第67話 Day 46 それぞれの思惑
夜になっても、マンションの空気は元には戻らなかった。
共同倉庫の前には柴田たちの仲間が三人残り、数時間ごとに交代しながら見張りを続けている。住民たちは自分たちの食料がそこに残っていることを知っていたが、今日一人の男が大型ハンマーで殴り倒された光景を忘れることができず、倉庫の近くまで様子を見に来る者はいても、正面から返せと要求する者は一人も現れなかった。
その一方で、表面上は静まり返っていたマンションとは対照的に、柴田たちを除いて作られた住民専用のグループチャットでは、夕方を過ぎた頃から凄まじい勢いでメッセージが流れ始めていた。
『だからあいつらをマンションに入れるのは反対だったんだ!』
最初の一言をきっかけに、それまで黙っていた住民たちが次々と反応する。
『今さらそんなこと言ってどうするんですか?』
『今さらじゃないだろ! 昨日から何度も危ないって言ってた人はいた!』
『でも神崎の部屋を開けるには、あの人たちの力が必要だって言ってたろ!』
『それで開いたのかよ!』
『開いてないじゃないですか! 2502の壁を壊して、2401の天井まで壊して、結局神崎の部屋には入れなくて、最後は私たちの食料まで取られたんですよ!?』
返事が止まった。
誰にも否定できなかった。
神崎蓮の部屋を開けるために呼び込んだ人間たちは、結局2501号室へ入ることができなかった。それどころか、今では十七階の空室を勝手に占拠し、共同倉庫まで自分たちのものにしている。
しかも、昼間に抵抗した住民がどうなったのか、誰もが知っていた。
『今日の配給はどうするんですか?』
今度は別の住民だった。
『今日の分が配られると思ってたから、家に残ってる物も手をつけたんです』
『うちもです』
『うちはもう米が少ししかありません』
『子供や老人だっているんだぞ! このまま配給なしってわけにはいかないだろ!』
その言葉に、すぐ別のメッセージが返ってきた。
『じゃあどうするんだよ』
『倉庫を取り返すしかないでしょう。あれは私たちの物ですよ!』
『誰が取り返すんですか?』
また、流れが止まった。
数十秒。
誰も答えない。
やがて一人の女性が書き込んだ。
『皆で行けばいいじゃないですか。向こうは七人しかいないんですよ? こっちは何十人いると思ってるんですか?』
『だったらあなたが先頭に立つんですか?』
『どうして私なんですか? こういう時こそ男の人たちが行くもんでしょ?』
『ふざけんなよ』
それまでとは明らかに違う、荒い言葉が返ってきた。
『こんな時に男も女もあるかよ。今日あいつにやられた奴見ただろ。だったら自分で行けよ』
『私は女性ですよ!?』
『だから何だよ!』
『子供や老人だっているんだぞ! 力のある大人が何とかしないでどうするんだ!』
『さっきから子供だ老人だってうるせえんだよ!』
一気に空気が変わった。
『こっちだって腹減ってんだよ! この状況で子供優先、老人優先、女優先って、じゃあ俺たちは最後まで何も食うなっていうのか!?』
『そんなこと誰も言ってないでしょう!』
『同じだろ!』
『落ち着いてください。住民同士で喧嘩しても何も解決しません』
『じゃあ代表が取り返してこいよ!』
『そうですよ。共同備蓄を管理していたのは代表でしょう?』
『何で止めなかったんですか?』
『止められるわけないでしょう! 目の前で人が殺されたんですよ!』
責任の押し付け合いが始まった。
昨日までなら、誰かが感情的になれば別の誰かが宥め、住民代表が間に入り、最後には不満を残しながらも一応の結論を出していた。
だが、今夜は違った。誰も譲ろうとせず、他人の事情を聞こうともしない。
自分の家にあと何食残っているのか。明日になったら何を食べるのか。次の救援物資は本当に来るのか。
