ばした。


「……開けますよ?」


ゆっくりと扉を押す。


僅かだった隙間が、少しずつ広がっていった。


次の瞬間、男の手から配給袋が落ちた。


缶詰が廊下を転がり、レトルト食品の袋が床へ散らばり、水のペットボトルが鈍い音を立てて壁へぶつかったが、男は拾おうともしなかった。


開いた玄関の向こうで、田中が倒れていた。


その身体の周囲には、既に乾き始めたどす黒い跡が残っている。


「……田中、さん?」


自分でも、なぜ呼び掛けたのか分からなかった。


目の前の光景を見れば、返事などないことくらい分かる。それでも男はもう一度名前を呼び、そこで初めて、玄関のさらに奥にも誰かが倒れていることに気づいた。


「……え?」


数秒間、男はその場から動くことができなかった。


頭が、目の前にあるものを理解することを拒んでいた。


やがて意味を理解した瞬間、男の喉から悲鳴が漏れた。


「う、うわああああああああっ!!」


十三階の廊下に、その声が大きく響いた。



悲鳴を聞いた近くの住民たちが、次々と部屋から顔を出した。


「何!?」


「どうしたんですか!?」


「何があった!?」


男は答えることができず、ただ開いた田中宅の玄関を指差した。


一人の住民が恐る恐る中を覗き込んだが、その瞬間に息を呑み、反射的に後ろへ下がった。


「……田中さんが……」


その一言だけで十分だった。


集まってきた住民たちは田中宅から距離を取り、誰も中へ入ろうとはしなかった。


やがて連絡を受けた住民代表たちが十三階へ駆けつけ、それから少し遅れて田村と朝霧も姿を現した。


「皆さん、少し離れてください」


田村が住民たちを下がらせると、朝霧は何も言わず田中宅へ入り、玄関に倒れている田中の傍らへしゃがみ込んだ。


田村はさらに奥へ進み、妻の状態を確認する。


廊下に残った住民たちは、誰一人として声を出さなかった。


しばらくして朝霧がゆっくりと立ち上がり、田村も奥から戻ってきた。


住民代表の一人が、恐る恐る尋ねる。


「……先生」


田村は答える前に、一度だけ目を閉じた。


「二人とも、亡くなっています」


廊下に小さなどよめきが起こった。


朝霧は何も言わなかった。その表情は硬く、玄関に倒れた田中から、しばらく視線を外すことができなかった。


医師である二人が確認したことで、僅かに残されていた可能性さえ消えた。


田中夫婦は、死んでいた。



その事実が住民専用グループへ広がるまで、ほとんど時間は掛からなかった。


『田中さん夫婦が殺されたって本当ですか!?』


『誰がやったんだよ!』


『二人ともですか!?』


『本当に殺されたんですか?』


『柴田たちじゃないのか?』


最初に疑いが向いたのは、当然だった。


『俺もそう思った』


『昨日だって人を殺してるだろ!』


『共同倉庫を奪ったのもあいつらだ!』


『やっぱり最初からマンションに入れるべきじゃなかったんだよ!』


『早く追い出さないと今度は誰が殺されるか分からない!』


次々と書き込みが流れる中、住民代表の一人が割って入った。


『待ってください。まだ柴田たちがやったと決まったわけではありません』


すぐに反論が返ってくる。


『他に誰がいるんですか!?』


『あいつらなら人を殺すことくらい何とも思ってないだろ!』


『食料だって奪ってるじゃないですか!』


代表は少し間を置いてから返信した。


『ですが、もし食料を奪うことが目的だったのなら、少し不自然です』


『何が不自然なんですか?』


『彼らは共同倉庫を占拠しています。倉庫にはまだ食料が残っていて、その全てを管理しているのは現在、柴田たちです。少なくとも今の彼らは、わざわざ誰かの部屋を襲って食料を奪わなければならないほど困ってはいません』


