第70話 Day 47 神か悪魔か
十階の一人の住民が殺害されて以降、柴田たちに正面から逆らう者はいなくなった。
配られる食料が少なすぎると思っていても、その場で文句を口にする者はいない。名前を呼ばれれば前へ出て、世帯人数に応じて決められた量を受け取り、中身を確認してから黙って自分の部屋へ戻っていく。
だが、不満そのものが消えたわけではなかった。
柴田たちのいない住民専用グループでは、配給が終わったあとも書き込みが途切れることなく続いていた。
『少なすぎる。これで家族四人どうやって食べろっていうんだよ』
『昨日までより明らかに減ってますよね?』
『共同備蓄は私たちが出し合った物でしょう!?』
『それを勝手に奪って、今度はあいつらが配ってやってるみたいな顔してるのがおかしいんだよ!』
『だったら直接言えばいいじゃないですか』
『言えるわけないだろ! 何があったか見てないのか!?』
『あの人、文句言っただけで殺されたんですよ……』
そこまで書き込まれると、それまで凄まじい勢いで流れていたメッセージが一度だけ止まった。
誰もが分かっている。
今の状況はおかしいし、到底納得できるものではない。本来なら共同倉庫にある食料は住民たちが出し合ったものであり、後からやってきた柴田たちに支配される理由などどこにもなかった。
それでも、柴田たちの前へ出ればどうなるのか。
今日一日だけで、十分すぎるほど思い知らされている。
だから住民たちは、画面の中でだけ怒った。
柴田を罵り、一ノ瀬を罵り、三浦を罵り、どうしてこんな連中をマンションへ入れたのかと互いを責める。それでもスマートフォンを置けば自分の部屋から出ようとはせず、玄関の鍵を確認し、残っている食料を数えながら次の日を迎えるしかなかった。
まだ自宅に多少の食料を残している家庭なら、それでも耐えることができた。
米が数日分ある。
乾麺が残っている。
以前買っておいた非常食がまだ少しある。
一日三食だったものを二食に減らし、それでも足りなければ一食に減らせば、あと何日かは持たせることができる。
腹は減るし、子供から何か食べたいと言われることもある。老人にはもう少し食べさせなければならないと思っていても、自分たちの分まで削れば今度は動ける大人が動けなくなる。
それでも、今日すぐに死ぬわけではない。
そうやって問題を明日へ先延ばしにできる家庭は、まだ残っていた。
しかし、その余裕すら失いかけている家庭も、すでに少なくなかった。
次の救援物資がいつ来るのか分からない中、柴田たちが決めた配給量だけでは家族全員の腹を満たすことなど到底できない。それでも共同倉庫には近づけず、他の住民に食料を分けてほしいと頼んだところで、今となってはまともに取り合ってもらうことすら難しくなっていた。
誰もが、自分の家に残された最後の食料を守ることで精一杯だった。
他人を助けるために一食分を差し出せば、その一食分だけ自分や家族が早く飢える。
そんな当たり前の計算を、誰もがするようになっていた。
すでにこのマンションには、他人を助けられるだけの余裕など残っていなかった。
そして、そんな家庭の中でも特に追い詰められている一家があった。
高橋修一。
その男が暮らす家だった。
◇
二十七日前。
寒波が始まって二十日が経った頃、高橋修一は一度、十三階の田中宅を訪れている。
理由は食料だった。
当時、息子の拓也が突然倒れた。満足な食事を取れない日が続き、日に日に元気を失っていく息子を前にして、修一は田中家にまだ食料が残っていることを思い出した。
だから頭を下げた。
米一キロでいい。
いや、五百グラムでもいい。
必ず返すから、少しだけ分けてほしい。
そう頼んだ。
だが、田中にも田中の家族がいた。いつまで続くか分からない寒波の中、自分たちの食料を他人へ渡す余裕などないと断られた。
その日の夜、修一は同じように食料へ困っていた住民たちと再び田中宅を訪れた。
昼間のように頭を下げて頼むだけではなかった。声を荒らげ、何度も扉を叩き、最後には苛立ちに任せて扉まで蹴った。
それでも、最後の一線だけは越えなかった。
いや、越えられなかった。
どれほど息子が心配でも、どれほど腹が減っていても、他人の家へ押し入り、力ずくで食料を奪うことまではできなかった。
あれから二十七日が経った。
◇
「……ゴホッ、ゴホッ」
薄暗い寝室から弱々しい咳が聞こえ、修一はリビングの椅子に座ったまま顔を上げた。
すぐに立ち上がることはできなかった。
身体が重い。
ここ数日、まともな量の食事を取っていないせいなのか、椅子から立ち上がるという何でもない動作にさえ、以前より力が必要になっていた。
それでも修一は両手を膝について身体を持ち上げると、ゆっくり寝室へ向かった。
