第77話 Day 53 等価交換
朝。
一階の配給所には、決められた時間になると、今日も住民たちが階ごとに集まり始めていた。
共同倉庫を柴田たちに占拠されてからも、配給そのものがなくなったわけではない。しかし、一世帯あたりに渡される量は以前より明らかに少なくなっており、そのうえ文句を言えば次から受け取れなくなるかもしれないという恐怖があるため、今では袋の中身を見て不満を口にする者もほとんどいなくなっていた。
名前と部屋番号を確認され、決められた量を受け取って帰る。
ただ、それだけの時間になっていた。
「……今日も、これだけですか?」
住民の一人が、受け取った袋を見ながら思わず尋ねた。
代表は困ったような表情を浮かべたものの、配給量を決めているのは自分ではないため、「はい」と小さく答えることしかできなかった。
男は何か言いたそうに口を開いたが、少し離れた場所にいる柴田たちへ視線を向けると、結局それ以上は何も言わなかった。
「……分かりました」
袋を持って列から離れる。
昨日と比べて、さらに減らされたわけではない。それでも以前の配給と比べれば少なく、この量でいつまで耐えればいいのかも分からなかった。
そして何より、男には昨夜から引っ掛かっていることがあった。
昨夜、廊下で物音が聞こえたため玄関を少しだけ開けて外を覗いた時、柴田たちが使っている部屋から、一人の女が食料らしき袋を手に出てくるところを見ていた。
白石莉奈。
十五階に住んでいる女で、直接話したことはほとんどない。それでも男は彼女のことを知っていた。寒波が来る前から派手な格好で出歩く姿をよく見かけ、夜になると違う男が出入りしていることもあったため、住民の間ではそれなりに顔を知られた存在だった。
その白石が、昨夜は柴田たちの部屋から出てきた。
しかも、その手には明らかに食料の入った袋があった。
――俺たちは、今日もこれだけなのに。
部屋へ戻った男はしばらく迷っていたが、やがてスマートフォンを取り出すと、蓮や柴田たちが入っていない住民グループを開いた。
『@白石莉奈さん、少し聞きたいことがあるんですが』
送信。
既読が一つ、また一つと増えていく。
だが、白石からの返事はなかった。
数分後、別の住民が反応した。
『どうしたんですか?』
男は少し迷ったあと、昨夜見たことをそのまま書き込んだ。
『昨日、白石さんが柴田たちの部屋から出てくるところを見たんです。手に食料の入った袋を持っていました』
今度はすぐに反応があった。
『え?』
『食料?』
『どういうことですか?』
『白石さん、何か知ってるなら答えてください』
それでも白石は何も書き込まない。
男は続けた。
『間違いありません。それなりの袋でした』
『でも何で白石さんだけ?』
『今日だって私たちはこれしか貰ってないんですよ?』
『白石さん、見てますよね?』
既読だけが増えていった。
その中で、誰かが尋ねた。
『もしかして柴田たちに頼めば、配給とは別に食料を分けてもらえるんですか?』
その一言から、流れが変わった。
◇
最初に一ノ瀬へ個人的にメッセージを送ったのが誰だったのかは分からない。
だが、一人が送れば二人目が続いた。
『昨日、白石さんに食料を渡したと聞きました。うちももうほとんど残っていません。少しだけでも分けていただけませんでしょうか』
別の住民からも届く。
『子供がいるので、できれば缶詰だけでもお願いできませんか?』
柴田のスマートフォンにも、同じようなメッセージが届いていた。
『柴田さん、お願いがあります』
『配給以外で食料を分けてもらうことはできますか?』
『白石さんには渡したと聞きました。こちらにもお願いできないでしょうか』
三浦のところにまで届いた。
『三浦さんから柴田さんに話していただくことはできませんか?』
『少しだけでいいんです。お願いします』
十七階の部屋でスマートフォンを眺めていた柴田は、次から次へと表示される通知に顔をしかめた。
「……うぜえな」
「私のところにも来てる」
一ノ瀬もスマートフォンを見ながら答える。
三浦は煙草を指に挟んだまま、画面に表示されたメッセージを眺めていた。
