第65話 Day 46 正面突破
夕方になっても、2501号室の玄関前から作業音が途切れることはなかった。
ガガガガガガッ――!
金属を削る甲高い音が廊下いっぱいに響き、床に置かれた小型発電機が低い唸り声を上げている。作業用ライトに照らされた玄関扉は、朝とは比べものにならないほど傷だらけになっていた。
だが、まだ開かない。
「交代!」
三浦直人の声が飛ぶ。
電動工具を握っていた男が大きく息を吐き、その場から離れた。額から流れた汗を袖で拭いながら壁際へ座り込むと、待機していた別の男がすぐに工具を受け取った。
「同じところでいいのか?」
「ああ。ただし少し右だ。枠との境目を狙え」
「分かった」
再び工具が動き始める。
ガガガガガガッ――!
住民たちはもう、その音に顔をしかめることすらなくなっていた。
朝から何時間も聞き続けている。最初は耳を塞いでいた者もいれば、粉塵を嫌がって離れていた者もいたが、今では誰かが疲れれば別の人間が工具を受け取り、削れた部分を確認し、飲み物を渡し、延長コードが邪魔になればすぐに移動させる。
いつの間にか、完全な共同作業になっていた。
昨日まで、このマンションで暮らすだけの他人同士だった人間たちが、一つの玄関扉を突破するためだけに動いている。
そして、その原動力になっているものは一つだった。
扉の向こうにある物資。
◇
三浦は作業を止めさせると、玄関扉の前へしゃがみ込み、ライトを近づけた。
朝から集中して削り続けてきた場所に指を入れ、僅かな隙間を確認する。
「……」
柴田がすぐ後ろから覗き込んだ。
「どうなんだよ」
「待て」
「朝からずっと待ってんだよ」
「うるせえな」
三浦は工具を使って隙間を確認し、それから扉を何度か押した。
ギ……。
僅かだった。
本当に僅かだったが、動いた。
三浦の目が変わった。
「おい」
柴田も気づいた。
「今、動いたよな?」
「……ああ」
その会話を聞いていた周囲の住民たちが、一斉に集まってきた。
「動いたんですか?」
「開きそうなんですか?」
「あとどれくらいです?」
質問が次々と飛んでくる。
三浦は立ち上がった。
「静かにしろ」
住民たちが黙る。
三浦はもう一度、扉を見る。
「朝より確実に隙間が広がってる。枠も少し歪んでる」
一瞬、廊下が静まり返った。
「じゃあ……」
誰かが呟いた。
「開くんですか?」
三浦はすぐには答えなかった。
「まだ分からねえ」
その言葉に何人かの顔が曇る。
だが、三浦は続けた。
「ただ、効いてはいる」
それだけで十分だった。
「よし!」
柴田が声を上げると、住民たちの顔にも一気に生気が戻った。
「いける!」
「やっぱり開くんだ!」
「続けましょう!」
「あと少しですよ!」
疲労で座り込んでいた男まで立ち上がった。
昨日は何をしても駄目だった。玄関、ベランダ、隣室、下階、屋上。どこから攻めても神崎蓮の部屋には届かなかった。
だが今日は違う。
目の前の扉が、確実に壊れ始めている。
◇
午後四時。
作業はさらに激しくなっていた。
ガガガガガガッ――!
ガンッ!
ガンッ!
削っては確認し、叩いてはまた削る。一つの方法だけに固執せず、三浦が状態を確認するたびにやり方を変えていった。
「止めろ!」
工具が止まる。
三浦が隙間を確認した。
「バール」
一本では足りない。
二本。
さらに別の位置にも一本。
三人の男が同時に力を掛ける。
「せーの!」
ギギギギ……。
金属が軋んだ。
「もっと!」
「やってる!」
「もう一回!」
三人が身体ごと体重を掛ける。
ギ……ギギッ!