さらに別の代表が続けた。


『それに今日の配給で田中さんが来ていないと伝えた時も、柴田はその場で初めて知ったように見えました』


十三階の住民からも返信が入った。


『俺もその場にいました』


『私も聞いてます』


『柴田、「来ないならその分食料が減らなくていい」って言ってました』


『だから柴田たちじゃないって言うんですか!?』


『そう断定しているわけではありません。ただ、証拠もないまま決めつけるのは危険です』


その言葉によって柴田たちへの疑いが消えたわけではなかった。


だが、一つだけ新しい疑問が生まれた。


『……じゃあ、誰なんだよ』


その一言を境に、グループの空気が変わった。


それまで十七階だけへ向いていた疑いが、少しずつ別の方向へ広がり始める。


『田中さん、前にも誰かと揉めてなかった?』


誰かがそう書き込んだ。


『食料の件で』


『あった。前に玄関のところで揉めて、一人亡くなった件ですよね?』


その直後、激しい勢いで返信が入った。


『違います!』


以前、田中宅で起きた揉み合いによって夫を失った女性だった。


『うちではありません!』


『誰もあなたがやったとは言ってないでしょう』


『今、うちのことを言ったじゃないですか!』


『以前トラブルがあったと言っただけです』


『夫はもう死んでるんですよ!? それなのに今度は私たちを疑うんですか!?』


『疑ってるなんて言ってません!』


『じゃあ何で今その話を出したんですか!』


別の住民が割って入る。


『隣の部屋の人は何も聞いてないんですか?』


少し間が空いたあと、田中宅の隣に住む住民から返信が入った。


『……昨夜、一度だけ大きな声が聞こえた気はします』


その瞬間、いくつものメッセージが続いた。


『ほら!』


『何時頃ですか!?』


『どうしてその時に確認しなかったんですか?』


『誰の声でした?』


『分かりません! 一瞬だったんです!』


『隣なんですよね?』


『だから何ですか!?』


隣人の文章から、次第に苛立ちが滲み始めた。


『最近、廊下でも部屋の中でも怒鳴り声や物音なんて珍しくないでしょう! それに夜ですよ!? 大きな声が一度聞こえただけで、まさか隣で人が殺されてるなんて思うわけないじゃないですか!』


『でも普通、確認くらいしませんか?』


『じゃあ今のマンションで悲鳴みたいな声が聞こえるたびに、あなたは玄関を開けて外へ確認しに行くんですか!?』


そこで返事が止まった。


誰も簡単には「行く」と言えなかった。


今ならむしろ、悲鳴が聞こえたからこそ扉を開けない。


それが普通になりつつあった。


だが、一度生まれた疑いは消えなかった。


『昨日、田中さんと揉めた人はいないんですか?』


『最近配給に来てない人は?』


『誰か昨日十三階で知らない人を見てませんか?』


『そもそも同じ階の人なら、部屋に何があるか知ってる可能性もあるだろ』


『何で十三階の人間が疑われなきゃいけないんだよ!』


『可能性の話だろ!』


『だったら全員可能性あるだろ!』


疑いが、疑いを呼んだ。


誰かが名前を出せば、その人間が反論し、反論すれば今度は、なぜそこまで必死になるのかと疑われる。昨日誰と話していた、以前誰と揉めた、誰の家にはまだ食料があるらしい、誰が最近配給に来ていない。