布団の中では、拓也が横になっていた。
二十七日前に一度倒れた息子の体調は、その後も完全には戻らなかった。
一時期は少し良くなったこともある。起き上がって話せる日もあったし、調子のいい日はリビングまで出てきて、父親と母親の間に座ることもできた。
修一はそのたびに、このまま良くなってくれるのではないかと思った。
だが、そんな期待は長く続かなかった。
十分な食事を取れない生活が続き、薬も満足に与えられず、暖房も気休め程度にしかならない。窓の向こうには昼夜を問わず氷点下の世界が広がり、弱り切った身体を回復させるための条件など、この家にはもう何一つ残っていなかった。
ここ数日の拓也は、ほとんど布団から出られなくなっていた。
「拓也」
呼び掛けると、少年がゆっくり目を開けた。
「……お父……さん」
「どうだ。まだしんどいか?」
拓也は少しだけ頷いた。
修一は息子の額へ手を当てる。
熱がある。
昨日もあったし、その前の日もあった。
「何か食べられそうか?」
「……分かんない」
「少しでも食べた方がいい。あとで母さんに何か作ってもらおう」
「うん……」
修一は息子を安心させようと笑った。
しかし、自分がうまく笑えているのかどうかは分からなかった。
◇
キッチンへ戻ると、妻が小さな鍋をカセットコンロに乗せていた。
中に入っているのは、ほんの僅かな米と水だった。粥と呼べるものではあったが、三人で食べるにはあまりにも少ない。
「できたか」
妻が振り返らずに聞いた。
「もう少し」
「そうか……」
妻はそれだけ言うと、再び鍋へ視線を戻した。
修一はしばらくその背中を見ていたが、やがて妻の顔色が以前より悪くなっていることに気づいた。
「お前、大丈夫か?」
「何が?」
「顔色悪いぞ」
妻は少しだけ笑った。
「ずっとこんな生活してるんだから、そりゃ顔色くらい悪くなるわよ」
「お前今日の分食べたか?」
返事がなかった。
「おい」
「……少し食べた」
「少しって?」
「食べたって言ってるでしょう」
修一は黙った。
聞くまでもなかった。
自分も同じだった。
家に残っている食料のほとんどを拓也へ回し、自分たちは朝に数口、夜に数口だけ口へ入れる。空腹を少量の水で誤魔化し、腹が鳴っても聞こえないふりをして眠る。
そんな生活を何日も続けていた。
妻も同じことをしていた。
そして今日、柴田たちから渡された食料も、三人がまともに食べればすぐになくなる程度しかなかった。
修一はキッチンの棚を開けた。
もう何度確認したか分からない。それでも扉を開けるたびに、見落としていた食料がどこかから出てくるのではないかと期待してしまう。
だが、僅かな米が残っているだけで、乾麺も缶詰もレトルト食品もなく、菓子などとうの昔に食べ尽くしていた。
棚の奥まで確認した修一は、ゆっくりと扉を閉めた。
当然、何も増えてはいなかった。
「明日は何食わせるんだよ……」
修一が聞いたが、妻は答えなかった。
「……」
「拓也に何食わせたらいいんだよ……」
「分からない」
妻の声が震えた。
「私だって分からないわよ……」
修一はそれ以上、何も言えなくなった。
妻が悪いわけではない。
拓也も悪くない。
そして自分だって、これまでの人生で何か取り返しのつかないことをした覚えなどなかった。
普通に働いていた。
家族と暮らし、毎月それなりの給料をもらって家賃を払い、休みの日には三人でよく出掛けた。拓也が欲しがったものを何でも買ってやるほどではなかったが、それでもできる限りのプレゼントを買い、妻と喧嘩することもあれば、仕事が嫌になって帰り道に愚痴をこぼす日もあった。
そんな、どこにでもある普通の生活だった。
それが、たった四十七日で世界は変わり、住んでいるマンションでは人が死に、明日の朝に弱っていく息子へ何を食べさせればいいのかすら分からないところまで来ていた。
「……なんでだよ」
妻が顔を上げた。
修一は椅子へ座ると、俯いたまま両手で頭を抱えた。
「なんで……こんなことになってんだよ」
声が震えた。
自分でも驚くほど弱い声だった。
「俺たちが何したってんだよ……」
頬を何かが伝ったが、修一は拭おうとしなかった。
「俺、ちゃんと働いてたじゃねえか……。誰か騙したか? 悪いことしたか? 罰当たりなこともしてないだろ?」
妻は何も言えなかった。
「何もしてねえだろ……。だったら、なんで拓也があんな目に遭わなきゃいけねえんだよ」
涙が一つ、床へ落ちた。
「なんでお前まで……こんなにならなきゃいけねえんだよ……」
修一は両手で顔を覆った。
しばらく声を押し殺していたが、やがて誰に向かって話しているのかも分からないまま、掠れた声を漏らした。
