第71話 Day 47 一袋のクッキー
夜。
高橋が十三階へ着いた時、廊下には誰もいなかった。
昼間の騒ぎが嘘だったかのようにマンションの中は静まり返っており、遠くから聞こえてくるのは、どこかの部屋で子供が泣く声だけだった。内廊下には外の雪の音さえほとんど届かないため、その泣き声だけが妙にはっきりと響いている。
修一は廊下をゆっくりと歩き、二十七日前にも訪れた部屋の前で足を止めた。
田中の家だった。
あの日、息子の拓也が倒れた直後、修一はこの扉の前に立って食料を分けてほしいと頼んだ。最初は頭を下げたものの、それでも断られると、その後には他の住民たちと一緒に押しかけ、声を荒らげ、最後にはこの扉を蹴った。
他の住民とも揉めた場所であり、今でも扉にはその時についた傷が残っている。
修一はしばらくその傷を見つめていたが、やがて一度だけ目を閉じると、インターホンを押した。
電子音が室内へ響いたが、すぐに返事はなかった。
もう一度押そうとしたところで、モニターの向こうから男の声が聞こえた。
『……どちら様ですか?』
修一はカメラへ顔を向けた。
「高橋です。以前、あなたの家に食料を分けてもらえないかとお願いに来た、高橋修一です」
そこで返事が止まった。
室内では、田中がモニターを見つめていた。
覚えている。忘れるはずがない。
昼間に食料を求めてやって来て、その日の夜には他の住民まで連れて戻ってきた男だ。何度も扉を叩かれ、大声で食料を出せと迫られ、最後には玄関扉まで蹴られたことを思い出し、田中の表情が強張った。
『……何の用ですか?』
その声には警戒がはっきりと表れており、修一にもそれは分かっていた。
「その前に、謝らせてください」
『……え?』
田中が思わず聞き返すと、修一は玄関扉の前に立ったまま深く頭を下げた。
「あの時は、本当にすみませんでした」
まったく予想していなかった言葉に、田中は返事をすることも忘れてモニターに映る修一を見つめた。
「息子が倒れた直後で、俺も冷静じゃありませんでした。食料を分けてもらえなかったことに腹を立てて、他の人まで連れてきて、あなたの家の扉を蹴りました。あなたにも家族がいるのに、自分の家族のことしか考えていませんでした。本当に、すみませんでした」
修一は最後まで頭を下げたままだった。
田中はしばらく何も言えなかった。
食料を出せと怒鳴られることも考えていたし、昼間の配給があんなことになった以上、また誰かが食料を求めて来る可能性もあると思っていたからこそ警戒していた。それなのに、扉の向こうにいる男は食料を要求するどころか、二十七日前のことを謝っている。
『い、いや……お気持ちも……分からなくはありません。息子さんが倒れたばかりだったんですよね』
ようやく出た言葉は、自分でも情けなくなるほど歯切れが悪かった。
「はい」
修一はゆっくりと頭を上げた。
「それで……厚かましいお願いなのは、百も承知しています」
その言葉を聞いた瞬間、田中はやはりそうかと思い、僅かに身体を強張らせた。
結局、食料なのだ。
しかし、続いて聞こえてきた言葉と光景は、二十七日前とはまるで違っていた。
「あれから息子の状態が日に日に悪くなっていて、ここ数日はほとんど寝込んでいます。今日も熱を出しており、まともに起き上がることができません」
修一はそこで言葉を切ると、突然その場に膝をついた。田中が何か言うより早く両手を床につけ、そのまま額が床へ触れそうなほど深く頭を下げる。
「あの時は、息子が倒れた直後で……冷静じゃありませんでした。本当に、すみませんでした」
モニター越しにその姿を見ていた田中は、思わず言葉を失った。
「厚かましいことを言っているのは百も承知です。あれから息子の状態が日に日に悪くなって、今はほとんど起き上がれません。もし……もしまだ食料に少しでも余裕があるのでしたら、ほんの少しでいいんです。分けていただけないでしょうか」
修一は顔を上げないまま続けた。
「もし余裕がないのでしたら、このまま帰ります。もう二度とご迷惑はかけません。ですから……お願いします」
そう言ってもう一度、額を床へ押しつけるように深く頭を下げる修一を見て、田中の目が大きく見開かれた。
「お願いします。息子に食べさせる物を、ほんの少しだけ分けてください」
『ちょ、ちょっと……』
田中は完全に言葉を失っていた。