根拠のない話まで次々と掘り起こされ、いつの間にか田中夫婦の死そのものより、互いの行動を問い詰める書き込みの方が増えていた。


そして、ついに一人の住民が書き込んだ。


『もうやめましょう!』


それまで続いていた書き込みが止まった。


『証拠がないのに誰かを犯人だと決めつけるのはやめてください! これ以上住民同士で争っていたら、もう本当に何もかも終わりです!』


しばらく誰も返事をしなかったが、やがて住民代表からも書き込みが入った。


『その通りです。今は憶測で個人名を出すことは控えてください』


それを最後に、表向きの言い争いは少しずつ収まっていった。


だが、誰も納得したわけではない。


誰かを信用できるようになったわけでもなかった。



その日の午後。


住民専用グループが静かになった一方で、個人同士のやり取りは逆に増えていた。


『玄関の鍵、ちゃんと確認しとけよ』


『してる』


『チェーンも掛けとけ。誰が来ても簡単に開けるな』


『配給の時は?』


『それ以外は外に出るな。もう誰がやったか分からない』


別の家では、夫が玄関の前へ重い棚を動かしていた。


妻が不安そうにその背中を見る。


「そこまでしなくても……」


夫は手を止めなかった。


「田中だって、自分の部屋にいたんだぞ」


妻はそれ以上何も言えなかった。


また別の部屋では、残っている食料が押し入れのさらに奥へ移されていた。


米や缶詰、菓子、ほんの僅かな保存食。


以前なら、近所の人間に多少知られていても気にしなかったし、困った時には互いに少しずつ分ければいいと考えていた時期もあった。


だが今は違う。


――あそこの家には、まだ食料がある。


その情報だけで、次に玄関を開けられるのは自分たちかもしれない。


廊下ですれ違った住民同士も、以前のように立ち止まって話をしなくなった。視線が合えば軽く頭を下げるだけで、何度も話したことがある相手でも、それ以上は言葉を交わさない。


寒波が始まった直後には一緒に雪を掻いたこともあり、水を運ぶのを手伝ってもらったこともある。それでも相手が袋を持っていれば中に何が入っているのか気になり、自分の部屋の前を通れば何の用だったのかと考えるようになっていた。


そして部屋へ戻れば、もう一度玄関の鍵を確認する。


誰も口にはしなかったが、同じことを考えていた。


次に襲われるのは、自分かもしれない。



2501号室。


蓮はパソコンの前に座り、昨夜の監視カメラの記録を遡っていた。


十三階。


時刻を少しずつ戻していくと、廊下の端から一人の男が現れた。


高橋修一だった。


蓮は再生速度を通常に戻した。


高橋は田中宅の前まで歩いていき、インターホンを押す。しばらく待っても玄関扉は開かず、何かを話しているようだったが、監視映像から声までは拾えない。


やがて高橋はその場に膝をつき、両手を床へ置くと、そのまま深く頭を下げた。


土下座だった。


一度だけではない。顔を上げて何かを話してから、再び頭を下げている。


しばらくすると、田中宅の玄関扉が僅かに開いた。


田中が姿を現し、その手には小さな袋が握られている。


高橋がゆっくり立ち上がる。


田中は何かを言いながら、手に持っていた袋を差し出そうとしていた。


次の瞬間、高橋の右手が腰へ動いた。


何かを取り出し、そのまま一歩踏み込む。


田中の身体が大きく揺れた。


さらにもう一度。


田中が後ろへ下がる。


そして、もう一度。


田中の身体から力が抜け、操り人形の糸が切れたように、そのまま玄関の奥へ崩れ落ちていった。


高橋は静かにその姿を眺めたあと、そのまま室内へ入り、背後の玄関扉を閉めた。


そこで監視カメラから見えるものは何もなくなったため、蓮は無言のまま映像を早送りした。


十分、二十分、三十分と時間だけが進んでいく。


誰も廊下には現れず、何も起きていないように見えるモニターの中では、ただ十三階の廊下の映像だけが流れ続けた。


やがて田中宅の玄関扉が開き、高橋が姿を現した。


来た時には何も持っていなかったのに、今は片手に大きな袋を持っている。


高橋は廊下へ出ると、後ろ手に玄関扉を押した。


振り返らなかった。


走りもしなかった。


周囲を警戒する様子さえなく、人を殺めた直後とは思えないほど平然と、いつも自分の部屋へ帰る時と変わらない足取りで廊下を歩いていく。


急ぎもしなければ、立ち止まりもしない。ただ大きな袋を片手に提げ、一歩、また一歩と淡々と進み、やがて監視カメラの範囲から姿を消した。


蓮はそこで映像を止めた。


画面には、僅かに開いた田中宅の玄関と、誰もいなくなった十三階の廊下だけが映っている。


以前のあの夜、高橋修一は倒れた息子のために食料を分けてほしいと田中へ頼んでいた。


ただ、それだけの男だった。


そして昨夜、同じ男が田中の前で土下座をし、差し出された食料を受け取る直前に包丁を抜いた。


人を殺し、その部屋に残されていた食料を奪い、何事もなかったかのように自分の部屋へ帰っていった。


蓮は椅子へ身体を預け、しばらく画面を見つめていた。


そして、誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。


「……ついに始まったか」


窓の外では、今日も雪が降り続けていた。


────────────────


Day 48


電力 ▲

ガス △

水道 △

通信 ▲

降雪 弱


【今日のメモ】


「人が壊れる瞬間は、ひどく静かだった。」


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