考えていることは、それだけだった。
◇
同じ頃。
十七階。
柴田と一ノ瀬が使っている部屋には、三浦ともう一人の仲間が集まっていた。
共同倉庫の見張りに出ている三人を除けば、柴田たち七人のうち四人がここにいる。テーブルには倉庫から持ってきたカップ麺や缶詰、菓子類が並び、昼間に一人の人間が倒れたことなど遠い出来事だったかのように、それぞれ好きなものを食べていた。
柴田はカップ麺の残った汁を飲み干すと、空になった容器をテーブルへ置いた。
「足りねえな」
「食い過ぎ」
一ノ瀬はそう言いながら、自分は菓子の袋を開けている。
「もう一個食えばいいじゃん。いっぱいあるんでしょ?」
「まあな」
柴田が立ち上がろうとしたところで、三浦が口を開いた。
「剛」
「あ?」
「ちょっと話しといた方がいい」
いつもの軽い調子ではなかった。
柴田もそれに気づいたのか、立ち上がるのをやめて三浦を見る。
「何だよ」
三浦はしばらく黙ったままカップ麺を食べていたが、やがて箸を置いた。
「倉庫の食い物」
「ああ」
「全部俺らだけで食うのはやめた方がいい」
柴田の眉が動いた。
「……は?」
一ノ瀬も菓子を口へ運ぶ手を止めた。
「何言ってんの?」
「返せって言ってるんじゃねえよ」
三浦は面倒そうに頭を掻いた。
「倉庫はこのまま俺らが押さえる。誰にも勝手に触らせねえし、管理するのも俺らでいい。ただ、あいつらへの配給は続けた方がいいって言ってんだ」
柴田はしばらく三浦を見ていたが、意味が分からないという顔をした。
「何で俺らがあいつらに飯配らなきゃなんねえんだよ」
「俺らのためだよ」
「は?」
三浦はソファへ深く座り直した。
「今日、一人ぶっ倒しただろ」
部屋の空気が僅かに変わったが、それだけだった。
誰も昼間の出来事そのものを問題にはしない。
「それ見て、今は全員ビビってる。だから倉庫にも来ねえし、俺らにも何も言ってこねえ。そこまではいい」
「だったら問題ねえじゃん」
柴田が言うと、三浦は首を振った。
「今はな」
「何が違うんだよ」
「まだ自分の部屋に食い物が残ってる」
その一言で、柴田が黙った。
三浦は続ける。
「今日の配給がなくなったって言っても、全員が今夜から何も食えねえわけじゃない。米が残ってる家もあるだろうし、缶詰の一個や二個、菓子やら何やら持ってる家だってある。だから今日は、あの男がぶっ倒されたの見て、怖いから部屋に戻った」
そこで三浦は一度言葉を切り、部屋にいる全員を順番に見た。
「でも、それが全部なくなったらどうなる?」
誰も答えなかった。
「一日何も食ってない。二日食ってない。自分だけじゃなく、嫁もガキも腹減ったって言ってる。明日になっても食うもんがない。そうなったら、昼間一人ぶっ倒されたくらいの恐怖なんて、そのうち飛ぶぞ」
柴田の顔から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
「……だから?」
「だから、まとめて来られたらどうすんだって話だ」
三浦は淡々と答えた。
「十人なら何とかなるかもしれねえ。二十人でも、ハンマー見せりゃ止まるかもしれない。でも三十人、何十人が一斉に倉庫へ押しかけてきたら?」
今度は誰も笑わなかった。
「俺ら実質六人だぞ。何持ってようが関係ねえよ。前の奴ぶっ倒してる間に後ろから押し潰されたら終わりだ。全員、本当に食うもんなくなって、死ぬくらいならって覚悟で来られたら、俺らでもひとたまりねえ」
柴田は舌打ちした。
「じゃあどうすんだよ」
「だから配給は続ける」
三浦は即答した。
「最低限だけな」
「今までみたいに?」
「馬鹿言え」
三浦は鼻で笑った。