「俺に頼んでどうすんだよ」
一ノ瀬はしばらく画面を見ていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「でも、ちょうどいいじゃん」
三浦が眉を寄せる。
「何がだよ」
「人材確保」
その言葉に、柴田も一ノ瀬を見る。
一ノ瀬は当然のことを言うように続けた。
「必要なんでしょ? これから人」
三浦は何も答えなかった。
以前住んでいたマンションで何が起きたのかを知っている三浦には、一ノ瀬が何を考えているのかすぐに分かった。
食料を持つ側と、持たない側。
その差がはっきりすれば、いずれ持たない側から自分を売り始める人間が現れる。
「……好きにしろ」
三浦はそれだけ言った。
一ノ瀬は全員が参加しているマンションのグループを開いた。
そこには一般住民だけではなく、柴田も、三浦も、そして蓮もいる。
そして、ゆっくりと文章を打ち込んだ。
『個別にメッセージを送るのはやめてください。今後、質問などがある場合はこちらのグループへお願いします』
送信した瞬間、それまで個別に届いていたメッセージが目に見えて減っていった。
しばらく誰も何も書かなかった。
一ノ瀬は続けた。
『昨日、白石莉奈さんには確かに食料をお支払いしています』
その文章を見た住民たちは、一瞬意味を理解できなかった。
特に「お支払い」という言葉に違和感を覚えている。
全体グループは静かなままだった。
しかし、その裏で住民グループが一気に動き始めた。
『ふざけるな!』
『何が「お支払い」だよ! それ俺たちが共同倉庫に出した食料だろうが!』
『今日だってこれだけしか配られてないんですよ!?』
『自分たちで勝手に倉庫を占拠しておいて何が支払いなんですか!』
『人から奪った食料を今度は自分たちの物みたいに使うのかよ!』
怒りは次々と書き込まれた。
だが、その言葉を全体グループへ書き込む者は一人もいなかった。
住民グループでは柴田を泥棒と呼べるし、一ノ瀬をふざけるなと罵ることもできる。
だが、柴田たち本人が見ている場所では、誰も同じ言葉を打てなかった。
そのことに気づいた一人が、苛立ったように書き込んだ。
『だったら誰か向こうで言ってくださいよ』
途端にメッセージが止まった。
数十秒、誰も書かない。
昨日までなら、代表の誰かが言ったかもしれない。
だが今は違う。
柴田たちが何をする人間なのかを、もう全員が知っている。
結局、その話題に答える者はいなかった。
◇
2501号室。
蓮も久しぶりに動き始めた全体グループを眺めていた。
これまで通知を切っていたわけではない。ただ、ここ数日は見る価値のある内容がほとんどなく、蓮自身も必要な時に確認する程度になっていた。
だが今日は違った。
『昨日、白石莉奈さんには確かに食料をお支払いしています』
その文章の少しあと、一ノ瀬からさらにメッセージが入る。
『私たちも食料に余裕があるわけではありません。なので今後、配給以外で食料が必要な場合は、何かと交換する形でしかお渡しできません』
蓮はその文章を読み、僅かに眉を上げた。
「……等価交換か」
別に珍しい話ではない。
むしろ外では、とっくにそれが当たり前になり始めている。
前世で蓮が住んでいたマンションでは、もっと早い時期にその体制ができていた。
店から商品が消え、金を持っていても買えるものがなくなれば、最後に価値を持つのは相手が必要としているものだった。
食料、水、薬、燃料、道具、そして労働力。
自分が持っているものと、相手が欲しがるものを交換する。
単純な話だった。
蓮はスマートフォンをテーブルへ置こうとした。
だが、その直前、新しいメッセージが表示された。
『あの……一つ聞いてもいいでしょうか』
一人の住民だった。
少し間を置いて、続きが届く。
『白石さんは、何と交換されたのでしょうか?』
蓮の指が止まった。
◇
十五階。
白石莉奈は床に座ったまま、スマートフォンの画面を見ていた。
昨夜から一睡もしていない。
水もほとんど口にしておらず、食事もしていなかった。
テーブルの上には、昨日柴田から渡された袋もそのまま置かれている。