「動いてる!」
後ろから声が上がった。
「本当に動いてる!」
「いけるぞ!」
住民たちがさらに集まってくる。
「押せ!」
「もっと!」
「もう少し!」
「いける!」
柴田も加わった。
四人、五人と人数が増え、一斉に力を掛ける。
だが、そこで止まった。
「クソ!」
柴田がバールを離す。
「何でだよ!」
三浦が扉を確認した。
「まだどっか噛んでる」
「どこだ?」
「探してる」
ライトを当てながら、上、横、下と順番に確認していき、錠付近で三浦の指が止まった。
「……ここだ」
「何が?」
「こいつがまだ生きてる」
柴田は大型ハンマーを拾った。
「だったら壊せばいい」
三浦が止めるより早かった。
ガンッ!!
廊下が震えるほどの音が響いた。
「おい! 適当にやるな!」
「じゃあ場所言え!」
三浦が舌打ちしながら位置を指差す。
「ここだ。ただし枠まで潰すな。余計開かなくなる」
「最初からそう言え」
柴田が構える。
ガンッ!!
もう一度。
ガンッ!!
さらに。
ガンッ!!
周囲の住民たちは誰も止めなかった。むしろ一発叩き込まれるたびに、その目に浮かぶ期待が強くなっていった。
◇
2501号室。
蓮は再び玄関の前に立っていた。
ガンッ!!
鈍い衝撃音が響く。
先ほどより明らかに大きい。
蓮は何も言わず、扉を見つめた。
再び。
ガンッ!!
今度は僅かに金属が軋む音まで聞こえた。
ほんの少し、蓮の眉間に皺が寄る。
監視カメラで見ているだけでは分からなかったが、こうして直接近くで聞けば分かる。
玄関扉は確実に限界へ近づいている。
昨日とは違う。数人が勢いだけで叩いているのではなく、三浦が弱点を探し、工具を選び、何十人もの住民が交代しながら何時間も攻撃を続けている。
「……ここまでやるか」
蓮は小さく呟いた。
ガンッ!!
また扉が震える。
ガンッ!!
蓮の顔には、いつもの笑みはなかった。
玄関を見つめたまま数秒間黙り込み、やがて静かに息を吐く。
「……もう持たないな」
◇
午後五時を過ぎた。
外はすでに暗くなり始めていた。
停電したマンションの廊下を照らしているのは、作業用ライトと住民たちが持ち寄ったランタンだけだったが、それでも誰一人として帰ろうとはしない。
もう少し。
本当にあと少し。
その感覚が、全員をここへ縛りつけていた。
三浦が再び扉を確認する。
そして突然、声を上げた。
「止めろ」
作業が止まった。
「どうした?」
柴田が聞く。
三浦は返事をせず、扉へ手を掛けた。
押す。
ギ……。
扉が動く。
今までとは違う。
誰が見ても分かるほど、数ミリ開いた。
住民たちが息を呑んだ。
三浦はもう一度押した。
ギギ……。
やはり動く。
「おい」
柴田が笑い始めた。
「やっぱ開くじゃねえか」
三浦も今度は否定しなかった。
「……ああ」
その一言で、住民たちが沸いた。
「開くぞ!」
「本当に!?」
「あと少し!」
「やった!」
「続けろ!」
「もう少しだ!」
誰かが笑い、また別の誰かも笑った。疲れ切っていたはずの人間たちが、再び工具を持ち始める。
住民代表も、もう誰も止めなかった。
一ノ瀬美咲は少し離れた場所から、その光景を見ていた。
朝から何時間も作業を続け、何度も諦めそうになった。
だが、ついに蓮の部屋へ入れる。
一ノ瀬の口元にも笑みが浮かんだ。
◇
そこからさらに一時間。
三浦の指示は、さらに細かくなっていった。
「そこじゃねえ!」
「三センチ上!」
「一回止めろ!」
「次、バール!」
「押せ!」
何度も、何度も繰り返した。
そして、ついに。
バキンッ!
これまでとは明らかに違う音が響き、その場にいる全員が息を止めた。
「……今の何?」
誰かが聞いた。
三浦がすぐに扉へ近づき、慎重に確認する。
そして目を見開いた。
「……死んだ」
柴田が聞く。
「何が?」
「ロック」
三浦は扉を押す。
ギギギ……。
今度は明らかに動いた。
数センチ。
廊下にいた住民たちから歓声が上がった。
「開いた!」
「まだだ!」
三浦が叫ぶ。
だが、もう誰も止まらなかった。
「いけるぞ!」
「押せ!」
「全員で押せ!」
柴田が扉へ肩を当て、仲間も続く。さらに住民が一人、二人、三人と加わった。
「せーの!」
ギギギギギ……!