二十七日前、自分の家の扉を蹴った男が、今は同じ扉の前で土下座している。怒ればいいのか、追い返せばいいのか、それとも扉を開けるべきなのか。あまりにも予想外の光景を前にして、何一つすぐには決められなかった。
その時、隣でモニターを見ていた妻が口を開いた。
「……少々お待ちください」
「おい! お前、何言ってんだ」
田中が振り返っても、妻はすぐには答えず、廊下の床へ額をつけたまま動かない修一をモニター越しに見つめていた。
「少しだけなら、分けてあげましょう」
「おい! 何言ってんだ。うちだって、いつまで持つか分からないんだぞ」
「分かってる」
「次の救援だっていつ来るか――」
「分かってるわよ」
妻は静かに夫の言葉を遮ると、もう一度モニターへ視線を戻した。
「私たちには、子供はいないでしょう」
その一言で、田中の口が閉じた。
「だから、本当の親の気持ちは分からないのかもしれない。でも、子供のためにあそこまでして、土下座までしてお願いしてるのよ。うちにはまだ少し余裕があるでしょう? 本当に少しだけなら、分けてあげてもいいんじゃない?」
その声には、ほんの僅かな震えがあった。
田中は妻の横顔を見た。
「私だって……」
妻はそこで一度言葉を止めた。
「その子には、少しでも元気になってほしいもの」
田中は何も言えなくなった。
妻の言葉を聞きながら、ずっと昔のことを思い出していた。
二人も、子供が欲しかった。
結婚した頃には、いつか子供が生まれることを当たり前のように思っており、男の子なら何をして遊ぼうか、女の子なら自分は甘やかしてしまうかもしれないと、まだ何も決まっていない頃から二人で笑って話したこともある。
だが、一年が過ぎても、二年が過ぎても、子供はできなかった。
病院へ行って検査を受け、別の病院にも行った。妻は薬を飲み、体調が悪くても治療を続けたが、それでも結果が出ることはなく、何度期待して、何度落ち込んだのか、もう数えたこともない。
いつしか二人ともその話をしなくなり、子供のいない人生を二人で生きていこうと決めたのは、それからしばらく経ってからだった。
田中はモニターへ視線を戻した。
床に頭をつけたままの修一が映っている。
長い沈黙のあと、田中は小さく息を吐いた。
「……そうだな。少しなら」
妻の表情が僅かに緩む。
田中はインターホンへ向き直った。
『高橋さん』
「……はい」
『頭を上げてください。少し待っていてもらえますか』
修一はゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうございます」
ひどく静かな声だった。
◇
田中夫婦は家の中にある食料を確認した。
自分たちにも余裕というほど余裕があるわけではなかったが、二人で食べるだけなら、まだ多少は残っている。
田中は寝室へ入り、万が一のために残していた小さな米袋をベッドの下から取り出すと、全部を渡すことはできないため、何食分かだけを別の袋へ移した。
妻もキッチンの棚から缶詰を二つ取り出し、一度は戸棚を閉めたものの、何かを思い出したようにもう一度開いた。
奥には、一袋のクッキーが残っていた。
寒波が始まってから節約しながら食べ、甘い物がどうしても欲しくなった時のためにと、妻が最後まで大事に取っていた最後の一袋だった。
彼女はしばらくそれを見つめていたが、やがてクッキーも戸棚から取り出した。
「それもやるのか?」
田中が聞くと、妻は小さく頷いた。
「子供なら、こういうのも食べたいでしょう」
田中は何も言わなかった。
米と缶詰二つ、それにクッキー一袋。
決して多くはないが、それでも今のマンションでは、簡単に他人へ渡せる量ではなかった。
「これくらいなら」
妻がそれらを一つの袋へ入れると、田中も「ああ」と頷いて受け取り、玄関へ向かった。
念のためもう一度モニターを確認すると、修一はまだ先ほどと同じ場所で静かに待っている。
田中は鍵へ手を掛けた。
◇
扉が開いた。
顔を上げた修一に、田中はゆっくりと扉を開きながら、食料を詰めた袋を差し出した。
「高橋さん」
「……はい」
「これくらいしか渡せませんけど」
修一が袋へ視線を落とすと、中には米と缶詰があり、その上にはクッキーまで入っていた。
しばらくそれを見つめていた修一は、両手で袋を受け取ると深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「もういいですから、頭を上げてください」