缶詰、インスタントラーメン、水。
あれほど欲しかった食料だった。
残り僅かな備蓄を見ながら、このままでは生きていけないと怯え、それでも自分なら男など簡単に操れると信じて柴田へ近づき、そしてようやく手に入れた食料だった。
それなのに、袋すら開けていない。
昨日帰ってきた時の服のまま、髪も直していなければ、涙で崩れた化粧もほとんどそのままだった。首や手首に残った痣にも触れず、ただ充電器に繋いだスマートフォンだけを握り続けていた。
腹が減っていないわけではない。
眠くないわけでもない。
ただ、目を閉じれば昨日のことが蘇った。
そしてテーブルの上の食料を見れば、それを手に入れるために何があったのかを思い出した。
だから眠れず、食べることもできなかった。
画面には今、一つの質問が表示されている。
『白石さんは、何と交換されたのでしょうか?』
莉奈の唇が僅かに震えた。
「……やめて」
誰にも聞こえない声だった。
数秒の間、まだ新しいメッセージは送信されていない。
「やめて……」
莉奈はスマートフォンを握り締めた。
「お願い……」
直後。
新しいメッセージが一件だけ届いた。
『身体』
莉奈は動かなかった。
◇
2501号室。
蓮も、その二文字を見ていた。
しばらく無言で画面を眺め、それから僅かに眉を寄せる。
白石が昨日何をしたのか、蓮は知らない。
だが、一ノ瀬がわざわざマンション全体が見ている場所へ、その二文字だけを書き込んだ理由くらいは分かる。
ただ交換条件を説明したかったわけではない。
白石を晒したかっただけだ。
「……腐ってるな」
蓮は小さく呟いた。
◇
全体グループは静まり返っていた。
誰も何も書かない。
既読だけが増えていく。
だが、住民グループでは違った。
『……身体って』
最初の一件。
それを皮切りに、次々と書き込みが始まった。
『そういうこと?』
『白石さん、自分からそんなことして食料を貰ったんですか?』
『私たちの食料ですよ!?』
『恥を知れ!』
『あの人、寒波の前からいろんな男を部屋に連れ込んでた!』
『知ってる。夜中に男が出入りしてるの何度も見た』
『結局そういう人だったんだ』
『この状況でよくそんなことできますね』
『最低』
莉奈は、そのすべてを見ていた。
「……は」
小さな音が喉から漏れた。
『あの人、昔から男に貢がせてたって聞いたことある』
「はは……」
画面が滲む。
いつの間にか、昔の光景が頭の中に浮かんでいた。
『莉奈ちゃん、本当に可愛いね』
高級レストラン。
向かいに座った男が笑っている。
『ねえ、これ欲しい』
スマートフォンに映ったバッグを見せる。
『いいよ。買ってあげる』
別の男。
『もうあの人とは会わないって言ったじゃん!』
莉奈が怒ったふりをする。
男が慌てる。
『ごめん、ごめんって。前欲しがってたアクセサリー買ってあげるから』
また別の男。
『莉奈のためなら何でもするよ』
そう、何でも思い通りになった。
可愛いと言われた。
欲しいと言えば買ってもらえた。
怒れば謝ってくれた。
少し拗ねれば、男たちは必死になって機嫌を取った。
何人もの男を同時に手玉に取り、それでも自分は選ばれる側だと本気で思っていた。
ずっと。
ずっとそうだった。
「はは……ははは……」
笑い声が少しずつ大きくなる。
莉奈にとって一番許せなかったのは、昨日自分の身に起きたことではなかった。
それ以上に耐えられなかったのは、そのことをマンション中の人間に知られたこと。
食料を欲しがり、利用され、最後に袋を渡されて帰ってきた。
そして今、それを全員に知られた。
自分がずっと守ってきたもの。
誰より可愛く、誰より男を扱うのが上手く、欲しいものなら何でも手に入れられる女。
莉奈が何年もかけて作り上げ、必死に守り続けてきた「白石莉奈」という女。
そして彼女の中でずっと培ってきた、歪んだプライド。
その仮面が、全部壊れた。
「はは……」
「ははっはは……」
莉奈は笑いながら、目の前のテーブルへ視線を向ける。
そして。
ゴンッ。
突然、額をテーブルへ叩きつけた。
ゴンッ。
ゴンッ!
ゴンッ!!!
額から血が流れる。
ゴォンッ!!!