「量はこっちで決めるんだよ。倉庫もこっちで押さえる。今まで一日三つ食ってたなら二つ、一つで死なねえなら一つ。腹いっぱい食わせる必要なんかねえ。少なくとも、今日明日にでも全員で倉庫へ突っ込んでくるほど追い詰めなきゃいい」
柴田は黙ったまま考えていた。
三浦の言っていることは難しくない。
食料を返すわけではない。
管理する権利を返すわけでもない。
自分たちが倉庫を押さえたまま、その中から必要だと思う分だけ住民へ渡す。
「文句言ってきた奴は?」
柴田が聞いた。
「食べもんは渡さない」
「倉庫に入ろうとしたら?」
「そん時は別だ」
三浦は柴田を見る。
「容赦すんな」
柴田の口元が上がった。
「またぶっ叩けばいいってことか」
「ああ。一人でいい。下手に全員とやり合う必要なんかねえ。最初に出てきた奴を徹底的にやって、全員に見せとけばいい。飯は毎日出る。でも言うことは聞け。倉庫に手を出すな。それだけ分からせりゃ、なんとかなる」
そこで、それまで黙って聞いていた一ノ瀬が小さく笑った。
「……何それ」
三浦が顔を向ける。
一ノ瀬は菓子を一つ摘まみながら、何でもないことのように言った。
「それって、飼い殺しじゃん」
誰もすぐには答えなかった。
「食べ物は全部こっちが持ってて、死なない程度にだけ渡すんでしょ? 大人しくしてれば毎日ご飯がもらえて、逆らったら剛に叩かれる」
包装を破り、菓子を口へ放り込む。
「犬と一緒じゃん」
数秒の沈黙のあと、柴田が吹き出した。
「ははっ。分かりやすくていいじゃねえか」
「でしょ?」
一ノ瀬も笑った。
三浦だけは笑わなかった。
「好きに呼べよ。俺はあいつらを助けたいわけじゃねえ」
そう言って、テーブルの上に残っていた水を飲む。
「俺らに向かってこなきゃ、それでいい」
◇
住民専用グループでは、その夜になっても言い争いが続いていた。
『だから結局どうするんですか!?』
『取り返すしかないって言ってるでしょう!』
『だから誰が行くんだよ!』
『全員で行けばいい!』
『全員って誰だよ! お前は行くのか!?』
誰かが解決策を出そうとするたび、その負担を誰が背負うのかという話になり、結局は同じところへ戻ってくる。
柴田たちは七人。
住民は、その何倍もいる。
人数だけなら圧倒的に勝っている。おそらく全員が同時に向かえば、共同倉庫を取り戻すことはできるだろう。
だが、誰が最初に柴田の前へ出るのか。
誰が、昼間に人を一撃で倒した大型ハンマーの前へ最初に立つのか。
その問いにだけは、誰も答えられなかった。
『じゃあこのまま配給なしなのか!?』
ついに誰かが書き込んだ。
『明日の食事はどうするんだよ!』
『住民代表、何とかしてください!』
『もう代表に何ができるんですか!?』
『じゃあ誰が何とかするんだよ!』
画面の中では、怒りと不安と責任の押し付け合いだけが延々と続いていた。
その時だった。
何人ものスマートフォンが、ほぼ同時に震えた。
通知が来たのは、今使っている住民専用グループではない。
寒波が始まってからずっと使われてきた、元々のマンショングループだった。
誰かが新しいメッセージを投稿している。
住民たちは何気なく画面を切り替えた。
そして、送り主の名前を見た瞬間、見た者全員の表情が変わった。
一ノ瀬美咲。
今回の騒ぎの発端となった、あの女だった。
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Day 46 夜
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
【今日のメモ】
「結局、人は他人に戦わせようとする。」
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