第64話 Day 46 作戦開始
昼前。
一階での作戦会議が終わってから、マンションの中ではこれまでとは違う動きが始まっていた。
住民たちは一度それぞれの部屋へ戻り、使えそうな工具を探し始めた。大型のハンマー、バール、電動ドリル、延長コード、作業用ライト、予備のバッテリー、軍手、保護メガネ。普段なら倉庫や工具箱の奥に眠ったままになっている物まで、次々と運ばれていく。
管理室からも工具が持ち出された。
柴田の仲間二人は一度マンションを出て、昨日乗ってきた車へ向かった。積んである工具だけでは足りないため、元のマンションに戻り、機材を回収してくるという。
その間にも、新しく作られた居住者限定グループでは書き込みが続いていた。
『本当に今日やるんですね』
『かなり人数集まってます』
『うちの主人も呼ばれました』
『柴田さんたちに工具を全部渡して大丈夫なんでしょうか?』
すぐに返事が付く。
『今は仕方ないと思います』
『2501を開けるまでは協力しましょう』
『でも開いた後は絶対に話し合った方がいいです』
『物資を柴田さんたちに勝手に持っていかれないようにしないと』
その一文をきっかけに、今度は別の問題が浮かび上がった。
『確かに』
『2501が開いた瞬間、あの人たちが先に入ったら全部取られませんか?』
『絶対に取ると思います』
『食料はマンション住民のために使うべきです』
『柴田さんたちは外部の人ですよね?』
『開けるのを手伝ってもらうだけです』
『中の物を持っていっていいとは誰も言ってません』
少しずつ、住民たちの考えがまとまり始める。
柴田たちには2501号室を開けてもらう。だが、開いた後の物資は渡さず、自分たちで管理する。
その話を、当然ながら柴田たちは知らない。
◇
昼前。
二十五階の廊下には、昨日とは比較にならないほどの人間が集まっていた。その数は二十人近い。
全員が作業するわけではない。工具を運ぶ者、照明を担当する者、交代要員、様子を見に来ただけの者、住民代表、そしてただ2501号室が開く瞬間を見たい者。様々な人間が廊下を埋めている。
その中心に、2501号室の玄関扉があった。
昨日の攻撃によって表面にはいくつもの傷が残っている。それでも扉そのものは、何事もなかったかのように閉じていた。
三浦は玄関前にしゃがみ込み、改めて扉を確認していた。蝶番、錠、扉と枠の隙間、壁との接合部を何度も見て、触れ、最後に立ち上がる。
「やっぱり硬えな」
柴田が後ろから聞いた。
「開くんだろ?」
三浦は嫌そうに振り返る。
「俺は開くなんて言ってねえ」
「玄関が一番マシだって言ったじゃねえか」
「他がもっと酷いって意味だ」
住民たちの表情が僅かに曇ったが、柴田は気にしなかった。
「だったらここしかねえだろ」
「ああ」
三浦は再び扉を見る。
「だから今日は、昨日みたいに何となく叩くのはやめる」
そう言って床に置かれた工具を見たあと、扉の周囲を順番に指差した。
「一点ずつ試す。どこが一番先に負けるか探す」
◇
作業用の小型発電機が動き始めた。
ブォォォォン――。
停電によって静まり返っていた廊下に低いエンジン音が響き、そこから何本もの延長コードが伸ばされていく。やがて作業用ライトが点灯すると、薄暗かった二十五階は一気に白い光に照らされた。
その光景を見ながら、一人の住民が呟いた。
「……本当に工事みたいだな」
誰も笑わなかった。
工事ではない。他人の家へ侵入するための作業だ。
それでも、それを止める者はもう一人もいなかった。
三浦が工具を持つ男へ指示する。
「最初はここ」
指差したのは錠付近だった。
「周りから見る」
男が頷き、工具を扉へ当てる。
そして、作業が始まった。
◇
2501号室。
蓮はソファに座っていた。
遠くから、ブォォォォン――という微かな音が聞こえてくる。発電機だ。
蓮は廊下側の監視カメラを開き、画面を見た瞬間、思わず笑った。
昨日とはまったく違う。
玄関前にいるのは十人やそこらではない。廊下の奥まで住民が並び、工具やライト、発電機、延長コードまで用意され、交代要員らしき人間まで待機している。
「本格的だな」
蓮はテーブルに置いてあったコーヒーを持ち上げた。
画面の中で三浦が何かを指示し、その直後だった。
ガガガガガガガッ――!
玄関側から振動が伝わってくる。
蓮は扉へ視線を向けた。
「始まったか」
だが、立ち上がることはなかった。
◇
十分、二十分、三十分と作業は続いた。
最初に狙った場所は思ったほど変化せず、工具を止めた男が汗を拭う。
「硬っ……」
三浦が状態を確認し、すぐに言った。
「交代」
別の男が前へ出る。今度は工具そのものを変え、再び金属を削る激しい音が廊下へ響いた。
ガガガガガガッ――!