田中の表情が僅かに緩んだが、修一はまだ頭を下げていた。
「これを、お子さんに早く食べさせてあげてくださ――」
その言葉は最後まで続かなかった。
あまりにも突然だったため、田中は何が起きたのか理解できず、次の瞬間に腹へ強い衝撃を感じて、呆然と視線を下げた。
「……え?」
修一の手が、自分の腹の前にある。
そこに握られているものを見て、ようやく田中の目が大きく開いた。
「お……お前……」
修一は何も答えなかった。
田中が後ろへ下がろうとするより先にもう一度腕が動き、背後から妻の悲鳴が聞こえた。
「あなた!」
それでも修一の表情は変わらなかった。
怒っているわけでもなければ、二十七日前のことを恨んでいるようにも見えない。何の言葉も発しないまま、最後にもう一度、田中の胸へ向かって腕を振り下ろした。
田中の身体から力が抜けていく。
最後まで目の前の男から視線を外すことができず、何が起きたのかを理解しようとするように目を見開いたまま、その身体は玄関の床へ崩れ落ちた。
「あなた! あなた!」
妻が駆け寄って田中の身体を抱き起こし、何度も名前を呼んだが、返事はなかった。
「いや……いやぁ……!」
泣きながら夫の身体を揺する妻の横を、修一は無言で通り過ぎた。
◇
修一はそのまま家の中へ入ると、まずキッチンへ向かって戸棚を開け、中を一つずつ確認しながら食べられる物を取り出してテーブルの上へ置いていった。
次に冷蔵庫、その次は収納棚を確認し、キッチンを調べ終えるとリビングへ移って棚を開け、ソファーの下まで覗き込む。その後は寝室へ入り、クローゼットやタンス、ベッドの下と、人が食料を隠せそうな場所を一つずつ確認していった。
妻が何を言っているのかは、もう耳に入っていなかった。
田中が玄関の床に倒れていることも、その傍らで妻が泣いていることも、修一の動きを止める理由にはならない。ただ食料を探すことだけを目的に、家の中を淡々と調べ続けていた。
ベッドの下から残っていた米が出てきて、棚の奥からは保存食品が見つかり、別の収納にはまだいくつか缶詰が残されていた。
見つけるたびに黙ってテーブルへ運んでいくうちに、そこには最初に田中夫婦が差し出した袋とは比べものにならない量の食料が積み上がっていた。
それでも修一は最後の収納まで確認し、もう何もないと判断して、ようやく手を止めた。
玄関へ戻ると、田中の妻は夫の傍らに座り込んだままだった。
修一は集めた食料を一度確認してから、妻へ顔を向けた。
「大きめの袋はありますか?」
その声を聞いた瞬間、妻の肩がびくりと震えたが、返事はなかった。
修一は急かすこともなく、その場に立ったまま数秒待ってから、同じ落ち着いた口調で続けた。
「……これが全部入るくらいのものがあれば、それでいいです」
その声には苛立ちも、脅すような響きもなかった。
だからこそ、妻には恐ろしかった。
ほんの少し前に自分の夫を何度も刺した男が、まるで何もなかったかのような口調で尋ねている。
妻は唇を震わせながら声を出そうとしたが、喉からは何も出てこず、やがて震える右手だけをゆっくりと持ち上げ、キッチンの流し台の脇を指した。
修一はそちらへ向かって収納を開け、中にあった大きめの袋を取り出した。
「ありがとうございます」
それを持ってテーブルへ戻ると、米や缶詰、保存食品、調味料を一つずつ詰めていき、食べられる物は一つも残さず全て袋へ入れた。
いっぱいになった袋を持ち上げるとかなりの重さがあったが、修一は何も言わず、そのまま玄関へ向かった。
倒れている田中の横を通り過ぎ、玄関の前で一度だけ足を止める。
「ありがとうございました」
振り返ることなくそう言い残し、そのまま外へ出ようとした時だった。
「ど……どうして……」
背後から聞こえた声に、修一の足が止まった。
「どうして……」
田中の妻は夫の傍に座り込んだまま、修一を見ていた。
「あんなに……お願いして……」
修一は答えなかった。
「私たち……あげたじゃない……。あなたの子供にって……」
声が震えている。
修一は玄関に立ったまま十秒ほど動かなかったが、やがて片手をゆっくりと顔へ上げ、何かを拭った。
それが汗だったのか、それとも涙だったのか、田中の妻には分からなかった。
修一の手が下りる。