扉が動く。
「もう一回!」
「せーの!」
ギギギギ……!
さらに開く。
「いける!」
「もう一回!」
「押せえええ!!」
全員が一斉に渾身の力を込めた。
バキッ!
何かが割れたような、壊れたような音が響いた。
そして。
ガァァァァン――!
玄関扉が、大きく開いた。
◇
一瞬、誰も声を出さなかった。
本当に開いた。
昨日から何をやっても駄目だった。
何度叩いても、何度削っても、どこから攻めても絶対に入れなかった2501号室。
その玄関が、今、開いた。
「……」
誰かが震える声で言った。
「開いた……」
次の瞬間。
「開いたぞおおお!!」
廊下が爆発した。
「おぉぉ!!」
「開いた!」
「本当に開いた!」
「入れるぞ!」
「やった!」
歓声と笑い声が響き、隣にいた人間と抱き合う者までいた。何時間も工具を握り続けていた男は、その場へ座り込みながら笑った。
「やった……」
別の男が壁を叩く。
「ざまあみろ!」
住民たちの表情から、昨日から積み重なっていた絶望が一気に消えていく。
ついに、勝った。
神崎蓮の部屋を突破した。
「神崎!」
柴田が大声で叫んだ。
「終わりだぞ!」
返事はない。
それがさらに柴田を笑わせた。
「今さら隠れても遅えんだよ!」
大型ハンマーを床へ放り出す。
一ノ瀬も人混みの後ろから前へ進んだ。
「開いたの?」
「開いた!」
「本当に?」
「見ろよ!」
一ノ瀬は人の隙間から、壊れた玄関を見る。
開いている。
あれだけ頼んでも、何を言っても、自分を入れなかった扉が。
ついに、開いた。
「……やっと」
小さく呟いた。
住民たちも次々と前へ集まってくる。
「中に入ろう」
「まず物資を確認しないと」
「住民代表が先ですよ!」
「勝手に持っていかないでください!」
「押さないで!」
一気に人が殺到し始めた。
◇
「退け」
柴田が前へ出た。
「俺が開けたんだ。俺が先だ」
住民代表が何か言おうとしたが、柴田は聞こうともしなかった。
壊れた玄関扉へ手を掛ける。
力を込める。
ギィィィ……。
最後に残っていた抵抗を押し切り、扉をさらに大きく開いた。
「行くぞ」
柴田が一歩、中へ踏み出そうとした。
そして、止まった。
「……」
後ろから来ていた仲間が背中へぶつかった。
「おい」
柴田は動かない。
「何止まってんだよ」
返事がない。
「剛?」
さらに後ろから住民が押してくる。
「早く入ってくださいよ」
「中どうなってるんですか?」
「見えないんだけど」
「押すな!」
「早く!」
それでも、柴田は動かなかった。
一ノ瀬が人を掻き分けて前へ出る。
「ちょっと、どうしたの?」
柴田の横から中を見る。
そして、一ノ瀬も止まった。
「……は?」
その声で、周囲が静かになり始めた。
「何?」
「どうしたんですか?」
「中に神崎さんいるんですか?」
「何かあるの?」
誰かが柴田の肩越しに覗き込んだ。
その人間も黙った。
また一人、さらに一人と前へ出るたびに、先ほどまでの歓声が少しずつ消えていく。
三浦が異変に気づいた。
「何だよ」
誰も答えない。
「退け」
人を押し退けて前へ出ると、壊れた玄関扉の前に立つ。
そして、中を見た。
「……」
三浦の動きも止まった。
そこにあったのは、暖炉でも、食料でも、水でも、神崎蓮でもなかった。
壊れた玄関扉の、その向こう。
そこにはもう一枚の――
扉。
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Day 46
電力 ×
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「希望が潰えた瞬間、人は簡単に壊れる。」
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