誰か一人が倒れるまで続けるのではない。疲れたら交代し、工具が熱を持てば別の工具へ替える。その間にも三浦は別の場所を確認し、次に狙う場所を決めていく。
昨日とは違う。
住民たちは本気で2501号室を攻略しようとしていた。
一時間が経過しても扉は開かなかったが、それでも誰も帰ろうとはしない。
「次」
柴田が言うと、すぐに別の男が前へ出た。
「まだやるんですか?」
後ろから誰かが聞いた。
柴田は振り返りもしなかった。
「開くまでやる」
◇
午後二時。
作業はまだ続いていた。
二十五階の廊下には金属を削る臭いと汗の臭いが混じり、住民たちは途中で水を飲み、少ない食料を口へ入れては、また作業へ戻っていく。
「交代!」
「次、誰だ!」
「俺行きます!」
「ライトこっち向けて!」
「延長コード踏むなよ!」
いつの間にか、そんな声まで当たり前のように飛び交うようになっていた。
昨日まで、この人間たちは普通のマンション住民だった。会社員、主婦、老人、学生、自営業者。顔を合わせれば挨拶する程度の関係だった人間たちが、今では一つの部屋へ侵入するために役割を分担し、互いに声を掛けながら動いている。
誰も、その異常さを口にしなくなっていた。
◇
新しい居住者限定グループにも、現場の状況が次々と投稿されていた。
『まだ開きません』
『かなり頑丈みたいです』
『三浦さんが別の場所を試してます』
『柴田さん、ずっとやるつもりみたいです』
そこへ一件の書き込みが入った。
『開いた後のこと、今のうちに決めませんか?』
反応は早かった。
『私もそれ思ってました』
『柴田さんたちを先に入れたら駄目ですよね』
『絶対駄目です』
『住民代表が先に入るべきです』
『中の物資を確認して、全部リストにしましょう』
『その後、各世帯に配給する形でいいと思います』
誰も、それが神崎蓮の所有物であることには触れなかった。
住民たちの中では、すでに2501号室の中にある物は「開いた後にどう分けるか」を話し合う段階へ進んでいた。
さらに書き込みが続く。
『柴田さんたちには手伝ってくれた分だけ少し渡せばいいんじゃないですか?』
『それくらいでいいと思います』
『外部の人に大量に持っていかれるのは違いますよね』
『違う違う』
住民たちは、まだ開いてすらいない扉の向こう側にある物資を、もう自分たちの物として分配し始めていた。
◇
午後三時を過ぎた頃、一度作業が止まった。
三浦が扉の前へしゃがみ込み、削られた部分や傷の増えた扉、周囲の枠へライトを当てながら何度も確認する。
柴田が待ちきれずに聞いた。
「どうだ?」
三浦は答えない。指で一箇所を触り、そこで僅かに表情を変えた。
「……」
「おい」
「ここ」
三浦が指差すと、全員の視線がそこへ集まった。
「何だよ」
「さっきより隙間がある」
その一言で、廊下が静かになった。
柴田が近づく。
「開きそうか?」
「まだ分からねえ」
「でも効いてんだろ?」
三浦は少し考えてから頷いた。
「少なくとも、変化はしてる」
数秒、誰も喋らなかった。
やがて誰かが小さく言った。
「……いける」
別の住民も前へ出る。
「昨日は何やっても全然駄目だった」
さらに一人が続いた。
「でも今日は効いてるんですよね?」
「続ければ……」
誰かの顔に、初めて笑みが浮かんだ。
「開くんじゃない?」
その言葉が、一気に広がった。
「いける」
「開くぞ」
「このままやれば」
「もう少しだ」
昨日、屋上で完全な防御を見せつけられ、絶望した住民たち。その目に再び希望が戻っていく。
柴田は大型ハンマーを持ち上げ、傷だらけになった2501号室の扉を見ながら笑った。
「だから言っただろ」
そして、確信したように続ける。
「ただの扉だ」
◇
2501号室。
蓮はモニターを見ていた。
玄関前には、昨日とは比べものにならない数の住民が集まっている。工具を扱う者、交代を待つ者、照明を支える者、作業の進み具合を確認する者。
もう、数人が感情に任せて扉を叩いているだけではない。
一つの目的のために、住民全体が動いていた。
やがてモニターの向こうで三浦が何かを指差し、その直後、周囲の住民たちの表情が変わった。
声までは聞き取れない。
だが、何か手応えを掴んだことは分かった。
蓮はコーヒーカップを置いた。
そして、初めてソファから立ち上がった。
◇
玄関へ向かう。
近づくほど、外から振動が伝わってくる。
ガガガガガガッ――!
金属を削る音の合間に、住民たちの声まで聞こえた。
「そこ!」
「もう少し右!」
「交代!」
「押さえろ!」
蓮は玄関扉の前で足を止め、静かにその先を見ていた。
昨日までとは違った。
無茶苦茶に叩いているだけではない。狙う場所を決め、工具を変え、人間を交代させ、本気でこの扉を攻略しようとしている。
蓮の目が僅かに細くなった。
「……なるほど」
もう一度。
ガガガガガガッ――!
今度はさっきより大きく振動した。
蓮は扉から視線を外さず、数秒間、何も言わずにその振動を身体で感じていた。
やがて小さく息を吐く。
「昨日とは違うな」
笑ってはいなかった。
いつものような余裕のある表情でもない。
だからといって、怯えているわけでもなかった。
ただ初めて、目の前の住民たちを敵として見始めていた。
◇
蓮は監視室のモニターの前へ戻った。
画面の中では三浦が何かを確認し、柴田がその横から覗き込んでいる。その周囲に集まった住民たちの顔には、笑みが広がっていた。
蓮は無言で画面を見つめた。
何十人もの人間。
大量の工具。
発電機。
交代要員。
昨日まで自分の部屋へ押しかけてきたのは、ただ腹を空かせた住民たちだった。
だが、今は違う。
目の前にいるのは、目的を共有し、役割を決め、自分の部屋を本気で突破するためだけに動いている集団だった。
蓮は無言のままソファへ戻ったが、今度はコーヒーには手を伸ばさなかった。ただ視線だけをモニターへ向け続ける。
ガガガガガガッ――!
再び扉が振動した。
蓮は僅かに眉を寄せた。
モニターの向こうでは、住民たちが確実に玄関扉を削り続けていた。
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Day 46
電力 ×
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「希望が見えた時、人は諦められなくなる。」
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