そして、ゆっくりと振り返った。
その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
怒りも、憎しみも、悲しみさえも。
修一は静かに食料の袋を床へ置くと、一歩、田中の妻へ近づいた。
妻の身体が震える。
さらに一歩。
男は何も言わない。
「……いや」
もう一歩。
「来ないで……」
それでも修一は止まらなかった。
それが、田中の妻に残った最後の記憶だった。
◇
コン、コン。
玄関を叩く音に、高橋の妻はすぐ反応した。
夫が出ていってからどれくらい経ったのか分からず、時計を何度確認しても時間が進んでいないように感じながら、玄関を何度も見て待ち続けていた。
もう一度、扉が叩かれる。
「ただいま」
夫の声だと分かった妻は急いで玄関へ向かい、鍵を開けた。
「お帰りなさっ……」
最後まで言えなかった。
そこには出ていった時と同じ夫が立っていたが、わずかな時間のうちに、その姿はまるで別人のように変わり果てていた。
手には大きな袋を持っており、中には米や缶詰、保存食品が詰め込まれ、一目見ただけでも今日の配給とは比較にならない量だと分かった。
そして、妻の視線がゆっくりと夫の服へ移った。
「……」
何も聞けなかった。
聞く必要すらなかったのかもしれない。
修一は妻の顔を見た。
「これで拓也に何か作ってやってくれ」
それだけ言って袋を玄関へ置く。
「あなた……」
修一は答えず、靴を脱いで部屋へ入ると、そのまま浴室へ向かい、途中でシャツを脱ぎ、ズボンも脱いだ。
妻は玄関に立ったまま動けなかった。
やがて浴室から水の音が聞こえ始めた。
この状況では風呂を沸かすどころかシャワーすら出ないため、生活用として浴槽に溜めておいた水を使っているのだろう。
何度も、何度も、水の音がした。
妻はまだ動けなかった。
目の前には、大量の食料がある。
ずっと欲しかったものだった。
昨日も欲しかったし、今日も欲しかった。数時間前には、明日の朝に拓也へ何を食べさせればいいのか分からず、夫婦で泣いた。
その食料が、今は目の前にある。
寝室から咳が聞こえた。
「……ゴホッ、ゴホッ」
その声に妻の身体が僅かに動いた。
「……拓也」
返事はない。
妻はゆっくりとしゃがんで食料の入った袋へ手を伸ばし、両手で抱えてキッチンまで運んだ。
袋を開けると、中には米も、水も、缶詰も、保存食品も入っていた。
そして、その中に一袋のクッキーがあった。
妻の手が止まる。
その袋をしばらく見つめていた妻は、やがて震える手でそっと取り出した。
寝室から、もう一度咳が聞こえた。
妻は目元を拭うと、袋から米を取り出して少しだけ鍋へ移した。
「拓也……」
返事はない。
妻は米を研ぎながら、寝室へ届くように少しだけ声を大きくした。
「待っててね」
浴室から、また水の音が聞こえた。
妻の手は震えていたが、それでも米を研ぐ手を止めなかった。
「お父さんが……」
一度だけ声が詰まった。
妻は震える唇を噛み、それから続けた。
「食べ物、たくさんもらってきたからね……」
薄暗い部屋の中で、誰もそれ以上何も言わなかった。
キッチンでは母親が息子のために粥を作り、寝室では拓也が布団の中で小さく咳をしている。そして浴室からは、修一がいつまでも水で何かを洗い続ける音だけが聞こえていた。
玄関には、どす黒い染みの残る修一の服と、不自然なほど綺麗で、その服とは対照的な靴が脱ぎ捨てられたままになっている。
キッチンには、ほんの少し前までそこにはなかった食料が積まれていた。
神様は、最後まで何もしてくれなかった。
それでも今夜、高橋家には食べ物があった。
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Day 47 夜
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
【今日のメモ】
「悪魔に魂を売っても、手に入るのは奇跡じゃない。」
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書いてきた中で一番つらい回でした。
田中さんは何も悪くない。理不尽です。でも、書くしかありませんでした。
もし不快にさせてしまった方がいらっしゃいましたら、お詫び申し上げます。