もう一度、さらに力を込めて叩きつける。
それでも彼女は笑っていた。
「はは……はははははっ……、ばっかみたい……」
テーブルの上には、昨日手に入れた食料袋がある。
莉奈はそれを見なかった。
スマートフォンも置いた。
そして、ふらふらとベランダへ向かった。
◇
一階では、まだ配給が続いていた。
階ごとに時間を分けているため、朝から始まった配給はまだ終わっておらず、エントランスには今日の食料を受け取る住民たちが並んでいる。
「次、お願いします」
代表が名簿を確認する。
部屋番号、名前、人数。
そして、決められた量の食料が入った袋を渡す。
「……ありがとうございます」
住民は小さく頭を下げた。
その時。
外から鈍い音が響いた。
ドンッ――。
列に並んでいた住民たちが一斉に振り返った。
「……何?」
誰かが呟く。
ガラス張りのエントランスの向こうでは、舞い上がった粉雪がゆっくりと落ちていた。
その中心に何かがある。
だが、最初は誰も理解できなかった。
一人の女性が数歩ガラスへ近づき、目を凝らす。
そして足を止めた。
「……人?」
その声で、さらに何人かが近づいた。
やがて誰かが名前を口にした。
「白石さん……?」
雪の中に倒れていたのは、白石莉奈だった。
誰もすぐには外へ出られなかった。
マンションの前は今も定期的に除雪されている。いつ救援物資が届いても受け入れられるよう、住民たちが交代で雪を退かしているからだ。
それでも、降った雪を完全になくすことなどできない。
除雪した場所にも時間が経てば再び雪が積もり、その日も地面には中途半端な厚さの雪が残っていた。
街を苦しませ、人々を閉じ込め、食料を奪い、住民たちの心まで少しずつ狂わせてきた雪。
その雪が、最後の最後で莉奈の身体を受け止めた。
まるで、楽になろうとした彼女のその行動すら許さないかのように。
積もった雪が、落下の衝撃を僅かに和らげてしまった。
もちろん、助かったわけではない。
莉奈の身体は雪の上へ不自然な姿勢で沈み込み、片腕は本来ならあり得ない方向へ曲がっていた。もう片方の脚もおかしな角度で雪へ埋まり、自分の力で起き上がることなど到底できる状態ではない。
それでも、目だけは開いていた。
大きく。
異様なほど大きく見開かれた目が、ゆっくりとガラス張りのエントランスへ向いた。
その向こうには住民たちがいる。
一人。
また一人。
莉奈の視線が動いていく。
そして、彼らの手に握られているものを見た。
配給袋。
昨日、自分があれほど欲しがったもの。
自分なら簡単に手に入れられると思っていたもの。
すべてを失ったあとでようやく手に入れ、それでも一口も食べることができなかったもの。
莉奈の口元が僅かに動いた。
「……あは」
住民たちの表情が強張った。
「あはは……」
「はっははは……あはっ……はっはは……」
笑っていた。
雪の上で、自分ではもう指一本まともに動かせないような状態になりながら、それでも莉奈は目を見開いたまま、配給袋を抱えて立ち尽くしている住民たちを見つめていた。
「あははは……ははっははは……」
ガラス一枚を隔てて、その笑い声が僅かに聞こえてくる。
誰も動かなかった。
ほんの少し前まで、住民グループで彼女を罵っていた者も、その中にいた。
『恥を知れ』
『最低』
『結局そういう人だったんだ』
スマートフォンの画面越しなら簡単に打てた言葉だった。
だが、その本人が雪の上から自分たちを見つめて笑っている今、誰一人として同じ言葉を口にすることはできなかった。
「……先生」
ようやく誰かが声を漏らした。
「田村先生……」
次の瞬間、別の住民が叫んだ。
「田村先生と朝霧先生を呼んで! 早く!」
そこでようやく人が動き始めた。
誰かが二人を呼びに走り、別の住民が恐る恐るエントランスの扉を開ける。
冷たい風が一気に吹き込んできた。
それでも、雪の中から笑い声は聞こえていた。
「はは……ははは……」
途切れながら。
少しずつ弱くなりながら。
やがて田村と朝霧が駆けつけ、二人が雪の中に倒れている莉奈のもとへ向かった頃には、その笑い声はもう聞こえなくなっていた。
◇
2501号室。
その頃、蓮はちょうどモニターでエントランスの様子を見ていた。
この世界では、人がいなくなる理由などいくらでもある。
病気。
飢え。
寒さ。
暴力。
今日、このマンションで新たな理由が一つ増えた。
蓮は窓の外に広がる白い街を眺めながら、別のことを考えていた。
「……結局、弱いやつから消えていく」
腕力があるかどうかではない。
喧嘩に勝てるかどうかでも、人を傷つけられるかどうかでもない。
昨日まで自分が信じていたものが何の役にも立たなくなった時、それを捨てられるか。
追い詰められた時、それでも現実を見られるか。
そして、生きるために自分を変えられるか。
蓮はしばらく雪を眺めていたが、やがてカーテンを閉じた。
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Day 53
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
生存確認者 99人
【今日のメモ】
「価値を決めるのは、自分じゃない。」
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