「なあ……神様。もしいるなら……もう夢だって言ってくれよ」
返事などあるはずがなかった。
それでも修一は続けた。
「全部夢だったって……明日起きたら仕事に行かなきゃならなくて、拓也は学校行くの嫌だって文句言って、お前は朝飯作ってて……またいつもの朝が来るんだって……」
そこで言葉が続かなくなった。
四十七日前まで当たり前だった毎日が、今では信じられないほど遠いものになっていた。
「頼むから……この悪夢から、目を覚まさせてくれよ……」
妻が口元を押さえた。
泣き声を堪えようとしている。
だが、どれだけ待っても何も起きなかった。
窓の外では雪が降り続け、部屋は寒く、鍋の中には到底三人分にならない粥しかない。寝室では息子が苦しそうに咳をしている。
神様は何も答えなかった。
修一はしばらく俯いていたが、やがて両手を顔から離した。
「……そうじゃねえなら、俺はもう悪魔にだって魂売ってやる」
「……あなた?」
妻が不安そうに修一を見る。
修一は椅子から立ち上がった。
「何する気……?」
「十三階に行ってくる」
「十三階?」
「ああ」
修一は少しだけ間を置いてから言った。
「田中のところに、もう一度行く」
妻の表情が変わった。
「田中さんのところって……前にも行ったじゃない」
「ああ」
「また食べ物を分けてもらうの?」
「……頼んでみる」
「でも、前だって断られたじゃない」
「分かってる」
「今なんて、あの時よりみんな食べ物ないのよ。分けてくれるわけ――」
「それでも行ってみる」
妻は何も言えなくなった。
修一はそれ以上説明せず、キッチンへ向かった。
最初、妻は何をするのか分からなかった。
だが、修一が引き出しを開け、その中から一本の包丁を取り出した瞬間、妻の顔から血の気が引いた。
「……あなた?」
修一は答えなかった。
近くにあった布巾を取り、刃を包む。
「ちょっと待って。ただ頼みに行くだけなんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ、なんでそんなものを持っていくのよ!」
修一の手が止まった。
部屋が静かになり、寝室から聞こえてくる拓也の咳だけが二人の間に響いていた。
数秒後、修一は手の中にある包丁へ視線を落とし、小さな声で答えた。
「……念のためだ」
「何の念のためよ!」
妻の声が大きくなった。
修一は答えず、布巾に包んだ包丁を持ったまま玄関へ向かった。
「待って!」
妻が追いかけ、その腕を掴む。
「お願いだからやめて! 今はどこにも行かないで! あなたまでいなくなったら、私と拓也はどうすればいいの!」
最後の方は、ほとんど泣き声だった。
修一の足が止まった。
妻は腕を掴んだまま何度も首を振り、涙を流しながら必死に夫を引き止めようとした。
「お願い……。もういいから……。今日だけ我慢しよ? 明日になったら、また配給あるでしょ? 救援が来るかもしれない。配給だって増えるかもしれない。だから……」
妻自身、その言葉を信じていないことくらい修一には分かっていた。
二十七日間、何度明日になれば何か変わると思っただろう。何度、次の救援が来れば大丈夫だと思っただろう。そして何度、あと少しだけ耐えればいいと息子へ言っただろう。
その結果が、今だった。
修一は自分の腕を掴んでいる妻の手を見た。
細くなっていた。
以前は気づかなかったが、妻の手首は記憶にあるものより明らかに細くなっている。
この手も。
寝室で咳をしながら、日に日に弱っていく息子も。
自分が守らなければならない。
修一は目を閉じたまま数秒動かなかった。
それから妻の手をゆっくりと自分の腕から外した。
「……修一」
男はもう何も答えなかった。
玄関の扉を開けると、冷え切った廊下の空気が僅かに室内へ流れ込んでくる。
「あなた……!」
背後から妻の声が聞こえた。
それでも修一は振り返らなかった。
布に包んだ包丁を腰に刺し、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まったあとも妻は追いかけることができず、ただ玄関に立ったまま閉じた扉を見つめていた。
その向こうから聞こえていた夫の足音は少しずつ小さくなり、やがて完全に聞こえなくなった。
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Day 47 夜
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
【今日のメモ】
「追い詰められた人間は、神より悪魔に縋る。」
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